2024年10月4日、前作『プラットフォーム』(原題:El hoyo、邦訳『穴』)の続編『プラットフォーム2』がNetflixで公開された。
本記事では、2019年に公開され、難解な内容でありながら高い人気と支持を集めている映画『プラットフォーム』について触れながら、前作の前日譚であると考えられる『プラットフォーム2』を独自の視点で考察し、『プラットフォーム・シリーズ』の世界観について考察する。
動画出典:Netflix
映画『プラットフォーム2』あらすじ
『プラットフォーム2』は、前作『プラットフォーム』の前日譚として描かれる物語である。本作の舞台は、階層が無数に連なる「垂直自主管理センター(VSC)」、通称「穴」。この構造物は、食物や資源の分配を管理する厳格な階層社会であり、住人たちは各階層で定期的に供給される食物を分け合わなければならない。しかし、その供給量は下層に行くにつれ激減し、住人たちは生存をかけた過酷な争いを繰り広げる。
物語の中心となるのは、過去の過失から「穴」に入ることを選んだペレンプアン(ミレナ・スミット)である。彼女は自らの贖罪と救済を求め、「穴」の最下層に向かって旅を続ける。途中で彼女は、他の住人たちと出会いながら「油注がれた者」やその支持者である「ロイヤリスト」たちが掲げる「連帯感革命」に巻き込まれ、自由を求める「バーバリアン」との対立を目撃する。
一方、本作では、前作で重要な役割を果たしたキャラクターたちが再登場する。イモギリ(『VSC』の元面接官)はペレンプアンの面接官として、ミハル(子供を探す女性)はセンターの職員として、そして、前作の主人公であるゴレンもまた、煉獄のような空間で彼女と再会する。これらの出会いや対立を通じて、ペレンプアンは次第に「穴」の構造と秩序の背後にある権力と暴力の実態に気づいていく。
物語の終盤、ペレンプアンは「子供」と呼ばれる無垢な存在に出会う。この子供は、階層社会の中で唯一罪を持たない存在であり、希望の象徴として描かれる。ペレンプアンは、子供を最上層0層に送り出す決意を固め、自己犠牲によってその役割を果たすことで、社会における真の救済の可能性を示す。
『プラットフォーム2』は、階層社会における権威主義やイデオロギーの絶対化と、それに対する個々の葛藤と選択を描き出し、観客に「秩序と自由」「理想と現実」の狭間にある苦悩を突きつける物語である。
本作で使われる用語
映画『プラットフォーム2』に登場する以下の言葉は、物語の中で象徴的な役割を果たし、キャラクターや状況を通じてテーマを深める要素である。それぞれを考察しながら、この難解な作品を読み解いていく。
1. マスター
マスターはこの映画において、自己犠牲を通じて周囲の人々に深い影響を与える「救世主」に近い存在である。彼は自らの肉を削ぎ、それを周囲の者に与えるという行為を行い、その行動が人々に目撃され、伝説化した。この行為を見た「油注がれた者」たちが、マスターの犠牲をもとに規則や体制を作り上げたのであり、彼らの行動は、まるで聖書を絶対視するカトリック教会を暗喩しているともいえる。すなわち、マスターの自己犠牲が信仰の根源となり、「油注がれた者」たちがその行為を解釈し、支配的な秩序を形成していったという構造である。このように、マスターは支配者というよりも、その犠牲が崇拝の対象となり、後に続く者たちによって体制が構築される契機を提供した存在である。
2. 油注がれた者
「油注がれた者」とは、映画においてマスターの自己犠牲を目撃し、その行動を神聖なものとして解釈することで、「穴」の規則や体制を築き上げた人々を指す。彼らはマスターの犠牲的行為を絶対視し、それをもとに厳格な秩序を作り出す。このプロセスは、キリスト教における「油注がれた者」(メシアの弟子たち)と関連があり、マスターを救世主のように崇めることで新たな体制を確立していく。
彼らの行動は、カトリック教会が聖書を絶対視し、その解釈を通じて信仰者を支配するプロセスと例えられる。規則の絶対化が進むと、違反者には暴力、拷問、処刑といった過酷な手段が用いられる。こうした体制は、マスターの意図が歪められ、「油注がれた者」たちの支配を正当化するものとなる。彼らは規則を神聖視し、従わない者を厳しく罰することで秩序を維持する。
「油注がれた者」たちは、マスターの犠牲的行動に感化されながらも、彼らが築いた規則や秩序は抑圧的であり、暴力的な管理体制を生む。違反者に対する厳しい処罰は体制を強化する手段となり、救済を約束するはずの存在が、同時に新たな苦しみと抑圧をもたらす矛盾を抱えている。
