佐世保中学生失踪 事件概要
1969年2月23日(日)14時頃、長崎県佐世保市に住む中学2年生H・Sさん(当時14歳男性・以下Hさん)は、自宅の縁側で取り組んでいた工作の手を止めると、「玉屋デパートまで工作の材料を買いに行く」と家族に言い残し、制服と制帽といういでたちで家を出た。玉屋デパートは佐世保市栄町にあり、S家からは歩いて20分程の距離がある。その際工作の道具は縁側に広げられたままであった。
発生年月日 | 1969(昭和44)年2月23日(日)14時頃 |
発生場所 | 長崎県佐世保市 |
事件内容 | 行方不明/失踪事件 |
失踪人(行方不明者) | 当時佐世保市在住の14歳中学生 |
失踪宣告 | 1992(平成4)年7月初旬 |
同じ日の18時台、S家近所の商店には、S家の場所を尋ねる者の訪問が二度あった。
一度目は3人組。二度目は制帽を手にした小柄な青年だった。青年のほうはその後18時30分頃、実際にS家を訪れている。青年はYと名乗り、応対したHさんの母親S子さんに制帽を見せた。
それは確かにHさんの持ち物だった。そしてYさんは告げた。
遡ること3時間前の同日15時30分頃。長崎地裁佐世保支部付近の道路で、溝に嵌まった90ccバイクを二人で引き上げようとしている少年たち(中学生と18歳位の二人組)に遭遇した。
(前略)中学生ら3人組に、現金46万5千円を内ポケットに入れたジャンパーを盗まれた(後略)
長崎新聞 1969(昭和44)年2月25日付
手伝いを頼まれたので、内ポケットに先述の現金が入ったジャンパーを脱ぎ、バイクを持ち上げている隙に二人組はジャンパーを奪って逃走した。自分は中学生が尻のポケットに挟んでいた制帽を掴み取ったものの、結局は逃げられた。バイクのある場所に戻ると、ハタチくらいの男がそのバイクに乗って走り去るところだった。制帽の名札からS家を特定して訪ねてきたのだ。と更にYさんは語った。
悪い友達にさそわれて、人のお金をとりました
家族は驚き、Hさんの通う中学校の教員たちに相談、共に心当たりを捜したが、Hさんを見つけることは出来ず、その日の22時頃にYさんと共に佐世保署に通報、家出人捜索願いも同時に提出した。
翌日24日から、警察は捜査員50人を動員して付近の住人や知人への聞き込み、警察犬を導入しての山狩り、周辺地域の旅館宿泊者確認等の捜査を開始したが、失踪当日の14時30分頃、名切バス停(S家最寄りと思われる現名切町バス停か)と、松浦バス停(S家から徒歩20〜30分程度の距離にある松浦町内のバス停のいずれかであろうか)で、バスを待っているHさんを見たという同級生の目撃証言、同じく同級生二人からの「失踪前日の22日、Hさんが家出したいと話していた」という証言以外の手がかりは得られなかった。
また、Hさんらに現金を奪われたというYさんの証言に辻褄の合わない所があるとして、事情聴取をしている。
同日14時頃。S家の郵便受けに、Hさんの父親宛ての一通の手紙が届けられた。それは消印から、前日の18時頃までには佐世保郵便局管内のポストに投函された事が判明しており、筆跡もHさんのものであることを家族が証言している(朝日新聞によると、警察の鑑定でも裏づけられたという)。
前略 心配かけてすみません 悪い友達にさそわれて 人のお金をとりました 中には四十万以上も入っていましたが、僕は少ししかもらっていません 学校の方は僕の気持ちがおさまるまで 病欠にしていてください すぐに帰っておわびいたします どうか探さないでください H(名前・かな書き・書き損じあり)
出典:朝日新聞夕刊のコラム「人間蒸発>5<」朝日新聞1973年11月6日付
26日午後から、捜査は公開捜査となり、Hさんの失踪はTVや新聞で周知された。母親S子さんは「Hが悪事を働いたなどとは信じられないが、もし悪い事をしていたとしても帰ってきて欲しい。皆心配している。せめて連絡だけでも欲しい」と地方紙(長崎新聞)上でHさんへ呼びかけている。
警察は、その後も家出、監禁の両面から捜査を続けたものの、新たな手がかりの発見はおろか目撃情報の1件さえ寄せられる事はなかった。
S家は1年後、他県へ転居していった。Hさんはその土地を知らないという。 時は流れ、1992年7月、母親S子さんが申立人となり、Hさんの失踪宣告審判が確定している。
