名目上は「無い」と言いつつも、確実に、社会の中に根付いているものがある。それが、格差であり階層だ。
人間社会で生きていれば、他者との生活環境の違いを感じたことがあるはずだ。日々の生活にかけられる金額の差。価値観の違い。ときには、羨ましくて仕方なくなることだってあるだろう。
格差や階層は、一概に悪いものとは言い切れない。上に這い上がろうとする努力のきっかけになることは確かなうえ、経済的に成功した先の姿が想像しやすくなるからだ。また、資本主義社会で生きている以上、切っても切り離せないものでもある。
とはいえ、格差が人々の心を曇らせることもまた、確かなことだ。
今回、この記事で取り上げていくのは、社会の格差や階層を分かりやすく、目に見える形で表現した映画、『パラサイト 半地下の家族』と『プラットフォーム』である。
この2つの映画の中で、この資本主義の問題はどう描かれたのだろうか。対比しながら確認していこう。
映画『パラサイト 半地下の家族』の作品概要
『パラサイト 半地下の家族』公開当時から高い注目を集め、日本でもヒットした有名作品だ。本編を見たことは無くとも、作品のジャケット画像には覚えがある人が多いだろう
本作は2019年公開の韓国映画だ。韓国の鬼才と呼ばれるポン・ジュノが監督を務め、主演には同監督の常連俳優であるソン・ガンホが起用されている。同タッグの『グエムル-漢江の怪物―』は、パニックものとしても、ゴジラに連なる特撮ものとしても一級品なため、合わせて鑑賞してみて欲しい。
本作は、韓国の半地下住居に住む家族の物語を描いた作品だ。半地下に住む低所得の一家が、他者を蹴落としながら金持ち一家に寄生(パラサイト)し、生活を大きく変えようと目論んでいく。
韓国映画らしい暗く湿った描写と共に、作品各所に散りばめられたユーモアが見る人を惹きつける作品である。
あらすじ
ギテクを父とするキム家は、ピザ屋の箱を組み立てることで生計を立てながら半地下の家で暮らしていた。家には専用のWi-Fiも無く、日々の通信にすら事欠く日々だった。
ある日、キム家の長男・ギウの元に、高報酬の家庭教師の話が持ち込まれる。
ギウに話を持ち込んだのは彼の友人・ミニョクだった。ミニョクは家庭教師先の娘に恋をしており、自分の留学中に信頼できるギウに、その娘を任せたいと言うのだった。
出典:『パラサイト 半地下の家族』予告編シネマトゥデイ
ギウは最初ためらったものの、その報酬の高さに惹かれ面接を受けることになった。面接に必要な身分証は姉のギジョンが偽造し、ギウは見事面接を通過。IT社長のパク家の家庭教師として働くことになった。
その後ギウは、パク家に自身の家族を潜り込ませていくことになる。
映画『プラットフォーム』の作品概要
映画『プラットフォーム』は、『パラサイト 半地下の家族』と同じく2019年に公開されたSF映画である。こちらはスペインの映画であり、大々的にアピールされたことのない作品であるため、知っている人は少ないかもしれない。
本作は、『パラサイト 半地下の家族』以上に、社会の階層が視覚化された作品である。「穴」と呼ばれる監獄のような場所を舞台として、高い階層と低い階層間での食料を巡る争いが、リアルに、また、ファンタジックかつグロテスクに描かれている。
食事がメインの要素であり、その食事に関わる人の心理が強く押し出された作品のため、観賞中の感覚は決して良いものではない。しかし、一度見ると忘れられなくなってしまう作品である。
あらすじ
主人公のゴレンは、「穴」の48階層で目が覚めた。上下には似たような部屋が連なり、終わりは見えない。
ゴレンは同室の老人・トリマガシから「穴」について色々な事を聞く。食事は1日に1回、部屋の中央にある「プラットフォーム」という台に乗って、上階から降りて来ること。
上の階であれば食事には困らないが、下層に行けば行くほど乏しくなること。プラットフォームが止まっている間だけしか、食事ができないこと。
出典:映画『プラットフォーム』予告編シネマトゥデイ
ある日ゴレンは、プラットフォームに乗って毎月降りて来るという女性・ミハルに出会う。トリマガシいわく、彼女は息子を探しているというのだが……。
「社会の階層」を目に見える形で描いた作品
