
記事要約(クリックで開く)
昭和52年、東京・高輪/北品川周辺で、青酸ナトリウム入りのコカ・コーラ瓶が電話ボックスや赤電話周辺に置かれ、二人が死亡した。同年には大阪・藤井寺の青酸コーラ事件、東京駅の青酸チョコレート事件、青酸ナトリウム詐取事件なども相次いだ。本記事では、これらを同一系列に包摂せず、三つの事件群と周辺事件に分け、都市、商品、企業、報道、消費者へ広がった犯罪の変質を整理する。
人間の行為は、それがいかに個人的な形を取る場合であっても、時代的条件と切り離しては理解しにくい。人は時代に規定され、その行為を通じて時代そのものを形成する。
犯罪もまた、時代から逃げられない。ある犯罪は、その時代に共有された欲望を反映し、ある犯罪は、まだ明確に言語化されていない社会的不安を先取りする。
戦後犯罪を理解する枠組みは、犯行主体、被害対象、要求、思想、怨恨を軸に構成されてきた。
昭和50年代に入ると、そうした説明枠組みから逸脱する事件が目立ち始める。利得、怨恨、思想のいずれにも回収しきれない、他者の反応や苦痛を遊戯化するかのような犯罪である。
さらに昭和後期には、企業、警察、報道機関、消費者を巻き込む劇場型犯罪が成立していく。犯罪は、特定の被害者と加害者の関係に収まる行為から、警察対応、企業対応、報道、消費者不安を伴って社会へ波及する現象へと変化した。
昭和52年1月3日、東京の電話ボックスに、毒入りのコーラが置かれた。
青酸コーラ事件を無差別毒物事件の枠内に収めると、戦後日本の犯罪が変質していく過程を捉えきれない。同事件には、その変質を考えるための論点がある。
昭和52年に発生した「青酸コーラ事件」を三つの事件群に分類し、それぞれの性格を整理する。そのうえで、東京・高輪/北品川周辺で発生した第一群を中心に、戦後犯罪史上の転換点としての位置づけを検討する。
青酸コーラ事件の三群
昭和52年に発生した「青酸コーラ事件」は、通称として一つの事件名のもとに語られてきた。しかし、この名称は、単一の犯行主体、単一の動機、単一の犯罪構造を当然には意味しない。事件名が包括的であることは、分析対象の同一性を保証しない。
以下は、昭和52年発生の青酸コーラ事件を三つの事件群の分類した図表(クリックで拡大)。
第一群は、昭和52年1月3日から4日にかけて、東京・高輪/北品川周辺で発生した青酸コーラ事件である。電話ボックス及び赤電話周辺に、青酸ナトリウムを混入したコカ・コーラ瓶が置かれ、二人が死亡した。金銭要求、企業脅迫、声明文、政治的要求は確認されていない。
第二群は、大阪府藤井寺市で発生した青酸コーラ事件である。酒店前に置かれていたとされるコーラ瓶を男性が拾い、飲用後に体調不良を起こした。男性は退院後にガス自殺したと報じられている。この事件については、青酸ナトリウムの含有量、コーラ瓶の発見状況、被害者の事情などをめぐり、狂言、便乗、自傷の可能性が指摘されている。
第三群は、東京駅構内で発見された青酸チョコレート事件である。紙袋に入れられたグリコ製チョコレートから青酸ナトリウムが検出され、箱には「オコレルミニクイニホンジンニテンチュウヲクタス」と読める文言が記されていた。毒物の混入に加え、商品名、企業名、犯行文言、包装の加工、製造番号の削除といった要素が確認された。
三つの事件群はいずれも、青酸ナトリウムを凶器としている。しかし、「青酸入りの飲食物が置かれた」という共通項だけでは、同一の事件系列へ包摂する根拠にはならない。第一群、第二群、第三群は、発生場所、対象、犯行形態、犯行文言の有無が一致しない。
第一群では、青酸コーラが電話ボックス及び赤電話周辺に置かれ、発見、拾得、持ち帰り、開栓、飲用という人間の行動の連鎖に結果が委ねられていた。犯行文言によって社会へ訴えかける青酸チョコレート事件、狂言、便乗、自傷の可能性を残す大阪事件とは、いずれも性格を別にする。
以下、東京・高輪/北品川周辺で発生した第一群を中心に扱う。
東京の青酸コーラ事件
昭和52年1月3日夜から翌4日にかけて、東京・高輪/北品川周辺で、青酸ナトリウムを混入したコカ・コーラ瓶が相次いで確認された。
第一現場は、東京都港区高輪4丁目付近の公衆電話であった。第二現場は、高輪三丁目付近で確認された路上死と、その周辺に残された青酸コーラである。第三地点は、東京都品川区北品川1丁目所在の商店前に設置された赤電話の棚下にあった。
