三億円事件

三億円事件 考察

1968(昭和43)年12月10(火曜日)午前9時15分、旧「日本信託銀行国分寺支店」(東京都国分寺市本町2-12-6)から1台の車が発進した。発進したニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)には、当時27歳~35歳の旧「日本信託銀行国分寺支店」に勤務する資金係長1名、財務相談係2名、運転手1名の計4名の男性が乗っていた。そして、その車のトランクルームには3個のジェラルミンケースに入れられた2億9434万1500円の現金が積まれていた。旧一万円紙幣が27,369枚、旧5千円紙幣が2,161枚、旧千円紙幣が8,785枚、旧五百円紙幣が2,191枚――合計40,506枚の紙幣は、約4,500人分の東芝府中工場従業員の賞与と未払給与分――銀行側の厚意によりこの40,506枚の紙幣は、さらに従業員約4,500人分にわけられ、用意された約4,500人分の茶封筒に各従業員毎の給与明細と額面金額が入れられていた。

東京は前日(1968年12月9日)の午後から雨だった。

4人の旧「日本信託銀行国分寺支店」の関係者と東芝府中工場従業員の賞与など約3億円を乗せたニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)が発進した後、一台の車がニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)の前に現れた。

その車がニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)の前に「いつ」「どこ」から現れたのかは定かではないが、その車の車種などは警察の捜査のなかで明らかになっている。その車はトヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)だった。

事件当時の報道映像『史上最高3億円強奪さる』映像は株式会社中日映画社様から許可を得て使用しています。本サイトからの映像のダウンロード、映像・音声の切り抜きなどの二次使用は固くお断り申し上げます。なお、映像使用は、株式会社中日映画社様にお問合せ下さい。

約3億円の現金を運ぶ旧「日本信託銀行国分寺支店」のニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)は、東京都府中市内に所在する東芝府中工場を目指し国分寺街道を南に向かう。同車は国立市と調布市方面を結ぶ通称「学園通り」に入るため、「栄町交差点」(現在の「明星学苑前交差点」と思料される)を右折した。右折前、ニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)の前方を走っていたトヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)は視界から消えていた。トヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)は、「学園通り」へショートカットできる道に入った。そして、その「学園通り」へショートカットできるの狭い道沿いの空き地にエンジンをかけたままの状態で停車した。そのカローラから一人の男が降りてきた。その男(三億円事件の犯人)は、同所に事前用意してあった偽装白バイ・ヤマハスポーツ350R1(多摩い1129)に跨り、「栄町交差点」を右折する旧「日本信託銀行国分寺支店」のニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)を現認し、駐輪中に被せていたシートを引き摺りながら、現金運搬車の追跡を始めた。なお、「学園通り」へのショートカットの道は、「栄町交番前」交差点から「明星学苑前交差点」までの間にあったと思料され、現在の「明星学苑前交差点(旧,栄町交差点)」から「栄町交番前」方向への一方通行路ではないかと推測される。

1968年12月10日、午前9時20分頃――府中刑務所前――東京都府中市栄町3-4付近路上で、偽装白バイがニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)の前に出た。偽装白バイに乗っていた三億円事件の犯人は、左手を水平に上げニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)に停車を促した。停車する旧「日本信託銀行国分寺支店」の車。偽装白バイに乗ったニセ警官(三億円事件の犯人)が現金運搬車の運転席に近づいてくる。白色のヘルメットをかぶり、白色のマフラーを着用し、口元は革製と思しき黒色マスクで覆われていた。4人の銀行員は近づいてくる三億円事件のニセ警官の動きに落ち着いた印象を受けた。この時点で4人の銀行員は、三億円事件の犯人であるこのニセ警官の演出に見事に騙されてしまったようだ。

そして、三億円事件の犯人は、旧「日本信託銀行国分寺支店」の車の運転席の窓越しに「日本信託銀行の車ですか?」「小金井署の緊急手配で巣鴨の支店長宅が爆破された」「この車にもダイナマイトが仕掛けてあるかもしれない」などと語り、巧みな演技と発煙筒を使った演出工作で当時27歳~35歳の旧「日本信託銀行国分寺支店」資金係長などを騙し、現金約3億円を車ごと奪い逃走した。