佐世保中学生失踪事件 手がかりとその検討
Hさん
Hさんは近隣の公立中学校に通うS家の三男(朝日新聞によると4人きょうだいの次男)で、失踪当時には少なくとも両親、きょうだい2人、縁戚と思われる女性(兄嫁ともされるが不明)の5人と同居していた。家族との関係について直接の情報は無いが、父親も数日仕事を休んでHさんの捜索に加わり、母親は家で連日、炬燵や室内の明かりを付けっ放しでHさんの帰りを待っていると語る等、あからさまな冷淡さは感じられない。
とはいえ、一家が失踪後1年で他県へ転居してしまった事に対して、何らかの事情を見出そうとする者は多い。恐らく当時S家には固定電話が設置されておらず、郵便物が届かなくなれば簡便な連絡手段はほぼない。
父親Sさんの職業は海上保安官で当時52歳、母親S子さんは45歳。母親は長崎新聞の取材に応えて、(Hさんを)善悪の見極めがつくよう育ててきた事。父親が取締り関係の仕事をしており、家から悪い人を出してはならないと言い聞かせてきたので、現金強奪のような悪事を働くとは信じられない事。工作の道具を広げたまま外出したのだから、家出にしろ犯罪にしろ、計画的なものとは考えられないという事を語っている。しかし、後に、工作の材料は全て学校から支給されており、自前で購入する必要はなかったことが判明している。
学校では学級委員(朝日新聞では風紀委員とも)をつとめるほどの真面目な生徒で、成績も悪くはなかった。補導歴や外泊もなく、教師や級友からの信頼も厚かったという。ただし、<概要>で述べた通り、具体的な理由は不明ながら「家出したい」と語っていたとの証言がある。 少ない情報の中からでも、Hさんが真面目な性格であることは、日曜日に外出する際に当然のように制服制帽を着用している事から察せられる。たとえ校則でそのように決められていたとしても、唯々諾々と従う者ばかりではなかっただろう。
Hさんからの手紙
失踪翌日にS家に届いた手紙については、不審な点がいくつも指摘されている。
「前略」は中学生が手紙で使うような語彙ではなく、Hさんが手紙で使うのも見た事がないこと。それでいて署名はひらがなで書かれており、しかも書き損じがある事(Hさんは普段、手紙の署名には漢字の名前を用いていたという)。
文字が便箋の罫線を外れて歪んでいること(新聞記者たちは、脅され、無理矢理書かされたのではないかという印象を持ったようだ)。
仮に現金強奪事件を起こした後に書いたとして、封緘してポストへ投函するまで多めに見積もっても三時間程度しか無いにも関わらず、誤字脱字や支離滅裂な部分もほぼなく整っていること。
筆者の印象としては、伝えるべき事を過不足なくまとめており、あらかじめ練っておいた文面を見ながら一気に書き上げたかのように、筆圧も文字の大きさも一定に見える。
「前略」はいくらか背伸びしたのかもしれないが、結語は失念しており、単語の選び方も全体的に年齢相応で、大人の助言があるようには見えない。また、書き手の緊張は少なからず感じるものの、怯えとまで言えるかどうか。
便箋の罫線から逸脱している点については、Hさんの書いた他の手紙と比べてみないとなんとも言えない所である。
便箋の罫線が薄い場合はガイドラインとしてのみ使い、文字の大きさと配置のバランスを優先する書き手はそれなりに居るように思う。 署名のひらがな表記と書き損じについては、確かに訝しいところがある。普段から名前を漢字表記していれば、ひらがなで署名しようという発想にはなりにくいし、疲れて集中力が切れたのだとしても、Hさんの名前の漢字は決して画数の多いものではなく、ひらがなでの記入は手間が多いくらいである。封入時に署名もれに気づいた、Hさんの名前の漢字表記を知らない何者かが、上手く筆跡を真似て記入した可能性はある。
Yさん
Yさんは当時24歳、Tデパート付近のクリーニング店で住み込み店員として働く既婚者で、現金強奪事件の4ヶ月程前に2年間の少年院暮らしを終えたばかりという。
HさんやS家との面識はないが、実家も近隣にあるようで佐世保署の捜査に協力している。
しかし、数年後に奈良県で朝日新聞の取材を受けたYさんは関西弁を話しており、生まれも育ちも佐世保かどうかは不明である。
現金強奪事件
現在では、Hさんらに現金を奪われたというYさんの訴えは信用できないものとみなされている。