第一群では二人が死亡し、ほかにも複数の人物がコーラ瓶に接触しながら飲用を回避している。使用されたコカ・コーラ瓶には王冠の傷があり、現場ごとに青酸ナトリウムの含有量にも差異があった。
東京の青酸コーラ事件では、金銭要求、企業脅迫、声明文、政治的要求は確認されていない。青酸コーラは、電話ボックス及び赤電話周辺に置かれていた。
高輪四丁目の電話ボックス
第一現場は、東京都港区高輪4丁目付近の公衆電話であった。報道資料によれば、同所に青酸ナトリウム入りのコカ・コーラ瓶が置かれた時間帯は、昭和52年1月3日19時から19時30分頃とされる。
置かれていたのは、190ミリリットル入りのコカ・コーラ瓶であった。瓶は電話ボックス内にあり、外観上は市販のコカ・コーラと変わらない状態を保っていた。
このコーラ瓶には、A氏が接触する以前にも複数の人物が接触していたとされる。1月3日19時頃には、50代の会社員と18歳の長男が電話ボックス内のコーラ瓶を目撃した。父親が飲もうとしたところ、長男がこれを止めたとされる。
また、同日23時頃には、14歳の中学生が友人に電話をかけるため電話ボックスに入り、コーラ瓶を目撃した。この中学生は瓶を手に取り、キャップを開けた際に液体がこぼれた。手についた液体を舐めたが、異味を感じたため、飲用をやめたとされる。
第一の死亡者となったA氏は、京都府内の府立高校に在学する2年生であり、国鉄の列車食堂でアルバイトをしていた。事件当日、A氏は大阪19時02分発、23時24分東京駅着の「こだま」に乗車していた。東京駅到着後、同僚6人とともに勤務先関係の高輪寮で仮眠を取るため、山手線に乗り換え、品川駅で下車した。
A氏はその後、22歳の女性同僚とともに高輪寮へ向かった。その途中、女性同僚が電話ボックスの前に置かれていた10円玉に気づいた。女性同僚は、その後、電話ボックス内に置かれていたコカ・コーラ瓶を認めた。A氏はその瓶を拾い、高輪寮へ持ち帰った。
A氏は寮内でそのコーラを飲用し、青酸中毒により死亡した。
電話ボックス前に置かれていた10円玉については、偶然の落とし物とする見方と、コーラ瓶へ注意を向けさせるために置かれたとする見方が併存する。
高輪三丁目の路上死
翌1月4日8時15分頃、東京都港区高輪3丁目付近の路上で、B氏が倒れているところが発見された。
B氏は山口県出身の46歳で、事件当時は無職であったとされるが、労務者とする表記もある。
発見時、B氏は作業服を着たまま路上に倒れていた。発見者及び高輪署は、当初、その死を行き倒れと考えた。その後、警視庁科学検査所の鑑定により、B氏の死は青酸ナトリウム摂取によるものと断定された。
B氏については、事件の約15年前に家族及び故郷を離れ、労務者として生活していた人物とされる。事件前の元旦には、横浜市内の簡易宿泊所で雑煮を食べ、その後、事件当日まで食事を摂っていなかったとする資料もある。
所持金は35円で、胃内容物は青酸と茶系の水分であったとされる。
国会会議録では、第二現場は第一現場から約700メートル離れた場所とされている。また、B氏の遺体発見場所から約150メートルの地点に、青酸入りコカ・コーラが放置されていたと説明されている。
現場付近の公衆電話には、こぼれたコーラの痕があったとされる。
A氏については、電話ボックス内のコーラ瓶を拾い、高輪寮へ持ち帰り、飲用した経過が比較的具体的に残っている。B氏については、拾得から飲用までの過程が同じ程度には残されていない。
確認できるのは、高輪3丁目付近の路上で倒れていたこと、当初は行き倒れと考えられたこと、鑑定により青酸ナトリウム摂取による死亡と断定されたこと、遺体発見場所の近くに青酸入りコカ・コーラが放置されていたことである。
B氏の死は、第一群における第二の死亡例である。その態様はA氏の場合と異なる。A氏の死は、電話ボックス内のコーラ瓶の拾得と飲用によって把握される。
B氏については、作業服姿の男性が路上に倒れていたという発見状況から始まり、鑑定と現場周辺の青酸コーラによって、第一群の一部として位置づけられた。
北品川一丁目の赤電話
第三地点は、東京都品川区北品川1丁目所在の商店前に設置された赤電話の棚下であった。確認時刻は、昭和52年1月4日12時20分頃とされる。