このように「油注がれた者」たちは、宗教的権威を担いながらも、規則の絶対化と厳しい処罰を通じて支配を強化していく。この構造は、カトリック教会が歴史的に信仰を支配し、違反者に対して過酷な処罰を行ったプロセスを想起させる。
3. ロイヤリスト
ロイヤリストとは、「油注がれた者」を支持し、彼らが築いた規則や秩序に忠誠を誓う者たちを指す。これは、カトリック教会における信者に例えられ、彼らは教会の教義を絶対視し、無条件に従う。また、彼らの姿勢は、仲間を同志と呼ぶことからもわかるが、マルクス主義における熱烈なマルキストにも似ており、マルクスの思想を絶対視するように、「油注がれた者」の規則を盲目的に支持している。彼らは体制の維持と支配を守るために暴力的な手段を取ることも辞さず、秩序を守ることを最優先する。
本作において、ロイヤリストたちは、「穴」での秩序を維持するために「油注がれた者」の命令を忠実に実行し、違反者に対して無慈悲な行動を取る。その結果、暴力や混乱を引き起こすことになるが、彼らは自らの行動が正当であると信じて疑わない。これは、米国独立戦争時のロイヤリストと同様の構造を持っている。米国独立戦争において、ロイヤリストたちはイギリス王室への忠誠を誓い、独立を求める勢力に対して反発し、現状維持を目指したが、その過程で内部分裂や暴力的対立が生まれた。映画のロイヤリストたちもまた、体制を守るために暴力的手段を取り、逆にさらなる混乱と破壊を招いてしまう。
ロイヤリストたちの行動は、体制維持のために犠牲を強いるものであり、その忠誠心はしばしば苦悩や矛盾を伴う。しかし彼らは、それでもなお規則と秩序の維持を最優先し、従わない者に対して厳しく接する。
4. バーバリアン
「バーバリアン」とは、未開人を表わす言葉であり、「油注がれた者」とその支持者である「ロイヤリスト」が掲げる「連帯感革命」に反対する者たちに与えられた呼称である。彼らは体制や秩序に反抗し、「自由主義者」として自らを定義している。ロイヤリストとの暴力的な衝突を「革命」と呼び、自分たちが真の自由を求める戦いをしていると信じている。
バーバリアンたちは現状の体制を打破しようとするが、その手段は暴力的であり、破壊的なものとなる。彼らの行動はロイヤリストの秩序を脅かし、混乱を招くが、その根底には体制に対する強い不信感と抑圧への反発がある。彼らにとって、ロイヤリストが掲げる『連帯感革命』は、支配と管理の別名に過ぎず、自由を奪うものであると考えている。
ロイヤリストとバーバリアンの対立は、体制維持と自由の衝突を象徴しており、両者の行動はいずれも暴力と混乱を引き起こすため、どちらも正義とは言い難い。ロイヤリストが秩序を維持するために暴力を用いる一方で、バーバリアンたちは自由を求めて革命を掲げるが、その結果は破滅的であることが多い。
5. ロベスピエール
映画に登場する「ロベスピエール」と呼ばれる人物は、「油注がれた者」(マスターの自己犠牲を目撃した人物)の一人であり、体制を維持するロイヤリストの立場にある。彼は、理想を掲げながらもその実現のために暴力的な手段を容認し、秩序維持を最優先する存在として描かれている。
史実におけるロベスピエールは、フランス革命期の指導者であり、恐怖政治を主導したことで知られる。彼は革命の理想を遂行するために、反対者に対する処刑や弾圧を正当化し、暴力が次第にエスカレートしていった。ロベスピエールは「自由・平等・友愛」という理想を掲げたが、その価値観を絶対化し、反対する者を次々と処罰する過程で、革命は恐怖政治へと変貌していった。
映画におけるロベスピエールも同様に、理想の追求が暴力の正当化へとつながり、秩序を維持するために犠牲を強いる。彼は、「連帯感革命」の名のもとに体制を維持しようとするが、その手段は次第に過激化し、結果的にはさらなる混乱や破壊をもたらす。このキャラクターは、価値観の絶対化がもたらす危険性を象徴し、支配体制の中で暴力が正当化されるプロセスを示している。
ロベスピエールという名前は、理想と現実のギャップを埋めるために暴力が使われ、その結果としてさらなる犠牲が生まれる矛盾を体現している。映画のロベスピエールもまた、自らの信じる体制を守るために、暴力と犠牲を容認し続ける存在である。
6. 砂に埋もれる犬
