静岡県伊東市7歳男児失踪事件(鈴木俊之くん行方不明事件)

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1965年7月3日(土曜日)、静岡県伊東市の海岸沿いに広がる半農半漁の集落、初津(はづ)在住の小学2年生、当時7歳の鈴木俊之(としゆき)くん(以下、俊之くん)は、土曜日の授業を終えて下校後、自宅で母親のYさん、1歳7ヶ月の弟と昼食を摂り、午後は外に遊びに出た。

事件概要

静岡県伊東市7歳男児失踪事件(鈴木俊之くん行方不明事件)の事件概要について述べていこう。

帰らなかった少年

当初、俊之くんは釣りに行きたがったといわれているが、Yさんに止められ、最終的には「虫取りに行く」と、『茶アメの箱』を携えて外出したという。

『茶アメ』とは、静岡県の特産であるお茶を材料にした飴で、主に贈答用であり容器の小箱には竹の皮を模した模様や『茶』の文字が印刷されていた。

大きさはほぼハガキ大。深さ7cm程度の蓋のある木箱であり、子供たちの間では、虫取りで捕らえたカブト虫等をその箱で飼育するのが流行していた。その日の俊之くんの足取りには何件かの目撃情報が上がった。

流行の茶アメの箱を持ち歩く少年が複数いた為の人違いや、何度目の外出で俊之くんを見かけたのか時間帯の記憶が曖昧な目撃者もあり、新聞報道は二転三転したが、最終的に、15時台には初津の海岸で、同級生R子ちゃんの持つ網を借りて魚をすくって遊び、16時頃には、当初の目的であった虫取りに向かったというのが確かであろうと目された。

最終目撃地点周辺のgoogleストリートビュー、2023年6月撮影。線路の向こうに初津山が広がっている。1965年当時からみかん等の果樹を栽培しており農道が敷かれていた。

地元の子供たちが虫取り場として認知している初津山へ通じる山道入り口に近い、俊之くんの自宅からは500mほど南の大松バス停付近で、16時半頃に俊之くんと実際に会話した、近隣住民の中学2年生、T夫くんが最後の目撃情報を証言している。

その際、T夫くんは自分が捕まえ、付近の自宅で飼育していたカブト虫を俊之くんに分けてあげたが、俊之くんは尚も「カブト虫を捕りに行こう」と誘ってきたという。その前には別の年長の少年にも同じ誘いをして断られていたという情報もある。T夫くんは家の手伝いをする約束があったようで、虫取りへの誘いを断ったという。

俊之くんが、年長の少年たちを執拗に虫取りに誘うのは、一人で山に入る事を母親から禁じられていたからとも、山中でカブト虫が集まるクヌギの木には、彼ら年長の少年たちが各々の『縄張り』を持っており、無断では捕獲出来ない不文律があったからとも言われている。

俊之くんが山に入って行ったという直接の目撃情報はない。山道沿いの住民で、敷地内に人が近づくと盛んに吠える番犬を4頭も飼育していたK野さんは、その時間帯に吠え声は聞いていないと証言している。

初津山はクヌギの群生地まで約30分、更に20分も歩けば山道も尽き、7歳の子供に、その先の道なき藪の中に踏み込む体力が残っているとは思われず、下山せざるを得ないだろうと考えられた。

俊之くん自身も、活発な性格ではあるが、時間を忘れて夢中で遊び回るような子供ではなく、遊びながら、何度も自宅にオヤツや、駄菓子を購入する為のお小遣いをもらいに戻るような所があったという。また、山麓には野犬が徘徊しており、住民の飼い犬が追い込まれて噛み殺されるという惨事も起きていた。

<初津関係先地図>本文に合わせて地図中の一部名称を変更した。出典:『第二の吉展ちゃん事件?ナゾに包まれる俊之クンの失踪』週刊読売1965年7月25日号18ページ

夏場で日が長いとしても、ライト等の装備もなく17時近くから単独で、凶暴な野犬のいる山中に踏み込むには、地元住民であれば相当な心理的抵抗感がありそうである。

とは言え、子供の心身や行動に関しては予断を許さない面もあり、3日夜に俊之くんの父親Tさんから捜索願いを受けた警察はT夫くんの証言を重視。地元住民と共に捜索隊を結成し、翌朝から本格的に山に入った。一方で虫取りを諦めて、再び海岸へ戻って遊んだ可能性も否定出来ない事から、水辺の捜索も並行して行われた。

