茨城・徳宿村精米業一家殺害事件

茨城・徳宿村精米業一家殺害事件イメージ画像

戦後の混乱期に発生(1948年1月26日)し、21世紀の現在でも検証が続けられる「帝銀事件」から約6年後、茨城県内で第二の「帝銀事件」ともいえる凶悪事件が発生した。

茨城・徳宿村精米業一家殺害事件は、青酸性劇薬物を使い9人を殺害し、被害者宅に放火するという戦後史に残る凶悪事件である。

本事件は、逮捕された容疑者自身も青酸性劇薬物により自殺したため、被害者が毒物を飲み(飲まされ)殺害された経緯などは未解明である。

本記事は、第二の「帝銀事件」ともいえる「茨城・徳宿村精米業一家殺害事件」の概要、逮捕された容疑者像、なぜ被害者家族は狙われたのか?などを解説・考察することを目的とする記事である。

事件概要

1954(昭和29)年10月11日(月)、午前3時頃――。

茨城県鹿島郡徳宿村(現在の「鉾田市」)の裕福な農業兼精米業O氏(42歳)の家から炎が上がった。

近隣住民からの連絡を受けた地元及び近隣集落の消防団が懸命な消火活動を行うが、火の勢いは収まらない。

烈火はO氏の自宅(約83平方メール)は全焼させ、敷地内にあった牛舎を半焼させ、午前4時頃に鎮火したという。

突然の不条理に襲われたO氏宅の焼跡からは、9人の焼死体が見つかった。それは、O氏と妻T(40歳)、長男(19歳)、二男(16歳)、長女(11歳)、三男(6歳)、四男(4歳)、O氏の父(69歳)と女中として働いていた18歳の女性の変わり果てた姿とその欠片だった。

発見された9人の亡骸のうち、長女(11歳)以外の8人は普段着を着用したままの姿で見つかり、外傷はなかった。つまり、火は9人が息絶えた後に火の手が上がったとことが推認される。

警察は、当初、①「一家9人の集団自殺(一家無理心中)後、何らかの原因により火の手があがり自宅等が焼け落ちた説」②「何者かにより一家9人が殺され事後に放火された説」の2つの筋を見立てたようだ。だが、被害者宅井戸のなかに投棄された物証が②の「何者かによる殺人と放火」を雄弁に語りだし、捜査が進むに従い②の説が有力視されていく。

井戸から発見された物証一覧
消毒用アルコール25CC薬瓶 1本
300CC投薬瓶 2本(青酸性劇薬物入り)
注射器2CC 1本
6センチシャーレ(薬皿) 1皿
茨城・徳宿村精米業一家殺害事件 遺留品一覧

2日間にわたって行われた司法解剖より9人の遺体の胃の内容物から青酸性劇薬物の反応が確認され、9人の死後に自宅等が放火されたと推認され捜査は一気に②の説に傾く。

被害者家族など9人の夕食時間は、18時30分から19時と推測された。20時頃に何者かが青酸性劇薬物を使い9人を殺害し、家中を物色した後に証拠隠滅等を目的に家屋に火を放った――茨城県警本部は、県警本部長指揮下に特別捜査本部を設置し9人殺害(強盗の可能性は未解明)放火事件の大規模な捜査を開始した。

前科八犯の白衣の男

刑事達の聞き込みから事件前日の1954(昭和29)年10月10日(日)15時頃、被害者O氏宅を訪れ、同宅周辺でO氏家族に関する情報収集のためだと思われる聞き込みをしていた身長1.65m位、やせ型、細面、色白、頭髪は七三分けの白衣を着た不審な人物の存在が浮かび上がる。

浮上した白衣の男を容疑者と推察した捜査本部は、この白衣を着た不審な男の足取りや人物特定のため県内の全警察署に手配を実施する。やがて、白衣の男の人物特定や足取り情報が捜査本部に集まり始める。

目撃情報や聞き込み情報から白衣の男は、1954(昭和29)年10月10日(日)午前11時14分、常磐線「水戸」駅着の下り電車を使い「水戸」駅で下車し(乗車した駅は不明)、駅付近の食堂で酒類等を飲食した後、バスを利用し被害者O氏宅に近い「菖蒲沼停留所」(現在も「茨城県鉾田市舟木」内に「菖蒲沼バス停」「菖蒲沼公園バス停」が所在する)で降りると付近の農家住民にO氏宅の所在地を聞き、16時20分頃、O氏宅を訪問する。

