
人間は、何らかの規範的対象に対して忠誠を誓う存在である。その忠誠は秩序の維持を可能にするが、同時に、それがいかなる権威配置のもとで構築されているかによっては、国家の存立そのものを危機へと導く契機ともなりうる。では、忠誠が破局的帰結を孕むと認識されたとき、主体はいかなる選択をなしうるのか。
1944年7月20日、ドイツ国防軍大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは、総統アドルフ・ヒトラーに対する暗殺を実行に移した。本事件は「7月20日事件」として記憶されるが、その歴史的意義は単なるクーデター未遂という範疇に還元されない。それは、近代国家における誓約(Eid:独語「誓い」)と内面的信念との根源的緊張を露呈させた出来事であった。
1934年、ヒンデンブルク大統領の死去後、ドイツ国防軍将校は国家や憲法ではなく、ヒトラー個人に対する無条件の服従を宣誓した。この誓いにより、軍の正統性の根拠は抽象的な法秩序から具体的個人へと移る。規範の基盤が制度的枠組みから人格的権威へと移動したのである。この転換こそが、後のワルキューレ作戦を理論的にも実践的にも困難にした前提条件であった。
忠誠を保持することはヒトラーの正当性を維持する行為である。しかし、その機構自体が破滅的方向へ進行している場合、忠誠は秩序の維持ではなく、破局の加速へと転化する。反対に、誓約を破棄することは倫理的主体性の回復であると同時に、法的・政治的には反逆の烙印を引き受ける行為でもある。
7月20日事件の中心にいた者たちは、民主主義の擁護者でも急進的変革者でもなかった。彼らは多くが貴族的伝統を背景とする職業軍人であり、国家の継続性と秩序の保存を重視する保守的エリート層であった。彼らの企図は国家の全面的解体ではなく、ヒトラーという人格的中枢を除去することによって「正統な国家」を回復する試みであった点に、その歴史的限界がある。
映画『ワルキューレ(Valkyrie)』(2008年)は、この歴史的事件を題材とする。しかし本作の核心は暗殺計画の成否そのものではない。むしろ、既存の統治秩序に組み込まれた主体が、その秩序を否定せざるをえなくなる瞬間の倫理的・政治的緊張を描き出す点にある。
北欧神話におけるワルキューレは、戦場において生者と死者を選別する存在である。1944年7月20日、将校たちの決断は物理的な生死のみならず、歴史的評価においても彼らを反逆者と抵抗者とに分節する契機となった。
本稿は映画『ワルキューレ』を通して7月20日事件を再検証する試みである。事件の構造とワルキューレ作戦の論理的限界を検討しつつ、「ヒトラーへの個人忠誠」という誓約体系がいかにして主体の判断を拘束したのかを分析する。その上で、忠誠と反逆の境界、組織の内側からの改革の限界を歴史的文脈の中で考察する。
歴史はいかなる基準によって反逆を定義するのか。忠誠とは法への服従か、それとも国家の存続可能性に対する責任か。これらの問いは過去の評価にとどまらず、既存の秩序に生きる我々自身の倫理的位置を問い返す契機となる。
映画概要
本作『ワルキューレ(Valkyrie)』(2008年)は、1944年7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件、いわゆる「7月20日事件」を題材とする歴史映画である。監督は、サスペンス映画『ユージュアル・サスペクツ』で知られるブライアン・シンガー。主演はクラウス・フォン・シュタウフェンベルクを演じるトム・クルーズである。
映画はスリラー的緊張感を保持しつつも、本作は実在の将校たちによる暗殺計画と、その後に発動されたワルキューレ作戦の顛末を描く。
娯楽的緊張感を保ちながらも、政治的事件を単なるスリラーへと回収することなく、登場人物たちの選択と決断と静かな葛藤の連鎖として提示している点に特徴がある。
あらすじ
物語は北アフリカ戦線の敗勢から始まる。戦況の悪化と東部戦線における残虐行為の報告は、ドイツ国家の持続可能性に対する根源的疑念を将校層に生じさせる。戦闘中に重傷を負い、片目と右手を失ったシュタウフェンベルクは、軍事的敗北のみならず、政治的・道義的崩壊の兆候を読み取りつつ、この戦争が祖国を破滅へと導くとの確信に至る。
彼は陸軍に存在していた反ヒトラー派の将校たちと連携し、暗殺計画の中核へと位置づけられる。しかし問題は単なる爆殺の成功可否にとどまらない。ヒトラー排除後にいかなる統治原理を再構築しうるのか、国家権力の移行をいかに規範的基盤のもとで遂行するのかという点こそが、計画の成否を左右する核心であった。
転用されたのが予備軍動員計画「ワルキューレ」である。本来は内乱鎮圧を目的とする非常措置であったそれを、反ヒトラー派は国家機構の再編装置として再解釈した。
1944年7月20日、総統大本営『狼の巣』で爆弾は爆発する。しかしヒトラーは生存していた。この事実はベルリンの指揮系統を混乱させ、命令は遅延し、国家機能の統一性は急速に失われる。
数時間後、作戦は崩壊する。夜半、シュタウフェンベルクは銃殺刑に処される。軍将校の修正的反乱は終息するが、その試みはドイツ近代史における倫理的葛藤の象徴として記憶されることとなる。
「ワルキューレ作戦」とは?