Hさんの失踪当初こそ、翌日に届いた手紙の内容との符合もあり、Yさんの証言に沿った捜査が行われたが、日曜日の官公庁街とはいえ決して人通りの少ない通りではないにもかかわらず、事件の他の目撃者が現れなかった事。バイクが溝に嵌った痕跡もなく、Hさん以外の犯人も、服装以外は不明でありバイクのナンバーも覚えていない事。奪われたジャンパーを、Yさんの家族も見た覚えがないと証言しているともなれば仕方ない事だろう。
さらに現金の出所の不審さがあった。少年院出所後4ヶ月でそれだけの貯金をするのは困難と考えられた。厚生労働省による統計では、1969年の大卒初任給は3万4千百円。同時期の長崎新聞掲載の求人情報では月給2万円台も珍しくない。
現金は少年院入所前からのもので実家の床下に埋めていた。(家族はそんな金は知らないと証言しているが)その日は金を銀行に預けるつもりだったとYさんは語ったが、当日は日曜日であり、当時としても金融機関の休業日である。Yさんは銀行が開いてない事に途中で気づいて、帰る途中で事件に遭ったのだと答えている。
朝日新聞の記事
この失踪事件の知名度を全国規模に押し上げたのは、1973年11月6日の朝日新聞夕刊のコラム「人間蒸発>5<」に依るところが大きい。
事件当時にリアルタイムで報道した長崎新聞の記事とは情報に細かな差異があるが、これが取材による訂正情報なのか、5年近い時間経過によるものかは不明である。
尤も、夕刊のコラム記事に、報道としての正確さを過大に期待してはならないのかも知れない。
この記事で注目すべきはYさんについての追加情報、特にインタビューであろう。
Yさんは事件後間もなく佐世保市を去り、トラック運転手として働き二児の父となっていた事。任意でポリグラフ(いわゆるウソ発見器)にかけられる等の厳しい取調べを受けたが、関与の決め手が出なかった事。奪われた多額の現金の出所についての質問には、言えないような金ではなく、(恐らく、警察にも明らかに出来なかった事実を、新聞記者があっさり突き止めてしまうのは)警察のメンツが立たないので教えるのが憚られる事。何故ジャンパーに現金が入れられている事を少年たちが気づいたのかという質問には、不思議やな、外からは見えないのに、とYさんはあくまで現金強奪事件の単なる被害者としてのスタンスを崩さず答えている。
最後に記者は、Hさんの身長がどの位だったかと問うており、Yさんは「自分と同じか、少し大きいくらい」と答えている。Yさんは小柄と言われてはいるが、トラック運転手は荷物の扱いも必要となる事から、160cm程度はあるものと考えて良いだろう。
一方失踪当時のHさんの身長は長崎新聞の記事では163cm、朝日新聞では168cmとしている。この質問で恐らく記者は、Yさんは実際にはHさんに会っていないのではないかと(即ち現金強奪事件も無かったのでは?)暗示しているが、短時間同じ空間にいただけの初対面の(少なくともその設定の)相手と、自分との身長差を正確に答えられる方が不自然であり、少し大きいくらいという認識の方が普通であるように思う。そもそも163cmという公開捜査当時の情報より、朝日新聞の記事で初めて現れた168cmという情報は少々信用性が低い。
時代背景
1969年の教育現場は荒れている。最高学府・東京大学が全国規模の大学闘争の一環で封鎖され、連日新聞の紙面を飾っていた。
また、高校生以下の若年層では、戦後の混乱による貧困要因による少年犯罪が経済成長によって沈静化したのも束の間、遊ぶ金欲しさのひったくり等、享楽的な非行が増加傾向にあった。
特に春先は、環境の変化も手伝って、中学・高校生の家出が例年急増するという。1969年3月13日長崎新聞(佐世保版)では、その原因を分析して、世間で若い労働者(いわゆる「金の卵」)の人手不足が発生しており、多少年齢や身元が怪しくても、住み込み仕事にありつけてしまうのも要因の一つであるとしている。
1969年の学校基本調査によると、中卒者の就職率は18.7%。年々減少の一途を辿っているにも関わらず、中卒者への求人数は増加傾向であり、この年は最大で求人倍率20%という売り手市場となりミスマッチが発生している。「買い手」にとっては人がいなくては生産ラインが動かないという死活問題であり、家族へ、学校へカネを積むといった「ブラック」な求人作戦も行われていたという。
