ご注意:この記事には、映画『肉弾』のネタバレが含まれています。
『日本の一番ながい日』の岡本喜八監督が描きだす、もう一つの戦争映画。
自身がモデルだといわれる「あいつ」の姿を通し監督が後世に伝えたかったことは?
映画『肉弾』について解説していきたいと思います。
映画『肉弾』の概要
映画『肉弾』は、1968年に公開された日本映画です。
メガホンを取ったのは『独立愚連隊(1959年)』、『激動の昭和史 沖縄決戦(1971年)』、『日本のいちばん長い日(1967年)』の岡本喜八監督(1924年2月17日-2005年2月19日)です。
岡本監督の前作『日本のいちばん長い日』は、半藤一利の大ベストセラー小説を原作とする東宝配給の一大戦争映画プロジェクト「8・15シリーズ」の第1作目として製作され、ポツダム宣言、終戦前日の宮城事件、御前会議など史実に基づく大作でした。
『日本のいちばん長い日』は、興行的、作品的にも高い評価を受け、岡本監督の代表作の一つとなりましたが、監督自身が描きたかった「戦争」は描ききれなかったと悔やみが残りました。
そこで描きたかった「戦争映画」を描くため、非商業主義的な芸術作品を生み出していたATG配給の『肉弾』が生まれました。
岡本監督は、映画製作にあたり、自宅を抵当に資金を集め、プロデューサーのみね子夫人ともに全国から製作費を集めたといわれています。映画『肉弾』は、岡本監督とみね子夫人の二人三脚で作り上げた作品だとも言えます。
低予算といいつつも岡本監督のこだわりはしっかり残されていて、それを感じられるのは「音楽」です。救いのない状況、非現実的な状況のなか、軽快で明るいテーマ曲が流れます。
作曲を担当したのは、佐藤勝さんです。佐藤さんは数多くの映画音楽を作り上げられた映画音楽のパイオニア的存在です。黒澤明監督の作品も多く手がけられ『蜘蛛巣城』や『隠し砦の三悪人』も担当しています。
佐藤さんは旧知の中だった岡本監督に力を貸してくれました。別の作品の録音中に『肉弾』のテーマ曲をこそっと録音したエピソードもあります。 岡本監督は自分が描きたかったテーマを表現するため、配給会社や原作などのしがらみを出来るだけ取り払ったのだと思うのです。
映画『肉弾』のあらすじ
痩せて眼鏡でインテリな「あいつ」は、まだ「21.6歳」でした。
神の国、日本で戦争が始まり「あいつ」は徴兵され訓練を受けていました。
しかし、食糧難のなか、空腹に耐えきれず、食料庫の米をかじって上官に見つかってしまいます。
殴られ、衣服を着ることも禁じられてしまい、「あいつ」は24時間、全裸で過ごすことを強いられてしまいます。
訓練の時も全裸、食事の時も全裸、同じ部隊の戦友たちには自分のありのままの姿を見られています。
しかし、意外な相乗効果もありました。もともと身体が弱くアトピー持ちだった「あいつ」は、肌が強くなりアトピーが治りました、そして風邪もひかなくなったのです。
そんなある日、「あいつ」が所属する部隊に陸上特攻隊としての任が言い渡されました。部隊は豪勢な食事にお酒が与えられ、翌日まで初の自由行動を許されました。天気はあいにくの雨、次第にどしゃぶりになってきました。
「あいつ」を含め、皆はせめて死ぬ前に女性を抱きたいと遊郭へ走り出しました。知らせを聞いていたのか、ボロボロの遊郭では遊女たちが肌襦袢に身を包み、厚化粧で窓から手を振り兵隊たちを誘います。
しかし、「あいつ」は別の場所へ足を踏み入れていました。それは地下の防空壕を用いた古本屋でした。店主は両手を戦争で失った好々爺です。どうやら店主は用を足したいらしいのですが、ひとりでは儘ならないので、「あいつ」に手助けを頼みます。
嫌な顔せず手助けをする「あいつ」に好々爺は笑顔でこう言いました。
「……兵隊さん、死んじゃダメだよ、死んだらこんないい気持ちになれることは、ないよ」
「あいつ」は店主の親切で、厚くて長く読めそうで枕にもなりそうな聖書をもらいました。「あいつ」は、聖書を手に既に他の兵士たちのいる遊郭に足を踏み入れます。
すると厚化粧のお化けのような売れ残った遊女たちが誘ってきます。
恐ろしくて逃げ出した「あいつ」の目に映ったのは、セーラー服姿のおさげ髪で因数分解を解く、清楚で若い少女でした。
一目で恋に落ちた「あいつ」は、少女に声を掛けます。そして一緒に因数分解を解くのでした。
遊郭で彼女と遊べるか、聞くはずがいつしか和やかな空気が流れます。「あいつ」は少女に交渉しました。少女は「遊びたいの?」と、笑顔で「あいつ」を部屋に通します。
