「魔」は突然に訪れる。約40秒の「魔」が一人のあどけない子と家族に訪れた。
「平成」という新たな時代の初めに発生した未解決行方不明事案(事件)「徳島県貞光町4歳男児失踪事件(松岡伸矢くん行方不明事件)」について解説、考察していこう。
概要
1989年(平成元年)3月6日、茨城県U市在住の会社員Mさんと妻のK子さん、その子供たち(当時4歳の伸矢くん、伸矢くんの姉と弟)の家族五人は、徳島県小松島市を訪れていた。
K子さんの実母が再婚先である小松島市で急死し、その葬儀に参列する為であった。そこがK子さんの実家であれば、そのまま一晩宿泊したのかもしれないが、再婚先とあって遠慮したのだろう。一家は、一緒に葬儀に参列したK子さんの親族一家と共に、小松島市から車で一時間ほどの徳島県美馬郡貞光町(当時・現在は合併によりつるぎ町)で農業を営むFさん宅に向かい、到着した頃には既に夜10時を過ぎていた。
翌7日の朝8時頃、Mさんは子供たち三人と、親族の子供一人の計四人を連れて散歩に出掛けた。外気の肌寒さと、朝食前だったという事もあり、散歩は10分程度で切り上げられたという。
※Mさん一家が散歩したとみられる町道(googleストリートビュー 2022年4月撮影)
Fさんの家は山地の中腹を切り開いた、標高200mほどの斜面上に建てられており、その朝の散歩コースとなった林道からF家の玄関までは、10mほどの石段を上がる必要があった。
伸矢くんは、起きてから豆乳を飲んだだけであったが、その程度の散歩では満足できなかったようで、まだ家に入りたくない素振りを見せていた。そこで、Mさんは手を引くか、抱き上げるかして連れ帰ろうと考えたのだろう。
他の子供たちを家に入れ、散歩中抱きかかえていた伸矢くんの弟を、家の中で待っていたK子さんに手渡し、再び振り返って外に出た。伸矢くんは石段を上った玄関先までMさんについてきていたとも、石段を上る前に確認したのが最後であるともいわれている。
しかし、Mさんが再び玄関先まで伸矢くんを迎えに出た時、既にその姿は消えていた。
後に警察(貞光署)や、TVの公開捜査番組スタッフが検証した所によると、Mさんが伸矢くんから目を離したのは40秒程度であるといわれている。
前述のとおりFさんの家は山間部にあり、視線はあまり通らない。小さな子供の足でも、短時間で親の視界から一旦消えてしまう事は十分にありうる。
伸矢くんは4歳児とは思えないほどしっかりしており、自宅の住所・電話番号・家族の名前・年齢を全部言えたと言われているが、何度か迷子になった事があるといい、この年頃の男児の例に漏れず、活発で好奇心旺盛であった事が伺える。
また、伸矢くんは半年ほど前にもこの土地を訪れ、どんぐり拾いを楽しんでいたといい、未知の場所という恐怖感もあまり無かっただろうと推測できる。
Mさん、Fさん一家は二時間ほど周辺や近所を捜しまわったが、伸矢くんは見つからず、午前10時頃、警察に通報した。貞光署からは全署員の半数である15人を初め、県警機動隊員、消防署員、地元の消防団員、一般市民合わせて約100人が動員され、付近一帯をくまなく捜索したが、当日夜までに手がかり一つ発見することはできなかった。
その夜は翌朝にかけて冬型の気圧配置となり、山間部であるFさん宅周辺にもうっすらと積雪があった。8日朝の時点での気温は、徳島市内では3.6℃とほぼ平年並みであったものの、夜間の山間部では氷点下まで低下していたと考えられる。
もしも伸矢くんが山中に迷い込んでいたのであれば、生存が危ぶまれる環境であった。
8日には捜索隊は前日の倍の200人に増員され、寒さに耐えかねた伸矢くんが入り込みそうな周囲の空き家なども入念に調べていった。山も畑も、捜索隊の足跡で埋め尽くされる程であったという。
結果、Fさん宅から100mほど離れた空き家で子供の足跡が発見され、難航する捜索に光明が差したかと思われたが、鑑定の結果、別人のものである事が判明した。
その日も冬型の気圧配置は継続し、山間部には時折、みぞれや雪が降った。
連日捜索は続けられた。12日には徳島県警に所属する全ての警察犬22頭が動員され、Fさん宅から半径2kmの山林を7時間かけて捜索したが、それでも尚、何一つ見つける事はできなかった。
その頃からMさんは、
――伸矢はこの山の中にはいないのではないか、他の場所で元気にしているのではないか――
