陽が傾き始め、景色が夜と入れ替わる逢魔時(おうまがとき)――1人の女児が忽然と消えた。
それは、魔物の仕業だろうか――人間の仕業だろうか――。
1983年に発生した未解決事件「宮城県川崎町女児失踪事件(渋谷美樹ちゃん行方不明事件)」について考察していこう。
事件概要
1983年(昭和58年)11月1日(火曜日)夕方4時頃。事件は保育園からの帰り道に起きた。宮城県柴田郡川崎町で農業を営む柴田家のKさん(当時59歳)は、孫の渋谷美樹ちゃん(以降美樹ちゃん・当時2歳)を保育所まで車で迎えに行き、助手席に乗せて帰宅する途中だった。
美樹ちゃんの父親Tさん(当時30歳)は運転手、母親K江さん(当時36歳)は看護師として働いており、前年の12月から美樹ちゃんは自宅から3kmほど離れた町立川崎保育所(2023年現在は近隣の幼稚園と合併して移転済み)に、昼間は預けられていた。保育所への送迎は祖父であるKさんが引き受けていたという。
年配の家族が主に農業を営み、若い家族が繁忙期の農業手伝いに加え、会社勤め等をして家に現金収入を入れるという家庭は当時の農家として一般的なものであった。
その為、渋谷家は美樹ちゃんの曽祖父・祖父母・両親・美樹ちゃんの6人家族であったが、祖父母・両親の稼ぎもあって比較的裕福であり、初孫でもあった美樹ちゃんは祖父母からの愛情を一身に受けていた。
★YouTube channel 記事を音声化しました。
失踪前夜、美樹ちゃんは普段、一旦寝付くと朝まで目を覚ます事など無かったにも関わらず、何故か夜中に起き出して、母親K江さんの足元に纏わりついて離れなかったという。
これが偶然であるのか、身辺を取り巻く空気、もしくは家族の態度等に何らかの異変を感じ取った結果であるのかは不明である。
保育所の所長によると、美樹ちゃんは、時々わがままを言う事もあったが、人見知りせず誰とでも話せる明るい子であったという。 美樹ちゃん失踪のその時、祖父のTさんは保育所からの帰り道、自宅までわずか1分程度の地点で路肩に車を止め、近隣の住民であり、柴田家と同じく農業を営むM家の2人と話し込んでいた。
付近には農家が点在するのみで周囲は一面の水田であったが、Kさんが車を停めたのは農道ではなく、後には国道457号に制定される幹線道路であり、人通りは少ないものの、平日夕方には上下合わせて一時間に100台を超える交通量があった。
また、現場は半径が大きく緩やかなカーブの先にあり、田園型事故(コリジョンコース現象)が起きやすい条件も揃っていた。
地図は、失踪地点周辺のGoogleストリートビュー・2023年8月撮影
祖父Kさんは田んぼに下り、Mさんらと3人で、今後の共同作業について周囲の騒音に負けじと大声で話し合ったという。田んぼとは言っても収穫期であり水は張られておらず、コンバインによる脱穀作業が方々で行われていた。
Kさんは車を降りる時、美樹ちゃんが後を付いてこようとしたので、「車で大人しくしていなさい」と言いつけ、一人でMさんらの元へ向かった。
大人たちが美樹ちゃんから目を離したのは、1分〜数分であった事が警察の見立てとして報道されているが、これは警察が計算で割り出した最小限の数値に近いもので、後日Kさん自身が応えた取材でその旨を発言している事や、話し相手であったMさんの証言から見ても、それ以上の時間が経過していた可能性が高い。
Kさんは車道に背を向けて話していたが、向かい合って話していたMさんは、美樹ちゃんが祖父の車から下りて、停車した車のボンネット付近で一人遊びをしている姿を目撃している上、その後不審な茶色の車が、Kさんの車の反対車線に一時停車していた事を後に証言している。
彼らが美樹ちゃんの姿が消えた事に気づいたのは、話が一段落して、茶色の車も走り去った後と考えるのが自然であろう。
