古美術店「無尽蔵」店主失踪事件 概要
1982年8月24日より三越日本橋本店で開催されていた「古代ペルシア秘宝展」。黄金の皿、盃、装身具など絢爛たる47点の展示即売品は、総額21億円(当時)といわれ、折からのシルクロード・ブームの追い風も受けて盛況であった。
しかし、会期半ばの8月29日。朝日新聞は一面で、これらの秘宝の大半が「ニセ物」であると報道する。これはスクープなどというものではなかった。天下の三越百貨店が、当然全てが本物であるとして、上は数億の値段をつけて売り捌こうとした自慢の「名品」の数々は全て、開催前より日本国内の研究者、古美術商らから、事前配布のカタログを見た時点で指摘がなされる程の稚拙な贋作であったのだ。
この「ニセ秘宝事件」を含む、三越百貨店に関わる一連のスキャンダルは、当時「O天皇」と呼ばれるほどの権勢を振るった三越社長Oの解任劇「三越事件」へと発展する。
ところで、同年9月、朝日新聞によって、これらのニセ秘宝の供給源としてまず指摘されたのは、亡命イラン人の古美術商S兄弟を通じた海外ルートであったが、その後、三越展示品と同じ鋳型で製造されたと見られる品を日本国内で購入したというコレクターからの情報提供があった。秘宝展では450万円の値がついていたその銀製の金具とそっくりな品を、千葉県の古美術店にて10万円で入手したのだという。
さらなる取材の結果、S兄弟は三越へ納品したニセ秘宝の一部を、海外のみならず国内の某古美術店からも仕入れていた事が判明した。件の千葉の古美術商もまた、同店と取引関係があった事を認めている。
その店の名は、古美術「無尽蔵」といった。
姿なき贋作商
話題の渦中に投じられた古美術店「無尽蔵」は1974年の開店以来、東京都豊島区にある雑居ビルの二階に店を構えていた。店主のN(当時56歳)は古美術界隈ではともかくメディア的には無名に近い人物であった。突如、三越ニセ秘宝の重要な関係者として浮上したNの容姿や人柄を、写真や映像に捉えるべく駆けつけた取材陣に対応したのは店員のS(当時30歳)で、彼が言うには、雇い主のNは2月末から姿を見せていないのだという。
既に捜索願はSが4月1日付で提出していたが、成人男性の失踪という事もあり、これまで積極的に捜索が行われることはなかったようだ。
以降7ヶ月間、Sは独力で店を切り盛りしていたが、この騒ぎで店は開店休業状態に陥り、同年11月には店主N失踪のまま古物商営業許可取消。正式に閉店した。
翌年3月2日、Nは死亡扱いで、別件の古美術品を東京国立博物館へ納入する際の、担当美術課長への贈賄の疑いで書類送検されている。
「無尽蔵」殺人事件
同年12月4日警視庁捜査一課と池袋署は、「無尽蔵」の古美術品やその代金を詐取、横領した疑いで店員Sを逮捕した。これはよくある別件逮捕であり、本命はSによる店主Nの殺害容疑であった。Nの失踪時期と目された2月末は古美術商S兄弟が三越サイドから「秘宝」の代金の支払いを受けた時期にも合致しており、これに関連するトラブルが原因である可能性も取り沙汰された。
また、結果的に「三越事件」で再起不能となったものの、三越社長Oはその頃、「秘宝展」の件のみの引責で社長の座から一旦身を引いておけば傷が浅く済み、いずれ返り咲く機会もあるといった趣旨の助言を側近より受けており、敵対者がその退路を断つための陰謀を企てたのではないかと穿った見方もできないことはなかった。
しかし12月9日、店員Sは、2月24日19時40分頃にNを「無尽蔵」店内にて、大型の金属製ボルトで複数回打撃を加え殺害した事、理由は、Nからの男色行為の強要に耐えかねた末の衝動的なものであった旨を自供した。
5人の証言者
無尽蔵」殺人事件の捜査及び裁判は順調とはいかなかった。その理由の一つは、被害者Nの遺体を結局最後まで発見することができなかった事。Sは殺害から10日後の3月6日夜に、自らの実家に近い京浜運河から、Nの遺体を遺棄した旨を自白しているが、12月12日、21日の二度の捜索でも発見することができなかった。
もう一つは、SがNを殺害したという2月24日よりも後に、生きた被害者Nを目撃した、もしくは電話で会話したと証言する者が5人も現れた事によるものだった。この5人という人数は、後の裁判で採用された証人の人数であり、実際にはもっと多くの目撃者がいた可能性もある。