女からの怪電話

事態を複雑にしたのは3件の不審な電話であった。

1件目は7月5日12時45分過ぎ、俊之くん一家が暮らすアパートと似た名称の貸し間『カスガホーム』にかけられた電話であった。電話番の老齢女性Kさんが受話器を取ると、女の声が言った。

――お宅の近所で子供がいなくなったそうですが本当ですか、それに間違いありませんね――

このように問いかけてきた。Kさんがそうだ」と答えると電話は切れ、Kさんはすぐに警察に通報した。通話中、背景には子供の声が聞こえたともいわれている。

2件目は同じ7月5日の13時頃というから、同じ人物が1件目の終話後に間髪入れずかけたと考えるのが自然であろう。俊之くんの親戚で、近所で酒、雑貨を扱う『A山酒店』で、A山さんの長女で店番をしていたM子さんが電話を取ると、やはり女の声で、

――お宅の近くで、子供がいなくなりましたか――

「ええ、すぐそばです」

と、ほぼ同内容のやりとりがあった後、女の声は驚くべき内容を続けた。

――ボクが誘拐した。今日午後3時、熱海駅1番線ホームで……――

M子さんは驚いて受話器を投げ出し、外で俊之くんを捜索していた消防団員を捕まえてその旨を告げたが、消防団員が出た時、既に通話は切れていた。

伊東署は通報を受け、近隣の派出所に誘拐事件として捜査本部を設置、俊之くんの親戚で市役所勤務のOさんに警察官2人を付き添わせ、指定時間の30分前から熱海駅の1番線ホームで待機。犯人からの接触を待ったが、それらしき人物の姿は見えず、16時過ぎには引き上げた。

3件目も同じ7月5日の13時30分過ぎ、俊之くんの父親Tさんの勤め先である『Y旅館』にかけられた。経営者の母親で、電話番をしていたMさんが電話に出ると、やはり女性の声であり、内容はTさんの在席を確認するものであった。Mさんが、Tさんは家で不幸があり休みをとっている事を告げると、すぐに電話は切れてしまった。

実はもう1件、一連の怪電話の翌日である6日の朝9時過ぎ、俊之くん宅の近所の鮮魚店に、不審な女が電話をかけてきたという通報があった。4歳の子供が電話に出てしまい、「なーに?トシちゃん?」と答えたように聞こえた為、行方不明になっている俊之くんが電話を掛けてきたのではと、側にいた祖母が慌てて電話を代わった所、既に切電されていたというものであった。

この件は、後に伊東市在住の主婦が、鮮魚店の近所に住む知人タツオさんに用事があり、呼び出してもらおうと電話したが小さな子供が出、会話も要領を得なかった為に切ってしまったのだという事が分かっている。

新聞報道では、4歳の子供が発した声は「タァーちゃん?」(恐らくは「タツオさんを呼び出してください」への返答)であったという。それが、俊之くんを心配していた家人には「なーに?トシちゃん?」と聞こえてしまったという事なのだろう。

確実に不審である3件の電話の主は、いずれも若くはない女性の声で、それぞれの受電者が話し方等から受けた印象から、同一人物、しかも言葉の訛りからは地元の住民か、生育歴がある可能性が浮上したが、同じ所に二度電話がかかる事はなかった為、警察が仕掛けたテープレコーダーは女の声を記録する事が出来なかった。

尚、俊之くんの失踪は1965年(昭和40年)の発生であり、個人宅に固定電話回線が当たり前に導入されている時代ではなく、俊之くんの自宅にも固定電話が設置されていなかった事もあり、次に電話がかかってくる先を特定するのは困難であった。