路肩に停めた祖父Kさんの車から、水田で立ち話をする3人との距離は25m程度という。
画像は読売新聞(宮城版)昭和58年11月3日の記事から引用
路肩に停めた祖父Kさんの車から、水田で立ち話をする3人との距離は25m程度という。
3人は美樹ちゃんの失踪発覚後、必死で周辺を探し回ったが発見する事はできず、宮城県警の大河原警察署へ通報した。
県警は失踪現場近くの川崎派出所に捜索本部を設置、翌日早朝から警察署員や消防、近隣住民ら約120人を動員して、水路等を中心に本格的な捜索を開始したが、美樹ちゃんや彼女の遺留品は見つからなかった。
用水路への転落等の事故以外で、まず疑われたのは、交通事故の証拠を隠滅する目的での連れ去りであった。
現場付近の路上では、5.3m程の長さのブレーキ跡と、真上から滴下したとみられる血痕が数個見つかった。ブレーキ跡は、Mさんが目撃した不審な車(2000ccクラスの大型乗用車)が時速30〜40kmの速度で急ブレーキをかけたとして、残される痕跡として矛盾のないものであることが分かっている。
血痕も、O型の血液であり美樹ちゃんの血液型と一致したが、交通事故による出血としては少なすぎる事が報道で指摘されている。恐らくは警察関係者の発言がその根拠である。
警察が後日行った実験では、急ブレーキの音は周囲のコンバインの騒音にかき消され、3人が立ち話をしていた場所では聞き取れない事が判明している。
警察署に寄せられた目撃情報には、失踪当日の同時刻頃に現場を通行した車両の運転者によるものもあった。
目撃されたのは、「助手席のドアが開いた白い乗用車」(祖父Kさんの車)と、反対車線に停車している「茶色の乗用車」、その付近で立ち話をしている30歳程度の小柄な男女であった。目撃者は、「交通事故の示談交渉でもしているのかと思った」と、その時に受けた印象を話している。
別の目撃者からは「失踪現場に停車している茶色の乗用車を見た」と同時に、車載ラジオからその年のプロ野球日本シリーズのヒーローインタビュー(巨人軍の中畑選手・当時)が流れていたという証言があり、失踪事件の発生時刻は16時27分前後であるところまで絞り込まれている。
また、その頃、猛スピードで付近を走行する茶色の車の目撃情報も出ていた。持ち主の特定もされている。その車の持ち主はFという当時31歳の男性で、美樹ちゃんの父親Tさんの元同級生でもあった。
F氏は宮城県大河原町で飲食店を経営しており、渋谷家の近所で小売店を営む実家まで酒類を仕入れに来ていたという。彼は何度か警察による事情聴取を受けたが、程なくして店を畳んで失踪。所有していた茶色の車は、既に別の車へと乗り換えられていたが、事件当時に使用していた肝心の茶色の車の処分先は、警察の追跡をもってしても判明しなかった。
また、現場から車で20分程度の、青根温泉郷にある別荘地では、美樹ちゃんの失踪から丸一日後の11月2日夕方5時頃に、茶色の車のトランクやボンネットを開けていた30歳前後の男女の目撃情報も寄せられた。
この別荘地は私有地が多く、観光客は勿論、近隣住民ですら普段は踏み入れる事が少ない場所である為、事故の証拠や美樹ちゃんを隠匿し得る場所として、この証言を重要視した県警は、警察犬を導入して付近を捜索したが成果は上がらなかった。
不審車両からの捜査が行き詰まるに連れて、交通事故説は後退していった。
美樹ちゃんが車を降りてからの行動や、不審車両の存在に気づく等、路上に注意を向けていたはずのMさんが、事故が起きた瞬間に限って何故か視認していない点の違和感や、3人が失踪直後、現場のブレーキ痕や血痕の存在に気づかなかった事、一方でこれらの痕跡が、事件の前から既にあった、または事件直後には無かったという真偽不明の証言が次々に寄せられ、茶色の車両を所有するF氏の不審な動きも加わり、美樹ちゃんの失踪は、交通事故を装った計画的な誘拐なのではないかと噂されるようになった。
