映画『時計じかけのオレンジ』考察|自由意志・全体主義・60年代英国を読む

時計じかけのオレンジ

映画『時計じかけのオレンジ』は、暴力的な不良少年アレックスの転落と矯正を描いた物語としてのみ理解される作品ではない。その核心にあるのは、国家が犯罪者の身体を処罰する段階を越え、その「魂」の領域にまで介入しようとする問題である。アレックスから奪われるのは、単なる行為の自由ではない。善にも悪にも向かいうる、人間の内的な選択の場そのものが剥奪される。

本作において決定的な意味を持つのが、ルドヴィコ療法である。それは、更生でも医療でもない。悪を認識し、理解したうえで、それを自らの意思によって退ける人間を形成する方法ではなく、苦痛と嫌悪を条件反射として身体に刻み込み、悪をなしえない「機械」へと人間を変容させる処置である。だからこそ、牧師はこれに反発する。善は選択されることによって初めて善として成立し、選択そのものが消失した場所には、徳もまた成立しえないからである。

本稿では、映画と原作小説の双方を視野に入れ、近未来英国の政治、1960年代文化、原作第21章、そして牧師の言葉を手がかりとして、『時計じかけのオレンジ』を考察する。本作が描くのは、単なるカルト映画的な暴力と倒錯ではない。「魂」の領域へ侵入する悪夢的国家と、それでもなお自ら選択しようとする人間との衝突である。

映画『時計じかけのオレンジ』とは|作品概要と問題設定

1962年、英国の作家アンソニー・バージェス(1917年2月25日―1993年11月22日)は、小説『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』を発表した。

本作の舞台は、完全雇用の追求、高福祉の提供、労働者の消費者化といった特徴を備える、近未来の社会主義的な英国である。物語は、主人公アレックス(アレキサンダー・デ・ラージ)が15歳当時の自らの過去を回顧し、独白する形式によって進行する。

高等教育を受けていない不良少年アレックスの独白によって構成される本作では、言語学者でもあったバージェスが創出した、ロシア語の影響を受けるスラング「ナッドサット」が使用されている。文法その他の言語規則から意図的に逸脱したその文体は、無秩序を装いながら高度に計算されており、作品の構造そのものを規定する重要な要素となっている。

1971年には、鬼才、完全主義者とも称されるスタンリー・キューブリック(1928年7月26日―1999年3月7日)によって、映画『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』が製作、公開された。

映画『時計じかけのオレンジ』は、1960年代の社会、さらに1960年代以降の社会に大きな影響を及ぼしたベビーブーマー世代、「怒れる若者」たちの価値観、生き方、行動様式、文化などから着想を得たとも考えられるバージェスの小説世界を、映像と音楽によって具体化した作品である。

――主人公アレックスと、そのドルーグ(仲間、族、一派、チーム)による暴力。国家による暴力。アレックスを政治的に利用する大人たちの暴力。ドラッグと音楽が生む高揚。性の解放、寛容、自由の時代。そして、その時代に対する批判。人間性とは何か。自由とは何か。個人主義と、公益を優先する全体主義社会。教会のモラルと保守層のモラル――。

主演は、英国の名門演劇学校「ロンドン・アカデミー・オブ・ミュージック・アンド・ドラマティック・アート(ロンドン音楽演劇芸術アカデミー)」出身のマルコム・マクダウェル(Malcolm McDowell)。監督はスタンリー・キューブリックである。

なお、余談ではあるが、映画『時計じかけのオレンジ』の作中、レコード店のカウンターには、同監督の代表作『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』のポスターが掲示されている。

本稿では、名作『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』について、小説版、映画版の双方を対象に、独自の視点から考察する。

映画『時計じかけのオレンジ』あらすじ|暴力、矯正、政治利用の物語 

小説・映画『時計じかけのオレンジ』が発表・公開された1960年代から1970年代初頭を起点とする「近未来」の英国。そこに、本能と欲望のままに生きる15歳の主人公アレックスと、その仲間であるドルーグたちがいる。