「砂に埋もれる犬」とは、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤが描いた絵画のタイトルであり、その絵は絶望や孤独、無力感を象徴する作品として知られている。この絵画には、砂に埋もれた犬が描かれ、何もできない状況に追い込まれた存在を暗示している。ゴヤの作品にはしばしば、社会や権力者に対する批判が込められており、無力感に陥った人々の姿が象徴的に描かれている。
映画において「砂に埋もれる犬」という表現が使われている理由は、権力者に対する絶望感や、見捨てられた存在を強調するためであると考えられる。犬は忠誠や信頼の象徴である一方で、砂に埋もれてしまうことは、その信頼が裏切られ、無に帰すことを暗示している。この比喩は、支配層や社会から見捨てられた者たち、あるいは犠牲にされた者たちを象徴している。
ゴヤの絵画が持つ無力感や孤立感のメッセージは、映画の登場人物たちが直面する運命や状況と重なっている。「砂に埋もれる犬」は、助けの手が届かず、救われることのない存在を表しており、映画全体の物語における喪失感や見捨てられる者たちの姿を強調する。
この用語解説から考察できる映画のテーマの根幹は、「絶対化された価値観や体制が生む抑圧とそれに対する抵抗、そしてその結果としての人間の苦悩や矛盾」であると考えられる。
まず、マスターの自己犠牲は、本来は他者への奉仕や連帯感を促す行為として捉えられるべきものだが、「油注がれた者」たちによって解釈され、規則や秩序を構築する基盤とされてしまう。その過程で、マスターの意図が歪められ、暴力的な管理体制が生まれる。この構造は、宗教やイデオロギーが絶対化されることで、権力や支配の道具に変質し、人々が抑圧されていく様子を暗示している。
一方で、秩序を維持しようとするロイヤリストと、自由を求めて反抗するバーバリアンの対立が描かれているが、どちらも暴力的な手段を用いる点で共通している。ロイヤリストが秩序を守るために暴力を行使する一方、バーバリアンたちは「自由」を掲げ、革命を主張するが、その結果は破壊と混乱をもたらす。体制維持と革命の相克は、どちらも正義とは言い難く、理想と現実の矛盾が浮かび上がる。
さらに、ロベスピエールというキャラクターは、理想を掲げつつ、その実現のために暴力を正当化する姿を象徴している。これは、革命や理想が絶対化されたときに、その価値観が人々に苦痛をもたらし、暴力的な手段によって理想が歪められていく過程を表している。価値観の絶対化が引き起こす危険性が、映画の重要なテーマの一つである。
そして、ゴヤの絵画『砂に埋もれる犬』が象徴するように、映画は無力感と見捨てられた存在を描いている。犬は忠誠と信頼の象徴だが、砂に埋もれることでその信頼が無に帰し、何もできない状況に追い込まれた存在を示している。映画全体を通じて、登場人物たちは巨大な体制の中で無力感を感じ、絶望と孤立を味わう姿が浮き彫りにされている。 このように、映画のテーマは「理想や秩序の絶対化が招く暴力と抑圧、そしてその結果としての人間の苦悩と無力感」を描いており、社会的・歴史的な文脈における繰り返しを批評的に表現していると考えられる。
本作は前作の前日譚
本作『プラットフォーム2』は、前作『プラットフォーム』の前日譚と考えられている。しかし、なぜ本作が前日談といえるのか、単なる時系列の問題だけではなく、作品内に散りばめられたヒントやテーマがその根拠を示している。登場人物の行動や背景、体制の成り立ちなど、本作には前作に繋がる多くの要素が描かれており、それらを紐解くことで、物語がどのように前作へと繋がるかが明らかになる。本記事では、本作が前日譚であると考えられる理由を、これらの要素を通じて考察する。
再登場の人物
本作『プラットフォーム2』には、前作『プラットフォーム』に登場する重要な人物が再登場する。再登場する人物は、「トリマガシ」、「ミハル」、「イモギリ」、「バハラト」、そして「少女」、さらに前作の主人公「ゴレン」である。
これらの人物の言動や、本作の主人公ペレンプアンとの出会い、関係性を考察することで、本作『プラットフォーム2』が前作『プラットフォーム』の前日譚であると推認することができる。
1・トリマガシは、前作で約1年間「穴」にいると主人公ゴレンに語っている。また、彼は過去に72層や26層にいたことを明かしており、彼の「穴」での生活は72層から始まり、上から下まで様々な階層を経験している。