佐世保中学生失踪事件 真相考察
Hさんは、これから自分が目指すと期待されている高等教育機関に嫌気が差していた。合格できるのか、良い学校に入れるのかという不安も当然あったが、何より、高校生や上級生、同年代の堕落した非行少年少女たち、最高学府に身を置きながら、勉学もせず思想闘争にうつつを抜かす大学生たち。あんな連中と一緒になりたくない、自分は一刻も早く自立した大人になりたい。すぐにでも働いて、自分の食い扶持は自分で稼ぎたい。
そんな、ある意味「真面目すぎる」少年に近づく悪い大人たちがいた。彼らと出会わなければ、遠からずHさんも事を荒立てずに、理想と現実の落とし所を見つけたかも知れない。しかし彼らはHさんに囁いた。自分は良い働き口を紹介できる。君のように真面目で、しかも独立心に富んだ若い労働者を、世の中は求めているのだと。
1969年2月23日、その日は「面接」の日と決められていた。二度と帰れないとは知らず、帰ったら工作の続きをするつもりで、バスで指定の場所に向かうと、既に「仕事」の紹介者であるYさんがいた。Yさんとは街で遊んでいる際に偶然知り合った。実家を出て住み込みで働いていると聞き、自分も家を出て働きたいと言うと、良い所を知っていると言う。
実は、Yさんは少年院でいわゆる「手配師」とのコネを得ていた。家出少年を本州の工場に紹介すればカネになると「手配師」は言っていた。誰か良い子がいないかとも。だから自分も一枚噛んでみようと思った。しかし「手配師」から貰える報酬など小遣い程度だと知っていたYさんは一計を案じた。逃亡の抑止にもなり、あわよくば少年の家族から口止め料を取れるかも知れない一石二鳥の作戦である。
唐突に、YさんはHさんに仕事の紹介料を要求した。50万円は中学生の小遣いで支払える額ではない。そう言うとHさんの家族から貰うと言う。なに、50万全部取ろうなんて言ってない。ほんの少しだけだから。家族に悪いと思うならこれから一生懸命働いていくらでも返済できる。今しかない、こんな機会は二度とないと宥めすかされて判断力を失ったHさんは、ついにあの「手紙」を書いてしまった。
ほどなくして「手配師」の一味が現れ、そのうち3人はHさんの「身元調査」のために、YさんはHさんから受け取った手紙と制帽を手に、ありもしない現金強奪事件でS家から金銭をせしめる為にS家へと向かった。「手配師」らはその日のうちにHさんを車に乗せ、県外へと去った。こうしてHさんは姿を消した。
上記の内容にはかなりの創作を含めているが、失踪当日〜翌日までの展開の速さや、手紙の内容と現金強奪事件の符合が、二人で打ち合わせなければ成立しないものである以上、Hさんが自発的失踪(家出)を果たしたこと、それをYさんが手伝ったものである可能性は高いとみている。警察が疑ったような誘拐、監禁をしたわけでもなく、奪われた現金も架空のものであったのであれば、事件の目撃者や痕跡が見つからなかった事も、恐らく誘拐、殺人等凶悪犯罪を想定した質問で構成されていたであろうポリグラフ検査を突破した事、Yさんの一貫した不敵な言動も説明が可能になる。家出自体は当初から疑われていたが、非行としての家出ではなく、真面目に自活手段を考えた末の「就職」であったのであれば、この時期の売り手市場のこと、就職先が便宜を図り、迅速に就業先への移動手段を提供し、その結果、失踪翌日から県内での目撃情報が全く出なくなった事にも頷ける。 ただ、工作道具を縁側に広げたままであった点、荷造りの形跡等に言及されていない点からは、その日が決行日であることをHさんが知らされていなかった事を意味している。それも、考える時間を与えることによる心変わりや、家族に荷造りを見咎められて引き留められるリスクを減らすための手口なのかも知れない。
すぐに帰っておわびいたします
朝日新聞夕刊のコラム「人間蒸発>5<」朝日新聞1973年11月6日付
それから、既に50年以上の年月が経ってしまった。
ついに帰ってきたとしても、我々が真実を知ることはないのだろうが、それでもいつの日にか――できれば近いうちに――Hさん本人によって失踪宣告の取消しが申立てられる事を、願わずにはいられない。
★参考文献
長崎新聞 1969年2月25日付など
夕刊のコラム「人間蒸発>5<」朝日新聞1973年11月6日
未解決事件・行方不明・失踪事件(事案)考察シリーズ