折しも、1963年に発生し、当時未解決であった村越吉展ちゃん誘拐殺人事件』の犯人で、後に死刑を執行される小原保が別件での収監中に吉展ちゃん事件への関与を供述、7月4日に逮捕されたというニュースが翌日5日の誌面を占め、世間は否応無しに痛ましい事件の記憶を呼び覚まされていた。

他に、警察の捜査や住民の情報提供で判明した点といえば、大松バス停付近にあった個人所有の別荘『大松荘』に侵入者があり、ベッドにはおもちゃの十手と口紅のついたバスタオル、台所には卵焼きや即席汁粉、プリン等を調理して食べた痕跡が残されていた件と、黒塗りの乗用車が俊之くんの自宅付近を徘徊していたという目撃情報がある。

前者は、侵入の痕跡が古く事件とは時期が合わず、また近隣では、使われていない別荘にカップルが無断で入り込み、ラブホテル代わりに使用するという事案が時々起きていた事、俊之くんが十手のおもちゃに夢中になるような子供ではないという関係者らの証言もあり、事件との関連があるかどうかは疑わしいとされた。

後者は近所の住民が、俊之くん一家が入居するアパートへと通じる枝道が伸びる国道135号線上を、7月5日の20時40分頃から21時30分頃までの短い間に三往復した、黒塗りの大型乗用車の挙動を怪しみ、監視の為に翌日午前2時まで国道脇に立ち続けたというものだった。後部座席の窓からは、女が身を乗り出すようにしてアパートの方を注視していたという。

女が関わっているという点は不審電話とも共通する為、事件との関わりがあるのではないかと思われたが、住民の証言では車両のナンバーや女の人相風体が明らかになっておらず、人物や車両の特定が出来なかったようである。

打ち切られた捜索活動

俊之くんの失踪は事件とも事故とも特定の決め手が見つからない日々が続いたが、可能性濃厚と考えられていた山中での事故を念頭に置いた、初津山の捜索は徹底したもので、8日に降雨があった後の10日の捜索時と悪条件ながら、5頭の警察犬も導入。

酷暑の中、警察官や地元の消防団員は言うまでもなく、実際に虫取りで出入りしていた小学生、中学生らに案内役を依頼し、学校単位で協力を申し出た高校生、主婦らを含む近隣住民を加えた延べ1万人以上が、俊之くんの失踪から連日、標高150mほどの初津山の山腹から、東西南北2km程の範囲を、熱中症で倒れる者も現れる中、ナタで藪を切り払いながらの懸命の捜索を続けた。

しかし約半月後、俊之くんの衣類や、唯一の所持品であったと考えられる茶アメの箱はおろか、足跡や滑落等の痕跡一つも発見することができないまま、「もはや探し尽くした」として捜索は打ち切られている。

その後は聞き込みや民家、物置、旅館、空き家等の検索が捜索の中心となった。機動隊を投入した追加での山中捜索も行われたが成果はみられず、捜査本部も次第に縮小。一年後には公開捜査となった。その際、この一年の間俊之くんの身の安全の為に伏せられていた、心無い嫌がらせの数々についても明かされた。

嫌がらせ行為は、見舞いの電話が脅迫と間違われてしまったという勘違いもあったが、三重県の海岸に流れ着いた「たすけて としゆき」と記された便箋が封入された瓶。大分県で投函された、小原保の妹を騙り身代金を福島まで持って来るよう要求するイタズラの手紙。果ては実刑を言い渡される程の悪質な脅迫にまで及び、捜査本部を悩ませたという。

その頃、週刊誌の取材に応えた母親Yさんは、心労でやつれ果ててはいたが、現在ではイタズラや脅迫の手紙さえ絶えてしまった事について、

「(俊之くんが)世間から忘れられてしまったのではないか」

「イタズラでも脅迫でもいいから、連絡が欲しい。もしかしたら万に一つの真実がその中に混じっているかもしれない」

と、苦しい胸の内を吐露している。

事件から60年近くが経過した2024年5月現在、俊之くんの失踪宣告は確認できないものの、静岡県警や伊東署でも俊之くんについての情報は収集しておらず、積極的な捜索活動はもはや行われていないようである。

