銀座宝石店金塊強奪事件とグリコ・森永事件の関連性・関係性を考察:金塊は海を渡る

銀座宝石店金塊強奪事件とグリコ・森永事件1984年の事件

ご注意:本記事は1984(昭和59)年4月19日13時20分頃、東京都中央区銀座で発生した3人組と思しき犯人による宝石店強盗事件(金塊強奪事件)と同年3月から翌年(1985年)まで続いたグリコ・森永事件との関連性・関係性を「金塊」に着眼し考察する記事です。

2023(令和5)年5月8日18時20分頃に発生した少年4人(2023年5月29日時点の逮捕者数)による銀座宝石店強盗事件に関する記事ではありません。

事件概要

1984(昭和59)年4月19日(木)13時20分頃、銀座通りに面した老舗の有名宝石店「Y」の店内に2人(以下、AとBと記す)の男が入って来た。

同日、東京には雨が降っていたが、日本有数の繁華街に在る有名宝石店「Y」の店内には宝石・貴金属の輝きに魅了される4人の客がいた。

そして、銀座通りを行き交う人々を誘うように「Y」のショーウインドウには、フォーナインと呼ばれる純度99.99パーセントの本物の金塊(約12億円分)が並べられていた。

店内に入って来た2人組の男たちは、「客」に似つかわしくない装いだった。男たちはサングラスと黄色のヘルメットで顔を隠し、軍手を嵌めた手には20-30センチのハンマーと拳銃があった。

突然の闖入者に店内にいた客4名と男性従業員2名及び女性従業員8名はそれまでの人生で感じたことのない恐怖を覚えたのだろう。

拳銃を手に威嚇する男とハンマーを使い強化ガラス製のショーウインドウを内側から割る男を目の前にし、店内のカウンター下に設置された非常ベルを押すことさえできなかった。

Aは、ショーウインドウにあった縦26センチ、横8センチ、厚さ4センチ、重さ12.5キロの金塊を3本(4本奪ったが1本は重さのため持ち運べなかったと思われる)を所持していた布製の袋に入れ店外に出た。Bは拳銃を2度3度、ゆっくり動かしながら店員と客を威嚇し続けていた。

Aは強奪した金塊を銀座通りで停車していた三菱・ギャラン・シグマ・クリーム色(偽造ナンバー)に運び込む。車内には3人目の男が待機していた。

Aが車に金塊を運び込んだのを見計らいBが店内から飛び出した。Bの後を追うように同店の27歳の男性従業員ら3人も店の外に出たが、Bは店の方向に向かい拳銃を1発発射した。

緊迫と硝煙が漂う有名宝石店「Y」の店内と銀座通りを尻目に3人の男が乗った三菱ギャラン・シグマ・クリーム色は、平日午後の街の喧騒に消えていった。

それはA、Bが店内に入ってから約1分間の出来事だった。 事件発生当時、銀座宝石店金塊強奪事件の被害額約1億円650万円(時価総額)は、1968(昭和43)年の「府中三億円事件」、1977(昭和52)年の「名古屋三億円強奪事件」に次ぐ史上三番目の多額被害だった。

なお、宝石店「Y」が盗難保険に加入していたため店舗側に実損はない(参考:「こちらも迷路、銀座宝石店金塊強奪事件の『犯人像』」週刊新潮1984年5月24日)。

銀座宝石店金塊強奪事件の謎

1984(昭和59)年4月19日に発生した銀座宝石店金塊強奪事件には、いくつかの謎がある。

ここからは、同事件の謎を整理しながら犯人像と背景と金の闇取引、密売とグリコ・森永事件の関連性・関係性を探ってみよう。

展示されていた金塊の謎

狙われた有名宝石店「Y」の親会社は、1885(明治18)年に創業した老舗企業「T株式会社」である。同社は、金輸入の自由化が始まった1973(昭和48)年、国内初の民間輸入業者となり、その後は、韓国、台湾にも進出する。

老舗企業「T株式会社」の代名詞的な「店舗」の宝石店「Y」は、戦前(明治25年)から営業を始め、1990(平成2)年に社名変更を行うものの、現在も銀座に店舗を構えている。

当然だが、同店のショーウインドウなどに展示されていた貴金属類のなかには、イミテーション(金メッキを施した模造品)も混じっていた。だが、犯人のAとBは、本物のフォーナインだけを選び、店内から強奪している。

ここで気になるのは、①なぜ、犯人A、B及びCは、同店のショーウインドウに本物のフォーナインが展示されていたことを知っていたのか?②なぜ、他の本物の貴金属(例えば宝石類)などに手をださなかったのか?の二点となる。