逃走した――この三億円事件の犯人の演技力や工作(警察官の制服、白バイなどの工作)により、事件発生当初の数分間――旧「日本信託銀行国分寺支店」の4人の関係者は、この(ニセ)警察官が「逃走した」ことさえ気がつかなかった。市民を危険から守るためダイナマイトが仕掛けられた車に乗り込み現場から離れた勇気ある警察官――三億円事件の犯人は彼らにそう錯誤させ、この戦後犯罪史に残る未解決事件を実行した。

今回は、この戦後犯罪史に残る未解決事件。グリコ・森永事件(参考:グリコ・森永事件 検証『滋賀県から海外へ』)と並び称される未解決事件の代名詞的な「三億円事件(府中三億円事件)」の謎を考察していこう。

上記は三億円事件の現場(通称、第一現場)「東京都府中市栄町3-4」付近の地図

※上記写真の解説 (クリックすると大きな画像になります)
左:旧日本信託銀行国分寺支店の現金運搬車 ニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)(毎日新聞1968年12月10日夕刊)
中央:犯行現場略図(毎日新聞1968年12月10日夕刊)
右:偽装白バイ・ヤマハスポーツ350R1(多摩い1129)(読売新聞1968年12月10日夕刊)

警察官の息子の犯行か?

まずは、小説、映画、ドラマなどの創作物のなかで三億円事件の犯人として描かれることの多い警察官の息子Sについて検証してみよう。三億円事件の発生当時、Sは19歳の未成年だった。Sの父親は1950年8月に創設された警察予備隊(自衛隊の前身組織)に入隊。その後、警視庁の警察官を拝命し、警視庁公安部を経て、三億円事件当時は警視庁の白バイ隊の中隊長職に就いていた。S家の家族構成は、その父親と母親、自殺したSとその妹の四人家族であり、その4人の家族は警視庁勤務の父親が購入した東京都国分寺市戸倉町内の戸建て住宅に居住していた。なお、この「東京都国分寺市戸倉町」は、三億円事件発生(1968年12月10日)の直前の1968(昭和43)年12月6日に旧「日本信託銀行国分寺支店」の支店長宛てに届いた脅迫状の差出人が記載した住所「東京都国分寺市戸倉町1(同住所は架空の住所であるため詳細は省略する)」に近似している(参考:『雨の追憶 図説 三億円事件』 P,75 むらきけい著,2005,文芸社)

また、自殺した少年Sは、三億円事件の第一現場と呼ばれる「栄町交差点」(現在の「明星学苑前交差点」と思料される)付近に所在する私立高校に通っていたともいわれ、同高校は後述する「多摩農業協同組合脅迫事件」の5回目の脅迫(1968年7月25日)で犯人から利用された当時、東京都府中市在住の教師の勤務先高校でもある(参考:『雨の追憶 図説 三億円事件』 P,90 むらきけい著,2005,文芸社)

高校を二年で中退した少年Sは、立川グループと呼ばれた約60人からなる不良グループに所属し、空き巣、事務所荒らし、強盗、傷害、恐喝、車両窃盗などを繰り返す粗暴犯として少年鑑別所に収容されていた経歴を持っていた。また、少年Sが所属していた立川グループは、乗用車60台以上を盗み、恐喝、傷害、暴走行為などを繰り返していたともいわれ、少年Sを含めた立川グループのメンバーたちは発煙筒をダイナマイトに偽装し、閉店間際のスーパーマーケットから現金を奪う強盗事件なども行っている。

少年Sは、三億円事件の事件現場付近に土地鑑を有していた。また、少年Sには車両窃盗や傷害事件などの非行歴があり、彼の父親は現役の白バイ隊員だった。そして、三億円事件の発生後に自殺を遂げている。これらの点と点を結び付け勘案すれば、少年Sは三億円事件の犯人像に非常に近い人物だともいえるが――後述する「多摩農業協同組合脅迫事件」の切手から採取された同事件の犯人と思しき人物の血液型と少年Sの血液型は一致していない。さらに、少年Sは「多摩農業協同組合脅迫事件」への3回目の脅迫が行われた1968(昭和43)年6月に仲間3人と傷害、強盗事件をおこし逮捕され少年鑑別所に収容されていた。そして、少年Sやその仲間の立川グループは粗暴犯であるが三億円事件の犯人は知能犯であり、少年Sやその仲間は三億円事件の犯人像に合致しない。

「多摩農業協同組合脅迫事件」や三億円事件の第四現場と呼ばれる「東京都日野市多摩平4丁目」内の公団および隣接する公務員住宅から発見された複数台の盗難車の窃盗犯と三億円事件の犯人が同一だと仮定するなら、三億円事件は1968(昭和43)年12月13日~14日(第四現場で発見された盗難車「スラカイラン2000GT」が盗まれたといわれる年月日)から始まっている。

