貨幣・紙幣は国家の信用の上に成り立っている。特に国家による信用の裏付けのない紙幣は、単なる文字と絵が描かれた紙切れに過ぎない。
1961(昭和36)年に最初の一枚が見つかった贋造紙幣「チ-37号」は、その精巧な造りから「贋造紙幣の最高傑作」、「最後の職人技」などと呼ばれ、1963(昭和38)年11月14日まで事件は続いた。
国会でも取り上げられた「チ-37号事件」は、社会に大きな影響を与えた戦後の事件の一つでもある。
警察は犯人検挙に向け異例の大規模捜査を行い、政府は新たな千円紙幣(伊藤博文像の紙幣)を発行し対応するが――結局――犯人の逮捕には至らず、1973(昭和48)に時効を迎えしまう。
チ-37号事件概要
1961(昭和36)年12月7日、日本銀行秋田支店発券課の19歳の新人職員が少し触り心地に違和感のある聖徳太子像の千円紙幣を見つけた。その紙幣は、やや薄く光沢のある印象だったといわれている。
19歳の新人職員が見つけた千円紙幣こそ、「贋造紙幣の最高傑作」、「最後の職人技」などと評された贋造千円紙幣(「チ-37号」の「チ」は千円札の「千」から)だった。
秋田県で見つかった贋造千円紙幣は、山形県、宮城県など東北地方から東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県の関東地域や静岡県、愛知県、大阪府などの中部、関西地域までの広範囲でも見つかり、1963年11月14日に見つかった最後の1枚まで、計343枚(34万3000円分)の贋造紙幣が国内各地で使われていた。
画像は、昭和40(1965)年1月4日発行停止の聖徳太子千円。出典:日本銀行HP
写真製版による凹凸版の印刷に凸版または平版用のインクを使い、手刷り機械で印刷されたと思われる贋造紙幣の「最高傑作」の出現は国会でも取り上げられ、警察庁は国家の威信をかけた大規模捜査を展開する。
お答え申し上げます。昨年十二月、秋田県におきましてWRという記番号のにせ札が発見せられまして以来、八月二十五日現在におきまして百六十二枚のにせ札を発見いたしておるのでございます。これを地域別に見ますと、関東地区で百二十五枚、最も多く発見しておりますのが東京地区でございまして六十枚、続いて埼玉十八枚、茨城十二枚、特に八月に入りまして関東地区にこのにせ札の発見が集中いたしておるのでございます。当初におきまして東北地方に出ましたけれども、最近はこれがとまり、東北地方におきます発見は三十三枚になっておるのでございます。この百六十二枚の発見中、日銀あるいは金融機関で発見されましたものが大部分でございまして、一般民間人におきましてこれをにせ札として警察に連絡がありましたものがわずか七枚でございます。そのためにわれわれの方の捜査といたしましては、行使犯人あるいは偽造者というものの発見に著しく困難を感じておるのでございます。その程度に、今までかつて例を見ない程度に印刷技術等におきまして精巧なものであるということが言えるものと存ずるのでございます。われわれの方といたしましては、さようなように一般の民間におきまして発見が著しく困難であるという建前から、もちろんこれらのPRもいたしますけれども、基本的な捜査の充実、たとえば物に対する捜査、あるいは関係者のこういう疑いのある者の、人に対する捜査、あらゆる角度から相当広範囲な捜査を開始いたしておるのが現状でございます。
第41回国会 衆議院 大蔵委員会 第5号 昭和37年8月28日 警察庁刑事局長 宮地直邦の発言
当該事件の捜査対象者146,617人。容疑者759人。捜査対象印刷機約2,000台。関係情報8,992件。都道府県警察は、専従捜査員を置き、懸命の捜査を展開するが、1973(昭和48)年に未解決のまま時効を迎えてしまった。
贋造硬貨・贋造紙幣
贋造硬貨・贋造紙幣の歴史は人類の歴史でもある。古代エジプト時代には、金の含有量を減らした粗悪な通貨が出回った。708年(和銅元年)に最初の通貨「和同開珎」が鋳造・発行された日本では、偽造犯を極刑に処す旨の布令が出ている。江戸時代になると偽造犯を磔獄門の刑に処す厳しい対応がなされるが、贋造藩札などが町中から消えることはなかった。
1968(慶応4)年、明治政府は紙幣「大政官札」を発行する。だが、たちまち贋幣が造られた。
昭和の時代になると贋造硬貨・贋造紙幣の製造に変化がおこる。「チ-37号」のような印刷機と熟練の印刷技術を必要とする時代から複写機(コピー機)で造られた贋幣の時代となる。また、機械を騙す贋造硬貨・贋造紙幣も出現する。
印刷機と職人技を必要とする贋幣は、印刷機を購入・維持などする費用と職人技を身につけるための時間が必要となる。「チ-37号」が、「贋造紙幣の最高傑作」、「最後の職人技」などと呼ばれ所以は其処にある。
また、贋造硬貨・贋造紙幣の歴史を紐解けば、国家が敵対国家の経済に大きな打撃を与える武器として扱われた事実にもたどり着く。贋造硬貨・贋造紙幣は、非常に強力な武器ともなるため、いつの時代でもどこの国でも「国家」の重要問題の一つだともいえる。
チ-37号事件・事件経緯
1961(昭和36)年12月、秋田県で最初の一枚が発見された「チ-37号」は、1962(昭和37年)2月に、東京都、千葉県、山形県、茨城県、埼玉県、長野県内でも発見される。 以下は、1962年の6月までに発見された都道府県一覧(引用・参考:佐木隆三『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』P143文藝春秋 ,1985.)
