
要約(クリックで開く)
1984年6月、山梨県甲府市の元看護学生・山本美保さんは「勉強のため図書館に行く」と家を出たまま失踪した。甲府駅前には原付が残され、数日後には新潟県柏崎市の荒浜海岸でバッグが発見される。その後、家族のもとには長年にわたり無言電話が続き、北朝鮮での目撃証言も浮上した。一方で、山形県に漂着した水死遺体YとのDNA一致が発表されながら、その鑑定には手続きや検体保全をめぐる重大な疑義も残る。拉致、自発的失踪、死亡のいずれにも断定しきれないまま、事件は今なお深い闇を抱えている。
家を出た朝の言葉は、ごくありふれたものだった。
――勉強のため図書館に行く――
その一言のあとに残ったのは、駅前に置かれたままの原付バイク、遠い海岸に置かれたバッグ、そして何年も続いた無言電話である。
山本美保さんの失踪は、単なる行方不明として片づけるには違和が多すぎる。家族の時間だけが取り残されたまま、事件は四十年以上を経た今も、答えの出ない問いとして残り続けている。
事件概要
1984年(昭和59年)6月4日(木曜日)、山梨県甲府市在住の元看護学生、山本美保さん(当時20歳・以降美保さん)は、「勉強のため図書館に行く」と家族に言い残し、午前10時頃、愛車の原付バイクで自宅を出発した。
この時の図書館とは、当時駅から遠い立地であった甲府市立図書館ではなく、甲府駅北口すぐに現在も存在する、山梨県立図書館であったと考えられる。
彼女が電車にバイクを乗せて来たとも思われないため、彼女の自宅はさほど甲府駅から離れておらず(徒歩は躊躇するけれど、原付なら抵抗のない程度)、駅を駐車場として使用したものであろう。
彼女は高校卒業後、一旦は家族を残しての一人暮らしを避ける配慮から、合格していた都内大学への進学を断念し、自宅から通学可能な県内の看護学校へ入学していた。
しかし、一卵性双生児の妹である美砂さんの県内大学進学もあってか、進学意欲が再燃し、看護学校を退学して翌年の大学再受験に向けた勉強を始めていた。
双子姉妹の兄は県外の大学に進学後、二人が高校三年生の秋に交通事故で死去していた。突然家族を失った一家には動揺が走り、美保さんの進路にも多大な影響をもたらした。
不安がる妹の美砂さんを安心させるため、姉の美保さんは県内での入学先として地元の看護学校へといったん舵を切ったが、翌年、県内で大学生活を開始した妹の生活が落ち着き始めたことが、美保さんの心を後押ししたものと思われる。
しかし、その日、美保さんは帰宅せず、その後、一切の消息を絶ってしまった。
彼女の失踪の翌々日である6月6日、甲府駅前に美保さんの愛車が置かれたままの状態で発見されている。
さらに2日後の8日には、彼女の持ち物である免許証、財布、愛車である原付のキーが入ったハンドバッグ(セカンドバッグとも)が、新潟県柏崎市の荒浜海岸で発見された。
荒浜海岸は、かつて既知の拉致被害者(帰国済み)が工作員によって襲撃された、拉致事件の現場としても知られている。
6月9日、家族は荒浜海岸のある新潟県の警察署に美保さんの捜索願を提出した。彼女の父親光男さんは山梨県警察防犯課に所属する警察官であり、全国の身元不明遺体リストに比較的容易にアクセスできる立場であったが、
6月〜7月分のリストに、美保さんと思われる女性の遺体を見つけ出すことはできなかった。もちろん、後に美保さんのものとされる山形県漂着の遺体についての照会も受けていない。
荒浜海岸は、家族が知る限りでは美保さんに全く縁のない土地である。なぜそこに彼女のハンドバッグが置かれていたのかと、彼らは訝しんだ。確かに甲府駅から荒浜海岸までは現在でも電車を乗り継いで6時間はかかる。当時(国鉄時代)は、それ以上を要したかもしれない。
家族は海岸を訪れて彼女を探し、地元の漁師から「8日の夕方、淋しそうにボートに腰を下ろしている若い女性を見た」という証言を得ているが、それが美保さんであったかどうかは分からなかった。家族は翌春に周辺でビラを配り目撃情報を求めたという。
美保さんの失踪から1ヶ月〜半年後(情報源による)、残された家族のもとには無言電話がかかり始め、それはその後3〜4年半(同じく情報源による。参考資料参照)にわたって続いた。