『パラサイト 半地下の家族』に『プラットフォーム』。両方とも作風は違えど、社会の階層を視覚的に描いた作品だ。特に『プラットフォーム』は分かりやすい。
『プラットフォーム』は、その構造こそが社会の階層を表していると言えるだろう。上階にいる者は食に困ることなく、ごちそうを日々食べることができる。しかし、下層にいる人々は、日々の食事にも困ることになる。本来プラットフォームには、穴にいる人全員に行きわたるだけの食料が載っているにも関わらず。
それは、穴の食料配給システムに理由があった。1日1回しか食料が来ない関係上、上階の人々は食い溜めてしまう傾向にある。その上、1月に1回階層が変わるため、下層に落ちる焦燥感から、もしくは、上層に上がるまで生き延びたいという危機感から、自分より下層にいる人を気遣えないのだ。
ここまで極端では無いにせよ、実際の生活も同じである。上位の人々が富を独占しており、分配は進まない。何か理想を持っていても、その通りにいくとは限らない(ゴレンに習えば、ある程度の力技が必要である)。
『パラサイト 半地下の家族』はどうだろうか。
本作は『プラットフォーム』より、より分かりやすくドラマティックである。
キム家は半地下の部屋で暮らす、内職を生業とする一家である。もちろん収入は低く、スマホの通信にすら事欠くありさまだ。
本作の物語は、そんなキム家の長男・ギテクがIT会社を経営するパク家で家庭教師として採用されることから始まる。キム家とパク家の生活は大きく違い、自身よりはるか上階にいるパク家に、ギテクは自身の家族を寄生させていくのである。
本作に登場する半地下の家は、韓国では実際によくあるものだ。半地下のため防音性能に優れるものの、大雨での浸水の危険性があり、基本的に住むことに向いていない。
半地下の家が表すもの。それは、社会の表面へと出ることができない階層の人々の姿だ。生きてはいけるものの常に苦しい。決して侮れない苦しさを持つ人々である。
しかし、そんなキム家よりも、さらに下層に住まう人がいた。それは、ギウとギジョンにより追い出されたパク家の元家政婦の夫・グンセだった。グンセは妻のムングァンによってパク家の地下に隠され、保護されていたのだった。
ここでキム家とパク家、そしてムングァン一家の比較が為されることになる。物語中盤、大雨が降ってもびくともしないパク家、家が浸水してしまうキム家。そして、キム家の策略に巻き込まれ、大被害を出してしまうムングァン一家である。
これは明らかに、「上・中・下」の階層を表している。キム家は「上」に取り込みその一員になろうとするが、上手くはいかない。独特の「臭い」で暴かれてしまうのだ。そして、より下層にあるムングァン一家が元いた位置に陥ってしまう。
社会の階層は、一度落ちてしまうと、その構造上這い上がることが難しい。しかし、下層まで落ちてしまうのは簡単だ。何か1つ、大きな失敗をすればよいのである。
『パラサイト 半地下の家族』も『プラットフォーム』も、そんな社会的な階層の上下を、見る人に分かりやすく描いた作品なのである。
「上がる」と「堕ちる/落ちる」
社会の階層を目に見える形で描いた『パラサイト 半地下の家族』と『プラットフォーム』。一見似た構造の作品に思えるが、大きく違う点がある。
それが、『パラサイト 半地下の家族』は「上がって(と思い込んだ)堕ちる」様子を描いた作品であることに対し、『プラットフォーム』は意図しない階層の上下と共に、「意図的に下層へ落ちていく」作品であるという点だ。
キム家が住む半地下の家は、大雨に弱い。いとも簡単に浸水がおき、家財はみなダメになってしまう。現実にこうした事例は少なくなかったようで、現在韓国では、半地下の家を無くしていく方向のようだ。
しかし半地下とは言え、家の上部にある窓からはわずかながらも光が入る。窓を開ければ換気もできる。湿度が高く、快適とは言えないものの、人としての生活は成り立つのである。
しかし、ムングァンの夫・グンセはどうだろう。彼は、パク家の地下室にひっそりと隠れ暮らしていた。この地下室はパク家の主人すら知らないもので、家の設計をした人物が北朝鮮からの爆撃に備えるために備え付けたものらしい。