と、考え始めていた。山中に居たのでは既に生存の見込みがほぼ無いのであるから、親としては当然の発想ではあるとも言えるが、総動員された警察犬でさえ、何の手がかりも見つける事ができなかった事を思えば、Mさんが伸矢くんの姿を見失って早々に、何者かがその身柄を確保して連れ去ってしまっていたという考えも、荒唐無稽とまでは言い難い。
しかし、貞光署の見立ては、ほぼ山中への迷い込み一本であった。その考えにも根拠はあった。
まず、伸矢くんが行方不明になったFさん宅が、行き止まりでこそないものの、町道の終点近くにあり、周辺にも一般の民家が散在するのみで、外部からの出入りがほとんどない事。
次に、Mさん一家がFさん宅を訪れたのは失踪前日の夜10時過ぎであり、伸矢くんの存在が外部には知られていなかった事。
また、伸矢くんが失踪した時間帯には、Fさん宅から100mほど離れた畑で農作業をしていた住民がいたが、通行車両は見かけておらず、周辺で交通事故が発生した痕跡も見つからなかった事である。
とはいえ、警察も、他の可能性について全く眼中になかった訳ではなく、捜索活動の開始と同時に、身代金要求等の電話に備えて、Fさん宅の電話にはテープレコーダーが接続され、通話が録音されるよう準備がされた。しかし、その類の電話がかかってくることはなかった。
その後、失踪地点周辺では三ヶ月間にわたり、述べ1400人が伸矢くんを探したが、それでも手がかり一つ見つかる事はなく、6月に捜索活動は打ち切られた。
※失踪地点周辺(googleマップ)
Mさん一家は捜索が続く中、3月16日に自宅のある茨城県牛久市へ戻っているが、その前夜、Fさん宅にて不審な電話を受けている。
――奥さんはいますか――
受話器を取ったMさんは、通話相手の女性の声に徳島なまりがあることを聞き取った。
「誰か分からないけど、徳島弁だよ」
と、妻K子さんに受話器を渡すと、女性はナカハラマリコの母親と名乗り、伸矢くんの姉と同じ幼稚園の同じクラスに子供を通わせている事を告げ、園で見舞金を集めた事と、いつ茨城に戻るのか、集めたお金はどこに送るべきかを尋ねたという。K子さんは明日戻る事を告げたが、その後連絡はなく、幼稚園に問い合わせた所、園でお金を募った事実はなく、ナカハラマリコという児童も在籍していない事が判明した。
茨城県の幼稚園に子供を通わせていながら、徳島弁を話し、K子さんの親戚Fさん宅の電話番号を知っているという人物が想定できない上、そもそも存在しない園児の名を騙り、ありもしない見舞金の話を持ち出すのは、善意とは程遠い意図を感じさせるが、警察が設置したテープレコーダーに不具合があり、相手の声は録音されておらず、再度の連絡が無かった事もあり、伸矢くんの失踪とこの電話との関連性は不明のままである。
伸矢くんの行方についての見解の相違の為か、一時、警察とMさんとの関係は良好とは言えないものであったようだ。前述の不審電話について調べて欲しいと訴えた時の警察の反応も、
――(伸矢くんの失踪を、連れ去りとして)取り合ってもらえないので、奥さんと作った狂言なのではないか――
というもので、失踪から一年後、徳島市内で伸矢くんに似た子供の目撃情報があり、茨城の自宅で目撃者から直接連絡を受けたMさんが、警察にその子供の人物特定を依頼した際も、ほぼ放置と言って良いものであったという。
Mさんは会社を辞めて、自営業に切り替えた。伸矢くんの捜索に割ける時間を増やす為である。チラシを配り、ポスターを掲示するのは勿論、自宅の電話番号を公開し、伸矢くんに似た子供がいるという情報が入れば、その場所まで足を伸ばした。TVの公開捜査番組へも出演し、その出演回数は、2000年時点で既に50回を超えていたという。
その努力もあって、伸矢くんの失踪事件は全国的に周知され、近年(2018年)となっても、「4歳頃から軟禁されていた記憶を持つ青年」がメディアで取り上げられた際には「伸矢くんに似ている」とSNS等Web上は騒然となった。残念ながら、後日、この青年はDNA鑑定により別人である事が判明している。
失踪から30年以上の年月が経過し、既に伸矢くんがどんな姿や性格の青年に成長したのか、長年離れて暮らす中で、両親や姉弟の事をどの位覚えていられるのかという事については想像することすら難しい。仮に伸矢くんが両親のもとに戻ってきたとして、再び親子としての時間を共有するには、時間が経ち過ぎているようにも思える。