手がかりとその検討

ここからは、静岡県伊東市7歳男児失踪事件(鈴木俊之くん行方不明事件)の手がかりとその検討を行う。

俊之くん一家について

俊之くんの一家は前述の通り、旅館に勤める父親Tさん、専業主婦の母親Yさんと俊之くん、俊之くんの弟の4人家族で、初津集落の二間のアパート『春日荘』に暮らしていた。

Tさんは当時、自宅からバスで30分程度の東松原町の、近年まで営業を続けていた温泉旅館『Y』にて、帳場主任(フロント係のリーダー格)として勤務していた。一家に恨まれる心あたりはなく、また容易に想像できるように、高額の身代金を即座に都合できる職業や役職でもない。伊東署の署長S氏も、「誘拐される理由が見つからない」とコメントしている。

実家や親族の経済状況までは不明であるが、捜索活動に両親や、一族が私財を投じた、あるいは身代金請求の矛先が向けられたという情報はない。

小原保等、後世の身代金誘拐犯に多大な影響を与えたといわれる、1963年公開の映画『天国と地獄』では、誘拐犯が誘拐対象の子供を間違えた事がストーリー上重要な要素であり、犯人は誘拐した住み込み従業員の子供を人質として、本命の資産家に身代金を要求する事になる。

この2年前の人気映画を模倣し、一般家庭の子供である俊之くんを誘拐。人質として、例えばY旅館の経営者のように俊之くん一家と縁があり、ある程度の現金を動かせそうだと目した人物に対して、身代金の要求を試みる者が現れたとしても不思議ではないように思えるが、実際にY旅館にかかってきたのは、俊之くんの父親Tさんが出勤しているか確認する電話だけであった。

不審な電話について

女の声による「ボクが誘拐した」に代表される不審な電話であるが、3本の電話が同一人物からのものであったとしても、本物の身代金誘拐犯がかけてきたとするには致命的な弱点を抱えている。交渉窓口の不在である。

村越吉展ちゃん誘拐事件の際に、犯人と家族との直接交渉が可能だったのは、村越家が建設業を営んでおり、電話帳等から電話番号にアクセスする事が容易かつ、自宅設置の固定電話を通じて対話が可能であったからである。

俊之くんの自宅には電話がなかったが、その場合には要求について指示できる窓口となる固定電話とその主である交渉役を選定するか、1963年に発生した『狭山事件』のように、文書(脅迫状)に切り替える必要がある。

警察を窓口とする策も無くはないだろうが、吉展ちゃん事件や狭山事件では犯人に出し抜かれ、その実力を侮られる余地があったとは言え、1本目の電話前の時点では、他の選択肢も存在し警察に知られずに交渉を進められる可能性すら存在した以上、初手から犯罪捜査の本職を相手にするのは少々大胆が過ぎるであろう。

カスガホーム、A山酒店、Y旅館のうち、カスガホーム以外は俊之くん一家と繋がりがあり交渉役になり得る。初回の電話でA山酒店の電話に出たM子さんは動揺して受話器を投げ出す等、交渉役として不適だと判断したのかもしれないが、家業上電話慣れしていたであろうY旅館のMさんに伝言を依頼する、あるいはMさん当人に、「熱海駅1番線ホーム」まで身代金を運搬させる事も可能であったように思われる。

尤も、上記の要求を効率的に実行して身代金要求を成立させる為には、前提が必要になる。事前にある程度調査しておくか、俊之くん自身から聞き出すかして一家と近隣との人間関係を把握しておくことである。

実際に交渉窓口たり得るかは電話口で判断するにしても、現地で調査するなり、俊之くんの身柄を確保してある程度の会話ができていたとするのであれば、最初の架電先が最も俊之くん一家との関係性が薄い『カスガホーム』になる事はまずあり得ない。

当時の新聞を調べると、俊之くん失踪の第一報は、1965年7月5日の『朝日新聞(静岡版)』であり、無関係の者であっても、静岡県内で朝日新聞を購読していれば、5日の早朝の時点で事件について知る事が可能だった事になる。