それはボロボロで雨漏りがする部屋でしたが、「あいつ」は少女が準備してやってくると信じ、部屋を綺麗に整えます。
しかしやってきたのは少女とは全く違う、大柄で熟した遊女でした。イメージとは違って逃げ出したい「あいつ」でしたが、結局やる気満々の彼女に捕獲されたのでした。
その後、遊郭の傘を借りて少女に思いを告げようと諦めきれない「あいつ」は少女を探しました。すると偶然、因数分解を唱えながら走る少女とぶつかります。ずぶ濡れの二人は、地下の防空壕へ入りました。
そこで家族を防空壕で蒸し焼きにされて亡くなったと告げる少女、それを静かに聞くあいつ。
そして心を少し通じ合わせた2人は結ばれるのでした。
「僕は君のために死ぬ!」
死ぬ理由を見つけた「あいつ」――神の国のため、両親のため、自分のため、死ぬのではない。
誰もいない砂漠に埋められたドラム缶の中で、「あいつ」は来たる日に向けて爆弾を抱え砂漠を走り何度もシュミレーションしていました。
そんな彼の元には色々な人々がやってきます、軍国主義で育った不器用で純粋な兄弟、生真面目で潔癖症な白十字の看護婦たち、「日本のおへそが見られたみたいで恥ずかしいよ」と沖縄が陥落して嘆く飯炊女――。
そして白昼夢の様に現れるうさぎ年の少女。夢の中の彼女は一糸纏わぬ姿でにっこり微笑み、因数分解を解いていました。
しかし、その後、空襲にあったという兄弟の弟がやってきて、兄の死とうさぎ年の少女が防空壕で蒸し焼きになって亡くなったことを「あいつ」に告げました。実にあっさりと少女はいなくなってしまいます。
心を痛め、悲しむ「あいつ」――。少女の死は「あいつ」が生きる意味をあっさりと奪ってしまいます。
その後、上官から命令が下り、砂漠生活は突然終わりを告げました。
「急いで海へ行け」
「あいつ」は訳が分かりませんでしたが、言われたまま小走りで海岸へと向かいます。
そこに待っていたのは、潜水艦でも小舟でもありませんでした(第二次世界大戦で実際に使われた「回天」「震洋一型艇」ではありません)
ドラム缶に魚雷をくくりつけ、海上に放置し、その後、敵艦を見つけたら魚雷を打ち込み撃沈させよと言われます。「あいつ」に、答えなど求められません。
いつ、どこで、どんな敵など全く告げられず、「あいつ」を載せたドラム缶は牽引され海上に放置されました。
もはや、兵器とは呼べない粗末すぎる物――「あいつ」は「どん亀」のようだと名付けます。
そこから「あいつ」は姿の見えぬ敵を「どん亀」に乗りながら少女がくれた番傘で暑さや寒さに耐え待ち続けることになります……。
何日経ったのか――海の果ての遠くに突然大きな船を見つけ、「あいつ」は色めきたちました。
「敵艦が現れたぞーっ!!!」
人から豚へ、豚から牛、牛から神様に飛んじまった「あいつ」
本作では「あいつ」の立場が人に命じられて、ころころと与えられた立場が変わっていく様が描かれています。
はじめは普通の青年だった「あいつ」は、上官に倉庫での盗み食いを見つかって殴打され、日常生活を全裸で過ごすようにと言われます。
そこで人から「豚」になりました。人間としての尊厳はありませんでした。
手榴弾の訓練でも、衣服をまとった皆の中で鉄兜だけ被って全裸で駆け回る「あいつ」。戦友に体のことで陰口叩かれても、身体を見られても羞恥心が次第に消えていきます。
その後、あまりの空腹から部隊の皆が「反復」をしていると上官は聞かされます。それはまるで牛のように一度、胃の中に入れた食べ物を口の中に何度も戻し、反芻して空腹を抑えているというのです。それを聞いた上官は吐き気を感じつつ、「あいつ」に同情します。
そこからは衣服をつけてよいと言われ、「あいつ」は豚から牛となりました。
しかし状況は一転します。沖縄が制圧されて本土決戦は時間の問題となりました。そこで「あいつ」の部隊は、陸上特攻という「神」になるように言い渡されて、「あいつ」は人から動物、動物から人に戻れず、神に立場がすっ飛びます。
人の立場や権利を簡単に奪い去り、奪い去られた「あいつ」も「なんてことはない」と自分に言い聞かせ、戦争のために全てを受け入れていたということが分かると、客観的に見てもとても複雑な気持ちになりました。
ねずみ年のあいつと、うさぎ年のあの娘
『肉弾』は戦争映画でありながら、実戦シーンがほぼありません。
岡本監督の作品は爆発シーンが多く、キャスト、スタッフの皆さんが砂を被りまくるようなド派手なアクションシーンが多い印象があります。