本作でトリマガシがペレンプアンと「同居」するのは、72層である。つまり、彼が最初に暮らした階層でペレンプアンと出会ったと推測できるため、本作はトリマガシがゴレンに出会う約1年前の物語であると推認できるだろう。
また、この72層には、特別な意味があるとも考えられる。「油注がれた者」と「ロイヤリスト」のグループが反乱を起こしたペレンプアンを制圧するため、各階層を降下する場面で、72層の「72」という数字が画面に映し出される。
この「72」は、聖書の詩編72章を暗示しているのかもしれない。
神よ、あなたによる裁きを、王にあなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げあなたの貧しい人々を裁きますように。
旧約聖書詩編第72章第1節、第2節
詩編72章は、旧約聖書における「王のための祈り」として知られており、正義に基づいた統治を願う内容である。この詩編は、神からの導きによって王が正しく統治し、特に貧しい人々や弱者のために公正な裁きを行うことを求めている。
まず、「あなたによる裁きを、王に」という表現は、王が自らの力ではなく、神の力によって公正な裁きを行うことを願っていると解釈される。王は神の代理として、特に弱者や貧しい人々の声に耳を傾け、彼らを守る役割を果たすべき存在であると強調されている。
次に、「貧しい人々を裁きますように」という願いは、弱者に対する慈悲深い対応を求めており、社会の不平等や貧困に対する神の配慮を示している。この点において、詩編72章は社会正義を実現するための指導者像を描いているといえる。
さらに、この詩編は理想的な王の姿を提示している。王のリーダーシップは、正義、慈悲、そして神の意志に基づくものでなければならない。神から授かった恵みの力を用いて、民全体を守ることが王に求められているという意味で、古代イスラエルにおける理想的なリーダーシップの像がここに示されている。
加えて、キリスト教の伝統では、この詩編はメシア(救世主)に関する予言的な詩編としても解釈されている。正義の王として登場するメシアが、神の力を受けて世界を統治し、特に貧者や抑圧された者を救済するという象徴的な意味が込められているため、メシアの統治を待ち望む希望の詩として重要視されている。
つまり、詩編72章に描かれる「神に基づく正義の統治」と「弱者の保護」という理念が、ロイヤリストたちの表向きの思想と合致しつつも、その矛盾や暴力的な支配に対する批判を浮き彫りにしていると解釈できるからである。
2・ミハルは、前作で実在するか不明な息子を探す女性として描かれている。彼女は息子を探すため、下の階層へと降りていき、非常に凶暴な一面を見せるキャラクターだったが、本作では『垂直自主管理センター(VSC)』の職員として登場する。本作では、彼女は「無邪気な遊び」が次第に「無邪気な競争」へと変わり、階段ピラミッドの頂点に到達した子供を最下層である333階層に連れ出す役割を担っている。前作で彼女は「俳優」と呼ばれていたことから、子供を連れ出す際に甘言を使っている可能性が示唆される。なお、彼女が「穴」に入った理由や、その行動に自発性があったのかは不明である。しかし、「穴」の入居者たちは総じて、戒律(モーセの十戒)の「殺してはならない」や「隣人に関して偽証してはならない」に反する人物である点は、彼女の「理由」を想像する際に重要な手がかりとなるだろう。
3・イモギリは、前作で主人公ゴレンの2番目の同居者であり、『VSC』に25年間勤務した元面接官である。前作では、自らの意思で「穴」の入居者となり、自分の死を悟った彼女は、ゴレンをはじめとする残された者たちの文字通りの糧となることを望む、自己犠牲的な人物として描かれている。
本作では、主人公ペレンプアンの面接官として登場する。このことからも、本作が前作の前日譚であることが推測できるだろう。
4・バハラトは、前作で最後まで主人公ゴレンと行動を共にした人物である。ロープを持つ彼は、本作にも一瞬登場する。本作では、彼は主人公ペレンプアンたちの自由革命への参加を断っている。主人公ペレンプアンたちの行動が、前作での彼の行動に何らかの影響を与えた可能性があるだろう。