また、無言電話の一部には、すすり泣くような声が聞こえたものや、10〜15分続く長めのものもあったという。
父親の光男さんはその間も、身元不明遺体のチェックを続けていた。彼は全国の警察に掛け合い、1986年12月には富山県警から、1988年11月には警視庁小松川警察署からの照合依頼があったものの、いずれも歯列照合や靴のサイズの違いから美保さんとは別人のものと断定されている。
事態がようやく変化したのは、美保さん失踪から18年を経て、元号も平成に移った2002年(平成14年)9月17日である。かの「日朝首脳会談(小泉訪朝)」がきっかけとなった。
一貫して日本人拉致を事実無根のものと否定し続けてきた北朝鮮政府は、過去の拉致犯罪を認め公式に謝罪。23日には各テレビ局が、美保さんの失踪も拉致の可能性が濃厚な事件の一つとして報道した。
これを受けて、家族は新潟県警に、美保さん再捜査についての要請書を提出している。(外部リンク:「日朝首脳会談」Wikipedia)
11月からは美保さん失踪の真相究明を求める署名活動も始まり、翌年1月までに第一回目の署名活動のみで8万筆を集めている。
2002年9月、家族は「山本美保の人権救済」を申し立てた。次いで、就職して養護教諭となっていた美砂さんの恩師である山梨大学の教授が発起人となり、家族支援会が設立された。
2003年1月には「特定失踪者問題調査会」(調査会)が設立され、美保さん失踪事件は「拉致濃厚」としてリストに加えられた。3月には美保さんの父・光男さんが脳腫瘍で倒れ、5月には不帰の人となってしまった。
しかし、真相究明を求める声はその後も止む事はなく、2004年5月から始まった第二回目の署名活動では前回を上回る12万筆の署名が集まっている。
2003年3月には、脱北者で、北朝鮮国家安全保衛部に所属していた軍人であったという権革(クォン・ヒョク)元大佐による、北朝鮮の首都・平壌の軍事施設(5454対日本部隊の通信局であるという)において、美保さんらしき女性を見たことがあるとの証言もなされた。
彼女は色が黒く健康的で、バレーボールが上手であったという(目撃は失踪9年後にあたる1993〜4年中の複数回)。同氏は妹の美砂さんを見て「妹さんの方が華奢」である旨をコメントし、二人の母親もその正しさについて認めている。
10月には新潟県警が美保さんを正式に「拉致濃厚」と発表。調査会は山梨県警察にも告発状を提出して事件解決と拉致認定を促した。
しかし、事態は急変する。
2004年3月5日。山梨県警幹部M氏直々に本部へと呼び出された家族は、過去に山形県の海岸に漂着していた身元不明遺体から検出されたDNAと、美保さんのDNAが一致したことにより、事件は「美保さん死亡で解決」した旨を告げられた。
正確には、「美保さんの一卵性の妹である美砂さんが提出した血液中のDNA型」と、「美保さん失踪から17日後の6月21日に、山形県飽海郡遊佐町に漂着していた水死遺体Yの骨髄粉から検出したDNA型」が一致した、ということであった。
その骨髄粉は、当時漂着遺体の司法解剖が行われた山形大学で、当時の執刀担当教授が遺体から骨髄粉を抽出。机の引き出しで私的に保管していたというものであった。尚、2004年の鑑定時には、当の教授は既に退官済であった。
この鑑定は様々な問題点を抱えており、後に「DNAデータ偽装疑惑」を呼ぶ事となった。
まず、妹の美砂さんが、捜査に使う可能性があるからとの山梨県警の依頼で(目的は説明されず、善意で)提供していた血液が、今回の遺体YとのDNA鑑定に用いられることについて、事前に本人あるいは家族に通知されていなかったと家族が主張していること(山梨県警は、血液提供を依頼した時点で遺体YやDNA鑑定について口頭で説明したと主張しており、両者の主張は食い違っている)。
また、当の遺体Yは、20年も前の司法解剖終了後に火葬され、遺灰からDNAの再検出は不可能。当の骨髄粉はただ一回のDNA鑑定ですでに費消され、
DNA型が真に遺体Yのものであるかについての再鑑定も現在の技術では不可能なものとなってしまっていた。
DNA型の照合をしたこと自体も、家族には一致の発表直前まで秘匿され、警察は発表記者会見に際して報道関係者がカメラを回すことを拒否し、質問も一切受け付けないという異例の態度を示している。