「無尽蔵」殺人事件は最高裁まで争われた。Sは当初のN殺害の自白を公判段階で翻し、否認に転じた。Sの弁護人は概ねSの主張に沿い、違法な長時間の取り調べによる自白には任意性が無い事、そもそもNの生死についての立証、殺害日時、方法についての立証が不足している事、アリバイの存在、Nの生存証人5人の証言を武器にSの無罪を主張したが、検察側によって物証や状況証拠を積み上げられ、証言の信用性も記憶の曖昧さや状況の不自然さ等を突かれて悉く崩される事となり、最終的には上告棄却。
但し、前科前歴がなく計画性もない事、動機や生い立ち、家族関係についてはSに有利に斟酌すべき事情もあるとされ、1990年6月21日、殺人罪に詐欺罪を併合した懲役13年の量刑が確定する事となった。
手がかりとその検証
「無尽蔵」店主Nについて
失踪したNは1926年生。Nの生家は明治まで公家の家臣を務めた家柄で、祖父は大蔵省職員であったようだが、N本人が業界誌に寄せたエッセイでは、「N家は公家の筆頭家老の家柄、祖父は大蔵官僚で、八幡製鉄の創設の功により町名に名前が残るほどであった」と完全な虚構ではないものの、かなりの装飾を加えている。父親は骨董趣味の人物であったようだが、この父親はNにとって愛憎半ばする人物でもあったようで、戦中戦後の貧困の中、亡くなった父親の遺した骨董品が二束三文で始末されていく様を目の当たりにしても「煩わしいものが消えてゆく」気持ちであったと同エッセイに記している。
戦後は米軍基地勤務、教師の職を経て、現代では「マクロビオティック」の重要人物として知られる桜沢如一の思想を学び、自然食専門の食堂を経営し財をなしたNは突然、池袋に女装バーを開店した。その頃のNは長身で細身の「ママ」であったが、やがてボディビルにのめり込み始めた。年齢的に「女性」として男性の相手を探すことが難しくなったのかもしれない。
父親と同じ骨董趣味に目覚め、「無尽蔵」店主となる頃には、元からの180cmの長身に加え、80kg近い立派な体格を身につけていた。外国の古美術商との商談が増えてきた頃には身なりにもこだわり始め、薄くなり始めていた髪は剃り落とし、コサック帽、白絹のチャイナ服、毛皮のコート等の目立つ衣類をその長身で着こなすようになっていたという。
そしてNは、同性の恋愛相手や、売春相手を求める男性達が集うゲイ・バー「E」に出入りするようになった。そこで男娼をしていたのが後に「無尽蔵」店員となるSであった。
「無尽蔵」店主としてのNは、独特のカリスマ性を放つユニークな人物であったという。元来骨董屋は大名など身分の高い人物が得意先であった為に、商談の際は「買って頂く」と遜った態度を取る一方で見込んだ客にはしつこくつきまとい、品物のよさを語り続けて辟易させる傾向があったが、Nは客に「貧乏人に売る物はない、帰れ」などの悪態をついたと言う。
一方で気に入った客には、所有する骨董を心ゆくまで黙って好きなだけ眺めさせてくれたといい、一定の贔屓客が存在した。また、「自分の店はゲテモノ屋」「骨董は人に夢を与えるものであれば偽物でも構わない」を持論とし、手はいつも真っ黒で、手持ちの骨董、古美術に手を加えていたことを示唆するものとなっている。
総じて自己顕示欲の強い人物像が浮かんでくる。商売人というよりは芸術家気質であり、他人の利益の為に言い含められて、もしくは贋作者との責めを恐れ、自分の店を捨てて姿を隠してしまうようなパーソナリティの持ち主であるとは思われないし、魅力的な報酬の前に一旦身を隠したとしても、その後、何らかの形で姿を現して、衆目を集めようという誘惑に勝てるような人物であるようにも思われない。
「無尽蔵」店員Sについて
N殺害の罪で裁かれた店員Sは1952年生、Nの遺体の投棄先として自白した京浜運河を擁する神奈川県川崎市の出身である。隣町の出身である同じ歳の妻、娘二人がいる既婚者であった。この妻を結婚前に自らが飲酒運転する車に同乗させ、交通事故に遭わせて失明寸前に追い込み、顔面に傷跡を残させたのがSの実父であり、以来実家とは疎遠となり始めた。ついで実母が癌で倒れ、二人分の医療費が家計を圧迫する中、Sが通う大学の授業料の支払いは滞るようになり、Sは実入りの良いアルバイトを探さざるを得なくなった。やがて実母の病死により、父親との確執は決定的なものとなっている。そのアルバイト先の一つが、Nとの出会いとなったゲイ・バー「E」であった。男性同性愛に興味があったわけではなく、金だけが目的だったと後にNは語ったという。