実際に、Mさんに面と向かって「もう忘れた方が良い」と忠告する者もいたという。
しかし、Mさんは、
――親が自分を捜すことをあきらめたと知ったら、子供はどんなに失望するか――
そう言って、2023年10月現在も伸矢くんの捜索を続けている。
手がかりとその検討
ここからは徳島県貞光町4歳男児失踪事件(松岡伸矢くん行方不明事件)の手がかりと検討を始めよう。
伸矢くんについて
伸矢くんは失踪当時4歳と10ヶ月、身長は105cm程、体重は15kg程と、1989年の全国平均と比較して体重は少し軽めのようである。左利きで、鉄道ファン、パズル愛好家であった。
利発な子供であり、仮に連れ去りにあった場合でも、泣いて騒ぎ立てるようなことはせず、自分の身に危険が及ばないように大人しくできる子供であると、母親のK子さんは考えているという。
多くの目撃情報
失踪から数年の間、北海道から四国まで、伸矢くんとみられる子供の目撃情報(伝聞を含む)は多数寄せられていた。
その目撃情報の中には、北朝鮮の船が秘密裏に来航するという港付近でのものもあり、徳島県警察や、特定失踪者問題調査会のホームページでは「北朝鮮による拉致の可能性を排除できない」失踪者として掲載されている。
2002年には拉致被害者の帰国という出来事もあり、あと少しで手が届くところに、伸矢くんが居るのではないか、という期待感が長年にわたって醸成されてきた。
山中遭難の可能性
しかし、近年、山梨県道志村で発生した女児行方不明事件は、このような期待に一石を投じるものとなった。
7歳の女児が、ある程度登山経験のある大人でも苦労するほどの山道を単独で踏破し、スタート地点であるキャンプ場から、標高差300mを超える山頂付近まで到達、その後滑落した可能性がある事が分かり、大人が考える「子供の行動範囲」の想定が甘い場合がある事が明らかになったのである。
失踪当日の朝、最初はかくれんぼ感覚で父親の目から逃れた伸矢くんが、一人になったことで冒険心に火がついてしまい、「4歳児の足では遠くまでは行けないだろう」という予断を裏切り、Fさん宅周辺から、山頂付近に向けて延びる林道を駆け上がって山中に分け入り、標高約500mの山頂を越えていったのではないかという推測も、ある程度の説得力があるものとして考えられるようになったのである。
大人たちは当初Fさん宅周辺を捜索し、通報を受けた警察らが山林の捜索を開始したのは失踪から数時間後であった。その間に半径2kmの重点捜索範囲の外に出る事が、4歳児の足で可能なのかと言えば、不可能とまでは言いきれなくなってしまっている。
拉致、誘拐の可能性
順当に考えて、伸矢くんの誘拐や拉致の実行は現実的ではない。
北朝鮮による拉致には、身分証や身元を奪って工作員が本人になりすます「背乗り」や、日本語や日本の社会事情を教える教師役、北朝鮮で即戦力となる技術者の調達といった目的がある事が知られているが、言うまでもなく4歳児では不適当である。
また、貞光署の見立ての通り、伸矢くんがFさん宅に宿泊している事を知りうるのは限られた親族のみであり、更に、K子さん以外の一家が、朝の散歩に出た事までも把握できるとなれば、K子さんかFさん一家くらいしかいない。
しかし、親族であってさえ、Mさんが伸矢くんから目を離す約40秒間を捉えて、伸矢くんの身柄を確保して隠匿する事の困難さは言うまでもない。勿論、彼らから誘拐の動機を見出すことはもっと困難である。
仮に親族内に、常人では推し量れない拉致・誘拐の動機を持つ者が居たとしても、敢えて疑いが向けられる事が避けられないこのタイミングで狙うのかという疑問が残る。
まだ、縁もゆかりもない行きずりの誘拐犯が、道に迷っていた伸矢くんに偶然出会い、送ってあげる等の甘言を用いて車に乗せ、連れ去ってしまったと考えた方が現実的であるかもしれない。
通行車両を見ていないという住民の証言は確かに存在するが、農作業に集中している中でどれほどの注意力が外部に振り分けられていたのかという点には疑問が残る上、高低差があり、カーブも多い山道では、かなり接近していても車両が視界に入らないという事も考えられる。
Fさん宅周辺の町道は、山間部とは言っても、車で10分程度走ればJR貞光駅付近の市街地に出ることが可能であり、小学校、幼稚園等も近隣に存在し、子供たちをターゲットとする人物が徘徊コースの一部として使用していたとしても不思議ではない。