また、更に鑑定にはDNA以前の問題が含まれてもいた。
20年前に残された漂着遺体Yの遺体写真に見られる特徴は、美保さんの失踪直前の身体の特徴とはかけ離れていた。
年齢、身長、下着のサイズ、服装の趣味など、遺留品のすべてが別人としか言えないもので、年齢的に近い女性であることくらいしか共通点がないと、実際に写真を見た家族を含む関係者は証言している。
DNA鑑定を巡ってはその後も捜査機関と家族との間で、国家や日弁連をも巻き込んだ攻防がなされた。
国会では鑑定の信憑性や再鑑定を巡る答弁が繰り返された。また、事件の窓口も山梨県警ではなく(事件が国家規模となり一県警のものでは無くなった為か)警視庁へと替わっている。(外部リンク:衆議院ホームページ(特定失踪者にかかわるDNA鑑定問題に関する質問に対する質問主意書・答弁書)
2014年9月3日には、日弁連が警視庁に向けて、DNA型鑑定書の複写を認めるよう「勧告」を行っている。日弁連の人権救済制度において出される声明では、「警告」に次ぐ強いものであった。(外部リンク:日弁連人権救済申立制度)
2015年8月5日、家族は特定失踪者問題調査会と共同で「山本美保さんDNAデータ偽装事件の真相を究明する会」を立ち上げた。
2026年3月現在も、美保さんの消息は途絶えたままである。山梨県警は前述の自らの発表に反して、彼女の事件を解決済み失踪事件のリストに加える事は無く、ホームページ等では彼女の失踪について「拉致の可能性が否定出来ない事案」として今も情報を求め続けている。(外部リンク:山梨県警察ホームページ内PDF「拉致の可能性が排除出来ない事案に係る方々・山本美保さん」)
手掛かりとその検討
本章では、山本美保さんの失踪をめぐって残された諸手掛かりを検討する。自発的失踪の可能性、無言電話の位置づけ、北朝鮮による拉致の可能性、水死遺体YおよびDNA鑑定をめぐる問題点を順に見ることで、事件の輪郭と争点を整理したい。
自発的失踪の可能性
家族は美保さんに失踪するような理由はないとしているが、概要の通り、当時の一家は長男が急逝しており、動揺がなかったとは言い難い。
美保さん自身も、大学進学断念からの進路変更、そして看護学校退学からの大学浪人生活と、決して順風満帆とは言えない環境の中にいた。当時、女子の結婚適齢期は24歳と言われ、浪人生活には現在以上に強烈なプレッシャーが伴うものであった。
また、彼女は自身のバッグが発見された荒浜海岸とは縁がないと言われているものの、20歳になった成人女性の行動範囲の全てを家族が把握しているとも限らない。
まして美保さんは、恐らく高校在学中に原付免許と原付本体を取得しており、受験戦争真っ最中の時代に、都内の大学合格とも両立したと思われる高い計画性と行動力、そして強い意志を備えていた。
海の無い山梨県に居住していた彼女が家族には内緒で、海への憧れ等の為に、原付仲間あるいは単独でのツーリングで以前に荒浜海岸を訪れていた等の可能性が皆無とは言いきれない。
もっとも、海が目的であれば、山梨県から南下すれば荒浜よりももっと近く、当時はバブル後の現在以上に観光地として若者の憧れを集めていた静岡県の熱海海岸が存在し、あえて新潟県まで遠征する理由を見いだすこともまた困難である。
以上から、熱海より人目につかないという点以外に荒浜海岸を選んだ理由は不明とはいえ、美保さんが自らのバッグを残して自殺を偽装し、自発的失踪を図った可能性も決して皆無とは言えないと考える。
無言電話
概要の通り、母親の証言では失踪から1ヶ月後、拉致問題調査会ホームページ上の情報では半年後と、始期に差があり、期間も3年ほど(母親)と4年半(調査会)で異なるものの、家族が残された美保さんの自宅には無言電話が掛かり続け、中には10分〜15分にわたり続くものや、すすり泣くような声が聞こえるものもあったという。
家族は美保さんの失踪から5日後の1984年6月9日には新潟県警に捜索願を提出、荒浜海岸周辺の住民に聞き込みを行い、翌春には(1985年春・失踪から10ヶ月後程度)尋ね人のチラシを配布している。
成人女性の失踪であり全国公開捜査が開始される時期は遅くなるであろう(始期は不明)事を考慮しても、少なくとも失踪5日後には外部の者が美保さんの失踪を知りうる状況にあった。