彼らはドラッグ入りの牛乳を飲み、夜の英国を徘徊する。暴力そのものに快楽を見いだし、殺人、強盗などの重犯罪を繰り返しながら、社会が定める規範や道徳をほとんど意に介さない。衣食住が保障され、一定の社会秩序が維持されている一方、その内部では、アレックスたちのような少年たちが欲望と衝動のままに行動している。

小説・映画『時計じかけのオレンジ』は、こうした近未来社会を舞台に、アンチモラルな少年たちの欲望と衝動、それを統制しようとする国家、さらに科学の力によって人間の行動そのものを矯正しようとする政府の思惑を描く。

『時計じかけのオレンジ』の舞台設定|近未来英国と統治の不穏

小説・映画『時計じかけのオレンジ』は、近未来の英国を舞台としている。その「近未来」が具体的にいつの時代を指すのかは明示されていない。しかし、アレックスとそのドルーグ(仲間、族、一派、チーム)に理由もなく襲撃され、暴行を受けるホームレスの老人は、「月へ行く人間と地球を回る人間」という趣旨の言葉を口にする。この発言から、本作の時代設定は宇宙開発がなお初期段階にある未来、すなわち小説・映画『時計じかけのオレンジ』が制作された1960年代から1970年代初頭を起点とする「近未来」であると考えられる。

無法がはびこるきたねえ世界だ 若者が年寄りをイビる世界だ。老人が暮らせる世界はもう残っちゃいない。月へ行く人間と地球を回る人間。だけど地上の法と秩序にゃみなが無関心だ

時計じかけのオレンジ (字幕版)

また、犯罪・触法行為の前歴を有する非行少年アレックスを担当する更正委員P・R・デルトイドは、次のように述べている。

何が問題だ?我々も研究はしている。1世紀近く続けているがなかなか、畜生、成果があがらない。申し分ない家と親があり、頭も悪くないのに悪魔が体をはい回るのか

時計じかけのオレンジ (字幕版)

小説・映画『時計じかけのオレンジ』の舞台となる時代は明示されていない。しかし、作中には、その年代を推定するための複数の手掛かりが置かれている。

前述したホームレス老人の「月へ行く人間と地球を回る人間」という言葉は、宇宙開発がすでに現実のものとなった時代を示している。さらに、犯罪・触法行為の前歴を持つアレックスを担当する更正委員P・R・デルトイドは、少年犯罪の問題について、すでにほぼ一世紀にわたって研究が続けられてきたという趣旨の言葉を口にする。

少年犯罪が社会問題として強く認識されるようになった1950年代をひとつの起点とし、そこから「ほぼ一世紀」というデルトイドの発言を重ねるならば、本作の舞台は2050年前後に設定されていると推測することができる。少なくとも、1960年代から1970年代初頭の観客にとって、本作が描いたのは数百年後の遠未来ではなく、自分たちの社会制度、都市、犯罪、政治、科学技術がそのまま延長された先にある近未来であったと考えられる。

その意味で、『時計じかけのオレンジ』の世界は、現実とは断絶した未来社会ではなく、われわれの社会と連続しながら、異なる方向へ進んだ一種の平行世界として捉えることもできる。

なお、主人公アレックスが逮捕され、連行された警察署には1月のカレンダーが掲示されているが、それが何年のものなのかは判然としない。また、アレックスが「ルドヴィコ療法」を受けたのち釈放されたことを報じる新聞「デイリー・ミラー」などにも、年月日の記載は確認できない。

近未来英国の政治体制|全体主義の萌芽とルドヴィコ療法

本章では、小説・映画『時計じかけのオレンジ』の舞台となる社会の政治体制について考察する。

『時計じかけのオレンジ』に描かれる英国は、完成した独裁国家ではない。この社会には、なお選挙が存在している。

アレックスに「ルドヴィコ療法」を施す新任の内務大臣は、「治安の回復」を公約に掲げる政党から出馬しており、同療法に対する国民世論の動向にも神経を尖らせている。したがって、議会制民主主義と世論政治そのものが消滅した社会ではない。

しかし、本作が描く時代が、政治的な分岐点、すなわち全体主義の萌芽が現れ始めた時代であることは重要である。

内務大臣が強く問題視しているのは、殺人や強盗などの一般刑事犯罪だけではない。今後増加すると予測される「政治犯」である。政治犯の収容が増加すれば、刑務所をはじめとする矯正施設には物理的な収容限界が生じる。その問題を解決する手段として構想されているのが、「ルドヴィコ療法」である。