それでも、Sを気に入ったNは自らの経営する「無尽蔵」のアルバイト店員としてSを招き、そのまま正式な社員になるよう誘った。Sは心労から大学中退、商社への内定も流れた事でその勧誘を受諾する事となる。その後結婚、長女が生まれた事でSは「無尽蔵」での仕事に打ち込むようになり、Nは「いずれ店をSに譲るつもりだ」という発言を常連客にもするようになった。待遇は良かった。大卒初任給が13万円程度の時代に、月の給与は30万円、それとは別に多額の「小遣い」が与えられ、その金額は月に50万〜100万円にもなったという。恐らくはNの同性愛の相手をする事と引き換えであった。
しかし、と言うべきか、やはり、と言うべきか、Sの生活は乱れた。ホステスを愛人として囲い、高額なオーディオセットや高級外車、海外旅行に浪費するようになった。妻との間には次女も生まれていたが、Sが愛人との結婚を考え始めた事で別居、Nの失踪が発覚する頃には離婚調停が進められており、S逮捕の日には正式な離婚が成立する寸前であった。逆に言うと、逮捕時にはかろうじて妻との縁が切れておらず、この女性はSのために弁護士を手配している。彼女の評では、Sは困難な事態には背を向けることしかできない弱い人間であり、殺人などできる性格ではないのだという。
しかしながら、弱い者が追い詰められた際の反撃の苛烈さもまた指摘されている。著名な法医学者である上野正彦氏は著書で「滅多刺し等、一見残忍とも思える攻撃を行う者は、若年者、女性等の弱者である事が多い。殺しきれずに相手の反撃を一度でも許せば、自分には破滅しかないということを知っているからだ」と述べている。
愛人を囲い、妻子を裏切り、Nのいなくなった「無尽蔵」を思いのまま営業する等、一見図太くも見える行動が目立つSではあるが、これも彼の小心さが、長年連れ添って弱みも知られた妻よりも、そんな自分を知らない新しい愛人との生活に傾倒させ、自分には古美術店の切り盛りをする才覚がない事を直視できず、目の前の金銭以外は見ない振りをするという回避行動を取らせたものと説明することもできる。
Nの生存証言について
SがNを殺害したと自供した1982年2月24日夜よりも後に、生きているNを目撃、もしくは会話した証言者の発言は以下の通りである。
古美術商 K岡証言
「1982年6月か7月、知人と共に赴いた静岡県伊東市での会員制骨董市『親睦会』でNに会い、景気はどうだと挨拶を交わした。Nは純白で胸に模様のある詰襟を着用しておりよく目立った。Nを同行の知人に紹介もしている。Nに気づいたのはまた別の知人Tが教えてくれたからであり間違いない」
同行の知人は6月に骨董市へ同行したこととNを見たことは事実であると認めたが、知人Tや会場の他の参加者からは、これを補強する証言は得られなかった。
6月は既にNの失踪が知られていた時期であり、そんな状況でK岡の言うような目立つ恰好のNが居たのであれば、25名もの参加者の誰の記憶にも残らない事は考え難いとして裁判では記憶違いで片付けられているが、偽秘宝展で注目を浴びた8月以降ならばまだしも、6月の段階で、池袋で店を開いて8年程度のNが、伊東でどの程度知られていたのかと考えると、そう簡単に切り捨てるべきでは無いように思う。
尤も、Nは『親睦会』の会員ではなく、会員である同行者無しでこの骨董市に参加する事ができないのもまた事実であり、記憶違いとの指摘を的外れとまで言い切るには躊躇する。
「無尽蔵」顧客 S藤証言
「1982年5月27日。その日は5月にしては蒸し暑い日だった。(公的な記録の裏付けがある。最高気温28度の記録が残っている)この日は池袋で、三年に一度の猟銃免許更新に伴う講習会があり、9時からの講習が始まる前に、開店前ではあるが『無尽蔵』を尋ねてみようと思い立った。Nの失踪の噂は知らなかった。店のシャッターは開いており、ショーケースの間を進むと、奥にNが一人で俯いていた。坊主頭ではなく髪は生えかけであった。Nは自分に気づいて一旦顔を上げたが、関わりを拒むように顔を伏せてしまった。講習会の時間が迫っていたので、声をかける事なく退散した」
裁判では仮に自らNが失踪したにしても、なぜ唐突にこの日だけ開店前の店に現れ、何らかの発言をすることもなく再び姿を消したのか説明できないとして信用性がないとされた。また、S藤が受けた前回1979年8月23日の講習会の記憶との混同であろうと理由がつけられた。