5・少女は、前作で主人公ゴレンに発見される。発見された場所は最下層である333階層だ。この少女は、本作で「無邪気に遊ぶ」子供たちの中にその姿を見ることができる。本作では「無邪気な遊び」が「無邪気な競争」へと変わり、彼女はその競争に勝つことができなかったが、前作ではその競争の勝者だったと推測される。VSCは、競争に勝利した子供を最下層の333階層に封じ込める。このことからも、本作が前作の前日譚であることが読み取れるだろう。
6・ゴレンは前作の主人公である。本作では、最下層の333階層のさらに下にある大きな空間でペレンプアンと「再会」する。この「再会」は、ゴレンがペレンプアンを迎える形をとるため、333階層の下の空間は時間の流れが無いことを暗示する。つまり、その場所は、「死者の魂が集う場所」なのだろう。 また、二人は元恋人関係だったと推測される。ペレンプアンの想定された過失により死亡した子供は、ゴレンの子供であることが示唆されている。ただし、この二人は互いにVSCに入所したことを知らなかったようだ。推測ではあるが、元恋人であった二人は、長い間連絡を取り合っていなかったのだろう。
ダンテ『神曲』との関係性
ダンテの『神曲』との関係性を考察することで、映画『プラットフォーム2』における階層構造や登場人物の行動、テーマに新たな視点を見出すことができる。『神曲』は、地獄・煉獄・天国という3つの異なる階層で構成され、罪や「救済」をテーマにした物語であり、映画に見られる階層システムや登場人物の運命と多くの共通点がある。
まず、階層構造の象徴性において、『神曲』の地獄は罪を犯した者が罰を受ける場所であり、階層ごとに異なる罪人が配置されている。『プラットフォーム2』においても、登場人物たちは異なる階層に配置され、上位の者が食料を優先し、下位の者が残りを奪い合うという構造が描かれている。このシステムは、ダンテの地獄における階層ごとの罰と類似しており、人間の罪や欲望が上下の階層関係に反映されている。特に最下層の333階層は、『神曲』の地獄の底を象徴するような絶望的な空間として描かれている。
次に、罪と罰の観念において、『神曲』では罪人がそれぞれ犯した罪に応じて罰を受ける。映画でも、登場人物たちは「穴」に入る理由や背景として、何らかの罪を犯している可能性が示唆される。ペレンプアンが過失によって子供を死なせてしまった過去は、彼女の罪意識と結びついており、ダンテが描いた罪と罰の観念と共通している。また、ゴレンやトリマガシ、イモギリ、ミハルといった登場人物たちもそれぞれ異なる背景を持ち、最終的にはその行動に対する罰や「救済」が描かれている点で、『神曲』のテーマと一致している。
ペレンプアンとゴレンの関係は、ダンテとヴェルギリウスの関係にも類似している。『神曲』では、ダンテが地獄を巡る際にヴェルギリウスが導き手となっているように、ペレンプアンもまた「穴」を巡る旅の中で、過去や罪と向き合う精神的な旅をしている。ゴレンはペレンプアンにとっての精神的な導き手であり、彼女が自身の罪と対峙する手助けをしているとも解釈できる。
さらに、『神曲』ではダンテが最終的に天国に到達し、救済に至るが、『プラットフォーム2』では自己犠牲の中でどのように救済が得られるかが焦点となっている。マスターやイモギリの自己犠牲は他者のために命を捧げる行為として描かれており、映画の中で救済がどのように実現されるかが示唆されている。ペレンプアン自身も、最終的にどのような形で救済を見出すのかが物語全体のテーマに大きく関わっている。
また、本作シリーズにおいて、最下層333階層の下に広がる時間の流れがない大きな空間は、ダンテの『神曲』に描かれる煉獄の入口を象徴していると考えられる。『神曲』の煉獄は、地獄と天国の中間に位置し、魂が浄化され、救済に至るための場所である。この空間において、時間が存在しないという設定は、煉獄における無限の時間感覚や、永遠に続くかのような浄化のプロセスを象徴している。また、ここが死者と再会する場所であるという点も、煉獄との類似性を強めている。
煉獄は、死後に魂が自身の罪と向き合い、浄化される場所であり、そこでの工程を経て天国へ向かうための準備をする場所である。映画の中で、登場人物が過去の人物と再会し、現世の「旅」が終わったことから、この空間は彼らが精神的な浄化を果たすための場所として機能しているといえる。最下層のさらに下に存在するこの空間が、登場人物たちにとっての「浄化」と「救済」への第一歩であり、まさに煉獄の入口を暗示している。