そのため、地下室にはトイレなどの最低限の生活環境が整ってはいるものの、人が生活する場所とは到底言えない環境だ。完全な地下にあるため日光も通らず、強度の観点から考えると、通気も良くないはずである。
ギリギリ地上に接することのできるキム家。日の目を見ることができないグンセ。哀しいが、これも階層の1つである。貧しい人の中にも序列があるのだ。
キム家は家族揃ってパク家に寄生することで、生活を大きく変えようと試みた。しかしその結果は、惨憺たるものだ。ギテクはパク家の主人を殺したことでお尋ねものとなり、グンセがいた地下室に身をひそめることになる。
これこそが「上がって堕ちる」構図なのである。
では『プラットフォーム』はどうだろう。本作は、2人1部屋の「階層」がいくつも連なる施設で起こる物語を描いた作品である。本作の「階層」は、そのまま社会の階層に対するメタファーだと考えてよいだろう。
地上、おそらく施設「穴」の運営者がいるであろう場所は「ゼロ階層」と呼ばれている。ゼロ階層では、それ以下の階層に運ばれる様々な食事が作られ、プラットフォームに乗せられていく。
肉料理やサラダを始め、エスカルゴや大きなケーキがあるなど、なかなかなごちそうだ。そしてこれらの料理は、皆が必要な分だけ食べれば行きわたる量なのである。
上層階にいる人々は、これらのごちそうをかなり自由に味わうことができる。時間制限はあるものの、食事が欠乏することは無い。
しかし、下層に行けば行くほど、食事を満足に取ることはできなくなる。上階の人々が食べ尽くしてしまうだけでなく、食事に様々な悪ふざけを行ってしまうからだ(汚いので詳細は割愛)。最悪の場合、食事の乏しさからカニバリズムが起こってしまうほどだ。
この食事を「富」として変換すれば、こうした状況は現実でも起こっていることが分かるだろう。
主人公のゴレンは、自身も下層を経験しているにも関わらず、「穴」の環境を変えようと試みる。協力者であるバハラトと共にプラットフォームに乗り込んで、食事を平等に分配しようとするのだ。ゴレンは意図して、「下層に落ちて行く」のである。
道中出会った「賢者」から諭されたことで、ゴレンとバハラトの目的は変化する。過酷な食糧状況の中、手を付けられていないパンナコッタをゼロ階層へのメッセージにするため、それを死守することになったのだ。
「穴」の最下層付近である333階層で、ゴレンとバハラトは少女に出会う。2人は少女に残ったパンナコッタを与えてしまい、メッセージの役割はパンナコッタから少女に移る。
そして物語の最後。「穴」の最下層まで少女を送り届けたゴレンは、少女を乗せて登っていくプラットフォームを見送っていた。横にはすでに死んでいるはずのトリマガシがいる。ゴレンもまた、下層へと落ちていく長い旅路で傷着き、命を落としてしまったのだろう。
ゴレンとトリマガシは仲良く語らっている。少女がメッセージとなって、必ずゼロ階層へと思いが伝わるはずだと。
両作共に、社会の下層から這い上がることの難しさが、一種見るのも辛いほどのリアリティさを持って描かれている作品である。その中には、わずかばかりの希望も含まれている。それは暗い作風の中の貴重な灯りとなって、絶妙な味を醸し出しているのだ。
ギテクは地下室から息子・ギウにメッセージを送っている。ゴレンは地上に少女というメッセージを送り出した。私たちも何かを変えたいときには、象徴的で端的な「メッセージ」が重要になるのかもしれない。
まとめ
映画『パラサイト 半地下の家族』と『プラットフォーム』について長々と語ってきた。
『パラサイト 半地下の家族』はご存じの通り、高い評価を受けた名作である。韓国映画らしい癖はあるものの、社会派の娯楽映画として、多くの人に見て欲しい作品だ。
しかし、『プラットフォーム』に関しては、もろ手を挙げて人におすすめはできない映画である。内容はグロテスクで見ていて辛いシーンも多い。食事の描写が多いにも関わらず、食欲は大きく減退してしまうだろう。
それでもなお、社会的な問題を風刺的に描いた映画として、一見の価値がある作品だ。特に、物語最後のゴレンとトリマガシの表情に注目して欲しい。 格差が大きな問題となっている昨今、この2つの映画は必修作品と言えるかもしれない。
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