まず一般刑事犯にルドヴィコ療法を施し、人間の欲望と自由意思そのものに介入することで、犯罪行為を不可能にする。そこでは犯罪者を拘禁する必要さえなくなる。犯罪者の身体を施設の内部に閉じ込める代わりに、その内面を改変し、人間そのものを「機械化」することで秩序を維持しようとするのである。

治安の回復、あるいは体感治安の悪化を理由として、非人道的な「治療」が国民に施される。最初の対象は一般刑事犯かもしれない。しかし、その方法が国家統治の手段として制度化されれば、対象が刑事犯だけに限定され続ける保証はない。やがて政敵、反体制派、さらには政府によって「社会の敵」と認定された国民へと適用範囲が拡大していく。その先に、全体主義国家の完成を見ることができる。

こうした全体主義の萌芽を察知している人物が、かつてアレックスとドルーグによる「超暴力」の被害を受け、その結果として妻を失い、自らも心身に深刻な傷を負った反体制派の作家である。なお、この作家が執筆していた小説の題名こそ、『時計じかけのオレンジ』である。

では、本作で描かれる社会は、より具体的には、どのような政治体制と社会構造を備えているのか。

主人公アレックスは、「キングスレー通りとウィルソンズウェイの間にある市営団地ブロック18A 10-8号室」に居住している(引用:アンソニー・バージェス著、乾信一郎訳『時計じかけのオレンジ 完全版』早川書房、2008年、50―51頁)。

アレックスの母親は工場に勤務している。父親も職に就いていることが作中から読み取れる。完全雇用が追求され、住居が供給されるこの社会には、第二次世界大戦後の英国で展開された、「揺りかごから墓場まで(from the cradle to the grave)」に象徴される社会保障政策と、「大きな政府」の延長線上に位置する社会像を見ることができる。

一方、アレックスたち若者が用いるスラング「ナッドサット」は、ロシア語から強い影響を受けている。小説が発表された1960年代、映画が公開された1970年代初頭には、社会主義国家ソビエト社会主義共和国連邦が米国と並ぶ超大国として存在していた。言語や大衆文化が、政治的・経済的・軍事的に優位な国家の影響を受けることを考えれば、「ナッドサット」の存在は、本作の世界において社会主義圏、とりわけソ連が強い文化的影響力を有していることを示すものとして読むこともできる。

しかし、こうした社会主義的要素の存在によって、英国社会固有の階級構造が消滅したわけではない。

アレックスは、市営住宅に暮らす労働者階級の少年として描かれる。一方、アレックスとドルーグに襲撃される作家、そして大金持ちの良家を自任する「ヘルス・ファーム」の所有者ミス・ウェザースは、いずれも郊外の戸建て住宅に居住している。住宅、職業、教育、言語、生活様式といった差異を通じて、階級の境界はなお社会内部に残存している。

アレックスとドルーグは、盗んだ最新型スポーツカー「デュランゴ95」に乗り、「超暴力」の対象となるインテリ層や上流階級が暮らす郊外へ向かう。その途上に登場するのが、「フォルクスワーゲン・ビートル」である。

フォルクスワーゲン・ビートルの原型は、ナチ政権下の国民車構想によって開発された。国家社会主義政権は、大衆にも自動車を所有可能とする「国民車」を構想し、大量消費社会の一つの象徴となる自動車の普及を政策目標として掲げた。

『時計じかけのオレンジ』の社会にもまた、自動車をはじめとする大量生産品が広く普及し、労働者を含む多数の国民が消費者として組み込まれた社会の姿を見ることができる。そこには、福祉国家、完全雇用、大量生産、大量消費、階級社会、そして次第に強化される国家権力が同時に存在している。