- 秋田
- 山形
- 宮城
- 岩手
- 福島
- 新潟
- 栃木
- 茨城
- 東京
- 埼玉
- 千葉
- 神奈川
- 長野
- 愛知
- 大阪
前述の国家議事録にもあるが、「チ-37号」は、主に日銀、民間金融機関の職員からの発見している。事態を重く受け止めた警察は、1962(昭和37)年9月6日、公開捜査に舵を切り「チ-37号」に具体的な特徴を発表する。また、同日、国家公安委員会は報奨金制度を設け、ニセ札を発見、警察に届けた場合には、その場で真券との交換が行われ、さらに3000円以上の捜査協力謝礼の支払いが決定される。
つまり、国家がニセ札に1000円以上の価値を与えたことになる。
さらに、全国銀行協会連合会は、犯人逮捕に至る協力者に対して100万円の懸賞金を用意すると発表し、国民全体に「チ-37号」発見、犯人逮捕の機運が高まったようだ。
警察が発表した「チ-37号」の主な特徴の一つに紙幣番号「WR789012T」があるが、同番号発表後は、「GV456123R」の紙幣番号を持つ「チ-37号」が発見されている。犯人と政府、警察、国民とのいたちごっこが始まったようだ。
全国15都府県で発見
公開捜査
福島県で最後の1枚(343枚目)発見
時効
犯人情報
公開捜査後、犯人の情報が集まり始める。1953年に公文書偽造の罪で4年の実刑判決を受けた印刷工と周辺の複数の人物や群馬県高崎市出身の製版技術者などが捜査線上に浮かんでは消えた。
最も有力な犯人情報は、1962(昭和37)年9月11日、千葉県佐倉市の駄菓子店から見つかった「チ-37号」を使ったと思しき年齢40歳前後のジャンバーを着用したハンチング帽子の小柄の男性(以下、A)と同年10月16日、埼玉県深谷市の食料品店で発見された「チ-37号」に関係すると思われる年齢40歳前後の小柄なの男(以下、B)の情報だろう。
AとBが同一人物かはわかっていないが、小柄な40歳前後の男性という特徴は一致するようだ。また、Bと思しき人物は、深谷市の事件と同じ日に埼玉県岩槻市の駄菓子店にも現れ「チ-37号」を使いチューインガムの購入、同ガムとお釣りを窃取している。
警察が犯人逮捕に最も近づいたのは、1963(昭和38)年3月5日、6日だった。3月5日の午後(時間不明)、犯人と思しき年齢30歳位の小柄で丸顔、黒系の霜ふりの上着(オーバーコートか?)を着用し、ハンチング帽子を被った男性が、現在の静岡県静岡市清水区西久保の雑貨店に現れ、翌日6日には、現在の静岡県静岡市葵区弥勒の青果店を訪れ、「チ-37号」を使う。6日17時頃、通報を受けた静岡県警は清水署に捜査本部を設置、県内全域の捜索と検問を実施したが、犯人の逮捕には至らなかった。
なお、「犯人の身長は155cm、青白い丸顔のいい男」との説もある(井出守『迷宮入り事件の謎―ミステリーより面白い-犯人は芸術家肌だったのか』P59雄鶏社 ,1994.)