この場所で、第一現場及び第二現場とは別の青酸入りコカ・コーラ瓶が確認された。
第一現場及び第二現場は、いずれも国道15号線沿いの電話ボックスであった。二地点はいずれも、横浜方面から東京方面へ向かう車線沿いにあったとされる。
以下は、報道資料を基に作成した青酸コーラ発見場所略図(クリックで拡大)。
これに対し、第三地点は、国道15号線から東方向へ直線距離で約500メートル離れた場所にあった。
第三地点の周辺は、住宅地と工業地が混在する地域であった。設置場所は、道路沿いの電話ボックス内から離れた、商店前の赤電話の棚下である。
第一現場及び第二現場が幹線道路沿いの公衆電話であったのに対し、第三地点は地域内の商店前に置かれた公衆電話に属していた。
この第三地点のコーラには、8グラムから9グラムの青酸ナトリウムが含まれていたとされる。第一現場のコーラには致死量とされる0.15グラムを上回る量、第二現場のコーラには約1.4グラムが含まれていたとされるため、第三地点の含有量は三地点の中でも突出していた。
第三地点では死亡結果に至っていない。しかし、青酸ナトリウムの含有量、設置場所、第一・第二現場との位置関係を踏まえると、第一群の現場範囲を考えるうえで、独立した意味を持つ地点である。
国道15号線沿いの二地点と、北品川1丁目の赤電話という配置から、第一群の広がりが読み取れる。
さらに、関連不審情報として、高輪4丁目付近の柘榴坂歩道植込みに2本のコーラが置かれていたという情報がある。付近居住の女性がこれを発見し、警察に通報したが、警察が到着したときには2本ともなくなっていたとされる。
この2本が青酸入りであったかは確認されていない。同時期、同地域で確認された不審情報として記録に残る。
コーラ瓶と青酸ナトリウム
第一群で使用されたコカ・コーラは、東京都東久留米市所在の多摩工場で、昭和51年8月から11月に製造された111万本の中に含まれる製品であると判断された。大量流通品であるため、製品の流通経路だけから犯人へ到達することは困難だった。
青酸コーラの王冠には、約1センチメートルの傷があった。犯人は、何らかの方法または道具で王冠を開け、青酸ナトリウムを混入し、その後、再び王冠を被せたものとみられているが、開栓及び再封に用いられた具体的な道具は判明していない。
この痕跡からは、毒物混入に、市販飲料の外観を保つ工程が伴っていたことが分かる。開栓、混入、再封という操作を経て、青酸ナトリウムは通常の商品に見えるコーラ瓶の内部に隠された。
三か所で確認された青酸コーラには、青酸ナトリウムの含有量にも差異があった。第一現場のコーラには、致死量とされる0.15グラムを上回る青酸ナトリウムが含まれていた。第二現場では約1.4グラム、第三地点では8グラムから9グラムとされる。
第二現場の含有量は致死量の約10倍に相当し、第三地点の含有量は致死量の約60倍に当たる。とりわけ第三地点の青酸ナトリウム量は、第一群の中でも突出していた。
以下は、第一群各現場における青酸ナトリウム含有量の図表(クリックで拡大)。
二人の死亡者と都市生活圏
第一群で死亡した二人は、いずれも東京・高輪周辺の定住生活者ではない。
A氏は、京都府内の府立高校に在学する2年生であり、国鉄の列車食堂でアルバイトをしていた。事件当日、A氏は大阪から東京へ向かう「こだま」に乗車し、東京駅到着後、同僚6人とともに勤務先関係の高輪寮へ向かった。その途中、高輪4丁目付近の電話ボックス内に置かれていた青酸コーラに接触した。
列車食堂のアルバイト、大阪から東京への移動、勤務先関係の寮、深夜の品川駅、高輪の電話ボックスという経路の中で、A氏の死亡は発生した。
B氏は、山口県出身の46歳であった。事件の約15年前に家族及び故郷を離れ、高度経済成長期の都市労働の中に身を置いていた人物とされる。事件前の元旦には、横浜市内の簡易宿泊所で雑煮を食べ、その後、事件当日まで食事を摂っていなかったとする資料もある。所持金は35円であったとされる。
B氏は、高輪3丁目付近の路上で、作業服を着たまま倒れているところを発見された。当初、その死は行き倒れと考えられた。その後、警視庁科学検査所の鑑定により、青酸ナトリウム摂取による死亡と断定された。