ここで、アレックス自身の言葉を引用しよう。

昼間は老いぼれの中産階級のものだ

アンソニー・バージェス(著)乾信一郎 (訳)「時計じかけのオレンジ 完全版」早川書房2008年P66

小説・映画『時計じかけのオレンジ』の舞台にも、英国の伝統的な階級(意識)は残っているようだ。

小説・映画『時計じかけのオレンジ』の舞台を特徴づけるもう一つの要素は、主人公アレックスが居住する市営団地と、その周辺環境に象徴されている。

団地周辺や建物内部のエレベーターホールには、大型の廃棄物や大量の生活ゴミが放置されている。エレベーターは故障したまま修理されず、機能を停止している。さらに、エレベーターホールに描かれた古代ギリシア風の労働者男性の壁画には、卑猥な落書きが加えられ、それも消去されないまま残されている。

このように、『時計じかけのオレンジ』の世界には、維持・修繕されない公共物が至るところに存在する。高福祉社会として構成されていると思われる一方で、その公共空間は著しく荒廃しており、人々の公共心や共同体意識が失われつつある社会として描かれている。

さらに、政府の関心もまた、公共施設や生活環境の維持より、治安対策や政敵との政治闘争へと傾斜しているように見える。公共物の修理・修繕が継続的に放置されている点を別の角度から見るならば、この社会の財政自体が相当に逼迫している可能性も考えられる。

すなわち、本作が描く高福祉社会は、制度として福祉を維持しながらも、公共空間の管理能力、共同体意識、そして財政的余力のいずれもが次第に失われつつある社会として捉えることができる。

60年代カルチャーの残響|退廃、消費、解放の時代

前述のとおり、小説・映画『時計じかけのオレンジ』で描かれる時代は、政治的には分岐点にあり、全体主義の萌芽が現れ始めた時代だといえる。一方、文化の領域では、依然として「自由奔放の時代」が続いている。階級の差を越えて多くの者が消費者となり、消費や文化を通じて自己実現を図る時代。文化に自己を投影し、文化を媒介として自己を確認する時代である。

こうした自由奔放な社会の空気は、退廃的な表現までも包摂し、ドラッグの影響を受けた文化や、既存のモラルから逸脱した表現を生み出している。それは、教会を含む従来のキリスト教的道徳の拘束から解放され、大衆自身が文化の作り手であると同時に、その受け手となった時代でもある。

その文化的変化は、主人公アレックスのような労働者階級の若者を中心とするカウンターカルチャーから始まったのかもしれない。しかし、その影響は若者や下層階級の内部にとどまらず、「ヘルス・ファーム」の所有者ミス・ウェザースのような上流階級にも及んでいる。

アレックスとドルーグがドラッグ入りのミルクを飲む「コロヴァ・ミルク・バー」のテーブルやインテリアには、裸の女性がモチーフとして用いられている。映画冒頭では、その女性像を造形したテーブルに足を投げ出すアレックスの姿が映し出される。

では、「ヘルス・ファーム」の所有者ミス・ウェザースの邸宅はどうだろうか。そこに置かれたインテリアや芸術品には、男性器をモチーフとした表現物が数多く見られる。この点から見ると、『時計じかけのオレンジ』の社会には、性表現を公然と文化や芸術の領域へ持ち込む価値観が定着しており、その背景には、性的解放やリベラル・フェミニズムの影響を受けた社会状況を見ることもできる。

健康に留意しながら多数の猫と暮らす孤独な高齢女性ミス・ウェザースは、ピノキオを思わせる鼻の仮面を被ったアレックスによって、自らが大切にしていたその「芸術」で殴打される。

女性をモノ化し、「イン・アウト・イン・アウト」の対象として扱うアレックス。一方で、男性器をモチーフとする芸術品を収集し、それらを自身の生活空間に置くミス・ウェザース。

ここには、『時計じかけのオレンジ』の舞台を覆う自由奔放で退廃的な文化と、その内部に併存する二つの価値観が対置されている。

若者社会と統制される欲望|自由意志はなぜ標的になるのか

小説・映画『時計じかけのオレンジ』の舞台となる社会について、人口構成の詳細は明らかではない。しかし、未成年者による犯罪が長期にわたって社会問題化し、歴代政府が「1世紀近く」にわたりその対策を続けてきたことから、この社会では若年層の比率が比較的高かった可能性がある。