勿論、警察も、事件発生当初から誘拐である可能性を排除していたわけではない。失踪事件の常として、美樹ちゃんの失踪発覚後、渋谷家には無言電話や身代金を要求する電話がかかってきていた。
しかし、受け渡し場所等を指定する等の、明確な要求に進展したケースは無かった為、これらは悪質な悪戯である可能性が高いと考えられている。
また、渋谷家のメンバーの身辺調査も進められていた。しかし、動機の面から、美樹ちゃん誘拐の可能性を探る試みも頓挫した。
その為、計画的な誘拐であるとするならば、美樹ちゃんの身柄そのものが目的である事が推測でき、両親から引き離しても、後々まではその記憶が残らない可能性が高い「物心つく前」の年齢の女児を誘拐し、自分の子供として育てたいといった目論見が想定される為、女児の年齢や性格、容姿、毎日の生活習慣や奪取できるタイミング等、生活の詳細を知り得る近隣住民や家族の協力が疑われるのは当然の成り行きであった。
捜査関係者は「住民はほとんどが親類縁者である為、本当の事をなかなか言ってくれず、正確な情報が得られず苦労した」と、後日語ったというが、それも無理はない話である。自分や自分の家族に、いつF氏のような疑いが向けられるか分からない。
一方で、F氏のように警察や、地域のしがらみから逃亡して、都市部で生計を立てられる心得がある者ばかりではない。機械化が進んでいるとはいっても、昔も今も、農業は近隣住民同士での共同作業や情報交換が欠かせない。住民が誘拐犯の素性を、知りながら隠匿していると断ずるのは早計に過ぎるであろう。
事件発生当初は寧ろ協力的だった地域住民が、軽率な発言を避けて互いに沈黙を守る中、渋谷家には、美樹ちゃんの行方について何の手がかりも見つからないまま、40年以上の月日が流れた。その間、美樹ちゃんには弟が二人生まれている。
両親はTVの公開捜査番組に何度も出演し広く情報提供を求め、連れ去り犯への自首や、せめて美樹ちゃんの居場所を教えてほしい旨の呼びかけを行った。
当時流行していた超能力者による透視では「美樹ちゃんは近隣の自衛隊駐屯地にいる。犯人が自分の子供として育てている」という、この手の能力者としては、かなり踏み込んだ内容のリーディングがなされたが、やはり事件解決の手がかりになってはいない。
失踪当日、美樹ちゃんの最後の目撃者の一人となってしまった祖父のKさんは、2012年2月に、初孫との再会が叶わぬまま死去した。 2021年には74歳になった母親のK江さんが取材に応え、今も美樹ちゃんの部屋がそのまま残されている事を明かしている。2歳のひ孫がいてもおかしくない年齢になったK江さんの、記憶の中にいる長女の美樹ちゃんは、40年近い年月が過ぎても、今もなお2歳の頃のままである。
手がかりとその検討
ここからは、美樹ちゃん失踪時の状況、計画的誘拐の実現可能性、F氏に関する情報等を整理しながら、手がかりとその検討を進めていこう。
失踪時の状況について
1983年11月1日16時30分頃(失踪当時)の宮城県川崎町の天候は恐らく曇りで、ほぼ無風、気温は10℃程であった。日の入りは16時40分というから、2023年になっても街灯の類が乏しい、失踪現場周辺での目撃情報がどの程度確かなものなのかというと、実は少々怪しいところがあるともいわれている。
暗所では特に赤系統の色彩の判別が困難になる為、不審車両が本当に茶色であったのかという点が指摘される事がある。
また、コンバインを使った作業は後片付けの時間も考慮して、次第に打ち止めになっていく筈であり、依然として周囲の騒音が、急ブレーキ音がかき消される程の音量であったかどうかについても、疑いを挟む余地がある。