三億円事件は偽装した白バイ1台、約3億円の現金を運搬する旧「日本信託銀行国分寺支店」のニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)を追跡、監視するトヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)および奪取した旧「日本信託銀行国分寺支店」のニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)から現金の入った3個のジェラルミンケースを積み換え逃走用に使用した通称「多摩五郎」トヨタ・カローラ(多摩5ろ3519)のカローラ2台、さらには第四現場と呼ばれる前述逃走用カローラとジェラルミンケース3個を遺棄した「東京都小金井市本町4-8」付近の公団駐車場からの最終逃走用の詳細不明車両の合計4台の車両(1台はバイク)を使った容姿周到な知能犯による事件である。

また、前述のとおり、旧「日本信託銀行国分寺支店」のニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)には、当時27歳~35歳の旧「日本信託銀行国分寺支店」関係者が乗車していた。それら4人の大人を偽装した白バイ隊員の制服と偽装白バイで巧みに騙す手口。相手の騙すため、相手の心理状況を操作するための事前の脅迫や三億円事件当日の犯人の言葉や態度――粗暴犯の19歳の少年Sにそれらが出来るのか?少なくとも少年S単独では「出来ない」と判断するのが妥当だろう。

犯人の年齢層を考察する

三億円事件の犯人の年齢は、前述の少年Sをはじめ10代後半から20代ではないかという推測が散見される。三億円事件が発生した1960年代から1970年代は学生運動が盛んな時期だった。また、三億円事件が発生した東京都下には学生運動に参加する学生などの住まいなども多く、三億円事件の捜査を担当する警視庁は「三多摩地区(23区外)」の学生などへの所謂ローラー作戦(徹底した聞き込み、訪問などの手段による捜査手法)を実施している。同地域のアパートなどを中心に徹底した聞き込み、巡回カードなどを利用した徹底した不審者あぶり出しが行われたのだろう。

三億円事件の犯人を語るとき、バイクや自動車の運転に慣れた素行不良の「若者」のイメージを語る者が多い。この場合の「若者」は、少年Sや過激さを増し状態化する学生運動に参加していた10代後半から20代半ばのイメージを思い浮かべる者も多いだろう。確かに三億円事件の犯人は、複数台のバイクや車を盗みそのバイクや車を改造などし、巧みな運転技術により捜査をかく乱した。だが、バイクの運転に関しては、追跡・監視用トヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)を乗り捨て偽装白バイ・ヤマハスポーツ350R1(多摩い1129)に乗り換えた第三現場(東京都府中市栄町2-22付近)から3億円を奪取した犯行現場の第一現場(東京都府中市栄町3-4付近)までの数百メートルの運転しかしていない。この数百メートルの運転だけでは犯人のバイク運転の技量を判断するのは早計だと言わざるを得ない。

資格を有する弁護士、医者などの専門職や業務の際に制服を着用するパイロットなどに擬変し、小切手詐欺などの犯罪に手を染めたフランク・ウィリアム・アバグネイル, ジュニア(1948年生)という人物がいる。2002年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督、レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス主演の『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(Catch Me If You Can)』で描かれた1960年代米国の天才的詐欺師である。

彼は弁護士、医者などの有資格者やパイロットのような専門職に対する他人からのイメージを利用し人々を騙す。人々は彼の話術や風貌や彼が名乗る肩書、彼が着る制服、詐欺で手に入れた高価な彼の持ち物から彼を評価し判断してしまう。彼は優秀な弁護士だ。医者だ。パイロットだ。彼は将来有望な若者だ――などの評価を与え――彼が演じた職業のイメージと権威から「彼」を判断し、彼の全てを信じてしまう。

