
帝銀事件の謎を考察・検証
帝銀事件 事件概要
帝銀事件の事件概要

事件現場 | 旧帝国銀行椎名町支店 当時の所在地東京都豊島区長崎町1-33 |
年月日時 | 1948年(昭和23)1月26日(月曜日)15時過ぎ頃 |
事件概要 | 詳細不明の青酸化合物を使用した強盗殺人など |
被害者数 | 死亡者12名など |
被害総額 | 現金164,410円、小切手17,450円 |
なお、帝銀事件の略地図の東側にある環状(道)路は、「山手通り」であり、後述する帝銀事件の関連事件の事件現場付近にも「山手通り」が通っている。
帝銀事件の時代背景
1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言を受諾した日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれた。その後、1947(昭和22年)4月25日の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党が第一党となり、日本社会党委員長率いる片山内閣が発足する。
空襲により焼け野原となった新宿には博徒系ヤクザ関東尾津組が「光は新宿より」のキャッチフレーズを掲げた大規模な闇市(尾津マーケット)が生まれ、闇市には多くの人が毎日のように食料、日用品、仕事などを求め集まっていたのだろう。そのような「戦後のど真ん中」の社会状況のなか、1948(昭和23)年1月26日(月曜日)、12名の死者を出した凶悪な強盗殺人事件「帝銀事件」は発生した。
この凶悪な帝銀事件で逮捕、起訴、死刑が確定したのは著名な画家「平沢大暲(本名:平沢貞通)」である。平沢貞道は無実を主張しながら約39年間を獄中で過ごし95歳で他界したが、帝銀事件にはいまだに冤罪説、複数犯説、GHQ関与説、旧日本軍の特務機関や731部隊の関与説など多くの疑問や謎が有ると指摘されている。なお、昭和23年には、死刑冤罪事件の「免田事件」、拷問的な取り調べによる自白強要が証拠となり一審で死刑判決などを受け、その後、無罪となった「幸浦事件」などの冤罪事件。アプレゲール犯罪といわれた「光クラブ事件」。多数の嬰児を殺した「寿産院事件」や複数の女性とその子を崖から落とし殺害した「おせんころがし殺人事件」などの凶悪事件などが発生している。全てが変わった1945(昭和20)年8月15日から約3年の日本社会は混沌の時代だったのだろう。そのような社会情勢のなか、1948年(昭和23年)1月26日(月)15時過ぎ、厚生省技官医学博士の肩書と東京都の防疫課の名称が印刷された名刺を持ち、近隣で発生した集団赤痢の予防のためGHQの指示により来たと語る一人の男が「帝国銀行椎名町支店」(当時の住所:東京都豊島区長崎1-33)に現れ、子供を含む12名を青酸化合物とみられる薬物で殺害し、現金181,900円、小切手1枚(17,450円)の総額181,900円を奪った強盗殺人事件が発生した。この前代未聞の大事件――いまだに多くの疑問を残す戦後を象徴する事件――を検証・考察してみよう。
一人で多数を制圧した犯人
この前代未聞の凶悪犯罪「帝銀事件」は、本事件 (「帝国銀行椎名町支店」の強盗殺人) と2つの未遂事件と関係性が指摘される2つの事件、さらに本事件(帝銀事件)の翌日(1948(昭和23)年1月27日、14時40分頃)、本事件で詐取した小切手を換金した事件(「安田銀行板橋支店」を舞台とした事件)の合計6つの事件で成り立っている。なお、平沢貞道の犯行と裁判で認定されている事件は本事件 (「帝国銀行椎名町支店」の強盗殺人)とそれ以前の未遂事件2件、本事件の翌日に発生した小切手換金事件の合計4事件であり、松本清張や和多田進(ドキュメント帝銀事件 毒の告発,2013,solaru)などにより関係性が指摘される関連2事件は、その真偽などに不明な点もあるが、本サイトでは「帝銀事件」を考察するうえでのヒントとなる関係性事件として扱いたいと思う。
以下の図の赤枠が平沢貞道の犯行と認定された4つの事件である。なお、同図は(昭和23年1月28日付「帝国銀行員毒殺ニ干スル追加指示」(警視庁文書:参考文献, 「ドキュメント帝銀事件 毒の告発」,P39)および(森川哲郎著「秘録帝銀事件」2009年祥伝社,P372-373)を参考に作成した。

帝銀事件の犯人として逮捕、起訴、死刑判決を受けた平沢貞道は、1947(昭和22)年10月14日の「安田銀行荏原支店」の事件で犯人が現場に残した名刺の主である厚生技官「松井蔚」と過去(1947(昭和22)年4月25日~27日の青函連絡船 景福丸の一等船室内 )、偶然に出会い名刺交換をした。その事実を突き止めた警視庁捜査一課の名刺班は、日本初のモンタージュ写真の犯人に似ているなどの理由と併せ平沢貞道を逮捕した。長期間に渡り勾留され、警察、検察からの厳しい取調べを受けた平沢貞道は犯行を自供するが、裁判では否認に転じる。そう、帝銀事件は4つの事件を同一犯と認定し、その4つの事件を平沢貞道の一人の犯行と認定している事件だ。
ここから、この4つの事件のうち本事件(帝銀事件)の翌日の小切手換金事件を除く3事件(未遂2事件)で使われた小道具と騙しの言葉を検証してみよう。なぜなら、この一連の事件は最少人数の実行犯がその知略と演技により多数の者を支配下に置いた事件――つまり、拳銃などで大人数を制圧する粗暴犯ではない詐欺事件だからだ。
名刺と腕章 騙すための小道具と言葉
1・昭和22年10月14日 15時30分頃~約1時間に発生した「安田銀行荏原支店」での未遂事件
同事件は「帝銀事件」の約三か月前に発生した一連の「帝銀事件」の最初の事件である。また、この事件では実在する厚生技官「松井蔚」の名刺が犯行に使用され、過去に同人と名刺交換をしていた平沢貞道が本事件(「帝銀事件」)の容疑者に浮上するきっかけとなる事件でもある。
以下は 「安田銀行荏原支店」の未遂事件で使用された名刺のイメージ。

