広島県安芸郡府中町主婦失踪事件 概要
2001年9月24日(月曜日)、午前10時ごろ、広島県安芸郡府中町青崎の、賃貸マンション3階に住む主婦N・Tさん(当時50歳・以下N子さん)は、友人Aさんからの電話を受けた。その用件は昼食への誘いであった。
N子さんはその時期、マンションの一室に一人で暮らしていた。知人たちからの印象では、結婚13年目のT夫妻の仲は良好であったようだが、子供は無く、当時N子さんの夫S郎さんは持病などにより入退院を繰り返しており、この頃も労災による指のケガで入院中であった。
N子さん自身も心臓病等いくつかの持病を抱えていたが、頻繁に夫の病室を見舞っており、友人Aさんも当然その辺りの事情は承知していた。恐らくは昼食を共にしてN子さんを元気づけ、その後一緒に病室を見舞うという心づもりであったのだろう。
動画は、記事の一部を音声化したClairvoyant report channel『広島県安芸郡府中町主婦失踪事件』
N子さんは携帯電話も所持していたが、Aさんは、最初の誘いの電話は自宅の固定電話宛てに掛けた。N子さんの返答は以下のような内容であった。
「シャワーを浴びたいので、外出の準備ができたら電話する」
そして、恐らくAさんの携帯電話の通話履歴で11時20分頃、N子さん宅の固定電話からAさん宛に連絡があった。
「準備ができた」
Aさんは、これからマンションまで迎えに行く、着いたら電話する旨を伝えて切電。携帯電話を持って車に乗り込んだ。
丁度その頃、マンションのエレベーター内に設置された監視カメラが、50〜60歳程度の、青系統色でポロシャツ様の衣服を着用した男性の姿を記録している。但し、降りた階が3階では無かったために、後にN子さんの捜索願と情報提供を受けた警察は、関係者としてカウントしなかったのだという。
その後、男がエレベーターを使って階下に降りた記録は残っていない。建物に2ヶ所ある階段のいずれかを使って降りたか、自室へ帰宅する途中のマンション住人であった可能性もある。他に監視カメラは設置されていなかったようだ。
11時48分頃、まだ自宅で待っているはずのN子さんではあるが、何故か固定電話ではなく携帯電話の番号から、Aさんの携帯電話宛てに着信があった。
Aさんは運転中のこともあり、この電話を受けることが出来なかったが、そのまま運転を続け、マンションに着いた11時50分、N子さんの携帯電話宛に電話した。
「あー」
通話状態になった携帯電話の向こうから、Aさんの耳に不可解な声が聞こえてきた。恐らく通話時間にして3.5秒間、電話は切られた。切電したのはN子さん側か、もしくは電波不良によるものと考えられる。
正午頃、Aさんはもう一度、N子さんの携帯電話宛に電話した。携帯電話は再度、通話状態になったが、Aさんの耳に聞こえてきたのはまたしても不可解な、
「あー」「うー」
といった声であった。今回の通話時間は4.5秒間であった。
その声は、(恐らく、後から思い返してみると)悲鳴のようにも聞こえたというが、所謂「正常性バイアス」(パニックを抑制する為の心の機構だが、異常事態の無視または過小評価を招く事もあり、災害時の避難遅れの原因ともなる)によるものか、AさんはN子さんがじきにマンション入り口まで降りてくるだろうと車内で待ち続けた。
その間、AさんはN子さんの携帯電話宛てに2、3分おきに電話を掛け続けたが、呼び出し音は鳴るものの通話状態になる事は二度と無かった。
12時20分頃、N子さんから応答がないのを訝しんだAさんは、3階のN子さんの居室まで上がり室内へ呼びかけたが、玄関ドアは施錠されており、何らかの反応も無かった。その際、玄関の前に、隣室に住むN子さんの義母(夫の母親)が使っている車イスが広げて置かれているのを確認している。この義母は足が不自由であり、耳も遠かったといい、隣室の出来事についての発言も限られている。
12時30分頃、AさんはN子さんが約束を反故にしたものと判断。当然ながら怒って帰宅してしまった。
同日夕方。AさんはN子さんの事が気になり始め、入院中のS郎さんと連絡を取り、昼間の件を話した。もしもN子さんが当日夫の見舞いに訪れていた、せめて連絡を取っていた事でも確認できれば、少々腹立たしくはあるが一安心といった所であったのだろうが、その日にそういった出来事はなく、事態の雲行きが怪しくなり始める。
