
2018年、是枝裕和監督にパルム・ドールをもたらした『万引き家族』。本作は実際の年金不正受給事件や児童虐待、社会的孤立を背景に、血の繋がらない「擬似家族」の切実な生を描き出す。
本記事では、安藤サクラ演じる信代の「拾った」という言葉に象徴される社会の外側の論理を徹底考察する。レオ・レオニの絵本『スイミー』が暗示する役割論や、ラストシーンで逃げ続けた父・治が見せた「追う姿」から、是枝監督が問い続ける「真の父性」と「家族の本質」を紐解いていく。
映画『万引き家族』概要:カンヌが認めた「社会の境界線」に生きる人々
2018年、第71回カンヌ国際映画祭にて最高賞パルム・ドールに輝いた『万引き家族』。日本映画による同賞の受賞は、『地獄門』(1953年)、『影武者』(1980年)、『楢山節考』(1983年)、『うなぎ』(1997年)に続く、21年ぶり5作品目の快挙であった。
カンヌ最高賞受賞と是枝裕和監督が描く「家族」の系譜
監督を務めたのは、是枝裕和(1962年6月生)である。母親の失踪により父の違う4人の子が置き去りにされた1988年の「巣鴨子供置き去り事件」をモチーフにした『誰も知らない』(2004年)や、病院での子の取り違えに直面した二組の家族を通じて親子の絆を問うた『そして父になる』(2013年)など、常に社会と家族の深淵を描き続けてきた。
出演は、是枝監督の『そして父になる』(2013年)にも名を連ねるリリー・フランキー。そして、武正晴監督の『百円の恋』(2014年)で、自堕落な生活からボクシングを通じて自立へと向かう難役を圧倒的な熱量で演じきった安藤サクラが顔を揃える。
複雑な背景を抱えた人間、置き去りにされた子ども、孤独な老人。社会から弾き出され、あるいは自ら逃げ出した人々が寄り添う「哀愁の共同体」――。
映画『万引き家族』は、安藤サクラ演じる柴田信代が放つ、ある言葉が深く胸に突き刺さる作品である。
着想の原点――実在の「年金不正受給事件」と「消えた高齢者」問題
捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは他にいるんじゃないですか?
映画『万引き家族』柴田信代
また、産経新聞2018年5月21日付「是枝監督作品、カンヌ最高賞『万引き家族』邦画21年ぶり」の記事には、「この作品は、数年前に実際に起きた、親の死亡届を出さずに年金をもらい続けて生活する年金不正受給事件から着想を得て、是枝監督が10年の歳月をかけて作り上げた」と記されている。
ここで言及されている事件は、2010年頃から社会問題化した、いわゆる「消えた高齢者」問題に端を発するものと考えられる。当時、存命であれば「国内最高齢の119歳」に達する高齢者の所在が不明であることなどが次々と発覚し、世間に衝撃を与えた。これを機に、日本各地で家族による死亡届の未提出と、それに伴う年金の不正受給が次々と事件化していったのである。
(参考:「所在確認、時の壁厚く 113歳女性不明 111歳男性遺体 食い違い、書類処分」静岡新聞2010年8月7日付)
映画『万引家族』あらすじ
舞台は東京、荒川に近い下町の片隅。小さな敷地に建つ古びた平屋には、家主である祖母・柴田初枝を筆頭に、治と信代の夫婦、祥太、そして信代の妹・亜紀の5人が身を寄せ合って暮らしている。
死別した夫から家を相続し、年金で生計を支える祖母。日雇い労働に明け暮れる父。クリーニング工場で働く母。学校に通わず万引きに手を染める祥太。そして、風俗店で働く亜紀。彼らは紛れもない貧困層の家族だが、その生活にはどこか「現在」を謳歌するような、奇妙な明るさが漂っていた。
しかし、ある冬の日、治が近所の団地で虐待されていると思しき幼い少女を連れ帰ったことで、家族は6人となる。少女を「りん」と名付け、新たな家族として受け入れた彼らの幸福は、初枝の死や未成年者略取誘拐事件の発覚といった過酷な現実によって、音を立てて解体されていく。
血縁なき擬似家族の考察:「拾った」命と失われた規範
映画『万引き家族』に登場する家族構成は、きわめて複雑である。祖母・初枝、治、信代、祥太、ゆり(りん)、そして亜紀。この6人には誰一人として血の繋がりがない。初枝と亜紀の関係にしても、初枝の元夫が再婚した相手の孫であり、血縁上の繋がりは皆無だ。
また、初枝以外の5人には、かつて別の名前があった。柴田家の家族となる前、彼らはそれぞれ異なる場所で、異なる名前を持って生きていたのである。
彼らの生活は貧しいが、初枝の年金、不動産、亜紀の実親からの「お気持ち代」に加え、治の日雇い労働や信代のクリーニング工場、亜紀の風俗店での収入で辛うじて成り立っている。しかし、治や信代が失職しても、彼らが積極的に再就職を試みる気配はない。過去に他人には知られたくない事情を抱える彼らにとって、条件の良い職を探すことは困難であり、何より彼ら自身がそれを望んでいないようにも見える。
そして特筆すべきは、万引き、窃盗、未成年者略取誘拐、年金不正受給といった罪を繰り返しながら、大人たち(初枝、治、信代)に罪の意識や遵法精神が微塵も感じられない点である。
遵法精神が絶対視され、コンプライアンスの論理が社会を覆い尽くす現代において、彼らは間違いなく「悪党」であり「怠け者」である。しかし、社会の外側で生きる彼らは、見ず知らずの虐待された子にコロッケを分け与え、服を縫い、共に海へ行き、風呂に入り、抱きしめる。
祖母・初枝をはじめ、信代も亜紀も、互いを否定する言葉を決して口にしない。父・治にいたっては、誘拐した少年に自らの本名と同じ名を与え、唯一教えられる「万引き」を通じて、父であり兄であり友でもあるような、男同士の深い関係性と居場所を築き上げていく。それは、いつか自立し、この場所を去るであろう少年には不可欠な通過儀礼だったのかもしれない。
法を犯し、社会の外で生きる彼らは確かに「悪党」である。しかし、決して「外道」ではない。
幼子をパチンコ店の車中に放置し、虐待し、行方不明になっても二ヶ月間捜索願いすら出さない親たち。果たして、現代社会において真に「外道」と呼ぶべきは、どちら側なのだろうか。
捨てたんじゃないです。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは他にいるんじゃないですか?