捜査を担当したFBI(連邦捜査局)捜査官の当初の見立ては、「犯人は成人男性」だった。全米を舞台に大胆かつ巧妙な小切手詐欺を実行するのは、ある程度の知識と経験を有する成人男性だと思い込んでいた。だが、実際の犯人――フランク・ウィリアム・アバグネイル, ジュニア――は、未成年の家出少年だった。人には推測、推理などする際に「思い込み」から結論を導きだそうとする傾向がある。三億円事件に関しても「思い込み」からの見立てがあったのではないか?あるのではないか?三億円事件に関係する事件といわれる「多摩農業協同組合脅迫事件」の脅迫電話の主はその声から30代以上の年齢との説がある。また、三億円事件の事件当日(1968年12月10日)の朝――銀行員が約3億円の現金をニッサン・セドリック1964年型(多摩5は6648)のトランクに積み込み始めた時間帯――旧「日本信託銀行国分寺支店」から50メートルほど離れた場所で黒色のレインコートを着用した年齢30-35歳くらいの男性が目撃されているらしい。その男は雨のなか10分程度もその場に「立ち尽くしていた」ともいわれる(参考:『雨の追憶 図説 三億円事件』 P,63 むらきけい著,2005,文芸社)

では、学生運動に参加する学生などの可能性はどうだろうか?1968(昭和43)年12月10日に発生した三億円事件から6年後の1974(昭和49)年8月30日、東アジア反日武装戦線(狼)を名乗る過激派グループによる三菱重工爆破事件が発生した。過激派グループはトロツキーの有名な言葉を実践するように多くの犯罪を起こし、ついには「殺人」までも犯してしまう。トロツキーは言った。「目的は手段を正当化する。なにかが目的を正当化する限りは」。ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフは、偉大な目的の実現のために「斧」を手にして金貸しの老婆とその(偶然にだが)妹を殺害した。

1995(平成7)年3月30日に発生した「警察庁長官狙撃事件」の犯人だと名乗る「中村泰」(昭和5年4月生まれ。幼少期に旧満州で暮らし、戦後は東京大学教養学部理科2類に進学するが自主退学。既に獄中死したとの情報が散見される)は、その過激な革命思想(彼はチェ・ゲバラを尊敬していたのといわれるが――)により多くの凶悪事件に手を染めている。革命を実行するためには武器が必要だ。そして、武器を調達するためは資金が必要だ。実際に彼はほぼ一人で銃などの武器を調達している。移動するための車が必要だ。車を盗みナンバーを偽造する必要がある。銃の調達や訓練のため海外へ渡航するには偽造パスポートが必要だ。それには偽装戸籍や偽装住民票などが必要だ。彼は目的を遂行するために警察官を殺害し、銀行の現金輸送車を襲撃し――まさにトロツキーの「目的は手段を正当化する。なにかが目的を正当化する限りは」を体現した人物だともいえる(参考:『宿命 警察庁長官狙撃事件 捜査一課元刑事の23年』原雄一,著2018年 講談社)

三億円事件の犯人はどうだろうか?三億円事件の犯人は長期間にわたり事件を計画し、前代未聞の事件を実行したが誰も殺していない。この三億円事件の犯人は窃盗犯(または強盗犯か?)だ。車やバイクやその他の遺留品には盗まれた物が多いが、事実認定されている限りでは三億円事件の関係事件で人を殺すなどはしていない。三億円事件と関係があるとされる「多摩農業協同組合」脅迫事件の脅迫状には以下の言葉がある。

カネサエ イタダケバ オトナシクヒキサガル アンシンセヨ 

多摩農業協同組合への3回目の脅迫文

三億円事件と関連があるといわれる「多摩農業協同組合」への脅迫は5回ある。その5回の脅迫文のなかに「人を殺す」「(農協が金を払わないので)人を殺した」などの記述があるが、実際には人を殺していないようだ。

三億円事件の犯人は金融機関(農協には金融機関の業務、役割がある)から金を奪うことを考えるが粗暴犯のような振る舞いはしない。ここで重要になるのは「しない」のか「出来ない」のかの違いだが――未解決事件のため犯人の口からその真相を聞くことはできない。

上記のように三億円事件の犯人からは、当時の一部の過激派のような先鋭的な思想は感じられない。目撃情報にある犯人の可能性のある人物の年齢や犯行の緻密な計画性、事件当日の銀行員に対する振る舞いなどから、三億円事件の犯人は一般的にいわれている10代後半から20代の人物ではないと推察する。

犯人は複数犯か単独犯か

三億円事件は単独犯による犯行か?共犯者のいる複数犯による犯行か?この筋読み(見立て)により三億円事件の推理が根本から変わってしまう。三億円事件の捜査に係わった昭和の名刑事「平塚八兵衛」は、単独犯の見立てで捜査を進めたが、小説たやドラマなどで描かれる「三億円事件」は、複数犯による「犯行」と描かれることが多い。少年Sと中年男性の2人組説。立川周辺の不良グループと警察関係者の共犯者。不良少年と学生運動の闘士の組み合わせ――複数犯の見立ての多くは偽装白バイを操り三億円奪取に成功した実行犯の少年と三億円事件を計画した年配の人物など「実行役は若い男性」「計画は年配の男性(警察関係者含む)」で描かれることが多いようだ。