白衣の男は15分位O氏宅の家人(応対した家人の詳細は不明)と会話をし、立ち去ると19時頃までO氏宅付近に歩いていたようだ。

なお、O氏宅は旧「鹿島参宮鉄道(現、関東鉄道)」の「鉾田」駅から南方向へ直線距離で約9キロメートルの場所に所在し、当時、付近には10数戸の民家しかなかったといわれる。

この犯人と思しき白衣の男に男に関する人定情報は以下のとおりである。

氏名:I・M
年齢:43歳(明治40年10月7日生)
前科:強窃盗(強盗と窃盗)、詐欺、銃刀法違反など前科八犯
出身:神奈川県横須賀市出身
当時の住所:宇都宮刑務所出所後は、栃木県宇都宮市内の財団法人が運営する保護施設に入所、同所の印刷工として働いていた。
茨城・徳宿村精米業一家殺害事件 犯人情報

1907(明治40)年10月7日、神奈川県横須賀市内で出生したI・Mは、同市内居住者の養子となる。

小学校卒業後には、日本統治下の台湾に渡り働いていた時期があるが、日本本土に戻った後は、不良仲間と親しくなり1926(大正15)年に窃盗事件で逮捕され、青森県盛岡市の少年刑務所に収容された。

I・Mは盛岡少年刑務所の出所後も詐欺、窃盗、銃刀法違反などの犯罪行為を続け、合計8回の服役生活がある。

19歳-20歳の頃に逮捕され「少年刑務所」に収監された後も犯罪行為を繰り返し、塀の中と外を行き来する人生だったのだろう。

1954(昭和29)年3月15日、宇都宮刑務所を出所したI・Mは、「茨城・徳宿村精米業一家殺害事件」当時も宇都宮刑務所から出所した者達の保護施設で生活していた。

捜査本部は、1954(昭和29)年11月5日、白衣の男ことI・Mを強盗殺人・放火の容疑で全国に指名手配する。言うまでもなく9人殺しの強盗殺人・放火の容疑は、極刑が十二分に予想される非常に重い犯罪だが、I・Mは1954(昭和29)年11月7日、午前4時30分頃にも窃盗事件を起こす。

当時、栃木県塩谷郡塩原町(現、那須塩原市)の旅館に宿泊していたI・Mは、隣室の宿泊客から現金5000円(当時の金額)と腕時計(時価総額不明)を盗み出し、同旅館付近の山中に逃亡する。

通報を受けた栃木県警は、緊急手配を行う。警察は地元消防団、旅館関係者など約300人の応援と共に山中を捜索と県道等の張り込みを敢行し、ついに山中から出てきた「男」を発見すると職務質問から男が指名手配中のI・Mであることが明らかとなり1954(昭和29)年11月7日、午前9時頃、逮捕に至る。

もう一つの「帝銀事件」

1948(昭和23)年1月26日、戦後の混乱を語るうえでの象徴的な事件――「帝銀事件」が発生した。

当時、東京都豊島区長崎に所在した「帝国銀行椎名町支店」内で行員など12人が青酸カリにより毒殺された事件である。

なお、「青酸カリ」による毒殺は、逮捕された平沢貞道の裁判により確定している。ただし、犯行に使用された毒物が「青酸カリ」か否かの議論は現在まで続いている。平沢貞道冤罪説を唱える作家等の著名人、弁護士、支援者は、「帝銀事件」で使用された毒物は、平沢貞道のような一般人には入手困難な旧日本軍が極秘開発した「青酸ニトリル」だと主張している。

「帝銀事件」は、平沢貞道元死刑囚の死後もGHQの関与説、元731部隊員の関与説、元日本陸軍憲兵隊員の関与説や複数犯説など多くの疑惑と疑問を残す実質上の未解決事件の一つである。

「帝国銀行椎名町支店」を訪れた犯人は、GHQの指示により東京都から派遣された「厚労省技官(医学博士)」を名乗り、名刺と腕章と巧みな話術で被害者達に話を信じ込ませ、劇物(青酸カリまたは青酸ニトリル)を被害者達が自発的に飲むよう誘導し犯罪史に残る大量殺人を行った。