映画『万引き家族』柴田信代
彼らは皆、かつて誰かに「捨てられた存在」であった。祖母・初枝は元夫に捨てられ、二人の幼い子は実の親に捨てられた。孫の亜紀もまた、実家に「居場所を見出せなかった存在」に他ならない。
では、過酷な過去を背負う治と信代の二人は、それ以前にどのような人生を歩んできたのだろうか。彼らの幼少期にまで思いを馳せれば、自ずと一つの推察に行き着く。この二人もまた、かつては誰かに「捨てられた存在」であり、家庭や社会の中に「居場所を見出せなかった存在」、あるいはそこから「逃げ出さざるを得なかった存在」だったのではないだろうか。
彼らが形成したこの歪な共同体は、社会から拒絶された者たちが、互いの欠落を埋め合わせるために本能的に作り上げた、最後の防壁だったのかもしれない。
哀愁の共同体:社会の外側で育まれる「憩いの揺籃」
山口組系二代目「柳川組」組長・谷川康太郎(1928年 – 1987年)は、かつて次のような言葉を残している。
「ヤクザとは哀愁の共同体(結合体)である。そこにあるのは、権力、圧力、貧困におびえる姿だけだ」
「組は、前科や国籍、出身といった経歴をいっさい問わない唯一の集団である。ゆえに、社会の底辺で差別に苦しんできた人間にとって、組は憩いの揺籃(ようらん)となり、逃避の場となり、連帯の場となるのだ」
「殺しの軍団」と恐れられた柳川組を率いた谷川の愛読書が、マルクスやレーニンであったというエピソードは示唆に富む。映画『万引き家族』が描く「家族」もまた、誰かに捨てられ、社会の中に居場所を見出せなかった者たちが寄り添う、一つの「哀愁の共同体」だったのではないだろうか。そこは、血縁や金銭といった世俗的な価値を超え、「心」あるいは「欠落」によって繋がる場所――彼らにとっての憩いの揺籃であり、逃避と連帯の聖域だったのだろう。
本作が提示する奇妙な擬似家族から「哀愁の共同体」という言葉を想起するのは、至極当然のことと言える。そもそも日本の任侠組織や海外のマフィアといった犯罪組織の本質は、擬似家族共同体に他ならない。
しかし、遵法精神が絶対化され、コンプライアンスという言葉が社会の隅々までを覆い尽くす現代において、血縁以外の強い絆で結ばれた共同体そのものが、否定され排除される対象となりつつある。
社会が「内」と「外」に完全に分断され、かつて存在したその中間領域(辺境地帯)さえも失われてしまった時代。ほぼ全ての人間がシステムとしての「内」に包括される一方で、そこから投げ出される不安と、異物を投げ出す快感に人々が息苦しさを覚える時代――それこそが、現在の社会の正体なのかもしれない。
この「社会の外側」に形成される擬似家族的連帯、すなわち「哀愁の共同体」という視点は、フィクションの世界に留まるものではない。筆者は、この概念を補助線として、戦後最大の未解決事件である『グリコ・森永事件』の犯人グループ『かい人21面相』の正体についても独自の考察を行っている。法と社会の枠組みから逸脱した者たちが、どのような連帯を持ち得たのか。その深淵については、以下の記事を参照されたい。
現代の寓話としての『スイミー』:黒い魚が担った「役割」の意味
何らかの理由によって社会の枠組みから零れ落ちた者、守られぬ者、投げ出された者、あるいは自ら逃げ出した者たちが、生きるために寄り添い「固まり」を作る。
映画『万引き家族』において、その象徴として登場するのが絵本『スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし』(レオ・レオニ作、谷川俊太郎訳)である。主人公のスイミーは、赤い魚の群れのなかで唯一、漆黒の身体を持つ「異質な存在」であった。巨大なマグロに仲間を呑み込まれ、たった一匹生き残ったスイミーは、海の世界を彷徨った末に新たな仲間を見つけ出す。
スイミーは、怯える赤い魚たちに提案する。全員で固まって泳ぎ、自分たちが一匹の「大きな魚」に見えるように振る舞うのだ。そして黒い身体を持つスイミー自身は、その巨大な魚の「目」の役割を引き受ける。
「小さな魚が集まり、固まりとなる」。そして「誰にでも役割がある」。