7月20日事件の成否を理解するには、暗殺行為そのものではなく、それを可能にし、同時に制約した統治枠組みに目を向ける必要がある。ワルキューレ作戦は偶発的陰謀ではなく、ヒトラー政権下で整備された合法的非常動員計画であった。
本来の目的
ワルキューレ作戦は、本来、国内における暴動や内乱の発生時に予備軍を動員し、国家秩序を維持するための非常計画として策定されたものである。想定されていたのは、強制収容所囚人の蜂起や占領地における動揺がドイツ本土へ波及する事態などであった。
すなわち、この計画はナチスのイデオロギーを守るための法的装置であり、体制防衛の論理に奉仕するものであった。
転用されたクーデター計画
反ヒトラー派は、この合法的命令体系を逆用した。ヒトラーの死亡を前提に、親衛隊(SS)を反乱分子と宣言し、予備軍を動員してベルリンの主要拠点を掌握し、連合軍との講和樹立を目指すという構想である。この一連の手続きは、外形上は既定の命令系統に依拠し、あくまで「合法的」非常措置として実行されるはずであった。
ここに7月20日事件の核心がある。それは無秩序な暴発ではなく、法的妥当性を装った政権転覆であった。すなわち、既存の命令体系を用いて権力を掌握しようとするという逆説的運用こそが、ワルキューレ作戦の本質である。
ヒトラーへの個人忠誠という制度的罠
1934年8月2日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の死去に伴い、ヒトラーは国家元首の地位を掌握した。同日以降、ドイツ国防軍は従来の国家・憲法への忠誠宣誓を廃し、ヒトラー個人への無条件服従を誓う宣誓へと転換する。ナチ党の政治指導者および親衛隊(SS)もまた、同様の誓約体系に組み込まれた。
当時の宣誓文は次の通りである。
“Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen.”
(私は、ドイツ国と民族の総統であり、同時に国防軍最高司令官であるアドルフ・ヒトラーに対して進んで無条件の忠誠を尽くすとともに、勇敢な兵士として、いかなる時も身命を賭する用意のあることを、この神聖なる宣誓をもって、神にかけて誓います。)
出典:Gesetz über den Eid der Wehrmacht vom 20. August 1934, Reichsgesetzblatt I, S. 785.
ここで誓われた忠誠の対象は、国家でも憲法でもなく、「総統個人」である。この移行は象徴的変更にとどまらない。軍の存在意義の源泉は抽象的法秩序から具体的個人へと移動し、権威の基盤は制度的規範から人格的指導へと再編成された。
忠誠の対象が「人格」へと集中したとき、倫理的判断は統治機構の理論で拘束される。法的義務と道義的責任の区別は曖昧化し、誓約の履行は政治的帰結と不可分に結びつく。
シュタウフェンベルクは、この宣誓を破棄した。だがそれは国家への反逆であったのか、それとも国家を存続可能な形へと回復しようとする行為であったのか。
この問いは、単なる歴史的評価の問題ではない。制度と倫理、法的忠誠と政治的責任との関係そのものを問うものである。
民主主義的抵抗ではなかったという事実
7月20日事件を評価するにあたり、まず確認すべきは、この計画が市民革命でもなければ、民主主義的秩序を回復するための大衆運動でもなかったという点である。それは反ヒトラー将校一派によって構想・実行されたクーデター計画であった。
爆弾は、選ばれた者のみが入室を許された総統大本営『狼の巣』に仕掛けられ、権力移行は既定の命令体系を転用することによって実行されるはずであった。すなわち、ワルキューレ作戦という合法的非常動員計画を用い、国家機構を上位から掌握する構想である。この計画は、制度の外部からの革命ではなく、既存の統治構造の内部における権力再編を志向するものであった。
彼らの目的は秩序の全面的破壊ではなかった。むしろ、ヒトラーという「中心」を排除することによって、国家の規範的基盤を回復しようとする修正的試みであった。しかし、前章で確認した通り、その有効性の根拠はすでにヒトラー「個人」へと集中していた。法的秩序と人格的主権が重なり合った状況において、個人の排除は国家の再建を自動的に意味しない。
問題は、彼らがヒトラーを国家から切り離せると想定した点にある。しかし現実の統治体系はすでに、ヒトラーと国家を不可分のものとして再編していた。