しかし『肉弾』は低予算ということもあるのでしょうが、実にファンタジーで抽象的な描き方が多いのです。
その中で物語の軸の一つとして描かれるのが、このうさぎ年のセーラー服の少女です。
この娘を演じるのは大谷直子さん。今も女優活動をされていますが、この『肉弾』がデビュー作となりました、加えて本作では初ヌードも披露しています。「あいつ」を釘付けにした豊満な身体は、綺麗で少し切ないのです。
「あいつ」と「少女」は、本作のなかで唯一、描かれる「美しくて儚い恋」です。
2人が毛布を被り、寄り添って雨宿りする防空壕で、少女の家族の話、特攻隊として出撃するあいつの話をしている姿は、それまでの殺伐とした雰囲気から少し逸脱しています。
防空壕で雨宿りする2人は毛布を被り寄り添います。家族の話を語る少女。特攻隊として出撃する「あいつ」――この場面は、それまでの殺伐とした雰囲気と少し趣が違います。
この時に話した因数分解と、お互いになに年生まれという話は、ずっと「あいつ」を特攻兵器として利用しようとする現実から、そっと救い出してくれます。
「沖縄まで取られてへそまで見られたみたいで恥ずかしいよ」と嘆く飯炊のおばさん、兄と生き別れた幼い男の子、不意に現れた看護婦3人――時に幻想的に人の生き死にが描かれる中で、うさぎ年の少女は彼の頭に不意に現れて――無邪気に因数分解を解きます。
それは正気か、狂気か。ただ、それを優しく見守る「あいつ」の瞳は綺麗なのです。
砂に紛れた、一粒の砂金みたいにキラキラとしていました。
「あいつ」の21.6歳とは?
映画『肉弾』の冒頭で描かれる「21.6歳」――。
本作が上映された1968年の平均寿命から、終戦時の1945年の平均寿命を差し引くと、「21.6歳」となるのです。
21歳という若い主人公、痩せててインテリで不器用な「あいつ」のモデルは、戦時中の岡本監督ご本人でした。
21歳の頃、東宝で既に助監督として働いていた岡本監督は徴兵され、本土決戦のための陸上特攻隊として訓練を受けていました。
訓練生として、愛知県の豊橋市に滞在していた岡本監督は空襲に遭い、目の前で戦友たちがほぼ亡くなり、一人生き残った恐ろしい経験をしています。
理不尽な状況や目の前での死を体験した岡本監督とひとり蛸つぼに籠もる「来たる日」に備え、手持ちの爆弾を敵の戦車下に突っ込む訓練をする「あいつ」はどこか重なるのです。
映画の中では、「あいつ」の心情を言葉でどこかコミカルに表現します。
ナレーションを担当するのは、仲代達也さん。
仲代さんは「日本のいちばん長い日」でもナレーターを勤められています。
前回は重厚なナレーションでしたが、本作は「あいつ」に寄せてナレーションされていたように思います。
冒頭から少し柔らかな口調で「日本の男子の平均寿命を知っているかな」「あいつは21.6歳で戦争に行った」という状況説明から、耳に残る「なんてことはない」「どうということもない」という軽口で絶望的な状況をラップの様に呟きます。
「あいつ」は口数が多いわけではありません、だから心の中の声は仲代さんが言い表してくれました。
『肉弾』で描かれる暗部のテーマは「戦時中の人命の軽さ」でした。
「あいつ」を送り出し「国のために死んでこい」と告げる年老いた父親。菩薩みたいな奥様がいるのに、戦争で両手を吹き飛ばされた古本屋の主人。両親を防空壕で蒸し焼きにされ、残された遊郭を切り盛りする女学生。敵の戦車に爆弾もろとも突っ込み特攻しろという、「あいつ」の上官と神の国。軍国少年として育ったから、戦争に負けるなんて信じていないけど兄も女学生も空襲であっさり死んでしまい、残された爆発するかもしれない手榴弾で算数をする少年。
上官に命じられた「あいつ」は、特攻兵器「どん亀」に乗り込み、いつ現れるか分からない敵を延々と待ちつつ時だけが過ぎる。
情報も与えられず、打ち捨てられても、全ての命令に忠実で「なんてことはない」と流してきた「あいつ」の悲しくてカッコ悪いラストシーン――。
誰かが死ぬ。悲しい気持ちになる。涙を誘う。そんな戦争映画のラストシーンは数あれど――監督の怒りが大爆発するラストはなかなかないと思います。
これは『日本のいちばん長い日』では描けなかった、名もなき人々を浮き彫りにしていました。
この世で一番悲しい死は「忘れ去られること」だと痛感するのです。 私は今でも世界中のどこかで、いろんな「あいつ』が「バカヤロー」と叫んでいる気がするのです。
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