「茨城・徳宿村精米業一家殺害事件」も消毒用アルコール薬瓶、青酸性劇薬物入り投薬瓶、注射器、シャーレ(薬皿)を持った白衣の男(I・M)が被害者宅を訪れ、何らかの理由により被害者家族達を信じ込ませ、青酸性劇薬物を飲ませ殺害し、殺害後に被害者宅を物色し、証拠隠滅のために火を放ったと推測(I・Mが自殺したため裁判は開かれず事実認定はされていない)される凶悪事件だ。

実際に「平沢(貞道)弁護人だった、東京の高名な弁護士が捜査本部まで事情を聞きに来たよ。帝銀事件の犯人かも……という、反証を探しにきたんだろうね」(「実録茨城の犯罪 県警捜査員による四半世紀の証言」P10,茨城サンケイ新聞社著,出版:鶴屋書店,1980.)という当時の捜査員の証言もある。

「茨城・徳宿村精米業一家殺害事件」は、戦後の生活環境、衛生状態、牧歌的な人間関係等から生まれた第二の「帝銀事件」と呼べる事件だった。

被害者家族が狙われた理由

2022年から現在(2023年3月)にかけ、所謂「ルフィ」を名乗る人物らが指示を出したと想定される(2023年3月3日時点で事件の全容解明はされていない)強盗殺人、強盗傷害事件などが多発し、事件に関係した容疑で30人を超える男女が逮捕されている。

SNSの闇バイト募集に応募し集まったと想定される実行犯は、海外(フィリピン)にいる(いた)「ルフィ」を名乗る人物などから秘匿性の高いSNSテレグラム等による指示を受け、指定された被害者宅等に押し入り重大な犯罪を繰り返している(いた)ようだ。

これまで逮捕された実行役は未成年や20代の比較的若い者が多い。同グループの犯罪と思しき「特殊詐欺(振り込め詐欺)」の容疑で逮捕されたかけ子(被害者宅等に電話をかけ騙す役割の者)には複数の20代の女性もいる。

未成年者や20代の男女が高齢者等を騙し、高齢者等を襲うなどの犯罪に加担する姿から現在の社会の歪みを感じることが出来るのだが、逮捕されれば極刑や長期刑の可能性のある重大犯罪に未成年者や20代の男女が関与してしまう現在の社会の歪みについては別の機会に考察したいと思う。

所謂「ルフィ」を名乗る人物らが、比較的裕福な被害者を狙い撃ち出来たのか等の疑問は今後の裁判で明らかになるとも思われるが、資産(特に現金)を持つ被害者を狙い打ち的に攻撃できた理由の一つに情報の共有がある。

大規模な情報の伝達・共有には、リスト化、データ化された資料の作成と提供が合理的方法だが、情報はそもそも、人の口から口へ、人の耳から耳へ、目から目へ伝達される。これこそ、我々、ホモ・サピエンスの繁栄の要因の一つだが、伝達される情報には当然ながら「良からぬ」情報も無数に存在する。

情報は道具である。

道具は使用方法と使用目的が問題となる筈だが、00年代頃からの安心安全社会、犯罪抑止を標榜する社会は、「道具」に対する規制を強める。

当然、情報も規制(保護ともいう)の対象となっているが、情報通信手段の少なかった1950年代、容疑者I・Mは、如何にして田畑2.3ヘクタール、山林3ヘクタールを所有し、農業を営みながら精米店を経営する裕福なO氏家族の情報を得たのだろうか?

前述のとおり、I・Mは神奈川県横須賀市出身、小学校卒業後は日本統治下の台湾に渡る。本土帰国後の19-20歳位の頃から犯罪行為を繰り返し、人生の多くの時間を刑務所で過ごしている。

では、I・Mは、如何にして、茨城県の地方集落に住む資産家O氏の情報を知ることが出来たのか?

『茨城県警察史 下巻 1011頁(茨城県警察史編さん委員会著,出版:茨城県警察本部茨城県警察本部,1976.)』によれば、I・Mは「徳宿村」出身の刑務所同房の窃盗犯から被害者O氏方のある舟木集落の情報を得ていたとの記述がある。

人間の情報伝達能力や道具使用能力が犯罪に悪用される。道具は悪用される。道具を悪用する人間は時代に関わらずいる。それも人間だということを思い出させる事例である。道具を使うのは人間だ。いつの時代も道具を使う人間の心が問われている。