推測できるのは、犯人A、B、Cが、「事前に価値の高い(利益が大きい)本物のフォーナインが展示されているとの情報を得ていた可能性」や「犯人一味が金(Gold)の扱いに慣れていた」、「事前に入念な下見をしていた」、または、それらを複合させた理由によるものだと考えられる。

警備体制の謎

事件当日の店内の警備状況については、諸説がある。

事件翌日(昭和59年4月20日)の読売新聞によれば、「警備員はいなかった」、「百メート先に派出所があるので安心していた」、「ショーウインドウの表側のガラスには警報装置が付いており、破壊すると感知器が動いて非常ベルが鳴る仕掛けになっていた」、「延べ板は重い。簡単に持ち運べないと思いガードマンも雇わなかった(引用:「大胆、1分間の金塊強盗」読売新聞、昭和59年4月20日付)」とあり、井出守『迷宮入り事件の謎―ミステリーより面白い-白昼の一瞬の悪夢(P36)雄鶏社,1994. 』には、「警備員は二人常駐していたが、事件が発生したときには奥にいて、事件現場には従業員しかいなかった」と記述されている。

上記の2つの当日の警備体制について、どちらが正しいかの判断はできなかったが、一般的に考え、強盗が店内に押し入り、ガラスをハンマーで叩き割り、拳銃を発砲したのなら、かなり大きな音や客などの悲鳴が店内などに響き渡るだろう。

警備員が「奥にいた」と仮定するなら、犯行の時間が非常に短いことを考慮しても警備員が店内の異変に気づく可能性は高い。また、警備員が「奥にいた」のなら、休憩時間となるが2名の警備員が同時に休憩することは考え難い。

そう考えるならば、事件現場には警備員いなかった可能性が強くなり、犯人一味は警備員がいないこと及びショーウインドウの表側のガラスには警報装置が付いていたことを事前に知っていたと推察される。

では、上記2つの警備体制を犯人一味はどうのように知ったのか?「事前に入念な下見をしていた」のか?それとも事前に情報収集する役目の仲間がいたのだろうか?

ちなみに、犯人一味が逃走などに使用した三菱ギャラン・シグマ・クリーム色は、事件前に盗まれた車である。

犯行後、同車は東京都中央区八丁堀のビル内駐車場に乗り捨てられていた。当然だが、重量40キロ近い金塊3本を運ぶため同ビル駐車場内または付近で他車に乗り換えた可能性は非常に高いと思われ、犯人一味は事前に複数台の車を用意していたと推測できる。

なお、同事件を解説した井出守『迷宮入り事件の謎―ミステリーより面白い-白昼の一瞬の悪夢雄鶏社,1994. 』には、店内に設置されていた防犯カメラの一部が故障していたため犯人A・Bの姿が映っていなかったとの記述もあるが、同店の防犯カメラの設置の有無及び故障の有無に関する詳細は不明である。

事件後メディアにかかってきた電話の謎

犯人一味による白昼の大胆な犯行、銃器を使った犯罪は、直ちにTVや新聞で報道された。

事件当日の毎日新聞夕刊は、「宝石店に短銃強盗」の見出しで時価3000万円の金の延べ板(12.5キロ)が盗まれたと報道している(参考、引用:毎日新聞、夕刊、昭和59年4月19日付)。

上記の被害額3000万円は、事件発生の当初の情報錯綜からの誤報だろう。13時55分の読売テレビのニュースでも時価総額3000万円の金塊が強奪されたと報道されたようだ(参考:「大胆、1分間の金塊強盗」読売新聞、昭和59年4月20日付)。

白昼の銀座で被害額3000万円の強盗事件発生の報道が流れた直後の14時10分頃、日本テレビに30代から40代と思しき男性からの電話があった。電話の主は「三千万円相当の金の延べ板を奪ったというニュースは間違いで一億円相当だ。俺のプライドを傷つけるな。訂正しろ」と言い、さらに、10分後にも同様の電話があったといわれ、報道機関が知らない秘密の暴露を行ったと思われる同電話の主は犯人一味の可能性が非常に高いと判断される。

では、なぜ、犯人一味は被害額の訂正を報道機関に求めたのだろうか?「プライドを傷つけるな」という犯人一味の言葉は信用できるのか?犯人一味の自己顕示欲の現れなのか?

