ご注意:この記事には、映画『エイリアン』のネタバレが含まれています。
映画好きでなくとも、映画「エイリアン」の題名を一度は聞いたことがあるはずだ。そして多くの人はこのタイトルを聞いただけで、あの独特でぬらぬらとした、恐ろしい怪物を思い浮かべることだろう。
映画「エイリアン」は名作に数えられていることでもわかる通り、人の心に何かを残す、不思議な魅力を持つ作品だ。そこで、ここではその魅力について考えていきたいと思う。
映画「エイリアン」 忍び寄る恐怖を描いたSFホラーの傑作
映画「エイリアン」は、1979年に撮影されたSFホラー作品だ。名監督リドリー・スコットの代表作(彼は他に「ブレードランナー(参考:『ブレードランナー』 『ブレードランナー 2049』考察)」などでも知られる)であり、主演のシガニー・ウィーバーの出世作でもある。
今作の特徴は、アクションやSFXに頼るような派手な作品ではないということ。SF映画というには地味であり、「静かに忍び寄る恐怖」を描く正統派のホラーと言えるだろう。
また、今作は後に続く「エイリアンシリーズ」の第一作目でもあり、全ての作品の基軸になるものである。これから「エイリアン:コヴェナント」や「プロメテウス」を鑑賞しようと考えている場合は、ぜひ先に鑑賞しておくことをおすすめしたい。
映画「エイリアン」のあらすじ
西暦2122年。鉱石と乗員を乗せた宇宙船ノストロモ号は、地球への帰途についていた。乗員のコールドスリープは解除され、地球にはもうすぐ到着すると考えられた。
しかし、ノストロモ号は地球とは全く異なる場所にいた。船のAIが地球外生命体からの信号を受信したため航路を変更し、目的地に近づいた上で乗員たちを起こしたのだった。
乗員たちは会社との契約で、知的生命体からの信号を調査する義務を負わされていた。
引用:エイリアン|予告編|Disney+
信号が発信された惑星に辿り着いた一行。船外調査には船長のダラスを含めた3人が出ることになった。
船外調査で3人が目にしたものは、巨大な宇宙船の残骸と、その中で死んでいる宇宙人の死骸だった。その死骸は胸のあたりに大きな穴が開いており、何者かが体を食い破ったように見える。
船内に残った主人公・リプリーは、信号の解読を進めていた。そのうちに、リプリーはあることに気が付く。その信号は救難信号などではなく、何事かを警告するものだったのだ。
映画「エイリアン」の魅力
「エイリアン」は古い映画だ。そしてグロテスクさもあり、見る人を選ぶ作品でもある。
にもかかわらず、「エイリアン」は人を惹きつけて離さない魅力を持った作品だ。だからこそ、いまだにSF映画の名作として名を残しているのだろう。 ここでは、そんな「エイリアン」の魅力について語っていきたい。
映画「エイリアン」~「よく見えない」ことの恐ろしさ~
少し違う映画の話になるが、スピルバーグ監督の「ジョーズ」を見たことがあるだろうか。海の中に巣くう人食い鮫と人間の戦いを描いた不屈の名作で、BGMが印象的な作品だ。
「ジョーズ」では作中のほとんどの時間、鮫の姿が映されていない。背びれや被害者の様子は描写されるものの、肝心の「怪物」がなかなか姿を現さないのだ。
この描写は、観客の恐怖を煽り立てる。白日の下にさらされた怪物は恐ろしいが、暗闇に潜む怪物はなお恐ろしいのだ。人は「見えないもの」を恐怖する。
そして今作「エイリアン」もまた、この手法を使っている。
「エイリアン」の怪物であるエイリアンの姿を考えてみよう。
エイリアンは細長い頭にインナーマウス(口の中にもう一つ口がある)、鋭利な尾を持ち、ぬるぬるとした粘液を垂らしている。監督にその意図があったことは確かなようだが、男性的存在のメタファーとして語られることも少なくない。
エイリアンの姿形は、見る側に心理的不快感を与えるものだ。それは、エイリアンの卵を人に産み付ける「チェストバスター」や、生まれたばかりのエイリアン幼体とは、性質が全く異なる。チェストバスターや幼体の不快さが昆虫的であることに対し、エイリアンはもっと根源的だ。絶対にいてはいけないものがいる、という不快感。この点で、エイリアンの造形は大成功を収めているといっても良いだろう。