心ない第三者によって悪質ないたずら電話が掛けられる余地が全くないとは言えない状況ではあるが、こうした行為を行う者にありがちな移り気には似合わず、3〜4年半という長期にわたり、美保さんのいない自宅には何者かによる無言電話が掛け続けられた。
無言電話が途絶えた頃、美保さんは23〜24歳になっていた。出産などによる生活の変化から、無言電話を掛けるような時間的、精神的余裕を失ったのではないか、と考えるのは穿ち過ぎであろうか。
北朝鮮による拉致の可能性
美保さんには、概要の通り、脱北した北朝鮮の元軍人である権革氏による、似た人物の目撃証言が存在する。
彼女は軍の通信局で通信の傍受を行う業務に就いていたという。その部隊は対日攻撃を担っていたといい、日本語話者である美保さんが厳重な監視の下そこで働かされていたとしても不思議ではない。
一説には、無言電話はその通信局の設備を用いて掛けられたものではないかとも言われているが、権革氏の目撃は彼女の失踪から9年後以降のものであり、時期的に符合しない。
また、どれほど人手が足りなかったとしても、9年かけて思想改造が完成したと認められた後であればともかく、拉致してわずか1ヶ月〜半年の敵国人たる日本人に、そのような機密に類する仕事をさせるとは考え難い。
工作員らによる拉致によって半島に連れ去られた(疑いのある)人々の関係先には無言電話が掛けられるとも言われているが、
誤解を恐れずに言えば、例えば家族の声を聞きたいと泣く拉致被害者に易々諾々と従い自宅への無言電話を掛けさせるほど、工作員やそのシンパが情け深いとは思われない。
また、情報収集にそのような手段を取らなければならない程に、工作員等が不足しているとも思われない。
特に、美保さんの父親は現役の警察官であり、稀に無言電話が許されるケースが存在したとしても、ますます彼女にそれが許可される可能性は低いと言わざるを得ない。
水死遺体Y
概要の通り、2004年3月5日、遺族は美保さんが失踪してから17日後にあたる1984年6月21日に、山形県遊佐町の海岸に漂着していた女性の水死遺体Yと、美保さんとのDNA型が一致したと発表した。
遺体Yは、夏季とは言えその腐敗(一部屍蝋化・これには死後半年以上を要するという)状況や体型、着衣から、美保さんの失踪からの期間や直前の体格とは明らかな差異があり、
一致するのは年齢が近い事と、女性である事、外部からの検証が不可能なDNAデータ鑑定において両者の型が一致したという(山梨県警の発言)のみである。
概要で述べた通り、遺体はすでに専用施設で高温火葬されており、山梨県総務委員会の議事録によれば、2010年12月時点では遺灰は山形県の寺院に安置されているという。だが、後日、保管方針の変更などによって、他の無縁仏たちの遺灰と混ぜられて埋葬されるようなことがあれば、もはや取り返しがつかなくなる可能性も高い。
DNA鑑定データ偽装疑惑
鑑定を巡る争点は大まかに分けて三点存在する。
1.家族にも無断で鑑定を行った事:概要で述べた通り、この点については家族と山梨県警との間では、事前説明の有無について主張が食い違っている。
2.鑑定手続きの不備:遺伝子使用を巡る家族の承諾の他にも、山梨県警のDNA鑑定には不備が指摘されている。
まず、山形大学で教授が私的に保管していた水死遺体Yから抽出されたと言われる骨髄粉が、混入や汚染、もしくは偽装等が行われていない、真に遺体 Yのものであるという事が証明されていないと思われる点。
次に、失踪した美保さんのDNAではなく、妹美砂さんの血液DNAが鑑定に用いられ、二人が一卵性双生児である事を理由に美保さんのDNAが Yのものと一致したと断定されたと思われる点。
一卵性双生児のDNAは完全に一致する為、これは一見理に叶っているようにも思われるが、手続きとしては家族とのDNAとも類似点がある事や、姉妹が確かに一卵性双生児である事の証明も必要であるように思われる。
遺体Yからは、漂着による損傷等で指紋が検出できず、一方で歯型は検出可能であったものの、今度は美保さん本人の歯型が歯科医から保管期間経過の為に既に廃棄されてしまっていた為に、鑑定当時には照合が不可能となっていた。