また、三億円事件発生直後の報道によれば、事件発生直後、当時の警視庁刑事部長T氏は、複数犯の可能性や多摩信用金庫への脅迫状との関連性を語り(参考:驚くべき綿密な計画(1968年12月11日朝日新聞)、作家の大藪春彦氏(1935年2月22日 – 1996年2月26日)も複数犯説を唱えている。(参考:ぼくの小説まねた 三億円強奪を推理する 複数だと大藪さん驚く(毎日新聞1968年12月11日)なお、大藪春彦氏の小説は『血まみれの野獣』(1968年1月~1969年1月まで小学館の青年誌『ボーイズライフ』に連載されていた)

以下は三億円事件発生直後(事件当日昭和43年12月10日夕刊)の「複数犯説」報道

(前略)このため同本部は犯人があらかじめ、乗用車を史跡あとにおき(中略)現金箱一個の重さが50キロもあることから、共犯者があらかじめ時間を打ち合わせてほかの車で待機、この車に三個の現金箱を積み換えて逃走したものとみており、犯人が複数という見方を強めている(後略)

複数の計画犯行か (毎日新聞1968年12月10日夕刊)

そして、三億円事件の謎を考察する際に留意しなければならないことがある。それは――この前代未聞の未解決事件――三億円事件は4つの構成から成り立つことを考えなればならないことだ。その4つの構成を以下に記す。

  1. 合計5回に及ぶ多摩農業協同組合への脅迫事件
  2. 三億円事件で使用された盗難車および関係性が指摘される他の盗難車両など遺留品の窃盗事件
  3. 1968(昭和43)年12月10日の三億円奪取(窃盗)事件
  4. 三億円奪取後の第四現場(東京都小金井市本町4-8付近の公団内駐車場)からの逃走

上記1の「多摩農業協同組合」への脅迫事件は、1968(昭和43年)4月25日から1968(昭和43)年8月22日まで続いた事件である。

上記2は、三億円奪取後の第四現場(東京都小金井市本町4-8付近の公団内駐車場)および隣接する公務員住宅から発見された数台の盗難車についてである。これらの盗難車が三億円事件と関係するとするのなら、確認される最初の犯行は1967(昭和42年)12月13日夜間~14日朝までとなる。そして、ここで重要な着眼点は、それらの車を三億円事件の犯人が盗んだと仮定した場合の移動手段である。以下は、盗難車が盗まれた場所などの一覧である。

盗まれた年月日車種盗まれた場所
1967年12月13日(水)夜~14日(木)朝プリンス(日産)スカイライン2000GT保谷市(現:西東京市)ひばりが丘
1968年8月13日(火)夜~14日(水)朝プリンス(日産)ブルーバード保谷市(現:西東京市)ひばりが丘
1968年8月21日(水)夜~22日(木)朝プリンス(日産)スカイライン1500小平市小川東町
1968年9月10日(火)夜~11日(水)朝日産サニーデラックス調布市染地
1968年11月9日(土)未明ホンダドリーム300八王子市石川町
1968年11月19日(火)夜~20日(水)朝偽装白バイ用ヤマハスポーツ350R1日野市平山
1968年11月30日(土)夜~12/1(日)朝追跡用トヨタ・カローラ1966年型2ドア日野市東平山
1968年12月5日(木)夜~6日(金)朝逃走用トヨタカローラ(通称多摩五郎)日野市多摩平
三億円事件の犯人が関与した可能性が考えられる車両窃盗事件 一覧

上記から三億円事件で使用された偽装白バイ用のバイクおよび2台のトヨタカローラは東京都日野市内から盗まれた。また、これも白バイ偽装用と思われるホンダドリームは日野市に隣接する八王子市内から盗まれているが、それ以前の日産車は東京都下の北部である現在の西東京市および小平市内から盗まれていることがわかる(ただし、調布市内から盗まれた日産車もある)。これらすべての車両窃盗事件が三億円事件の犯人の手による犯行とは断定できないが、犯行地域はかなりの広範囲だといえる。そして、この広範囲の移動をどのように行ったのか?が重要となる。当然だが、車両を盗んだ後はその盗んだ車両で自宅(アジト)などに帰ることができるが、窃盗現場にどのうな移動手段で行ったのか?これらの広範囲な地域を徒歩で移動したのか?他の盗難車で現場まで向かい車両窃盗後に現場までの移動に使った盗難車を放置などしたのか?それとも複数の人間が一台の車に乗り窃盗現場まで向かい、一人が現場で盗んだを車を運転し、残りの者が現場まで乗ってきた他の車に乗りアジト(自宅など)に戻ったのか?