A氏は、深夜に勤務先関係の寮へ向かう途中にあった。B氏は、故郷を離れ、簡易宿泊所や路上と結びつく生活の中にあった。二人は、都市の中を移動し、滞留し、労働し、休息する人間として事件に遭遇した。
青酸コーラが置かれていた場所は、特定の個人宅や閉鎖空間から離れ、都市生活圏の内部にあった。第一現場は高輪4丁目付近の電話ボックス、第二現場は高輪3丁目付近の路上死とその周辺に残された青酸コーラ、第三地点は北品川1丁目の商店前赤電話である。
いずれも、公衆電話、赤電話、商店前、国道沿い、住宅地と工業地が混在する地域と結びついていた。
第一群では、金銭要求、企業脅迫、声明文、政治的要求、A氏やB氏を名指しした形跡、犯人自身の名乗りは確認されていない。
記録に残るのは、青酸ナトリウムを混入したコカ・コーラ瓶が都市生活圏の内部に置かれ、そこを通る者、電話を使う者、瓶に気づく者、拾う者、飲もうとする者が、その都度、青酸コーラに接触し、その偶発的な接触の先に死が発生したという経過である。
大阪・藤井寺の青酸コーラ事件
昭和52年2月13日、大阪府藤井寺市で、青酸ナトリウムを混入したコーラ瓶をめぐる事件が発生した。東京・高輪/北品川周辺で発生した第一群から約1か月後のことである。
大阪・藤井寺の事件は、青酸コーラという点では第一群と共通するが、発見状況、被害者の行動、青酸ナトリウムの含有量、その後の経過には、第一群と異なる要素がある。
I酒店前のコーラ瓶
昭和52年2月13日6時20分頃、大阪市内在住の39歳男性が、大阪府藤井寺市大井4丁目のI酒店前に置かれていたコーラ瓶を拾ったとされる。
コーラ瓶は、同店前のタバコ自動販売機の上にあったとされる。男性はその瓶を持ち、職場へ向かった。その後、職場到着後にコーラを飲み、体調不良を起こして入院した。検査の結果、コーラから青酸ナトリウムが検出された。
男性は同僚二人に対し、I酒店の公衆電話にもコーラがあったと話したとされる。その瓶には、8割ほど液体が入っていたという。これを聞いた同僚二人はI酒店へ向かい、同所にあったコーラ瓶を回収した。そして、男性が飲んだ瓶とともに警察へ提出した。
この大阪事件では、東京の第一群と異なり、死亡結果はただちには発生していない。男性は入院後に退院したが、2月17日、自宅でガス自殺した。
狂言説をめぐる諸事情
大阪府藤井寺市の事件については、当初から不自然な点が指摘されていた。
第一に、コーラ瓶の発見場所である。瓶が置かれていたとされるタバコ自動販売機は、高さ約170センチメートルで、土台を含めると約180センチメートルあったとされる。
一方、男性の身長は約160センチメートルであった。このため、自動販売機の上に置かれたコーラ瓶に男性が気づいた経緯には疑問が残る。
第二に、青酸ナトリウムの含有量である。男性が飲んだとされるコーラに含まれていた青酸ナトリウムは、致死量には達していなかったとされる。
東京の第一群では二人が死亡しており、第一現場、第二現場、第三地点のコーラには、それぞれ致死量を超える青酸ナトリウムが含まれていた。これに対し、大阪府藤井寺市の事件では、毒物が検出されながらも、含有量の点で第一群とは異なっている。
第三に、男性自身の事情である。男性には金銭問題があったとされる。また、以前にクギ等を製造する会社を経営しており、青酸ナトリウムを扱った経験があったとする報道もある。
これらの事情から、大阪府藤井寺市の事件は、東京の第一群を意識した可能性を含め、狂言、便乗、自傷の余地を残す事案として位置づけられる。
東京の第一群では、青酸コーラが電話ボックス及び赤電話周辺に置かれ、複数の人物が偶然に接触し、二人が死亡している。
これに対し、大阪府藤井寺市の事件では、被害を訴えた男性自身の行動、コーラ瓶の発見位置、青酸ナトリウムの含有量、退院後の自殺が問題となる。
青酸入りコーラの存在は確認されるが、同じ犯行主体、同じ犯行構造に属する事件として扱う根拠は限られる。
大阪府藤井寺市の青酸コーラ事件は、昭和52年の「青酸コーラ事件」という通称の中に含められて語られることがあるが、分析上は、東京・高輪/北品川周辺の第一群とは区別して扱うべき外縁的事案である。
東京駅の青酸チョコレート事件