上記の問いに対する答えは否だろう。犯人一味は、正しい被害総額(犯人側からすれば犯行により得た価値)を誰かに伝える必要があったのだろう。

そう、犯人一味は、奪い取った金塊を現金などに変える必要がある。

そのため、事前に金の闇取引の約束を買い手側としていたのだろう。事前に買い手側と1億円の金塊闇取引を計画していたこと推察され、この推察を裏付けるような事件が長崎県の壱岐島で発生する。

壱岐島の金密輸事件

1984(昭和59)年5月下旬、山口県下関市在住の30代金融業者(以下、Dと記す)が、銀座宝石店金塊強奪事件と金塊密輸事件(金塊を常習的に韓国に密輸する事件)に関係する可能性を指摘する報道がなされた(参考:「壱岐の密輸犯と関連?」読売新聞、昭和59年5月25日付)。

報道当時のDは、既に銃刀法違反の容疑で逮捕、拘留されていたが、Dと仲間たちは1984(昭和59)年に入ってからだけでも月に平均5-6回、計700キロの金塊を韓国に密輸していたという(参考:「金塊密輸代金の一部 壱岐島で強奪の一億円」読売新聞、昭和59年5月20日付)。

Dなどの金塊密輸グループは、金(Gold)の自由化が行われておらず金の売買相場が日本の1.2-1.8倍の韓国に金を密輸し利益を得ていた。

密輸の手段は、漁船などを使う海上取引が主だといわれ、1984(昭和59)年当時、金(Gold)の密輸基地が山口県下関市などにあったようだ。

Dの証言によれば、「5月7日から8日の未明にかけ、壱岐沖で韓国側の密輸組織と金塊数十キロの取引をし、代金2億円を受け取り、釣り用の大型クーラーボックスに入れて持ち帰った」(引用:「金塊密輸代金の一部 壱岐島で強奪の一億円」読売新聞、昭和59年5月20日付)が、壱岐島在住の40代電気店経営者(同事件の容疑で逮捕)ら4人に約1億1000万円を奪われたという。

長崎県警からの連絡を受けた銀座宝石店金塊強奪事件を担当する警視庁築地署捜査本部は、同事件により奪われた金塊がDなどの金塊密輸グループの手を経て朝鮮半島に渡った可能性を視野に入れ、捜査員を長崎県に派遣する。

その後の捜査の結果、Dなどの金密輸グループと関わりのある山口県下関市の30代金融ブローカー(以下、Eと記す)が、銀座宝石店金塊強奪事件の4日前の5月15日から、偽名で、宝石店「Y」近辺のホテルに宿泊していたことが明らかになったと報道されている(「壱岐の密輸と接点?銀座の金塊強奪 仲間が上京近くに宿泊 取引の交渉か 事件4日前」毎日新聞、昭和59年6月7日付)。

同報道によれば、Eは以前より日本と韓国の間の覚醒剤や金塊の密輸に関係する人物といわれ、Dとも付き合いがあった(同一の密輸グループ)といわれている。

また、Eがホテルの宿泊に使用した山本某(前述のDは外国籍の人物であり通名は山本)という偽名を同時期に複数人物が宝石店「Y」近辺のホテルで使用していることから、複数の人間が共通の偽名を使い銀座宝石店金塊強奪事件の前に金塊の闇取引(密輸)の密談をしたのではないかともいわれている。

1984(昭和59)年6月9日、長崎県警はEを関税法違反(密輸)の容疑で全国指名手配とする(参考:「銀座・金塊強奪 壱岐の金密輸 接点の男手配」毎日新聞、昭和59年6月9日付)が、D及びEの銀座宝石店金塊強奪事件への関与を立証することは出来なかったようだ。

銀座宝石店金塊強奪事件の解決やD及びEの関与などに関する報道は確認できなかった。

なお、Dは1984(昭和59)年5月29日、金塊の密輸に関与した関税法違反の容疑で再逮捕されていた。

1980年代の金の闇取引

これまで「銀座宝石店金塊強奪事件」の事件概要と1980年代に行われていた日本と韓国(朝鮮半島)との金密輸について述べてきた。

そう、1980年代は、密かに日本から持ち出された金塊が韓国(朝鮮半島)に流れていた。これらの密かに持ち出された金塊は、銀座宝石店金塊強奪事件で奪われた金塊のような盗品などが含まれたいただろうことは容易に想像できる。

海を渡った金塊は、溶かされ、番号を消され、形を変え、朝鮮半島に流通したのかもしれない。

グリコ・森永事件の金塊100キロ

1984(昭和59)年は、犯罪史上に残る特異な年だった。

未解決事件「警察庁広域重要指定114号事件(「グリコ・森永事件」)」の発端となる江崎グリコ株式会社の社長誘拐事件は、1984(昭和59)年3月18日の21時頃に発生した。