ここで、アレックスとそのドルーグに理由もなく襲撃され、暴行を受けるホームレスの老人の言葉を、もう一つ引用しよう。

無法がはびこるきたねえ世界だ 若者が年寄りをイビる世界だ。老人が暮らせる世界はもう残っちゃいない

時計じかけのオレンジ (字幕版)

若年層の比率が高い社会では、それまで社会を支えてきた習慣、慣習、モラル、宗教的規範、価値観そのものが相対化されやすい。若者は既存の規範に懐疑を向ける一方、新たな価値観と行動規範を形成し、それまでの社会秩序を揺さぶっていく。

とりわけ、人口構成上大きな比重を占める若年層は、従来のタブーを容易に越境し、それまで「正義」とされてきたもの、「悪」とされてきたもの、さらに醜悪とみなされてきたものの境界さえ組み替えていく。それは、旧来の社会そのものを飲み込むほどの文化的、社会的圧力となりうる。

政治的には分岐点にあり、全体主義の萌芽が現れ始めた時代。その一方に、本能と欲望のままに行動する自由奔放なアレックスがいる。

小説・映画『時計じかけのオレンジ』の読者、観客のなかには、自らの欲望に従って暴れ回るアレックスに、ピカレスク的な魅力を感じる者もいるだろう。さらに、ルドヴィコ療法を受け、釈放後に意気消沈するアレックスに対して、いつしか同情や応援したいという感情さえ抱いてしまう。

ここに、本作の重要な倒錯がある。殺人、強盗、暴行を繰り返してきた人物であるにもかかわらず、国家によって自由意思そのものを破壊された瞬間、アレックスは単なる加害者ではなく、国家権力によって統制される一人の人間として立ち現れる。

全体主義とは、公益や秩序を理由として、個人の欲望と自由を統制する政治体制である。「1世紀近く」にわたり少年犯罪と治安の悪化に悩まされてきた政府、そして統治する側に立つ更正委員P・R・デルトイド。その問いかけに対し、アレックスは独白のなかで次のように語る。

彼らが何がいったい不良の『原因』かなんて考えこんでるのは、おれにいわせりゃ、まったくのお笑いだ。『善良』の原因さえよくわかっていないくせに、その反対のことがわかるわけないだろ?人々が善良だということが、その人々が善良を好むということだとすると、おれは絶対その楽しみを妨害しようなどとは思わないし、また、同じことが反対側の場合にもいえる。そして。おれはその反対側を支持しているのだ。その上、不良は自己のことであり、個であり、君でありおれであり、われわれ孤独なるものであって、その自己なるものはボックルつまり神により作られたものであって、その神の大きな誇りで、また、ラドシー(よろこび)でもあるのだ。だが、非自己は不良ではあり得ない、ということは、彼ら政府とか裁判官とか学校とかは自己を認めることができないから、不良を認めることができない。そして、兄弟よ、これらの大きな機構と戦ってきた勇敢な小さな自己たちの話が、わららの現代史ではないか?兄弟よ、おれはこのことでは、ほんとに本気なんだ。だが、しかし、おれのやってることは、やってることが好きだからやってるんだ

アンソニー・バージェス(著)乾信一郎 (訳)「時計じかけのオレンジ 完全版」早川書房2008年P62

「ルドヴィコ療法」は、人間の欲望、衝動、自由意思など心の中、魂を壊し、「犯罪性反射神経を抹殺」し、人間をプログラミングされた機械にする。

本来、人間の内心や「魂」は自由であるはずだ。規制の対象となるべきなのは、その自由な内心から外部へ現れる行為である。どのような性的妄想を抱こうと、いかなる政治思想を持とうと、異教の神を信じようと、それ自体は本来、個人の自由に属する。

マルキ・ド・サド(1740年6月2日―1814年12月2日)をバスティーユ牢獄に幽閉し、その身体の自由を奪うことはできても、彼の頭のなかまで拘束することはできなかった。誰も、人間の頭のなかに手錠や足枷をつけることはできなかったはずである。

しかし、「ルドヴィコ療法」は、その人間の内心、「魂」の領域そのものを制約し、統制する。主人公アレックスが暴力や性的な事柄を思い浮かべた瞬間、その身体は激しい苦痛に襲われる。国家は彼の行為を禁止するだけでなく、思考と欲望が生じる地点にまで介入する。