昭和52年2月14日、東京駅構内で、青酸ナトリウムを混入したチョコレートが発見された。東京・高輪/北品川周辺の青酸コーラ事件、大阪府藤井寺市の青酸コーラ事件に続く、第三群に位置づけられる事件である。
この事件では、青酸ナトリウムという毒物の使用に加え、商品名、企業名、犯行文言、包装の加工、製造番号の削除といった要素が確認される。
犯行文言を伴わず、電話ボックスや赤電話周辺に青酸コーラが置かれた第一群とは、事件の性格が異なっている。
東京駅「水の広場」の紙袋
青酸チョコレートは、昭和52年2月14日16時頃、東京駅構内の「水の広場」で発見された。当時の報道によれば、東京駅の利用者数は約40万人とされる。
2月14日はバレンタインデーであり、チョコレートが人の手から人の手へ渡る日であった。その日に、青酸ナトリウムを混入したチョコレートが、約40万人が利用する東京駅構内に置かれていた。
犯人は、バレンタインデーにおけるチョコレートの文脈と意味を利用した。東京駅を通過する者、紙袋に気づく者、中身を確認する者、持ち去る者、口にする者の誰もが、被害者になり得た。
発見された紙袋は、拾得物として築地署銀座二丁目派出所が扱い、その後、築地署内で保管された。発見時点では、ただちに毒物事件とは認識されていない。
2月24日、落とし主が現れなかったため、築地署は江崎グリコ東京支店に連絡した。この段階で、商品の包装に異常があることが確認された。
翌25日、大阪府内に所在する江崎グリコ本社研究所が、4粒のチョコレート検体から青酸反応を検出した。
さらに26日、江崎グリコ社から報告を受けた警視庁科学検査所が、青酸化合物を検出した。
包装の加工と製造番号の削除
紙袋に入っていたのは、「グリコアーモンドチョコフライド(セミスイート)」40箱であった。紙袋の一部は破れ、中のチョコレートの箱が見える状態だったとされる。
箱の裏には、青色の文字で、ゴム印に装った角ばったカタカナ文字が記されていた。文言は、「オコレルミニクイニホンジンニテンチュウヲクタス」と読める。
製品の箱を包んでいたセロファンには、切って開けた痕があった。チョコレートを包んでいたアルミホイルには、包み直した跡が確認された。青酸ナトリウムの含有量は、致死量を超える0.2グラムとされる。
一方で、製造番号はすべて削り取られていた。セロファンの切断痕、アルミホイルの包み直し、紙袋の破れ、箱裏の犯行文言は、商品を手に取った者に異常を認識させる痕跡である。
これに対し、製造番号は、商品の流通経路や入手経路をたどるための情報であり、犯人側に近づく手がかりになり得る。その情報だけは消されていた。
青酸チョコレート事件では、発見者に異常を認識させる痕跡と、商品の来歴を消す工作が、同じ紙袋の中に併存していた。
第一群・第二群との相違
第一群の東京・高輪/北品川周辺の青酸コーラ事件では、青酸ナトリウムを混入したコカ・コーラ瓶が、電話ボックス及び赤電話周辺に置かれていた。金銭要求、企業脅迫、声明文、政治的要求は確認されていない。
第一群では、誰かが青酸コーラを発見し、拾い、開け、飲むことによって結果が発生する構造があった。高輪4丁目の電話ボックスでは、複数の人物がコーラ瓶に接触し、飲用を回避した後、A氏が瓶を拾って寮へ持ち帰り、飲用して死亡した。高輪3丁目でも、B氏が青酸ナトリウム摂取により命を落としている。
第一群の目的は、毒入り飲料を誰かに飲ませることにあった。ただし、特定の被害者へ毒物を手渡す犯行とは異なる。都市生活圏の内部に毒入り飲料を置き、誰が拾い、誰が飲むかを偶発的行動に委ねる犯行であった。そこに、第一群の遊戯的性格がある。
大阪府藤井寺市の事件は、第一群とは別の事情を抱えている。青酸コーラという点では第一群と接続して語られ得るが、同事件では、被害を訴えた男性自身の行動、コーラ瓶の発見位置、青酸ナトリウムの含有量、男性の金銭問題、退院後の自殺が論点となる。大阪府藤井寺市の事件には、狂言、便乗、自傷の可能性が残る。
東京駅の青酸チョコレート事件は、第一群とも大阪府藤井寺市の事件とも目的が異なる。
東京駅で発見されたのは、紙袋に入れられたグリコ製チョコレート40箱であった。箱の裏には犯行文言が記され、セロファンには切って開けた痕があり、アルミホイルには包み直した跡があった。一方で、製造番号はすべて削り取られていた。