3人の実行犯(銀座宝石店金塊強奪事件の犯人も3人組)は、入浴中の同社長を誘拐し、翌日の1984(昭和59)年3月19日には、同社役員宅に脅迫電話をかけ、社長と引き換えに「現金10億円と金塊100キロ」を要求する。

グリコ・森永事件に関する過去の報道や出版物などによれば、現金10億円と金塊100キロの重量を考えれば、この2つの要求は犯人の本当の要求や目的を隠すための方便、偽旗、ブラフではないかとの説が多く見受けられる

確かに、金塊100キロを運ぶのは容易ではなさそうだ。だが、銀座宝石店金塊強奪事件のAは約40キロの金塊を強奪し待機していた車に運んでいる。また、壱岐島の金の密売事件のDグループは、月に平均5-6回、計700キロの金塊を韓国に密輸し、これまで取引した金塊の合計は約1100キロ、総額33億円ともいわれる(参考:「壱岐の密輸と接点?銀座の金塊強奪 仲間が上京近くに宿泊 取引の交渉か 事件4日前」毎日新聞、昭和59年6月7日付)。

グリコ・森永事件の現場実行犯は3人以上の人数だ。3人が数回に分け現金10億円と金塊100キロを運ぶことは不可能ではない筈だ。

グリコ・森永事件の目的は金塊だったのか?

グリコ・森永事件の過去報道には、死亡した貿易会社社長で北朝鮮の工作員の黒幕的存在の人物や北朝鮮と関係のある考古学者(安否不明)の関与を指摘する報道がある。

さらに、時代が変わり、金正恩総書記の時代となった21世紀でも「北朝鮮にあるすべての金は事実上、金正恩氏の所有物なのだ(引用:金正恩から「金塊17億円相当」強奪…車で運搬中、元特殊部隊員か、デイリーNKジャパン編集長:高英起、2022年12月5日配信)」といわれているようだ。

未解決事件「グリコ・森永事件」の犯人グループの目的には諸説ある。

そのなかで有力視されているのが、企業との裏取引説(現金の受け渡しや銀行振り込み)、株価操作説だと思われるが、現金は紙幣番号を控えられるリスクが有り、口座振り込みは双方の口座に足跡が残る。株価操作の場合は、国内での売買は足がつくため海外の証券会社を使うことになるが、犯人側が完全に気配、痕跡を消すことは難しいだろう。

では、金塊はどうだろうか?そう、金塊は、溶かされ、番号を消され、形を自由自在に変えることができるのだ。

雑感(まとめ)

今回は、犯罪史に残る特異な年――1984(昭和59)年に発生した2つの事件(銀座宝石店金塊強奪事件とグリコ・森永事件)の共通点を「金塊」を中心に据え考察してみた。

この2つの事件の真相は、海の向こうにあるのかもしれない。


◆参考文献
「大胆、1分間の金塊強盗」読売新聞、昭和59年4月20日付
「雨の銀座、映画を地で行く」読売新聞、昭和59年4月20日付
「銃で制圧、ガラス割り 店員や客恐怖…非常ベル押せず」読売新聞、昭和59年4月20日付
「壱岐の密輸犯と関連?」読売新聞、昭和59年5月25日付
「金塊密輸代金の一部 壱岐島で強奪の一億円」読売新聞、昭和59年5月20日付
「密輸入で再逮捕」読売新聞、昭和59年5月30日付
「防寒帽オスローを追え 銀座の金塊強盗」読売新聞、昭和59年6月7日付
「山崎に犯人?の電話 現金で取引を要求」読売新聞、昭和59年6月8日付

「宝石店に短銃強盗」毎日新聞、夕刊、昭和59年4月19日付
「壱岐の密輸と接点?銀座の金塊強奪 仲間が上京近くに宿泊 取引の交渉か 事件4日前」毎日新聞、昭和59年6月7日付
「銀座・金塊強奪 壱岐の金密輸 接点の男手配」毎日新聞、昭和59年6月9日付
「金塊密輸:容疑で8人逮捕 佐賀で206キロ、10億円相当か」毎日新聞、2017年6月2日付

井出守『迷宮入り事件の謎―ミステリーより面白い-白昼の一瞬の悪夢』雄鶏社,1994.
「こちらも迷路、銀座宝石店金塊強奪事件の『犯人像』」週刊新潮1984年5月24日


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Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste RoquentinはAlbert Camus(1913年11月7日-1960年1月4日)の名作『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartre(1905年6月21日-1980年4月15日)の名作『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場するそれぞれの主人公の名前からです。
Jean-Baptiste には洗礼者ヨハネ、Roquentinには退役軍人の意味があるそうです。
小さな法人の代表。小さなNPO法人の監事。
分析、調査、メディア、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルなど。

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