そのため、このDNAデータ型鑑定の結果が、両者が同一人物であり、美保さんが死亡済であることの唯一の証明ということになる点。
3.鑑定書複写不可:山梨県警は、「解決済」とした自らの発言に反し、事件が未だ捜査中である事。また、鑑定を依頼した鑑定人との信頼関係を損なう事を理由に、家族による閲覧は許可したものの、家族や専門家による秘密保持契約を締結した上での複写すらこれを拒否している点。
これらの点から、拉致問題調査会の清原和博氏は、自らの著書において、「(山梨県警に美砂さんの血液が渡った今)最悪の場合、妹美砂さんのDNA型データをコピーし、遺体Y、美保さん、美砂さんのDNA型が完全に一致する」という事を捜査機関が偽装する事すら可能であると指摘している。
そこまで自国の捜査機関を疑うような事はしたく無いとは言え、仮にも「科学」捜査を名乗るのであれば、外部からの検証に耐え、疑惑が指摘された際には再鑑定を含む反論を行い、結論として事件が解決しなかった場合であっても、
後世の技術革新に備えて検体を予め定められた手続きに則り公的に保存するか、専門家が望めば鑑定データや鑑定書の複写を許し、科学捜査の発展への寄与を望むとするのが、科学捜査機関としてのあるべき態度であるように思われる。
DNA鑑定黎明期の事件
本事件と大まかに同一時期の事件であり、やはりDNA鑑定に関する様々な問題を抱える事件としては、主に以下の三事件が存在する。
1.「DNA捜査とプライバシー保護と冤罪証明ための利用」で扱った足利事件(冤罪事件)1992(平成2年)年5月12日年発生
DNA鑑定の精度が問題になった事件。警察は新しい捜査手法であるDNA鑑定の導入を推し進める為に、鑑定の精度の低さに対する弁護側の外部有識者からの指摘を恐れ、長年再鑑定を拒否し続けたのではないかと囁かれている。
但し、精度の問題があるとは言え、捜査機関側からはDNAデータ型の鑑定書が提出されており、外部有識者による検証が可能であり、後日の再鑑定により冤罪事件である事が明らかになった。
2.「飯塚事件:日本の司法制度の課題と冤罪のリスク」で扱った飯塚事件(冤罪疑惑のある死刑執行済み事件)1992年(平成4年)2月20日発生
遺体Yのものと同様に、元被告人が所有していた乗用車内から採取された微量の検証用DNA検体を費消した事件。
尤も、本事件で警察は他の証拠も揃え、DNA鑑定の結果は傍証としての使用に留めた事が足利事件とは異なる。
元被告は最終的に2名の幼女を殺害した犯人と確定され、既に死刑が執行されている。当然ながらDNA検体の費消により再鑑定は現時点の技術では不可能となっており、
そのことに加え、当事件で採用されたDNA型鑑定方式が、冤罪が確定した足利事件と同じく精度の低いものであったことも相まって、現在も冤罪疑惑は消えていない。
3.城丸君事件(被告人の黙秘権行使による未解決事件)1984年(昭和59年)1月10日発生(DNA鑑定は1998年(平成10年))
DNAデータ鑑定自体は問題になっていないが、技術革新により、男子児童殺害犯の疑惑をかけられた人物が所持していた人骨のDNAが、失踪した子供のものと同一である事が後になって判明した事件。
なお、この事件では被害者の遺体に、素人が野焼きしたと思われる火葬が行われており、新技術により後日、遺骨からDNAの検出、増幅が可能となっているが、専用施設で通常行われる高温での火葬に付された、今回の漂着遺体Yのもののような遺灰からDNAを検出する方法は、現在のところ確立されていない。
真相考察
ここまで見てきた手掛かりを踏まえると、山本美保さんの失踪は、北朝鮮による拉致の可能性が強く意識される一方で、自発的失踪や捜査上の誤認をめぐる論点もなお残している。本章では、残された事実と違和感を改めて整理しながら、この事件の真相について考えていく。
美保さんの失踪理由
北朝鮮の拉致による失踪である事が濃厚であるとされ、北で似た人物の具体的な目撃情報も存在する美保さんの事件ではあるが、自発的失踪である可能性も皆無ではないように思われる。
勿論、これは厳然たる事実である日本人拉致を決して否定するものではなく、当時の美保さんの失踪状況から導き出した筆者個人の考察である事をご理解頂きたい。
DNA型鑑定と内部告発における証人保護手続き