祖父Kさんらが立ち話を始めたと考えられる16時台前半はともかく、ヒーローインタビューが行われた(=茶色の車両が現場にまだ停車していた)日没10分前である16時27分頃には、当時59歳のKさんや、当時63歳のMさんには、細かい作業が難しくなる程の暗さにはなっていたと思われる。
路上の事故痕に気づかなかった点については、ある程度説明が可能であろう。
しかし、目撃情報は、田んぼで立ち話をしていた3人だけではなく、既に車両の前照灯を点灯していたと思われる、全くの第三者である通行車両の運転者のものともある程度一致している所から、信用性はある程度担保されているものと考えられる。
また、周辺の通行量が多い事を考慮すると、急ブレーキ音も背景の雑音として聞き逃されていたとしても不自然ではない。また、現代の、少子化や人件費高騰により、人手が足りない収穫期の水田では、投光器等を併用して、夜間にコンバインを動かす事も稀ではないようである。 1980年代であっても、収穫期である以上は、日没後、機械の運用に必要な最低限の明るさが残っている限り、作業を続けていた可能性が高い。
計画的誘拐の実現可能性について
美樹ちゃんの失踪が計画的な誘拐によるものであったとすると、近隣住民や家族、または家族にごく近い人物の協力、少なくとも情報提供が不可欠になる。
まず、誘拐を企てる者にとって美樹ちゃんが目的に叶う存在であり、まだ2歳という年齢にも関わらず両親の手を離れて行動する時間帯がある事についての情報を入手する必要がある。
更に、保育所を何時ごろに退出し、どのルートで帰宅するか、迎えにきた家族が、美樹ちゃんから目を離す可能性がある時間帯や場所といった情報も必要になる。
次に、茶色の車の持ち主が誘拐の実行犯として周辺に張り込むとして、1回目の張り込みで美樹ちゃんの身柄確保が可能な状況が実現するとは限らない。連日、周辺を徘徊する不審な茶色の車として警戒される可能性が大いにある。
尤も、実家が付近に存在し、訪問の口実があったF氏であれば、この問題はクリアできるものかもしれない。
また、美樹ちゃんの身辺を調べ回り、地域外の良からぬ人間と接触を持っていた近隣住民が存在したとしても、事件後の空気を利用して嫌疑の目を逃れ得たのかもしれない。
しかし、美樹ちゃんが姿を消したのは、Mさんが田んぼで立ち話をしながら、美樹ちゃんの姿を目で追うのを止めた間隙を突いたものであった。
美樹ちゃんが一人残された車内で退屈するか、日没が近づき周囲が暗くなるに連れて不安になり、自力で車から降りて、その周辺で遊び始めたか、祖父Kさんの姿を探し始めたのは、まず間違いないであろう。
しかし、そのタイミングを操作することは誰にもできない。その日に限って美樹ちゃんが既に遊び疲れていてそのまま眠り込んでしまう可能性や、Kさんが助手席にロックをかけて用心する可能性も排除できない。
茶色の車に乗り込んで周辺を流していた誘拐の実行犯が、その美樹ちゃんの姿を視認し、立ち話をする3人の視線から美樹ちゃんを隠すように停車、車内に誘い込み逃走……と、文字にするのは容易いが、1分に1台を超えるほどの交通量がある路上で、それを狙って実行するのは困難を極めるのではないだろうか。
実際に、通りがかりの車両の運転者から、30歳前後の男女として目撃情報が挙げられてしまっており、車両のナンバーや顔貌、誘拐の決定的瞬間が見咎められなかったのは、単なる幸運に過ぎないという事になる。
特に、Mさんが立ち話に気を取られて目を逸らしたタイミングを意図的に利用するのは、ほぼ不可能に近く、完全に運頼みの要素である。
これでは、折角の協力者も、居ても居なくても変わらないのではないだろうか。
まだ、美樹ちゃんをターゲットに選定した段階で、当時まだ警戒が緩かった保育所から、家族の依頼を装って連れ出してしまうか、いっその事、間取りを調べさせた上で、深夜の渋谷家に侵入し、眠ったままの美樹ちゃんを連れ出した方がまだ確実なのではないかとすら思えてしまう。