小説・映画『時計じかけのオレンジ』には、人間から「魂」を奪い、従順な「機械」へ変えるともいえる「ルドヴィコ療法」に異を唱える人物が三人登場する。

三人の思想、価値観、立場はそれぞれ異なる。「保守系の刑務所所長」、「神父」、そしてアレックスに暴行された『時計じかけのオレンジ』の作者である反体制作家である。

「保守系の刑務所所長」は、「(犯罪者に対し)国家だって殴り返して当然だろ」と言い放つ。刑務所内で歌われる囚人用讃美歌258番の歌詞は、「我はさまよう小羊。囲いを愛しはしなかった。羊飼いの声を愛しはしなかった。管理されるが嫌だった」と続く。所長は犯罪者を嫌悪し、罰と管理によって犯罪者を懲らしめようとする人物である。彼が否定するのは刑罰そのものではなく、犯罪者から選択能力そのものを奪う「ルドヴィコ療法」である。

もう一人の反対者である「神父」は、キリスト教の教義から同療法に異を唱える。

彼は言う。「真底人間を善良にできるか。善は心より発するもの。善は選択され得る。選ぶことの出来ぬものは人間とはいえない」「選ぶ能力!本人に選ぶ能力がないじゃないか。私欲と肉体的苦痛への恐怖が彼を醜悪な自己卑下に駆り立ててるんだ。そこには誠意のかけらもない。非行は防げても道徳的選択能力を奪われた生き物に過ぎない」と。

ここで問題となっているのは、犯罪の有無ではなく、道徳的選択そのものである。悪を選択する能力を持つ人間が善を選んだとき、その選択は初めて道徳的意味を持つ。悪を選択する可能性そのものを身体的苦痛によって封じれば、そこに残るのは善人ではなく、善以外を選べない存在である。

その一方で、道徳的選択の選択肢を聖書のなかから提示するキリスト教が、人間から選択能力そのものを奪う「ルドヴィコ療法」を批判する。この構図も、本作における重要な対置となっている。

最後の一人が、アレックスに暴行された『時計じかけのオレンジ』の作者である反体制作家である。彼は、社会が全体主義へ傾斜していく時代の流れを敏感に察知するインテリ層の人物として描かれている。

しかし、彼はやがて、アレックスこそが妻を凌辱し、自身の心身にも深刻な傷を負わせた加害者であることを知る。そして政府を糾弾するため、今度は自らがアレックスを政治的に利用しようとする。

そう、彼は単なる理想主義的なインテリではない。アレックスと同じく「モダンエイジ」の被害者であるだけの存在でもない。彼自身もまた、政治的目的のために手段を正当化する政治闘争の人間として描かれている。

1960年代英国社会との接続|自由と反動の時代背景

アンソニー・バージェスが小説『時計じかけのオレンジ』を発表した1962年の英国は、保守党のハロルド・マクミラン(在任期間:1957年1月10日―1963年10月19日)が首相を務めていた時代である。

当時、世界は米ソ冷戦と核兵器による破滅の可能性に晒され、人類は「世界の終わり」を日常的な現実として意識する時代に入っていた。同時に、人口規模の大きなベビーブーマー世代が成長し、社会のさまざまな領域に影響を及ぼし始めた時代でもあった。

人口的な厚みを持つベビーブーマー世代は、それまで社会を拘束してきた既存の文化、慣習、モラル、階級的規範を越え、新たな価値観と行動様式を形成していく。社会には次第に寛容な空気が広がり、大麻、LSD、経口避妊薬、東洋の神秘主義などが同時代の文化を特徴づけるようになる。男性は髪を伸ばし、女性のスカートは短くなる。既存の価値体系が絶対的なものではないことが可視化され、自由と寛容を志向する社会が形成され始めた時代である。

しかし、社会は振り子のように左右へ動く。右へ大きく振れれば、その反動として左への揺り戻しも大きくなる。社会が自由と寛容へ大きく傾けば、それに対する反動もまた生じる。