その後、警察は上記2つの現場で犯人と思しき男性を目撃した計6人の証言からモンタージュが作り、全国に指名手配を行うが、犯人は闇の中に消えていった。
警察が「チ-37号事件」の犯人モンタージュ写真を発表すると1959(昭和34)年7月31日に最初の1枚が発見された「チ-26号」(聖徳太子像が真券よりもかなり黄色味があることから別名「黄疸千円札」と呼ばれた)の犯人「石川一郎」に似ているとの寸評も登場し、もう一つの未解決事件との関連も指摘されたようだ。
「チ-26号」は、1959(昭和34)年7月31日19時頃から8月1日の未明にかけ、31枚(3万1千円分)の贋造千円紙幣が山手線沿線地域で使用された事件である。犯人と思しき25歳から30歳代の「小柄で顔が青白い」男は、「チ-26号」で使用されたインクなどを東京都渋谷区内の某商事会社で購入したようだ。
購入時、同男は、東京都板橋区2丁目内に居住する「石川一郎」を名乗り、その場でインク等代の内金(請求額の一部)を支払い、残金は後日払いの約束だったらしいのだが――。
勿論、「石川一郎」が申告した住所に「石川一郎」なる人物の居住等はなく、同男が名乗った「石川一郎」も偽名だと推認される。
この2つの未解決贋造紙幣事件の犯人は同一人物なのだろうか――その答えは永遠の謎である。
犯人考察
ここからは、「チ-37号」の犯人について考えてみよう。まず、最初は①単独犯か複数犯か?②複数犯の場合は国家を含む役割分担などが明確な組織的な犯罪か?から初めてみよう。
まず、犯人が使用した「チ-37号」の使用枚数(発見された枚数)を再確認しよう。合計枚数は343枚。34万3000円分を使用したことになる。犯人が得た利益は、34万3000円を使い騙し取った商品と釣銭となるが、前述のとおり商品購入先は駄菓子店、食料品、青果店が主であり、高額の商品を購入し売却代金を得ることが目的というよりも、釣銭の詐取が目的だと思料される。そう考えるならば、犯人の得た利益は34万3000円以下と考えるのが妥当であろう。
では、事件当時の34万3000円(以下の金額)は現在の価値にするとどれほどの価値になるのだろうか?
経済企画庁「昭和36年 年次経済報告 昭和35年度の日本経済」によれば、「毎月勤労統計による全産業常用労働者(30人以上事業所)の平均賃金は24232円」とある。
犯人が得たと思われる34万3000円(以下の金額)は、当時の平均年賃金(24,232円の12月分の290,784円)より多いが、1961(昭和36)年12月から1963年11月の二年間で約34万だと考えるならば、年17万円程度となり、平均よりも下回ってしまう。
「チ-37号」を造るための時間、労力、経費などを考えた場合、割に合わなかったとも考えられる。特に複数犯の場合は、一人が受け取る利益はさらに減少する。
次に「チ-37号」の使用場所と犯人と思しき男性の目撃情報を思い出してみよう。「チ-37号」の使用は、東北地方から始まり全国15都道府県以上にまたがる広範囲に及んでいる。
犯人は、当初、を牧歌的な空気の残る地方地域で実験的に使用したのだろう。さらに、関東地域でも前述の千葉県佐倉市、埼玉県深谷市などを狙っているが、実行犯と思しきA、B、Cは同一人物の可能性が高いと推察され、一人で「実験」と実行を担当したと考えるならば、複数犯の可能性は低いと推測できそうだ。
上記2点の考察から「チ-37号」は、単独犯の可能性が強いと判断するのが妥当だろう。
ただし、世の中には、損/得以外の動機から犯罪に手を染める人間もいる。彼ら彼女らは、思想、信条、大義のために行動を起こす。
前述のとおり、贋造硬貨・贋造紙幣は、敵対国家の経済に大きな打撃を与える武器つかわれることがある。この場合は、敵国経済への打撃が目的となるため、損/得以外の大義を持つ組織または個人により実行される。
では、「チ-37号」はどうだろうか?使われた額34万3000円(以下の金額)を考えれば、日本経済に大きな打撃を与えたとは言えないが、国家の信用性には十分な打撃を与えた。
チ-37号事件後、政府は約35億円の費用をかけ、新千円札(伊藤博文像の千円札)を発行する。
犯人の狙いが国家の信用の失墜、仮想敵国の謀略などの説は、事件発覚当時からあったようだ。当時、新聞は、国際偽造団の関与、背後に北朝鮮政府を持つ在日朝鮮人グループの犯行などと報じてもいるが、後に誤報として消えいく。
犯人は前述のとおり単独犯の可能性が高い。犯人の背後に大きな組織な謀略があったするならば、犯人は複数犯となるだろう。そう考えるならば、単独の犯人の目的は金銭となるが、最後にもう一つの動機の可能性を指摘しておこう。
それは、「贋造紙幣の最高傑作」、「最後の職人技」と評された「チ-37号」の技術の誇示だ。様々な分野で自身の技術を誇示するために贋作を造り出す者がいる。
一人密かに「チ-37号」を造り、自分が造った「贋作」の精度を試し、事件に翻弄される政府、警察、国民を「贋作」への高評価と捉え――犯人はニヤリと笑いながら闇に消えたのかもしれない。
◆参考文献
佐木隆三『事件百景―陰の隣人としての犯罪者たち』文藝春秋 ,1985.
井出守『迷宮入り事件の謎―ミステリーより面白い-犯人は芸術家肌だったのか』雄鶏社 ,1994.
読売新聞 昭和38年3月8日付
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