この裁判は事件から約一年後の1983年4月から始まっている。講習会は更に一年前の記憶でありNの失踪も知らなかったのであれば、強く記憶に残ることもないであろうが、だからと言って、頻繁に講習を受けているならばともかく、三年も前の記憶と都合よく混同するものであろうか?しかし、Nが自分の生存を知らせる為に店先でパフォーマンスを行っていたと解釈しても、S藤ひとりに見せるだけでは説得力が不十分であると言わざるを得ず、事の真相は不明である。
東京国立博物館 美術課長 K松証言
「1982年2月26日午前、『無尽蔵』に電話を入れて今日夕方寄ると伝え、Nは応諾した。確かにN本人の声だった。その日の18時頃、妻とその友人を連れて店を訪れたが、店は閉まっていた」
K松はNと最も親しい人物の一人であり(「無尽蔵」開店以前からの友人という)、1982年の正月には共にエジプトを旅行する程の仲であった。N失踪の相談を受け、Sに捜索届を提出するよう促したのもK松であるという。先述の通りNが賄賂を贈ったとされる人物でもあるが、こうして検察側の見立てに反する証言をしても、収賄側として立件されることはついに無かった。
店の訪問が2月26日であることは手帳に残されており、26日朝にはK松の妻が「友人を連れて行くのだから、事前にお店に電話を入れておいて下さいね」と夫に注意を促した事も覚えていた。
尤も、オレオレ詐欺の例を出すまでもなく、家族であっても思い込みから他人の声を聞き分けられないという現象は起こりうる。Sがこれを利用し、NとしてK松と話したのではないかという疑いは拭えない。
裁判では「妻の友人の証言では、店を訪れる予定は何日か前にあったといい、当日26日になってから予約を入れるのは不自然」「NがK松ほどの商売上も重要な友人との約束を反故にして店を閉めるのはおかしい」として電話を入れた日付の記憶違いであるとしているが、これは少々難癖に近い印象がある。26日に電話で話していた事実を消したい検察側に裁判官が肩入れしたと言われても仕方がないところであろう。
日本画家(故人)元秘書 K山証言
「1982年秋頃、冬支度のためにコートを出してくると、ポケットに『無尽蔵』で支払った骨董品代金の納品書兼領収書が入っていた。日付は2月25日。筆跡は店員のものかもしれないが、自分はNさんがいない時に『無尽蔵』を訪れた事はないしお金を払った事もない」
この納品書は勿論現物が証拠品として存在しており池袋署に提出されているが、この骨董品購入はいわくつきのものであった。K山が秘書として仕えていた日本画家の日記を盗んだO医師は骨董趣味の人物であり、日記を公表して故人の名誉を汚すと、画家の親族でもあるK山を脅迫、贔屓の「無尽蔵」にて、好みの骨董を購入させていた。ついに自宅にまで押しかけるようになったOに恐怖したK山は刑事告訴を検討し、「無尽蔵」事件について証言を取りに来た池袋署の刑事Tにそのまま相談したという。
当初、K山は2月25日「無尽蔵」にN本人がいたかどうかについては曖昧な証言をしていた。しかし、刑事Tが紹介した弁護士の仕事は不自然に遅く、また刑事Tも2月25日にNが店にいなかった旨の証言を得ようと強引に迫ったため、両者の関連を不審に思ったK山は態度を硬化させ、冒頭の「Nさんがいない時に無尽蔵に行った事はない」証言に至ったようである。因みに同行したO医師は「Nはいなかったと思う」と消極的ながらK山の証言を否定している。
OがK山の言う通り卑劣な人物だったとしても、もはや刑事Tに迎合したところで刑事告訴を免れ得ない状況であり、特に嘘をつく利益は無いように思える。実際「いなかったと思う」といった不確かな証言を捜査段階から一貫して維持し続けており、裁判でK山より信用できると判断されたのは仕方のないことであろう。
古美術商 H野証言
「3月末か4月初め、自分の店にいた時、共用のピンク電話にNから2回、電話がかかってきた。1回目の電話は、電話の向こうでボソボソと何か話していただけで内容は聞き取れなかったが、Nだと声で分かった。
また電話すると言って切れた。2回目はだいたい1週間後で、時々自分(H野)の店がある建物を訪れる同業者S田が来ていないかという問い合わせだった。Nさんかと確かめたが答えはなかった。今S田はいないが、たまには店に来ないかと誘うとそのうちに、また電話すると答えて電話は切れた。Nさんが姿を消したという噂は聞いていたが、旅行か入院でもしているのだろうと思っていた」