この物語は、柴田家という擬似家族の構成員たちの姿と見事に重なり合う。社会という大海原で捕食される側の弱者たちが、虚構の家族という「大きな魚」に擬態することで、ようやく安息の場所を確保している。その危うくも切実な連帯の在り方を、『スイミー』は見事に象徴しているのである。
追憶の疾走:逃げ続けた男が最後に掴み取った「父性」
未成年者略取誘拐事件の発覚後、彼らの共同体は「世間の規範」によって無慈悲に解体される。信代は過去の罪をも背負って刑務所へ、祥太は児童養護施設へ。そして、誘拐されたはずの「りん」は、再び孤独な実家へと散り散りになっていく。
アパートで独り暮らしを始めた治のもとを、祥太が訪れ、一晩を過ごす。
朝になり、施設に戻るためにバス停でバスを待つ二人――ここで描かれるラストシーンこそ、本作の白眉である。
これまで過去の罪から逃げ、労働から逃げ、世間一般の常識からも逃げ続けてきた治。その彼が、施設へ戻る祥太を乗せたバスを、遮二無二追いかける。
それは、「とうちゃん」という役割から降ろされ、ただの「おじさん」に戻ったはずの男が、自立を望み旅立つ少年のために身を削る「本当の父」へと昇華した瞬間であった。「本当の家族だったら逃げない」という女性刑事の冷徹な言葉を裏切るように、彼は「逃げる」ことを止め、必死に「追う」ことを選んだのである。
是枝監督がライフワークとして描き続けてきた「父と子の邂逅」。雪解けの道を走る治の必死な姿は、血縁という呪縛を超え、魂の再会を予感させる。逃げ続けた男が最後に追い掛けたものは、自らの人生において初めて手にした「本当の絆」だったのかもしれない。
いつか、再び交錯する二人の「親子」の物語を見てみたい。そう願わずにはいられないのである。
結びに代えて:私たちが「見落としている」家族の形
是枝裕和監督は、あるインタビューで本作について次のように語っている。
「家族を繋いでいるのは何か。それは、共に過ごした時間なのか、それとも血なのか。この映画を観た人が、それぞれの『家族の定義』を一度壊して、また作り直すきっかけになればいい」
(※是枝監督の対談・インタビュー趣旨より構成)
社会の規範から見れば、彼らは紛れもなく「犯罪集団」であり、解体されるべき共同体であった。しかし、劇中で交わされる温かな視線や、バスを追う治の姿に私たちが感動を覚えてしまうのはなぜだろうか。
それは、血縁という「記号」に頼り切り、共に過ごす「時間」や相手を思いやる「想像力」を失いつつある現代人への、強烈な問いかけが含まれているからに他ならない。
私たちは、誰かを「拾う」覚悟があるだろうか。あるいは、誰かの「目」になる勇気があるだろうか。
映画『万引き家族』が描き出した「哀愁の共同体」は、効率とコンプライアンスを優先する今の社会が切り捨ててしまった、人間本来の「連帯の温もり」を今もなお私たちに突きつけているのである。
公式映像資料(YouTube)
本記事で取り上げた作品の公式映像資料。本稿の論点を映像として補助的に参照されたい。
文章だけでは伝わらない空気を、映像として確認するための資料として掲載する。
🎥参考映像(出典:ギャガ映画チャンネル)映画『万引き家族』本予告
◆【参考資料】是枝裕和監督インタビュー・関連記事一覧
本考察の執筆にあたり、監督の意図や作品背景の裏付けとして参照した主な資料は以下の通りである。さらに深く作品の世界を知りたい読者には、ぜひ一読を勧めたい。
是枝裕和監督、『万引き家族』撮影の裏側を語る(シネマトゥデイ 2018.6.22)
共に過ごす時間が終わった後に、記憶の中に浮き上がる「家族の意味」について監督が語っている。
万引きでつながる者たちは「家族」と言えるのか(CinemaGene 2018.6.8)
『そして父になる』での「血か時間か」という問いをさらに深め、目的で集まった集団が家族になり得るかを論じている。
是枝監督が『万引き家族』で描こうとした世界(ハフポスト 2018.6.21)
犯罪でしか繋がれなかった不完全な家族が、社会規範によって解体される過程と、その先にある絆の本質に迫っている。
映画『万引き家族』公式サイト ニュース
パルム・ドール受賞時のコメントや、監督が10年間考え続けてきた「家族の形」についてのプロダクションノートが確認できる。
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