一方で、記事には俊之くん宅の完全な住所、アパート名(『春日荘アパート』)、父親Tさんの名前と職業(旅館従業員)が掲載されているが、俊之くんの親族が経営する『A山酒店』、父親の勤め先である『Y旅館』に関しての記載はなく、赤の他人が悪趣味な気晴らしの為に、ざっと電話帳を調べただけの段階で、3本の不審電話をその日の午後にかける事はほぼ不可能である。

1964年から1965年に発行された東海電気通信局(NTTの前身である電電公社の東海支局)発行の『静岡県電話番号簿』に『カスガホーム』の電話番号は掲載されていない。

1970年版の『ゼンリンの住宅地図・伊東市』では、『カスガホーム』に相当する建物の名称として『カスガアパート』の記載があり、静岡新聞の記事では『ホテルカスガ』と記載される等表記に揺れがある。

その為、恐らく不審電話の主は、父親Tさんの勤め先や親族が経営する酒店を知っており、電話帳に掲載されていない貸し間業『カスガホーム』の電話番号を知り得る立場にある一方で、俊之くん一家が貸し間のほうの『カスガ』の住人ではないことについては確信が持てない程度の関係性でもある事が見て取れる。

従って、ただ静岡県内に住んでいるというだけの、初津集落に全く土地勘がない人物からのイタズラ電話である可能性は限りなく低くはあるが、失踪当日やその翌日である7月4日までに事情を知り得る上に、俊之くん一家の自宅を正確に把握している近隣住民や、親族の中に電話の主がいる可能性も低い。

明確な確執こそなかったとしても、かねてから父親であるTさんに良からぬ感情を抱いていた(元)職場の関係者が、俊之くんの失踪を新聞報道で知り、吉展ちゃん事件の報道にも触発され、声を知られている自分でかけるのではなく、親しい女性等に命じ、誘拐を装ってかけさせた悪質なイタズラ電話である可能性が高いのではないだろうか。

誘拐という手段に訴える程に金銭を欲しているのであれば、身代金請求に執着してその後も接触を図ろうとする筈であるが、不審電話の主はそうはしていない。恐らくは3本目の電話でTさんが「身内に不幸があって仕事を休んでいる」事を確認し、その日の夜には女を乗せた車でTさんの自宅付近を徘徊、一家の身辺に迫る脅威を演出すると共に、自宅の様子を直接伺う事で満足したのだろう。

捜索活動について

初津山という名称は地元での通称であるようで、国土地理院の地図を見てもその名前は見当たらないが、初津集落の南西に175.8mの三角点がみられ、『週刊読売』に記述された「標高150mのだらだら山」という表現と概ね一致する。

山道沿いにはみかんの木が植えられた雑木林で、山奥の方にはクヌギの木が生育していた。

小学校高学年や中学生が気軽に入り込んで一人当たり20匹、30匹とカブト虫を捕獲し、立派なものには彼らの間で値段がついて、欲しい者は小遣いをはたいて購入する事もあったといわれている。

<捜索範囲(推定)>延べ一万人を超える捜索隊と警察犬が、初津山中の東西南北約2kmの範囲を、徹底的に捜索したという(地図中の円は半径1km)。出典:国土地理院地図から筆者が作成

虫捕りにはコツが必要であるといい、漫然とクヌギの木を探しても見つかるものではないようで、捜索隊は少年たちの案内を受け、カブト虫が隠れていそうな茂みやケモノ道にも分け入り、下草を刈り、様々な情報源から20ヶ所以上の発掘も行った。

しかし、山中である以上限界はあり、4年前の7月頃、同じ宇佐美地区の海抜30mほどの山中に自殺のために入り込んだとみられる40代女性を捜索した際にも、限られた範囲を徹底的に捜したにも関わらず、草や木の葉が枯れる11月まで遺体を発見する事が出来なかったのだという。

俊之くんは明るくハキハキとした人懐こい子供であるが、一方で「カブト虫に非常な執着を持っていた」といわれている。また、母親からは危険だからと海での遊びも山での遊びも禁じられており、その日は年長の少年たちにも虫取りへの同行を断られた事から、独立心に火がついてしまっていたかもしれない。