尤も、声かけ事案や、日常的に不審な車が目撃されていたという情報はあがっておらず、結局は乏しい可能性の中の一つに過ぎないのであろう。
不審電話について
3月15日夜にかかってきた不審電話については、親族かそれに近い地元民からのものである可能性が高い。
失踪当時、地元の新聞である徳島新聞では、伸矢くん失踪事件について、発生翌日から断続的に報道がされており、Mさんのフルネームや住所・家族構成。Fさんのフルネームや住所についてもほぼ公開されていた。
これだけの情報が判明していれば、1989年当時では、個人宅であっても、電話番号を電話帳から容易に検索することができた。しかし、伸矢くんの姉の年齢については開示されておらず、幼稚園児であることを知っている人物は自ずから限られてくる。恐らくは、いつまで続くのか分からない伸矢くんの捜索活動に平穏な生活を脅かされたように感じ、Mさん一家に茨城の自宅への帰宅を促す意図があったのではないだろうか。
誘拐犯人自身かその共犯者が、伸矢くんの母親から、犯罪の次のステップで必要な何らかの情報を引き出そうとしていた可能性は低い。徳島弁の女性からの質問は、いつ一家が茨城の家に帰るのか、集めた見舞金はどこへ送れば良いのかという二点であり、最悪の場合、警察官が側で会話を録音・逆探知している恐れがある状況で、電話をかけて声を拾われるという危険を冒してまで、手に入れる価値がある情報だとは思われないからである。
茨城県の自宅を見張る等していれば、もっと安全に同程度の情報を得る事が可能であっただろう。
これは、(見舞金については出任せであるが)「お金が欲しければ早く茨城の自宅に戻った方が良い」「お金を集めたから早く渡したい、だから茨城に帰ってきて」と、Mさん一家の帰宅を誘導するメッセージであると解釈してよいのではないだろうか。
真相考察
伸矢くんは、当時の警察による捜索範囲から漏れた山中のどこかで、今も眠りについている可能性がある。
山中の捜索は、たとえ低山や里山であっても容易ではない。くまなく捜索したとは言っても、その範囲は、人や犬がある程度安全に進入できる範囲に限られるだろう。
滑落する等して捜索の範囲(Fさん宅から半径2Km)の外に出た、大人の目では判別しにくい場所に入り込んだ、徹底した捜索自体が仇となって警察犬の嗅覚が撹乱されてしまった等の理由で、未だ発見できずにいるという事も十分に考えられる。
登山道が整備されている「初心者向け」とされる山でさえ、油断や疲労、焦りによって道迷い遭難が発生することがある。
踏み込んだのが登山道もなく、人の手があまり入ることのない荒れた山中であれば、あっという間に方向感覚が失われ、少しでも視界の開けた場所に出ようと高所を目指すうちに滑落、または道に迷ったまま、日没を迎えて身動きが取れなくなる事もあり得るだろう。
伸矢くんが姿を消したFさん宅周辺は、少し足を伸ばせばそういった恐ろしい事が起こりうる場所であった。
勿論、彼が山中に踏み込んでいったという確証はない。歩きやすい町道を道なりに下っていった可能性もそれなりに高い。しかしその場合は早晩市街地にたどり着くであろうから迷子として保護されていた可能性が高いだろう。
魔の40秒
事件の発端は、伸矢くんからMさんが目を離した、たった40秒であった。
――子供から一瞬でも目と手を離してはいけない――
言葉にするのは簡単であるが、実践するのは難しい。子供が複数いる場合であれば尚更である。Mさんは伸矢くんから目を離したのは、自分の都合のためではなく、むしろ両手を空けて、伸矢くんを家に連れ帰るためであった。
Mさんは自分を責めることもあったに違いないし、心無い批判や見当違いの助言を受ける事もあっただろう。それでも、Mさんは、
――行方不明の子供を捜す作業は、情報収集と情報発信の繰り返し――
と話し、涙を見せることなく前向きに捜索活動に取り組んでいるという。
それにしても、34年という年月はあまりにも長く、重い。 どんな形であっても、できれば生きて、Mさん一家のメンバーが勢揃いする日の実現を祈らずにはいられない。
◆参考資料
・徳島新聞 1989年3月8日(朝刊・夕刊)、3月9日、12日、13日、16日、4月7日
・近藤昭二『消えた子供たちを捜して!<公開捜査>:続発した行方不明事件の謎』二見書房2000年6月
◆独自視点の行方不明・失踪事件(事案)考察シリーズ