DNA型鑑定のような日進月歩の技術革新が起きている分野では、後代の目から見てようやく不備と判断できる瑕疵が、これからも発見されることは大いにあり得る。
これに対応して、検体が微少である場合にはそれを費消せず、後世の技術革新に備え、再鑑定が可能となる程に優れたDNA鑑定方式が確立されるまで、敢えてDNA型鑑定を控えるような手続きも整いつつあるようである。
とは言え、その判断や手続きを誤った場合に、後から回復することは出来ないのであろうか。
意図的な偽装行為はともかくとして、少なくとも、当時の知識や経験の乏しさを事後的に責められないようにしなければならない。そして、そのことを恐れるあまり過去の誤りが隠蔽されることのないよう、内部告発における証人保護手続きのような制度の法整備がなされるべきであろう。
結語:初歩的な事務ミスから始まった可能性
遺体Yの、美保さん本人との明らかな差異については鑑定の誤りの他にもう一つの可能性も考えられる。
現在でも通信ツールとして欠かせない電話やFAX、添付画像つきメールではあるが、今回の事件であれば、若い女性のアクセサリーや服装の流行りはこんな感じ、身体のサイズであればこのくらいであろうという思い込みや、言い間違い、書き間違い、文字数字の潰れ等に起因する情報伝達の誤り(いわゆる事務ミス)が起こる可能性がある。
当初は電話やFAX、画像による照合の段階では、美保さんの所持品や身体的特徴にほぼ一致するとみられていた。しかし、実際に漂着遺体Yの写真を取り寄せてみると、そうではなかった――という具合である。
しかし、記者発表の日は差し迫っており、人手不足のために修正や検証に充てる時間も足りず、山梨県警には、悪意の有無はともかく、DNA型の一致という結論で押し通す以外に取り得る手段がなかった可能性もある。ただし、この点を直接示す証拠は確認されておらず、検証も困難である以上、現時点では仮説の域を出ない。
2026年3月現在、山本美保さんは62歳となっている。もし日本国内にいるのだとしても、公的医療保険に未加入であれば、病気や怪我の際に十分な医療を受けにくい年齢に差しかかっているはずである。一方、北朝鮮にいるのだとすれば、そもそも高度な医療技術が未導入、あるいは利用が困難であることが問題となる年齢でもある。
未解決失踪事件の厚い雪が溶け、彼女が保護されて家族と再会、十分な医療による手当て等を受けられる日が訪れる事を、願わずにはいられない。
◾️参考資料
・山梨県警察ホームページ内PDF
・新潟県ホームページ内PDF
・日弁連(日弁連人権救済申立制度)
・拉致問題調査会ホームページ:・山本美保さん失踪ついてのページ
・無言電話の時期について母親の証言<2002年9月24日付朝日新聞朝刊 山梨版>との間に差異がある
・山本美保さん失踪事件についての「特設ページ平成22年(2010年)12月9日山梨県総務委員会会議録PDF(山本美保さんのDNA鑑定についての質疑)」
・衆議院質問主意書
・荒木和博著「山本美保さん失踪事件の謎を追う 拉致問題の闇」草志社2012年7月31日発行
・朝日新聞「必ず助ける」18年前失踪甲府の山本さん北朝鮮拉致」2002年9月24日付
・朝日新聞「希望再びつながる 拉致疑惑、3件4人再捜査へ」2002年9月25日付
・朝日新聞朝刊「山本さん救う会設立拉致疑惑で家族支援へ山梨大教授ら」2002年9月27日付
・朝日新聞朝刊「北朝鮮の元軍人と会談拉致疑惑の山本美保さん妹」2003年5月3日付
・朝日新聞朝刊「捜査の進展期待」北朝鮮の拉致濃厚一斉告発」2004年1月30日付
・朝日新聞朝刊「真実を願い切実北朝鮮「拉致」訴える行方不明者の家族」2006年12月2日付
・朝日新聞朝刊「拉致問題巡り日弁連が勧告甲府の女性「死亡」で」2014年9月4日付
・朝日新聞朝刊「DNA型鑑定書の複写求め新組織山本美保さん家族ら」2015年8月6日付
◆物証、DNA、複数の事件説が交錯する失踪事件を追った考察記事
◆北朝鮮拉致の関与が疑われる、疑われた事件考察記事
◆時代を象徴する未解決事件記事
◆成人女性の失踪事件(事案)


















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