人間、特に女性にとって、「薬指」とは特別なものだ。普段は特に意識しないだろうが、特に「愛」にまつわる約束事の際に、薬指の特殊性は際立つこととなる。
今回扱っていく物語は、そんな薬指の先端を失ってしまった女性が主人公の『薬指の標本』だ。日本の小説ではあるがフランスで映画化されており、どちらも独特の世界観を堪能できる素晴らしい作品だ。
また本作は、短いながらも読みごたえ/見ごたえのある作品でもある。 この記事では、本作の小説版と映画版それぞれを紹介し、短い作品の中に隠された部分を読み解いていきたいと思う。
『薬指の標本』とは
『薬指の標本』は1992年に発表された小川洋子の小説である。小川洋子は、『博士の愛した数式』などで有名な小説家だ。また、2005年にはオルガ・キュリレンコを主演に迎え、フランス映画化されている。
本作の小説版は、90ページ程の短い作品だ。
空いた時間で手軽に読むことができるが、その内容は決して薄くない。
作品の世界観が独特で、書かれていない余白に何かありそうで、隅から隅まで読み込んでしまうからだ。
映画版もまた、その小説版を忠実に再現している。最も、かなり短い小説を約100分の映像として再現しているため、小説版では触れられていない部分まで描かれている。
その描き方がまた素晴らしい。起こりがちな原作と映画の乖離を起こさず、「本当にこうなんだろう」と納得してしまうのだ。 小説や漫画を原作とする映画は、賛否両論が起こりやすい。しかし本作は、ぜひ両方見るべき作品である。
あらすじ
本作は、小説と映画の筋書きに大きな違いはない。以下で、大まかなあらすじを紹介していこう。
主人公は21歳の女性である(映画版でイリスという名前がある)。とある村の清涼飲料水工場で働いていた女性は、事故で薬指の先端を失ってしまう。
女性はその事故をきっかけに村を出て、街にある標本室で働くことになった。彼女の他に標本室にいるのは、標本技術士であり彼女の雇い主である弟子丸氏だけである。
ある日、女性は弟子丸氏から美しい靴をプレゼントされた。女性はその靴を肌身離さず身に着けるようになる。そうするうちに、女性は弟子丸氏に特殊な感情を抱くようになっていく。
小説と映画の違い
映画は小説版を忠実に再現した作品である。とはいえ、多少なりとも異なる部分がある。この項では、小説と映画の違いを簡単に紹介していこうと思う。
『薬指の標本』の小説と映画の違いは、大まかに言って以下のものだ。
- 映画でだけ描かれる、街での暮らし
- 女性に思いを寄せる男性の登場(映画版のみ)
- 標本室がある建物に現れる不思議な少年(映画版のみ。幽霊のように描かれる)
- 靴の色(小説は黒、映画は赤)
特に主人公と関わる男性や、不思議な少年は、映画独自のものでありながら深い意味を持たされていそうな登場人物たちである。
標本室という場所/「標本にする」という行為
本作は『薬指の標本』というタイトルである。つまり、「標本」こそ本作の重要なキーワードだ。ここでは、本作に登場する標本室と「標本にする」という行為について考察していきたい。
この2つについて考えていく前に、「標本」という言葉そのものについても考えてみよう。
標本とは、なんらかの資料を後々観察できるよう、長期保存用の処理をしたものを指す。標本を作るには色々な手法があるが、ホルマリン漬けを考えてもらうと、概ね間違いがないだろう。虫ピンを使って、昆虫標本を作った覚えのある人もいるかもしれない。
本作での標本も、長期保存という観点で見れば、上記の説明で合っている。しかし、大きく違うのはその目的だ。本作での標本は観察のためには行われていないのだ。どちらかと言えば、「記憶を封印するため」の標本なのである。
上記のことを踏まえたうえで、続きを読んでもらいたい。
本作のほとんどは、弟子丸氏(映画版には名前が無い)が運営する標本室の中で起こることを描いている。そして、この標本室は一風変わった空間である。
標本室の概要を見てみよう。標本室は、コンクリート造りの4階建ての建物である。元は女子専用アパートだったものを、弟子丸氏が買い取って標本室にしたという。
アパートだったと言うだけあり、標本室には沢山の部屋がある。弟子丸氏はそれらのほとんどを標本の保存場所として使っている。例外は、223号室と309号室、1階にある元・浴室と、地下室である。
223号室と309号室には、女子アパート時代の入居者がそのまま住んでいる。そして、浴室と地下室は、弟子丸氏のテリトリーである。
地下室には、弟子丸氏以外誰であろうと入ることができない。そのため、その実際の姿は謎に包まれている。元・浴室は本来の目的を果たすことは無く、弟子丸氏の憩いの場として、そして、主人公の女性と彼の逢瀬の場として利用されている。