保守的軍人たちの限界とエリートの失敗
シュタウフェンベルクは単なる軍人ではない。南ドイツの貴族階級出身であり、家業として軍務を継承した職業軍人であった。彼は外部からの反抗的主体ではなく、伝統的な上流階級側に位置するエリートである。この出自は偶然ではなく、7月20日事件の性格を理解する上で決定的である。
事件の中心人物の多くは、旧プロイセン的軍事伝統を継承する将校層であった。彼らは秩序、階級的名誉、国家の継続性を重視し、国家の解体ではなく修復を志向していた。その目標はドイツ国家の全面否定ではなく、ヒトラーという独裁者を排除し、「秩序あるドイツ」へ回帰させることであった。
しかし、ナチ政権の中枢を構成していた多くの指導者は、旧来の貴族的エリート層とは異なる出自を持っていた。ヒトラー自身は元伍長であり、党幹部の多くも伝統的軍事貴族とは無縁であった。そこには旧エリート層と新興勢力との潜在的緊張が存在した可能性は否定できない。
だが決定的なのは出自の対立ではない。問題の核心は制度の編成にあった。1934年の個人忠誠宣誓によって、軍はすでにヒトラーを中心とする権威体系に組み込まれていた。権力と妥当性の源泉が人格へと集中した以上、エリートがいかに高潔な動機を有していたとしても、その行為は制度の前提そのものにおいて自己矛盾を抱え込む。
すなわち、合法的な命令体系を用いて国家を「救う」ためには、同じ体系が前提とする忠誠(総統への無条件服従)を同時に破棄しなければならない。
7月20日事件は、保守的エリートによる修正的反乱の倫理的緊張を示すと同時に、主権が特定の個人へ集中した統治のもとでは、内側から「正す」こと自体が困難になることを示した事例である。
ヒトラーを排除しても、真正の根拠がその個人に結びついている限り、権力移行の正当化は空洞化する。
そこに、この事件の歴史的限界がある。
戦後の再評価:西ドイツにおける位置づけ
事件直後、7月20日の関与者たちは国家反逆者として処刑され、その家族もまた社会的・法的制裁の対象となった。ナチ政権下において彼らの行為は、主権者に対する裏切りとして一義的に断罪されたのである。
しかし戦後、西ドイツにおいて7月20日事件は段階的に再評価される。1950年代以降、彼らは「ドイツ抵抗運動」の象徴的存在として位置づけられ、ベルリンの旧国防軍総司令部跡地であるベンドラーブロック(ドイツ・ベルリン)は記念施設として整備された。7月20日は公式の追悼日となり、ドイツ連邦軍の将校は同地において宣誓を行う。
評価は反転した。
西ドイツは彼らを「国家に対する責任を選択した軍人」として再定義した。しかしその評価は、戦後ドイツが自らをナチス・ドイツとは異なる国家として位置づけ直す過程と密接に結びついていた。
それは単純な英雄化ではない。彼らの試みは民主的変革ではなく、軍による政権転覆の構想であったという事実は消えない。
結語
7月20日事件は成功しなかった。ヒトラーは生存し、計画は崩壊し、関与者たちは処刑された。
しかし、歴史的失敗は必ずしも倫理的無効を意味しない。
映画のラストシーンにおいて、銃殺直前のシュタウフェンベルクは叫ぶ。
――ドイツよ、永遠なれ――。
彼は処刑の瞬間、妻との最後の別れの日を回想する。そこに描かれるのは英雄的誇張ではない。信念と責任のあいだで選択を引き受けた一人の「人間」の姿である。
エンドロールには、ベルリンの抵抗運動記念碑の言葉が示される。「自由と正義と名誉のために抵抗し、命を捨てた者に恥はない」。
命令に従うことは常に安全であるとは限らない。反抗することもまた、常に正義であるとは限らない。選択は抽象的理念ではなく、具体的状況の只中でなされる。
ワルキューレは戦場で人を評価し、生者と死者を分ける。しかし現実においては、選択が即座に善悪を分かつわけではない。時間の経過の中で、評価は揺らぎ、再編される。それこそが、歴史という営みである。。
問われているのは、過去の将校たちの勇気だけではない。
既存の共同体の中で生きる私たちは、いかなる瞬間に、いかなる基準で、いかなる責任を引き受けるのか。
忠誠とは何か。
反逆とは何か。
そして、その選択は、未来の歴史からどのように呼ばれるのか……。
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