前述「東京国立博物館 美術課長 K松証言」の証言でもそうであるが、案外電話の声に対する記憶は思い込みに左右される。しかも、今回の証言は電話が何処からかかってきたのか分からないものであり、H野宛かすら定かではなく、名乗りさえしていない。確信をもって言えるのはS田の知人であるという程度である。
物証及び状況証拠
店内からは大量の血液反応や人血痕が発見された。血液型はNと同じB型であり、飛沫の飛び散った方向や場所も、Sの証言と矛盾しないものだった。Nの失踪後、Sにより店の絨毯の交換が行われており、血液飛沫には清掃された痕跡もあったが、流しの事務所荒らしがNに発見され反射的に、もしくは何者かが怨恨からNを殺害したとして、Sの目を盗んでそのような隠蔽工作を完遂したというのはあまりにも不自然である。
最も重要なのは、これらの証拠が、Sが「ここでNを殺害した」と自供した後に発見された事であった。後にこの事は「秘密の暴露」に準ずるものとして裁判で認定されている。
また、SはNの愛用品であるネックレスを勝手に売却、Nの自宅を荒らす(N自身が慌てて自発的失踪を図ったためと説明できなくもないが、Nが旅行の際に使用するスーツケース等の品は自宅に残されたままだった)、店の売上金を私的に流用し生活費として消費する等、Nがもう戻ってこない事を知っているのではないかと思われても仕方のない行動をとっている。
一方で遺体の遺棄については証拠が揃えられていない。遺体が発見されなかったのはオモリの不足から遠くへ流されたとして説明がつくが、その説明ができたところでSの手によるものである事までは、Sの証言通りに遺体が発見されなかった以上は真実とは認められず、死体損壊・遺棄罪としての立件はされていない。
古美術店「無尽蔵」店主失踪事件 真相考察
当時、この事件は冤罪事件であるとされ、この主張は一定の支持を集めた。著名なルポライターによる著作も出版されている。ニセ秘宝、三越事件、男色、ホステスの愛人、捨てられた妻子、見つからない遺体、有名画家の親族を含む5人のN生存証人等、衆目を集める要素には事欠かず、しかし裁判はあまりにも検察側の筋書き通りに進み、Sを金の亡者、漁色家、殺人者とする既定路線を検察・司法・報道機関が束になって突き進んでいるように見えなくもなく、一定のブレーキがかかるのはむしろ健全とも言えた。
「疑わしきは被告人の利益に」(刑事裁判の鉄則)
「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(日本国憲法第38条)
これらの原則が常に掲げられてはいても、守られているかどうかを決めるのは裁く側であり、日本では検察と司法の距離が近過ぎることが度々問題になる。
しかしながら、資料が揃った現代から俯瞰すれば、Sが早々に殺害を自供して、その通りに物証があがった時点でもはや裁判上の勝負はついていた感がある。5人の証言にもっと説得力があったとしても、ほんとうに生存していたNが名乗り出るような事態にでもならなければ、判決が覆る事は無かっただろう。
それでも、Nの特異なキャラクターには、なんとかして生き延びて、裏切った恋人の行く末を何処かで飄々と眺めているのではないか。そんな期待をさせるところがある。恐らく遺体が見つかる日が来るまでは、微かなものであれ、その望みも残り続ける。
失踪者は皆、自らの存在と引き換えに、消えない謎を置いていく。いつになるとも分からない、その日が訪れるまで――。
◆参考文献
・佐藤友之『夢の屍 無尽蔵殺人事件の謎を追う』立風書房 1985年4月
・『小さな蕾』創樹社美術出版 1977年6月号
・『噂の真相』株式会社噂の真相 1984年1月号、3月号
・『週刊文春』文藝春秋 1982年12月16日号、1983年11月24日号
・朝日新聞 1982年8月29日、9月29日、10月3日、12月13日
・読売新聞 1982年9月27日、10月6日、11月13日、12月5、6、13、21日、
1983年2月8日、3月1、4日、4月28日、1985年3月14日
・東京地方裁判所 昭和58年(刑わ)3804号 判決文
・東京高等裁判所 昭和60年(う)817号 判決文
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