紙袋の破れ、箱裏の犯行文言、セロファンの切断痕、アルミホイルの包み直しを伴うチョコレートを、拾得者がその場で食べるとは考えにくい。
この事件では、誰かに食べさせることよりも、発見され、警察に届けられ、企業に連絡され、企業名と商品名を伴って事件化することが中心にあった。
バレンタインデー、チョコレート、東京駅、グリコ製商品、犯行文言、製造番号の削除は、同じ紙袋の中で結びついていた。青酸入り食品は、企業と食品業界へ向けたメッセージ性を帯びていた。
この構成には、後年の「グリコ・森永事件」へ連なる要素が含まれている。毒物入り食品、企業名、商品名、不特定多数の消費者、報道を通じた危険の拡散は、昭和52年の時点ですでに一つの事件の中に揃っていた。
第一群が、青酸コーラを都市生活圏に置き、偶発的な飲用によって結果を発生させる事件であったのに対し、第三群は、毒物入り食品を企業名、商品名、犯行文言と結びつけ、企業、食品業界、報道、消費者へ危険を波及させる事件であった。
青酸ナトリウムをめぐる周辺事件
昭和52年には、青酸コーラ事件、青酸チョコレート事件とは別に、青酸ナトリウムをめぐる不審事件が相次いでいる。横浜市内で発生した青酸ナトリウムの詐取事件と、全日空817便ハイジャック事件である。
これらを、東京・高輪/北品川周辺の第一群、大阪府藤井寺市の第二群、東京駅の青酸チョコレート事件である第三群と、直ちに同一系列に置く根拠は限られる。
それでも、同じ時期に青酸ナトリウムが犯罪の素材として使われ、報道上も関連を疑われた点で、昭和52年前後の空気を考えるうえでは外せない。
横浜の青酸ナトリウム詐取事件
昭和52年3月15日、神奈川県横浜市鶴見区のメッキ会社で、青酸ナトリウムが詐取される事件が発生した。
同社を訪れたのは、白衣を着た男であった。男は、横浜市中区真砂町2丁目3番地所在の公害対策局水質検査員を名乗り、「森一道」と記した名刺を示したとされる。年齢は32歳から33歳程度、身長は165センチメートル前後と報じられている。
男は、青酸ナトリウムの取り扱いについて社長に質問した。その後、社長が席を外した隙に、同社内にあった青酸ナトリウムを持ち去ったとされる。
この人物と同一人相とみられる男は、3月11日及び12日頃にも、横浜市内の別のメッキ業者を訪れていたとされる。それらの訪問では、青酸ナトリウムの入手に至っていない。
この事件では、白衣、公害対策局、水質検査員、名刺という要素が用いられている。男は、行政機関の検査員を装い、メッキ会社が青酸ナトリウムを保管し、その管理を問われ得る立場にあることを利用して接近していた。
この手口は、「帝銀事件」と接点を持つ。帝銀事件では、犯人は防疫や衛生に関わる権威を装い、銀行員に薬物を飲ませたとされる。横浜の青酸ナトリウム詐取事件では、男は公害対策局の水質検査員を名乗り、青酸ナトリウムを扱う事業所に接近した。年代、目的、結果は異なるが、権威、肩書、恐怖、専門性を利用する点では共通している。
帝銀事件では、戦後間もない時期の感染症や衛生への恐怖が利用された。横浜の事件では、直近の青酸化合物混入事件に加え、公害、水質、薬品管理という昭和50年代の行政的・工業的な文脈が利用されている。
いずれも、相手に疑わせないための肩書と小道具があった。白衣は専門性を示し、名刺は肩書を補強する。公害対策局、水質検査員という名乗りは、行政機関による検査や指導を想起させる。犯行は、その時代に共有された恐怖と、権威への反応を利用していた。
横浜の青酸ナトリウム詐取事件は、毒物を用いた殺傷事件と異なり、毒物を入手するための事件である。青酸コーラ事件や青酸チョコレート事件とは性格を別にする。
青酸ナトリウムという物質が、工業薬品として存在しながら、白衣、名刺、行政機関の肩書を通じて犯罪へ移されようとしていた事実は、昭和52年前後の周辺事件として位置づけられる。
全日空817便ハイジャック事件
青酸ナトリウム詐取事件の2日後にあたる昭和52年3月17日、羽田発仙台行きの全日空817便でハイジャック事件が発生した。
犯人は、モデルガンを改造した拳銃を所持していたとされる。機内で犯行に及んだ後、犯人は同機のトイレ内で青酸ナトリウムにより自殺した。