仮に俊之くんが、少しだけならと、禁じられた一人での虫捕りに挑んでしまった場合、年長の少年たちのように簡単にはカブト虫を発見することができず、見つからない焦りから奥へ奥へと踏み込んでしまう、あるいは捕獲の過程で山道を外れ、大人の背丈も越える薮の中に潜り込んでしまい、視界を失って山道に戻れなくなってしまうといったアクシデントに見舞われる可能性が高い。

真相考察

静岡県伊東市7歳男児失踪事件(鈴木俊之くん行方不明事件)の真相について考察していこう。

低山に潜む危険

「だらだら山」「いくら小さい子供でも遭難するような所ではない」といわれる初津山ではあるが、低い山には低い山にしかない危険が潜んでいるという。

  • 低い山には登山道が整備される事が少なく(登山者の目標にならない)、従って道標も作られず、地域住民の生活の場である事も多い為、各々がそれぞれの目標の場所までに必要な道をつけてしまい、不慣れな訪問者にとっては迷い路になってしまう。
  • 高山帯と違って木々や植物が密生しており、視界がきかない。
  • 時間が経過しても標高が低いままである為、温度や湿度が下がらず体力を消耗しやすい。
  • 「だらだら山」である為、初心者や子供でも遠くまで歩けてしまう。自覚に乏しいまま道迷いを起こしていた場合は、気がついた時には時間的、体力的に引き返せない地点まで踏み込んでしまっている危険性が高まる。
  • 低山だからと危機感を持ちにくく、装備や事前の情報収集等の心構えもつい疎かになりがちである。

等、低い山ならではの危険が存在する事が、識者から指摘されている。

中でも、「子供でも遠くまで歩けてしまう」点は、今回の失踪に関与している可能性が非常に高い。

子供の歩く速度が大人の半分としても、1時間もあれば、起伏のなだらかな山中では1km程度は移動できてしまう。俊之くんが17時頃に山に入ったとして、7月上旬の日没時間は約2時間後の19時頃である。山中はあっという間に暗くなり行動不能に陥るとは言え、道を見失った焦りや、野犬の気配に対する恐れから、薄暗くなった後もやみくもに歩き回り、早々に「東西南北2km」の捜索範囲から抜け出てしまった可能性が高いのではないだろうか。

「子供から目を離してはいけない」

そう言葉にするのは簡単であるが、それは実際にはほぼ不可能である。

むしろ「親の見ていないところ」が子供は大好きであり、また必要な刺激でもある。

時には肝を冷やし、また時には大人の目も手も借りず何事かを成し遂げたという秘密を胸に、優しい両親の待つ、安全な家に帰る毎日を糧として彼ら彼女らは成長する。

俊之くんも、恐らくはほんの少し早く山道を引き返す事ができていれば、いつもより遅い時間になって家族を心配させる事になったかも知れないが、無事に帰宅していつも通りの暮らしに戻り、いつしか虫取りへの情熱は忘れても、やがて大人になりカブト虫を目にとめた時には、初めて一人で山遊びをしたこの日の事を、懐かしく思い返す日が訪れた事だろう。


■参考資料
『朝日新聞(静岡版)』1965年7月5日−18日、20日、21日、23日、8月3日付
『朝日新聞』966年7月2日、10月22日付
『静岡新聞』(朝刊・夕刊)1965年7月6日−14日、16日−21日、8月2日付
『読売新聞』(朝刊・夕刊)1965年7月6日−10日、14日、8月22日、10月22日、1966年7月2日付 
『伊東市1970(ゼンリンの住宅地図)』 東海善隣出版社1970年3月発行
『静岡県電話番号簿』 東海電気通信局 1964年、1965年発行
『週刊平凡』1965年7月29日号 平凡出版
『週刊読売』1965年7月25日号、1966年3月18日号 読売新聞社


◆未成年者の行方不明事件(事案)考察


Tokume-WriterWebライター

投稿者プロフィール

兼業webライターです。ミニレッキス&ビセイインコと暮らすフルタイム事務員。得意分野は未解決事件、歴史、オカルト等。クラウドワークスID 4559565 DMでもご依頼可能です。

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