被疑者I・Mの自殺

栃木県塩谷郡塩原町(現、那須塩原市)で緊急逮捕されたI・Mは、栃木県警大田原警察署に移送(護送)される運びとなる。I・Mは、移送の際に「車酔い」を理由に、所持していた仁丹を飲むことを希望し、仁丹入れケースから仁丹の取り出し飲むことが許される。

I・Mが大田原警察署に到着すると、取調べの準備が始まる。1954(昭和29)年11月7日、11時15分頃、捜査員が部屋の窓を閉めようとした時、I・Mは、所持していた仁丹入れケースを口に含み苦しみ始めた。

I・Mが所持していた仁丹入れケースは二重底になっており、中には青酸カリが入っていた。

I・Mには胃洗浄などの処置が行われたが、1954(昭和29)年11月7日、11時30分過ぎに絶命したといわれる。また、I・Mの所持品からは、湯飲み茶わん1杯分ほどの青酸カリが見つかったともいわれる。

事件は未解決に終わった

『茨城県警察史 下巻 1011頁(茨城県警察史編さん委員会著,出版:茨城県警察本部茨城県警察本部,1976.)』には、以下の記述がある。

(前略)逮捕は、全捜査員に知らされ、喜んだのも束の間、自殺によって捜査打ち切りとなり、ただぼう然とするばかりであった。このあっけない終局によって、いかにして九人に対して、何らの疑いも抱かせず、ほとんど一斉に青酸加里を飲ませたかという大きな疑問を残したまま、その真相は永遠の謎となったが、本事件に従事した警察官は、延べ5000人を突破した大捜査陣であった。(後略)

茨城県警察本部「茨城県警察史 下巻」1976.

そう、「茨城・徳宿村精米業一家殺害事件」は、多くの謎を残したまま、容疑者の自殺により捜査の幕が下りた。

翌日の新聞には、容疑者死亡に接し、悔し涙を流す刑事部長の写真が掲載されたとの証言もある(参考:「実録茨城の犯罪 県警捜査員による四半世紀の証言」P13,茨城サンケイ新聞社著,出版:鶴屋書店,1980.)。

なお、地元紙は有力情報に懸賞金をかけていた。それは、茨城県の静かな農村で発生した本事件が前代未聞の大事件だったことを意味する。

I・Mは、どのような口実を使いO氏家族に青酸性劇薬物を飲ませたのか?なぜ、O氏家族は青酸性劇薬物を飲んだのか?飲まされたのか?

I・Mが「それらの情報」を我々に伝えることは永遠にない。


◆参考文献
「茨城県警察史 下巻」 茨城県警察史編さん委員会著,出版:茨城県警察本部茨城県警察本部,1976.
「実録茨城の犯罪 県警捜査員による四半世紀の証言」 茨城サンケイ新聞社著,出版: 鶴屋書店,1980. 


あなたにお勧め 未解決事件と昭和の事件シリーズ

本サイト内の関係記事


Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste RoquentinはAlbert Camus(1913年11月7日-1960年1月4日)の名作『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartre(1905年6月21日-1980年4月15日)の名作『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場するそれぞれの主人公の名前からです。
Jean-Baptiste には洗礼者ヨハネ、Roquentinには退役軍人の意味があるそうです。
小さな法人の代表。小さなNPO法人の監事。
分析、調査、メディア、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルなど。

この著者の最新の記事

関連記事

おすすめ記事

  1. 記事名古屋市西区主婦殺害事件の真相に迫る未解決の謎と犯人像を徹底考察アイキャッチ画像
    名古屋市西区で発生した主婦殺害事件は、未解決のまま長年にわたり解明されていない。本記事では…
  2. 記事『映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1981年)を徹底考察:欲望と破滅の愛憎劇』アイキャッチ画像
    1981年に公開された映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、エロティシズムとサスペンスに満…
  3. 記事『グリコ森永事件真相と犯人の一考察』のアイキャッチ画像
    1984年に発生した『グリコ・森永事件』は、犯人の大胆不敵な犯行手法と高度に洗練された計画…
  4. 記事『群馬県東吾妻町主婦失踪事件山野こづえさん行方不明事件』アイキャッチ画像
    群馬県東吾妻郡の小さな集落で、一人の若い母親が突如姿を消した。彼女は、生後間もない娘Aちゃ…
  5. 記事世田谷一家殺害事件に迫る警察の視線警察は犯人に接近しているのかアイキャッチ画像
    世田谷一家殺害事件は、多くの遺留品とともに犯人のDNAまで残されながら、長年未解決のままで…

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る