そして、追跡・監視用のトヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)が盗まれた現場(飲食店の敷地内)には、「大小2つの足跡が残っていた」といわれている。

前述の3は、1968年12月10日に実行された三億円事件のそのものである。この三億円の奪取は単独での犯行と考えられる。一人の人間が追跡・監視用カローラと偽装白バイと逃走用カローラを使い実行したと思われる。

前述の4は、後部座席に3個の空のジェラルミンケースが置かれたままの状態で発見された逃走用カローラの駐車場所(第四現場)以降の犯人の動きである。犯人は逃走用カローラを事件当日の1968年12月10日に第四現場(東京都小金井市本町4-8付近公団駐車場)に放置し、永遠の謎のを残しながら何処かへ消えてしまった。この第四現場からの移動手段は誰にもわからない。事前用意していた他の盗難車に乗り一人で消えたのか?それとも検問での職質をかわすために自分の車を用意し、その車で去ったのか?または、誰かが第四現場に三億円を奪取した犯人を迎えにきたのか?

三億円が奪取された1968年12月10日の午前9時20分頃から約15分から25分後には警察の緊急配備指令が伝令され東京都内の幹線道路や県境の河川に架かる橋など900か所以上の場所に検問が敷かれた。緊急配備指令は東京に隣接する山梨県、埼玉県、神奈川県、千葉県にも発令され、都内の幹線道路数箇所などでは検問による渋滞が発生したといわれている。

用意周到な三億円事件の犯人はこの緊急配備指令が発令された異常事態の道路状況をどのように切り抜け自宅などアジトに戻ったのだろうか?繰り返しになるが、盗難車での移動は、検問職質を受けた際のリスクが高い。このため、第四現場からは自分の車など盗難車ではない車を使い移動したのではないか?ただし、自分の車を第四現場に駐車するには目撃されるリスクがある。では、どうすればよいのか?盗難車以外の車(共犯者の車など)に乗った第三者(共犯者)が第四現場で三億円奪取実行犯と合流する。これが検問における職質などを避ける最も効果的な手段だ。

警察の緊急配備指令は、三億円奪取を実行した「単独の男性」を想定している。第四現場から2人になる。しかも、使用する車は盗難車ではない。運転手を想像しよう。三億円奪取をした犯人の運転か?それとも追跡・監視用のトヨタ・カローラ1966年型2ドア(多摩5め3863)が盗まれた現場(飲食店の敷地内)に残された小さな足跡の主か?

小さな足跡の主――三億円事件との関連性が考えられるといわれる盗難車「プリンス(日産)スカイライン1500」の車内には所有者不明の女性用アクセサリーが残されていた。

白バイ隊員に偽変した犯人。盗んだバイクを白バイに偽装した犯人。警察の緊急配備をすり抜ける最も有効的な偽装工作は――男女のカップルが乗る車――三億円事件の犯人は――そのことに気づていただろう。

誤認逮捕と過熱報道

1968(昭和43)年12月10日の三億円事件発生から約1年後の1969(昭和44年)12月12日、当時20歳代の一人の男性が三億円事件の関係者として警察から任意同行を求められた。その後、この当時20歳代の男性は微罪の別件容疑で逮捕されてしまう。全国紙の大手新聞社などは同男性を実名で報道し、それを受けた社会はこの男性を三億円事件の犯人のように思い込む。

だが、この男性には三億円事件当日の1968(昭和43)年12月10日のアリバイがあった。この男性と三億円事件の関係は認められず、男性への別件容疑の逮捕は、ある種の誤認逮捕だったとも指摘されている。

警察からのリークを受けたメディアの実名報道による冤罪被害――その後も冤罪は続いている(参考:『松本サリン事件に関する一考察』を考察!

なお、この冤罪被害の男性は2008(平成20)年9月、自殺したともいわれ、遺書には警察に対する恨みが綴られていたとの報道も散見される。

この男性は「多摩農業協同組合」脅迫事件から始まったといわれる三億円事件の被害者であるともいえる。

次のページ:三億円事件 犯人像の考察など

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