1960年代は、自由と寛容が拡大した時代であると同時に、その自由を再び規制しようとする力が現れ始めた時代でもあった。それは政治的な右派、左派双方からの反作用であり、宗教からの反作用であり、既存の道徳からの反作用であり、さらに「治安を回復する」という大義のもとに現れる反作用でもあった。

なお、法務省『平成元年版 犯罪白書』第4編第2章第4節2によれば、1960年代までの英国では、殺人をはじめとする重大犯罪の認知件数、発生率は、日本と比較しても低い水準にあった。

『昭和37年版 犯罪白書』も、当時の英国について、「暴力的犯罪が一般的に少ないほか,殺人,傷害致死,強盗殺人のような悪質かつ重大な犯罪のきわめて少ないことがイギリスの犯罪現象の大きな特色」とし、さらに「イギリスにおける犯罪は,最近数的には増加しているものの,全体としてみれば比較的良好な状態にあるといえよう」と記している。

しかし、その状況は次第に変化する。1970年代前半頃には、少なくとも殺人事犯の発生率において、英国は日本を上回るようになる。この差には、日本における犯罪発生率の低下も関係しているが、1987(昭和62)年の殺人事犯の発生率を見ると、日本の1.3に対し、英国は5.5、米国は8.3となっている。

1960年代初頭には、重大な暴力犯罪が比較的少ない社会と認識されていた英国において、その後、犯罪状況は大きく変化した。1960年代以降、英国では重大犯罪が増加傾向を示し、その兆候はすでに1960年代に現れ始めていたと考えられる。

小説『時計じかけのオレンジ』は、そのような時代のなかで、近未来の仮想英国を舞台とする作品として登場した。

では、小説・映画『時計じかけのオレンジ』が発表・公開された1960年代初頭から1970年代初頭の日本は、どのような時代だったのだろうか。

日本でも米国、英国、フランスなどと同様、ベビーブーマー世代にあたる団塊の世代が既存の価値観を揺さぶり、新たな文化や行動様式を生み出し始めた。自由と寛容を志向する社会の風潮はその後も拡大し、1980年代に一つの頂点を迎える。

しかし、日本社会にも揺り戻しの時代が訪れる。

「行き過ぎた自由を規制する」「他人を不快にする表現は規制されるべきだ」「体感治安は悪化している」。こうした言葉を理由として、政治的な左右の双方から、道徳的規範や社会秩序を根拠とする非寛容な主張が現れ、法やルールが新たに設けられ、それらをより厳格に運用する時代が始まる。

自由の拡大に対して規制が強まり、寛容の拡大に対して統制が強まり、治安や秩序の回復を理由として個人の自由へ介入する領域が広がっていく。

小説・映画『時計じかけのオレンジ』の時代が、世界中で始まっているのかもしれない。

小説版第21章と映画ラストの違い|自由意志は回復するのか

小説『時計じかけのオレンジ』と映画『時計じかけのオレンジ』では、結末が大きく異なる。小説では、映画版の有名なラストシーンのさらに先にある、主人公アレックスの姿が描かれている。

「ルドヴィコ療法」の影響から解放されたアレックスは、すでに17―18歳になっている。彼は新たなドルーグたちと行動を共にし、表面的には完全に以前の「彼」へと戻っている。

しかし、以前の「彼」とは、どこかが違う。

詳細は割愛するが――アレックスは、大人になったのだ。

ここで、アレックスが最後に残す言葉を紹介しよう。

でもみなさん、おおわが兄弟よ、たまには汝のかわいいアレックスのことを思い出してもらいたいな。アーメン。そしてくそくらえだ

アンソニー・バージェス(著)乾信一郎 (訳)「時計じかけのオレンジ 完全版」早川書房2008年P310

小説・映画『時計じかけのオレンジ』――現代のわれわれが受け継いだこの偉大な遺産を、われわれは次代へ継承することができるのか。

その問いこそが、この小説・映画『時計じかけのオレンジ』に通底するテーマの一つなのである。

資料集(アレックスが歌う『雨に唄えば』原曲と映画チラシ)