この造形を用いれば、エイリアンの姿を光の元にさらしながら、迫りくる恐ろしさを表現することができるはずだ。実際、第二作目にはその傾向がある。しかし、今作はそうではない。
エイリアンはまるで「ジョーズ」のように、なかなか姿を現さない。一体何に、どこから襲われているのか。ノストロモ号の乗員はパニックになる。その上、味方(だと思っていたもの)の裏切りがあるからなおさらだ。私たち視聴者側も敵の姿が見えないだけに、そのパニックを共有することになる。
エイリアンの姿がはっきりと見えるのは、孤軍奮闘したリプリーがエイリアンを宇宙空間に放出したとき、その一度きりだ。その他の場面では、エイリアンの顔だけ、尾だけ、その存在しているという雰囲気だけ、を個々で見せられているだけだからだ。
先にも書いたが、見えないことは恐ろしい。敵を視認することができれば、何等かの対策が打てるはずだ。しかし、その姿を見ることができず、静かに忍び寄ってくるとなれば、対策は限りなく難しくなる。
宇宙とは、そこを漂う宇宙船とは、外に助けを求めることがなかなかできない特殊な環境だ。外の世界は広いものの、生身の人間は生きることができない。そして、人が生きられる宇宙船は狭い密室空間だ。
外に出られず、助けも求められない。こんな状況では、「見えない」ことが一番の恐怖だ。このシチュエーションで描かれる今作は一見地味だが、その地味さが一番の魅力と言えるだろう。
映画「エイリアン」~主人公たちが無力であること~
アーノルド・シュワルツェネッガーやシルベスター・スタローン。彼らが銃やナイフを構える姿は勇ましく、何かが起こったとしても生き残ることができるという確信がある。彼らならば、エイリアン軍勢をせん滅すら夢ではない。
しかし、映画「エイリアン」のリプリーたちはそうではない。彼女たちは訓練された兵士などではないからだ。即席でスタンガンのようなものや火炎放射器を作ることはできても、それでエイリアンを殺すことはできない。
だからこそ、リプリー以外の乗員は皆、エイリアンにことごとく殺されてしまう。どうあがいても逃げることはできないのだ。この状況は、不安感と恐怖感をより強くする。
ホラーを見ているときは、自然と「敵」を倒したり、その根本を解決したりすることを望む場合が多いだろう。何度も例に出して申し訳ないが、「ジョーズ」もそうだ。「ジョーズ」では、人食い鮫を倒すことが重要になる。
しかし、リプリーたちは限りなく無力だ。抵抗策は無いに等しい。こんな状況で生き残るためには一体どうすれば良いのか。鑑賞者側と同様、リプリーたちも悩む。倒すのではなく生き残ることを優先するにしても、リプリーたちの勝率は限りなく低いのだ。
ここにあるのは、どうしようもない絶望感だ。「エイリアン」で感じる絶望感は、他のホラー映画よりも強いだろう。だからこそ、鑑賞者側は固唾をのんで物語を見守ることになる。
結果、リプリーは生き残ることができたものの、エイリアンを倒すことはできなかった。できたのは、あくまで宇宙空間に放出することだけだ。
強敵を倒したとき、人はカタルシスを感じる。しかし、リプリーからはそれを感じ取ることができない。あるのは疲労感と安堵感、そして悲しみだ。その時のリプリーの表情は、リアリティに溢れている。
リプリーは回を追うごとに、どんどん強い女性となっていった。それは確かに素晴らしく、素敵な変化と言えるだろう。しかし「無力」であるということも、今作では魅力の一つになっているのだ。
映画「エイリアン」の魅力 まとめ
映画「エイリアン」は見ごたえのある作品である。物語の内容を細かく考察しても楽しめるし、繰り返し鑑賞し、今まで見えなかった要素を発見する楽しみもある。
それと同時に、小難しく考えずに画面に映し出されるストーリーを全力で感じ、物語世界に没頭することもできる作品でもある。これは、「名作」と冠される映画にとっては珍しいことだろう。人が「名作だ」と口を揃える作品には、難解なものが少なくないからである。 是非、今回取り上げた魅力に注目して、映画「エイリアン」を鑑賞してもらいたい。そうすれば、今作の持つ独特な雰囲気に呑まれ、作品世界に入り込むことができるだろう。
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