この事件については、直前に横浜市内で発生した青酸ナトリウム詐取事件との関連が疑われた。
青酸ナトリウムを詐取されたメッキ会社の社長は、全日空817便ハイジャック事件の犯人を確認した後、自社を訪れた男とは別人であると判断したとされる。
そのため、横浜の青酸ナトリウム詐取事件と全日空817便ハイジャック事件は、同一人物による一連の事件として扱われていない。
青酸コーラ事件、青酸チョコレート事件、横浜の青酸ナトリウム詐取事件、全日空817便ハイジャック事件を並べると、昭和52年前後に、青酸ナトリウムが複数の事件で反復して確認される。
第一群では、青酸ナトリウムは市販のコカ・コーラ瓶に混入され、電話ボックス及び赤電話周辺に置かれた。第三群では、グリコ製チョコレートに混入され、犯行文言とともに東京駅構内で発見された。
横浜の事件では、青酸ナトリウムそのものが詐取対象となり、全日空817便では、犯人自身の自殺に用いられた。
これらを同一事件として扱うことはできない。それでも、青酸ナトリウムという毒物が、食品、工業薬品、航空機内の自殺という異なる場面で確認されたことで、毒物犯罪への社会的不安は増幅していった。
戦後犯罪史上の転換点という仮説
青酸コーラ事件を戦後犯罪史上の転換点として位置づけるうえでは、青酸ナトリウムという毒物の性質、毒物が置かれた場所、接触する人間の範囲、事件が社会へ伝わる経路、そこから広がる恐怖が関わっている。
戦後日本の凶悪事件は、犯行主体、被害対象、要求、思想、怨恨を軸に説明されてきた。それらは、戦後犯罪を理解する主要な枠組みを構成していた。
昭和50年代に入ると、そうした枠組みから外れる事件が目立つようになる。被害者と加害者の個人的関係が見えにくく、利得や怨恨を中心とする説明に収まりにくい事件である。
犯罪は、都市空間に置かれた消費財を媒介として不特定多数の市民に接触し、報道を通じて企業や社会へ波及する形を帯びていった。
都市に置かれた犯罪
戦後の都市型犯罪を考えるうえで、「草加次郎事件」はその予兆として位置づけられる。
草加次郎事件では、爆発物、拳銃、脅迫状が用いられ、東京の都市空間の中で匿名の犯行が反復した。駅、劇場、百貨店、寺社、路上、郵便、報道機関などは、犯行場所や伝達媒体として利用された。犯人は「草加次郎」を名乗り、犯行は都市の中で連続的に実行された。
草加次郎事件には、脅迫状や犯行声明に近い言葉があった。犯人の名乗りがあり、社会へ向けて自らの存在を示す要素を伴っていた。
東京・高輪/北品川周辺の第一群では、犯人の名乗り、声明文、金銭要求は確認されていない。青酸コーラは、電話ボックス及び赤電話周辺に置かれていた。そこを通る者、電話を使う者、瓶に気づく者、拾う者、飲む者の行動によって結果が発生した。
第一群では、公衆電話、赤電話、商店前、国道沿い、住宅地と工業地が混在する地域に、市販のコカ・コーラ瓶が置かれていた。都市生活の場と日常的な商品が、その外観を保ったまま、殺傷の媒介物へ転じていた。
遊戯化する加害
青酸コーラ事件から数年を経た昭和後期には、他者の苦痛や反応を加害者側が遊戯化する事件が発生していく。
横浜の野宿者襲撃事件では、社会的に弱い立場に置かれた人々が少年らの襲撃対象となった。名古屋アベック殺害事件でも、若者集団による暴行、拉致、監禁、殺害が、金銭や怨恨では回収しきれない残虐さを伴っていた。
これらの事件には、他者を一人の人間として扱わず、反応し、苦しみ、壊れていく対象として扱う感覚が表面化している。ここに遊戯性がある。
青酸コーラ事件の第一群では、動機は明らかになっていない。犯人は青酸コーラを都市生活圏に置き、人間がそれを見つけ、拾い、飲むかもしれない状況を作った。そこには、直接的な対人暴力とは異なる形で、他者の偶発的な行動と死を待つ遊戯性がある。
高輪4丁目の電話ボックスでは、A氏以前にも複数の人物がコーラ瓶に接触していた。飲もうとして止められた者があり、キャップを開けて液体に触れながら、異味を感じて飲用をやめた者もいた。その後、A氏が瓶を拾って寮へ持ち帰り、飲用して死亡した。
電話ボックス前の10円玉についても、当時の報道には、意図的に置かれたものとする見方があった。犯人は、現場近くでこの経過を静かに観察していた可能性がある。
企業と消費者へ向かう犯罪