本章では、本作で使用された『雨に唄えば』の原曲と、筆者が収集した日本公開時のチラシを資料として掲げる。

劇中で引用された楽曲がもつ既存のイメージと、日本公開当時に本作がどのように提示されていたかを、あわせて確認するためである。

🎥動画『雨に唄えば』原曲

▼日本公開時のチラシ

■ 映像資料案内
本作の映像媒体・配信状況は下記リンクにて確認できる。
作品そのものに触れたい読者は、各種流通情報を参照されたい。
▶外部リンク Amazon『時計じかけのオレンジ (字幕版)』


◆参考文献

小関隆(著)『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』中公新書、2021年

法務省『昭和37年版 犯罪白書』
「第一編 第二章 五 イギリスの犯罪」
https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/3/nfm/n_3_2_1_2_5_1.html#H001024H

法務省『平成元年版 犯罪白書』
「殺人事犯の認知件数・発生率及び検挙率(1960年~1987年)」
https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/30/image/image/h004011h.jpg

法務省『平成元年版 犯罪白書』
「殺人事犯の発生率(1946年~1987年)」
https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/30/image/image/h004021e.jpg

アイキャッチ画像

解説:English: Colonial Theater advertisement for the film A Clockwork Orange (1971) – 11 Jul. 1972 Morning Call, Allentown PA. At the time of this ad, the film was rated X in the United States.日付:1972年原典:Allentown PA Morning Call(スキャナで取り込み)作者:Warner Bros.


◆独自視点のSF映画・漫画・アニメ考察シリーズ

◆スタンリー・キューブリック監督作品の考察・解説

◆全体主義を描いた映画考察

◆60年代-80年代の海外映画考察シリーズ


Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste Roquentinは、Albert Camusの『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartreの『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場する主人公の名を組み合わせたペンネームです。メディア業界での豊富な経験を基盤に、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルチャーなど多岐にわたる分野を横断的に分析しています。特に、未解決事件や各種事件の考察・分析に注力し、国内外の時事問題や社会動向を独立した視点から批判的かつ客観的に考察しています。情報の精査と検証を重視し、多様な人脈と経験を活かして幅広い情報源をもとに独自の調査・分析を行っています。また、小さな法人を経営しながら、社会的な問題解決を目的とするNPO法人の活動にも関与し、調査・研究・情報発信を通じて公共的な課題に取り組んでいます。本メディア『Clairvoyant Report』では、経験・専門性・権威性・信頼性(E-E-A-T)を重視し、確かな情報と独自の視点で社会の本質を深く掘り下げることを目的としています。

この著者の最新の記事

関連記事

おすすめ記事

  1. 宮崎県詳細地図と日向灘宮崎県佐土原町会社員女性失踪事件岩本美代子さん行方不明事件
    要約(クリックで開く) 1995年11月、宮崎県佐土原町に住む岩本美代子さんが、交際相手と…
  2. 自我を仮定しないAIの攻撃ターミネーター2から考える人間の設計責任
    要約(クリックで開く) 『ターミネーター2』では、自己認識を獲得したスカイネットが人間への…
  3. 映画JFK考察公開記録は何を変えたのか
    要約(クリックで開く) 1991年公開のオリバー・ストーン監督『JFK』は、ケネディ大統領…
  4. 映画ミシシッピーバーニング考察憎悪の生成と対抗暴力の正当化
    要約(クリックで開く) 1964年のミシシッピー州で起きた公民権運動家3人の殺害事件を基底…
  5. 五條堀美咲さん行方不明事案10年目の新報道と残される仮説の検証
    要約(クリックで開く) 2016年9月、大分市で行方不明となった五條堀美咲さん。発生から1…

AIのJOIの曲など

note:社会問題を中心にしたエッセイ

NOTE

NOTE

未解決事件・冤罪・歴史的事件:一覧

昭和平成令和の未解決事件冤罪歴史的事件

昭和平成令和の未解決事件冤罪歴史的事件

映画考察・解説まとめ|60年代〜現代の名作を年代・ジャンル・テーマ別に一挙紹介

映画考察レビュー記事まとめ年代ジャンルテーマ別アイキャッチ画像

映画考察レビュー記事まとめ年代ジャンルテーマ別アイキャッチ画像

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る