このように、時間が停止し、死者と再会する場所であるこの空間は、罪と向き合い、浄化の工程を開始する場所であり、ダンテの『神曲』における煉獄の象徴的な特徴と密接に結びついているといえる。
結論として、『プラットフォーム2』とダンテの『神曲』は、階層構造、罪と罰、救済というテーマにおいて多くの共通点がある。登場人物たちの行動や過去、階層を巡る旅は、ダンテが描いた地獄や煉獄、天国の構造と重なり、彼らの運命に救済が訪れるのか、それとも絶望が続くのかという問いを投げかけている。
メッセージを考察する
二つの作品の主人公であるペレンプアンとゴレンが、煉獄の入口にいた「子供」を最上層0層に送った理由には、物語のテーマや象徴的な意味が深く関係している。
「子供」は、無垢や純粋さ、そして希望を象徴する存在である。物語の中で「子供」を最下層から最上層に送り出す行為は、浄化を経ずに救済へと向かう無垢な存在の過程を表しているといえる。子供が罪を背負っていないがゆえに、救済の象徴として最上層に送られるのである。
一方、「最上層0層」は、新たな始まりや神聖さを象徴している可能性がある。数字の「0」は無限や循環、そして始まりを示すことがあり、最上層0層は「新たな始まり」や「純粋な存在への回帰」を表していると考えられる。また、この場所は神性や完全なる救済を暗示するものとして解釈でき、子供がそこに到達することは、究極の救済や希望が実現されることを意味している。
さらに、主人公が子供を最上層に送る行為は、自己犠牲や他者のために自らを捧げる意志を象徴している。主人公自身が罪や後悔を抱える中、無垢な存在である子供を救済の象徴として送り出すことで、彼自身の贖罪や浄化への願いが込められている。この行動は、主人公が自分の救済よりも未来や希望を託す存在を優先したことを示し、物語全体を通じて他者のために自己を犠牲にするテーマが強調されている。
本作のメッセージは、自己犠牲を通じた救済の可能性、未来への希望の託し、そして人間の再生や贖罪の重要性にあると考えられる。絶望的な状況の中でも、無垢な存在や未来に希望を託すことで、社会全体が救済される可能性が示されており、同時に個人の成長や再生の道が描かれている。このメッセージは、現代社会の不平等や混乱に対する批評でもあり、他者への思いやりと連携が、未来を切り開く鍵であることを示している。
まとめ
本作は、宗教やイデオロギーの絶対化、理想と現実の衝突、抑圧と抵抗、無力感など、普遍的なテーマを深く掘り下げている。映画を単なるエンターテインメントとしてではなく、社会的・歴史的な文脈と絡めて考察できる点が非常に興味深く、新たな視点を提供する知的刺激のある解説となっている。また、フランス革命やロベスピエール、カトリック教会の権威主義、ゴヤの絵画など、映画に隠された要素を歴史や芸術と結びつけて解釈することで、映画のシンボリズムが一層際立っている。
登場人物の価値観や動機が詳細に描かれており、マスターや油注がれた者、ロイヤリスト、バーバリアンといったキャラクターたちの複雑な関係や行動が映画の物語に深みを与えている。また、映画の内容が現実世界ともリンクしており、権威主義や暴力の正当化、自由と秩序の対立など、現代社会へのメッセージも強い。これらの視点から考察することで、観客にとって再視聴の際に新たな発見を得るきっかけとなるだろう。
映画『プラットフォーム・シリーズ』は、本作において、カトリック教会やマルクス主義の支配を連想させる強権的な『連帯感革命』を目指すロイヤリストと、自由主義者との闘いが描かれている。前作では、ロイヤリストと自主主義者との闘いの果てに救済が見出されることなく、残された「穴」の姿が描かれている。
さらに、本作で描かれる「自己犠牲」や「救済」のテーマは、登場人物たちが罪や後悔と向き合いながらも、無垢な存在である子供を最上層に送り出すという象徴的な行動によって強調されている。特に、煉獄のような時間の流れが停止した空間や、無垢な子供を救済の象徴として描くことで、希望と再生の可能性が示されている。自己犠牲と救済を通じて、未来への希望が描かれている点が、物語全体を通じて重要なメッセージとなっている。
本作は複数のレイヤーで楽しめる深みのある作品であり、その複雑さと社会的・歴史的な出来事とテーマが絡み合うことで、一層考えさせられる内容となっている。
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