同日夜8時頃、AさんとS郎さんは合流し、青崎の自宅マンションを訪れた。昼間、玄関の前に置かれていた義母の車イスは、元の場所(恐らく義母宅の玄関前)に畳んだ状態で戻されていたという。この車イスの移動について、義母自身は覚えが無いと語っているという。
約30分後、入院先に自宅の鍵を持ち込んでいなかったS郎さんは、「鍵屋」に解錠を依頼して自宅マンション室内に立ち入った。室内履きのスリッパがわずかに乱れていた他には、室内に荒れた形跡は無かったが、N子さんの姿も無く、見舞いの為の荷物(着替え等)は残されていたが、普段彼女が外出時に持ち歩いていた、携帯電話、財布、キャッシュカード等最低限の身の回り品の入ったバッグは無かった。
他に家からなくなっていたものとしては、見舞金等の現金25万円、S郎さんの障害者手帳が挙げられている。一方、N子さん愛用の化粧品や、持病に関わる病院の診察券が室内に残されており、単純な自発的失踪であると言い切る事もまた困難なものとしている。
室内を確認した二人は、事情を知っていそうなN子さんの友人8人に連絡したが、N子さんの居場所が判明することは無く、その日の夜10時、友人経由で連絡を受けた、N子さんの実兄であるTさんが広島市東警察署に通報した。
翌日改めて警察署を訪れたS郎さん、Aさん等友人達は、事態の事件性を訴えて捜査を依頼したが、成人女性の失踪ということもあり警察の動きは消極的で、家出人捜索願の受理に留まっている。
それでも、一応、N子さんの携帯電話が発する電波状況をキャリアに問い合わせており、最後の位置情報は9月25日夜9時10分。自宅から車で30分程度離れた広島県呉駅周辺であった事が分かっている。
確認されたN子さんの最後の位置情報JR『呉』駅近辺
9月29日朝。T家の郵便受けに、26日の、自宅のある青崎から車で1時間半程度の距離にある、福山郵便局の消印が押された封書が投函されているのが見つかった。位置関係としては、N子さんの携帯電話が発する電波が最後に発見された呉駅と、郵便局最寄りの福山駅は、J R呉線〜J R山陽本線沿いに存在しており、車を使わずとも移動は比較的容易である。差出人の名前は見当たらなかったが、ワープロ、またはP Cを用いて、
「私もやっと妻子と別れ、はれてN子と一緒になることが出来ました。ふたりを探さないで下さい」
そう記された手紙が封入されていた。
9月30日、S郎さん達は手紙とマンションの防犯カメラ映像を広島市東警察署に提供し、事件としての捜査を再度訴えた。手紙に若干不審な点(封筒に折り直し痕と変形)があった事を理由に(親族の件で警察への相談歴があった事も関係しているかもしれない)、警察は現場検証を行いはしたものの、争った形跡を発見出来なかった事から、結局事件化される事はなく、本格的な捜査が行われる事はなかった。
それから約4年後の2005年11月、T V朝日系の公開捜査番組「奇跡の扉 T Vのチカラ」にてN子さんの失踪事件が取り上げられた。その時点で、夫のS郎さんはN子さんとの再会が叶わぬまま既に死去しており、番組にはN子さんの実兄Tさんが出演している。
番組内では、N子さんが夫S郎さんの親族(兄弟)から、義母が相続した一家の財産の取扱いについて「殺す」と脅迫されていた事、防犯カメラの映像に残された人物がその脅迫者に似ている事。その人物に局として取材を申し入れたが、応じては貰えなかった事を暗示。N子さんの体をどのようにマンション外に運び出したのかという検証がなされ「限りなく殺人事件に近い」という友人達の主張に沿った番組構成となっている。
しかし、視聴者からの情報提供としては、手紙にあったような不倫を匂わせるような広島の観光名所、宮島での目撃情報、兵庫県でN子さんと一緒に働いているという人物からの、自発的失踪を示唆する情報も寄せられている(情報の裏は取れていない)。
番組スタッフは、改めて広島市東警察署へ取材結果を提供、事件としての捜査を依頼したようではあるが、その意見が容れられる事はやはりなかった。 その後、何らかの事実が公表される事はなく、2010年2月、実兄Tさんにより前年申し立てがされていた、N子さんの失踪宣告審判が確定している。
手がかりとその検討
N子さんについて
N子さんは1951年生、この年代生まれの女性として、1988年(当時36歳)で初婚というのは少々珍しいのではないかと感じるが、それ以前の婚姻歴、職歴、学歴等は公表されていない。T V番組で若い頃の写真が取り上げられた際には感嘆の声が上がる程の美貌の持ち主であった。