人が住んでいる2つの部屋は例外として、標本室全体はまるで時間が止まっているかのようだ。標本を依頼しに来る客以外の訪問者は無く、映画版においては依頼したエアコンの修理業者すら来ないありさまだ。そのうえ、突如として姿を消す少年まで居ついている。
この不思議な少年は、映画版で強い印象を残す存在だ。イリスと明確に会話をしているにも関わらず、生きた人間には思えない。そしてそれは、標本技術士/弟子丸氏も同じである。
映画の中で、古い写真の中に標本技術士が写っているという描写がなされている。その見た目は現在と変わらず、年齢の計算をすると相当な老人、もしくは、死んでいてもおかしくはないはずだ。
標本技師は現実的な存在というよりも、より精神的、より霊的な存在なのかもしれない。そして、標本室はミステリアスな彼の精神を表現するものなのかもしれない。
上記のことは、映画版を参考にした部分が大きい。小説だけ読むと印象が大きく異なることに注意していただきたい。
次に、「標本にする」という行為について。
先に、標本は観察するために長期に渡って保存する処理をしたものだ、と説明した。しかし、本作での標本は少し違う。
本作の序盤で、弟子丸氏が標本の意味合いについて語る部分がある。以下で引用してみよう。
共通の目的を見つけるのは難しいですね。なぜなら、ここでの標本を希望する人たちの事情は、おのおの全部違っているからです。すべてが、まったく個人的な問題なのです。政治や科学や経済や芸術とは無関係です。僕たちは標本を作ることで、その個人的な問題と対面することになります。分かっていただけますか?
小川洋子『薬指の標本』P17・10~13行目 新潮文庫 1998.
また、本作にはキノコの標本を依頼する少女が登場する。このキノコとは、彼女が家族を喪うきっかけとなった火事の焼け跡に生えたもので、思わず摘み取り標本室に持ち込んだのだ。
この2つを見れば、本作での標本は通常とは全くことなることが分かるだろう。弟子丸氏が作る標本には学術的な意味などは無く、あくまでも個人に目を向けているのだ。
標本は、時間の限り無く標本室に保管される。それを見学しにくるかどうかは客の自由だ。しかし、見に来る客はいないという。
少女を例に挙げてみよう。火事の記憶は彼女にとって忌まわしいものだ、しかし、忘れられないものでもある。だからこそ、少女はキノコを標本とすることで、火事の記憶を封じ込めたのではないだろうか。また、彼女は後に、自分の頬の火傷の痕も標本にすることになる。
良い記憶も、喪失と重なれば辛い記憶になる。火事の記憶も、かつての恋人の記憶も、亡くなったペットとの記憶も、適度に薄まらなければ傷痕に変わりない。 標本を作るという行為は、救済の一環と言えるだろう。
「靴」が表すもの
本作の重要な要素の1つに、弟子丸氏/標本技術士から贈られる靴がある。美しい靴で、原作では黒、映画では赤として描かれている。
女性であれば、おしゃれなプレゼントは嬉しいものだ。しかし本作では、靴は「おしゃれなプレゼント」以上の意味を持たされている。もっと言えば、女性/イリスと弟子丸氏/標本技術士の関係を結ぶものと考えられるのだ。
2人は日々、浴室で逢瀬を重ねている。小説版ではあまり書かれてはいないが、肉体的な関係になっているはずだ(映画版ははっきり描写されている)。この関係は恋人と呼ぶには歪だが、束縛、もしくは、支配したい/されたい欲を内包している。
標本室で働けば働くほど、弟子丸氏/標本技術士と過ごせば過ごす程、靴は足にピッタリとフィットしていく。そして、女性/イリスは彼から離れられなくなっていくのだ。最後には、救いの手とも呼べる言葉をもはねのけてしまう。
薬指は婚約指輪や結婚指輪をはめる指である。しかし女性/イリスは、薬指(の先端)を無くしてしまっている。
指輪は愛の証であると同時に、契約や所有欲の現れでもある。とすれば、女性/イリスがプレゼントされた靴は、指輪の代わりなのではないだろうか。しかも、お互いに交換しない一方的な所有である。 とはいえ、彼女がそれを望んでいる以上、外野は何もできないのだ。
まとめ
本作は小説も映画も、長い作品ではない。興味があるならば、飽きずに最後まで読み続け(見続け)られる作品だろう。そのうえ内容はかなり深く、噛みしめがいのある作品だ。
「原作派」、「映画派」などの派閥が起こりがちな原作のある映画作品ではあるが、本作は両方に触れることをおすすめしたい。小説は物語の基本がわかりやすく、映画は小説をきちんと踏襲しながら、その世界観を見事に広げているからだ。
映画版は、あまり配信されることも無く、DVDの販売も限られている。しかし、手に取る機会があったならば、逃さないようにしてほしい。
◆参考資料
小川洋子『薬指の標本』新潮文庫,1998.
◆「女性」を描いた小説・映画:考察/解説