F氏について
そもそも、事件当初、確からしいと考えられた交通事故からの連れ去り説が後退したのは、目撃情報から浮上した茶色の車両から、犯人を特定する試みが暗礁に乗り上げた時点からであった。
どちらかというと珍しい部類である茶系の乗用車とはいえ、宮城県内には当時該当する車両が7万台、川崎町が所属する柴田郡内には2400台の登録があり、その中から事件発生時刻頃のアリバイがない車両が洗い出され、F氏の車もその一つとして浮上している。
当時、F氏所有の車両が現場付近を猛スピードで走行していたという証言の信憑性がどれほどのものかは不明であるが、事件直後にその車両を手放し、その車両は行方不明、本人も、飲食店経営者としての生計を擲ってまで失踪するというのは「面倒を避けたい」という理由だけで行うには過剰反応に過ぎる。
素直に「F氏にはやましい所があった」と考えるのが筋なのではないだろうか。
しかし、警察がF氏を追跡する手段を見失い、周辺住民はF氏の代わりに自らが疑われる事を嫌った為に、美樹ちゃんの家族や、後に事件を知って真相に思いを馳せる者は、「美樹ちゃん生存の可能性」を信じ、計画的誘拐という筋書きが浮上するのに任せた。
「未解決かつ、この先もほぼ解決の可能性がない幼児ひき逃げ・連れ去り事件」という結論は勿論家族にとって、いや、捜査員や、ただ概要を知らされるだけの部外者にとってさえも、あまりにも厳しいものがある。 とは言え、恐らくはF氏の親族は現在もこの地域に居住していると考えられ、時効の壁によって何らかの罪に問う事は既に不可能であるにせよ、F氏が帰還して真相を打ち明ける可能性がわずかでも存在する事は幸いであり、解決への糸口が残されているとして未だ期待のできる事件であるのかもしれない。
真相考察
この事件の真相は、発生当初に考えられたように、偶発的な交通事故からの連れ去りである可能性が高い。
F氏が事故の加害者である可能性と、F氏の関係者がF氏の車を借りて加害者となってしまった為、同情心からか見返りを得るかして、F氏が加害者を庇っている可能性の両方が考えられるが、証拠隠滅の徹底ぶりから見て、F氏本人が加害者である可能性が高いのではないだろうか。
所有していた茶色の車については、ダムや海中に沈める等して隠滅した可能性が高い。
美樹ちゃんが事故で死亡していた場合は、その行方も同様である可能性が高いが、現場に残された血痕が少ないことからみて、運良く一命を取り留め、彼らの子供として育てられている可能性もゼロではない。 美樹ちゃんも40歳を越えて、医療等へのアクセスが必要となる年齢に近づきつつある事を考えると、彼女自身が自らのルーツを探る試みから、事件が進展することもあり得るであろう。
事件の翌年、失踪地点付近に、宮城県警の大河原警察署によって情報提供を求める看板が立てられた。
その看板は、付近が危険である事を証明するかのように、一度交通事故によって破壊されたが、後に家族の手で再建され、今も同じ場所に立っている。
地図は、美樹ちゃん事件の情報提供を求める看板。Googleストリートビュー・2018年6月撮影。
たとえ両親や祖父母、曽祖父ら本当の家族の記憶が、美樹ちゃん本人には何一つ残っていなかったとしても、違う身元と名前を与えられ、新しい家族と共に長年生きてきたのだとしても、現世で家族が美樹ちゃんの成長した姿と再会することが叶えられる。
そんな日が来る事を願ってやまない。
◆参考文献・参考資料
読売新聞(宮城版)読売新聞社1983年11月3日、4日、5日、6日、8日、17日付
ゼンリン社住宅地図『宮城県柴田郡川崎町』1983年版日本住宅地図出版.
◆未成年者の行方不明事件(事案)考察