幼い頃から心臓病を抱えていたとも考えられるが、写真等を見るに、行動に大きな制限があった様子は伺えず、服薬が欠かせなかったという情報も出ていない。失踪当時も一人暮らしが出来ており、隣室の義母の介護、夫の入院生活のサポート、8人の友人達との交際も維持できている等、日常生活への支障も見当たらないが、マンションでは必ずエレベーターを用いていたという。
尤も、健康な人間でも階段の昇り降りは億劫になりがちなものであり、マンションは5階建てであり待ち時間もそう長くはなかったと思われる為、健康上エレベーターの利用が必須であったかどうかは不明である。
賃貸マンションの3階に居を構えている事からは、階段の使用(少なくとも下降)がまったく不可能な程の病状であったとは考えにくい。非常時にはエレベーターは使えず、徒歩での避難が必要になるだろうからである。また、乳がん、咽頭がんの既往歴もあるとされるが、年齢や生活ぶりからすると、治療中というよりは、治療終了後の観察期間である可能性が高い。
T家の事情について
前述の『概要』で述べた通り、当時T家は遺産相続についての軋轢を抱えていた。とは言え標的になっていたのは相続人になる夫のS郎さんではなくその妻のN子さんであったようであり、マンションに押し掛けられ、玄関ドアを蹴られる、「殺すぞ」等の罵声を浴びせられる等の嫌がらせを受け警察を呼んだ事もあったという。T V番組内では、N子さんの消息を最後に確認した友人Aさんが、失踪の約2ヶ月前、マンション自室前でN子さんと共に、親族男性に実際に詰め寄られた事を証言している。
こういった事情はN子さんの実家でも把握しており、娘を心配した父親は(恐らく、いつでも逃げ出して当面の生活が成り立つよう)Nさん名義の通帳に一千万円を振り込み贈与していた(失踪後、この口座に動きはないという)。N子さん側の人々は、あわよくばこの一千万円も親族男性が狙っていたのではないかと疑っているが、常識的に考えて夫のS郎さんはともかく、親族男性にこの情報を与えていたとは考えられず、諍いの原因はマンション隣室の義母の処遇など、どちらかと言えば感情的なものであった可能性が高い。例えば、なぜ同居して世話をしないのか(賃貸マンションで別生計では遺産の減りも急速であろう事も含む)といった事である。
失踪当日について
失踪当日のマンション内における不審点は、まず義母の車イスの移動が挙げられる。義母宅前に置かれていた車イスを持ち出し、N子さんを連れ去ろうと考えた後に、階段で車イスを使うのは無理があると気づき、かといってエレベーター内には監視カメラがあることを思い出して使用を諦めたのだとすると、連れ去りは計画的なものではなかったことが推測できる。
しかし、そもそも連れ去りには、N子さん自身の意思で玄関ドアを開けさせる必要があり、それが穏便に可能な人物であれば、マンション外の自分の車や、息のかかった施設等へ彼女を呼び出す事も可能なのではないかと思われる。N子さんが監視カメラに単独で写ることまで忌避する理由は見つからないし、少なくとも、N子さんが一人でいる時に、普段から不仲である相手に自らドアを開けるとは思われない。
不運にも外出の為ドアを開けた瞬間に押し入られたとも考えられるが、そのような意図の侵入であっても、連れ去りの必要性を見出す事は難しい。その場で脅して金品を奪うなり、何らかの念書にサインさせる等で事足りるはずだからである。
仮にその場で死亡、昏倒させてしまった場合であっても、連れ去るよりはその場に残して指紋などの証拠を隠滅して逃走するなり、救急センターへの通報を行なおうという判断に至る方が自然である。人間は急な判断を迫られた際には、最も手数の少ない行動を取りがちであるという。
連れ去りは考えにくいとすると、少なくともマンション外に出たのはN子さん本人の意思である可能性が高い。しかし、子供がいない事、夫や自分自身の健康問題、義母の介護、夫の親族とのトラブル等自発的失踪に至る理由は十分にあると言って良い状況であるが、友人Aさんとの約束をしたその日に敢えて決行するとは思われない。すぐさま何らかの捜索活動が始まってしまう事が容易に想像できるからである。
広島県安芸郡府中町主婦失踪事件 真相考察