また、同事件で犯人は「厚生省」と毛筆で書かれた白色腕章をしていたらしい(参考文献,ドキュメント帝銀事件 毒の告発 P43-44)
つぎに、この 昭和22年10月14日、15時30分頃~約1時間に発生した「安田銀行荏原支店」の未遂事件で犯人が同銀行関係者や犯人と直接会話した飯田巡査に語った内容をみてみよう。
「茨城の水害で悪疫が流行したので、現地に派遣され、コタコタに疲れて帰ってきました。ところが、今度は、水害地から子供を連れ小山三丁目のマーケットの裏の渡辺忠吾という家に避難してきた夫婦者が、赤痢にかかり、そこから集団赤痢が発生したのです。その消毒のためGHPのパーカー中尉と一緒にジープで来たのですが調べてみると、今日、午前中、そこの同居人が、この銀行に預金に来ていることが判明しました。そのため、この銀行のオール・メンバー、オール・ルーム、オール・キャッシュ、または、オール・マネーを消毒しなければなりません。金も帳簿もそのままにしておくように」
森川哲郎著「秘録帝銀事件」2009年祥伝社 P50
なお、「オール・メンバー、オール・ルーム、オール・キャッシュまたは、オール・マネー(中略)茨城」という言葉は、調べたかぎり荏原関係者の聴取書には見当たらない」( 引用,ドキュメント帝銀事件 毒の告発 P41)との説もある。
また、事件当日、犯人と直接会話した警察官飯田巡査の昭和23年3月2日の聴取書には以下の内容があるようだ。
「都のほうから連絡があって厚生省からきたのです」 「私は都のほうから電話がかかってきて、さっそくやって来たのです、警察が知らないということはないでしょう」
キュメント帝銀事件 毒の告発 P42
実在の「厚生技官」の名刺を使った昭和22年10月14日の「安田銀行荏原支店」の未遂事件の犯人は、その名刺の肩書に沿った「厚生省の腕章」を小道具として使い、東京都から連絡を受けGHQと一緒に消毒に来た厚生省の技官に擬変し会話をしていることがわかる。
以下は昭和22年10月14日、15時30分頃~約1時間に発生した「安田銀行荏原支店」の未遂事件の要点だが、冷静に考えれば「東京都から連絡を受けた厚生省の技官がGHQと一緒に現場に来て単身で作業をする」という設定に疑問が湧く。このような作業は東京都や区役所の仕事ではないか?なぜ、都や区の職員が同行していないのか?なぜ、厚生省の技官が単身で来たのか?また、犯人は実在しない赤痢発生現場住所を警察官に伝え、付近にGHQがいないことを確認される重大なミスを犯している。この失敗を踏まえ次の事件をみていこう。
帝銀事件「安田銀行荏原支店」の未遂事件の要点
- 犯人は実在の厚生省技官の名刺を使用した。
- 厚生省の文字のある腕章を使用した。
- 東京都から連絡を受けGHQのパーカー中尉と一緒ジープで来た。
- 警察官が赤痢発生場所住所を探したがその住所自体がない。GHQも付近にいないので怪しまれ未遂に終わった。
2・昭和23年1月19日 15時05分頃~約30分に発生した「三菱銀行中井支店」での未遂事件
同事件は「帝銀事件」の一週間前に発生した事件である。また、この事件の前、昭和23年1月15日頃、この事件で犯人が口実に使う「井華鉱業株式会社 落合寮」に「区の衛生係員を名乗る人物」が現れ、管理人A氏の妻に「便所の消毒に来たといい、腕章もつけず、何も持っていないので、怪しまれて姿を消した事実があり、四日後には約300メートル離れた三菱中井支店に現れたとき、このA氏方の名を使い、毒殺事件を演じたものである。引用:朝日新聞、昭和23年2月6日付」という一連の「帝銀事件」と関連性の高い事件があったようだ。
以下は 「三菱銀行中井支店」での未遂事件で使用された名刺のイメージ。

この 昭和23年1月19日、15時05分頃~約30分に発生した「三菱銀行中井支店」での未遂事件の際に犯人が腕章を使用したか否かは不明であるが、 約4日前の 「井華鉱業落合寮」に現れた「区の衛生係員を名乗る人物」と同一犯と仮定するなら、昭和23年1月19日時点では、腕章の準備ができなかったのかもしれない。
次は:帝銀事件 考察・検証 単独犯か複数犯か?など
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