青酸チョコレート事件は、第一群とは異なる性格を帯びていた。
東京駅構内で発見されたグリコ製チョコレートには、犯行文言、包装の加工、製造番号の削除が伴っていた。
発見日は2月14日、バレンタインデーである。チョコレートが人の手から人の手へ渡る日だった。
この事件は、拾得者に青酸チョコレートを食べさせることを中心とする構成ではない。発見され、警察へ届けられ、企業へ連絡され、企業名と商品名を伴って事件化することが前面に出ている。企業名、商品名、犯行文言、包装の痕跡、製造番号の削除は、その方向を示している。
紙袋は拾得物として扱われ、警察署内で保管された後、江崎グリコ東京支店への連絡を経て、同社本社研究所による検査へ進んだ。事件は拾得者の手元にとどまらず、警察から企業へ到達している。
青酸チョコレートの箱裏に記された犯行文言は、後年のグリコ・森永事件で青酸入り菓子に貼られた「どくいりきけん」と同じく、毒物入り食品を手にした者に異常を認識させる役割を持っていた。
グリコ・森永事件では、企業への脅迫、商品への毒物混入予告、青酸入り菓子、報道機関への挑戦状、消費者不安、流通への影響が連動した。
犯罪の影響は、企業、商品、報道、消費者へ及び、社会全体の反応を巻き込む劇場型犯罪として成立している。
その前史として、東京駅の青酸チョコレート事件の翌年、昭和53年にグリコへ金銭要求のテープが送られた事案を置く見方がある。いわゆる「昭和53年テープ」にあたる。東京駅の青酸チョコレート事件には、その方向性が昭和52年の時点ですでに含まれていた。
第一群が、青酸コーラを都市生活圏に置き、偶発的な飲用によって結果を発生させる事件であったのに対し、第三群は、毒物入り食品を企業名、商品名、犯行文言と結びつけ、食品業界、報道、消費者へ危険を波及させる事件であった。
結語│青酸コーラが置かれた時代
昭和52年は、高度経済成長が終わり、都市生活と大量消費が日常化していた時期である。市販飲料、菓子、駅、電話ボックス、赤電話、商店、国道、報道機関、企業名は、人々の日常の中にあった。
その日常の中で、第一群では、コカ・コーラという大量流通品が殺傷の媒介物に変わった。第二群では、青酸コーラという社会的不安を背景に、狂言、便乗、自傷の可能性を残す事件が起きた。
第三群では、グリコ製チョコレートという企業名と商品名を伴う食品が、犯行文言とともに置かれ、危険は企業、食品業界、報道、消費者へ波及した。
横浜の青酸ナトリウム詐取事件では、工業薬品としての青酸ナトリウムが、白衣、名刺、公害対策局、水質検査員という肩書を通じて犯罪へ移されようとしていた。ここでは、毒物の入手そのものに権威の偽装が用いられている。
都市は広がり、商品は大量に流通し、企業名は消費者の日常に入り込み、報道は犯罪を社会全体へ伝えた。青酸ナトリウムは、都市、商品、企業、報道、権威の偽装と結びつき、事件ごとに異なる役割を持った。
昭和52年の青酸事件群には、都市型犯罪、遊戯型犯罪、劇場型犯罪へ向かう要素が、それぞれ異なる形で含まれていた。
昭和52年1月3日、東京の電話ボックスに、一本の青酸コーラが置かれた。
その瓶は、誰かに拾われることを待っていた。
◆参考資料
【公的資料】
第80回国会 衆議院 法務委員会 第8号(昭和52年4月6日)
【雑誌・書籍】
経済往来社『経済往来』(1977年3月)
警視庁警務部教養課編『自警』(1978年1月)
藤竹暁『勉強しなさいしか言えぬ親たち : 失語症の時代』(1979年5月)
河野稔『健康百話』(1980年3月)
牧美貴彦『犯罪鑑識内緒ばなし』(1981年11月)
朝倉喬司『メガロポリス犯罪地図』(1986年7月)
【新聞記事】
朝日新聞1977年1月4日付
朝日新聞1977年1月5日付
朝日新聞1977年1月6日付
朝日新聞1977年2月15日付
朝日新聞1977年2月16日付
朝日新聞1977年2月17日付
朝日新聞1977年2月27日付
朝日新聞1977年3月16日付
朝日新聞1977年3月17日付
朝日新聞1977年3月18日付
◆日本犯罪史に残る事件・未解決事件
日本犯罪史に残る事件・未解決事件のうち、時代背景、政治、経済、治安、社会状況との関係が大きい事件を扱った記事。





