N子さんはその日、夫の入院先へ荷物を運ぶ為に、義母の車イスを台車がわりに借りようと考えた。幸いその日は友人Aさんが一緒であるし、エレベーターで1階まで運べばその後は車に乗せてもらう事もできる。そこで隣室から車イスを持ち出して自宅玄関前に広げ、自室に荷物を取りに戻ろうとバッグから鍵を取り出すと、内階段の方向からこちらへやってくる人の気配がする。
嫌な予感がし、それは的中した。N子さんは非常階段の方向へ逃げ、携帯電話でAさんに助けを求めようとした。しかし運転中のAさんは電話に出ることができなかった。何とか非常階段を降りている途中でAさんから電話がかかってきたものの、恐怖と胸の苦しさから意味のある声が出せず、勿論、大声を出す事もできず電話やその場で助けを求めるのは諦めた。もう近くにAさんが来ているのかもしれないが、また身内のゴタゴタで怖い思いをさせてしまうのも憚られた。
一方、追跡側はN子さんの追跡を早々に諦めていた。十分に怖い思いはさせたし、何やら携帯電話で話をしていたようでもある。助けに誰かを呼んだかもしれない。持ち主に不便があってはならないと、車イスを畳んで隣室の定位置へ戻す。
人心地ついたN子さんは、これからどうしたら良いのか思案した。あの部屋に戻るか、電話でAさんか夫に助けを求めるか、実家に帰ってしまうか――それでも、あの人との縁が簡単に切れるわけではない。
ふと、バッグの中に見舞金25万円があることを思い出した。その気になれば父親がくれた一千万円があることも。平気なふりをして日常に帰ったとしても、見通しの立たない未来しかないのであれば、いっその事――。
暫しの逡巡の後、N子さんは、最寄り駅である呉線向洋駅に向かって歩き始めた。
2000年台初頭の失踪者は、届け出があったものだけでも年に10万人近く、狭い日本の中であっても、その全ての行方が判明しているわけではない。
また、比較的近年の傾向になるが、家庭内不和による失踪は、認知症によるものに次いで2番目に多いという。
警察庁HP:令和3年における行方不明者の状況平(成29年-令和3年の原因・動機別)から作成(原因・動機は、行方不明者届受理時に届出人から申出のあったものを計上)
N子さんは失踪前には命に関わる重病の既往歴から、医療機関へのアクセスの必要性が高かったとされ、一般的には、それが困難になる失踪者の道を自ら選ぶことはありえないと見做されている。
しかし、先が見えている(少なくとも、そう考えている)のであれば、逆に思い切って、短期間であっても、不自由な病院通いや人間関係のシガラミから解放されたいと望むかもしれないし、それを止める方が残酷な事であるのかもしれない。家族や友人達は自分の事を心配していると分かっていたとしても、いや、だからこそ自ら背を向けた事を伝える事が出来なかったと説明することができる。
数日後に投函されたワープロ打ちの手紙もN子さん自身によるものと考える方が自然である。失踪から投函までの期間が短すぎる上、実際には夫S郎さんの死去までは婚姻関係が成立し続けていたわけで「はれて一緒になって」いると表現するのは無理がある。また、これを送ることで、N子さん以外の誰かの利益になるわけでもない。
仮に、何者か、特に本物の不倫相手がいたとして、N子さんを生きたまま連れ去ったとした場合、このようなぼんやりした手紙ではなく離婚届を書いて(書かせて)同封するであろうし、万が一死亡させていた場合には、犯罪の物証になりかねない余計なものを送りつけるとは益々考えにくい。
社会問題としての「孤独死」は、憐れみの目を向けられつつも自業自得であるとして後ろ指を差されるが、後始末をしてくれる縁者に囲まれて、病院のベッドから去る時が来たとしても、その時は結局一人であり、それは「孤独」な死ではない事を必ずしも保証しない。
N子さんの失踪について、真相は一つなのであろうが、この考察がその幾許かに辿り着いているかといえば正直その自信はない。 それでもN子さんが現在「孤独」ではないこと、できれば「自由」で「安心」できる居場所を手に入れている事を、切に願っている。
★参考資料
・N子さん実兄の友人のHP「友人の妹さんの行方を探しています」(ウェイバックマシンによるデジタルアーカイブ)
・T V朝日系『奇跡の扉 T Vのチカラ』WEBサイト「SOS−114 50歳妻が謎失踪」(同上)
・TV朝日系『奇跡の扉 T Vのチカラ』2005年11月
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