麻雀放浪記 考察 堕落しない者たち
明るくなった明るくなった戦後の日本
映画『麻雀放浪記』1984年 監督:和田誠 角川映画
1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。それまでの政治や社会や価値観や生活――国家の姿まで――が完全に変わった戦後の日本。そこには、復興のために歩み出した人がいただろう。戦争で生き別れた家族を待つ人がいただろう。非情な戦争の犠牲となった家族を想う人がいただろう。そのような戦後日本の焼け野原に建てられた粗末で不衛生な建物に集まる者達がいる。学校に戻らず放浪している坊や哲。軍人だった坊や哲の父親は日本の敗戦で失業してしまった。戦争中は障碍者にも「保証があった」という戦前からのバイニン(ギャンブラー)の上州虎。野上(上野)の健ことドサ健。オカマのおりん――
彼(女)らは個人主義者だ。だが、それは彼(女)らの思想ではない。それは彼(女)らの生き方だ。国家や社会や倫理や法にも捉われず生きる彼(女)ら。彼(女)らの「世界には友情とか友達なんてものはない。学校の友達とは違う」「ボスと手下と敵とこの3つだけ」だ。
国家や社会や倫理や法にも捉われず生きる彼(女)らに周囲の変化など関係ない。そう、彼(女)らは、個の人間だ。だから――以前から「堕落」し――だからこそ――玉音放送が流れても「堕落」しない。
1945年8月15日、ラジオから流れた玉音放送。 サムネは開戦(1941年12月8日)の官報です。Clairvoyant report channel
ドサ健 まゆみ 坊や哲 日本の新たな青春時代
映画『麻雀放浪記』は、ドサ健、まゆみ、坊や哲を3人の若者の青春を映画いた映画でもある。それは、子供のように勝手気ままなドサ健とまゆみの青春物語であり、年上の女性「OX(オックス)クラブのママ」に恋する恋愛経験のない18歳の坊や哲の青春の物語である。この二人の女性から受ける印象は子供のような二人の男性に対する母親のような母性である。だが、深い人生経験を持つ「OX(オックス)クラブのママ」は、「ママが好きなんだよ。女房にしたい」という坊や哲に「子供だから好きだの嫌いだの言うの」「(大人は)もっと他のことで生きてる」と言う。勿論、この坊や哲への彼女の言葉は本心から出た言葉ではないだろう。日系人の軍属から銃を突きつけられ金を奪い取られた後の彼女は、「馬鹿野郎、男は殺した女からは盗むのかよ。日本が負けたからって、あたしは降参した覚えはないからね。馬鹿にしやがって――」と言っていた。彼女は綺麗事や理想だけでは生きていけない現実を知っているのだろう。だからこそ、坊や哲の前から消えたのかもしれない。
一方、ドサ健とまゆみの関係は切っても切れない腐れ縁以上の関係として描かれている。ここで、ドサ健の有名な台詞を引用しよう。
あいつは俺の女だ。この世でたった一人の俺の女だ。だからあいつは俺のために生きなくちゃならね。あいつと死んだおふくろとこの二人だけには迷惑をかてもかまわないんだ。
麻雀に負け、まゆみが父親から相続した土地家屋を売り、自分までも女衒の達に売り飛ばそうとする身勝手なドサ健だが、彼はまゆみを――そして、まゆみも――
ここで、まゆみが父親から相続した土地家屋の権利の異動状況と商品として売買の対象となったまゆみの所有者の変遷を整理してみよう。
以下は、商品として売買の対象となったまゆみの所有者の変遷
以下は、まゆみが父親から相続した土地家屋の権利の異動状況
このまゆみが父親から相続した土地家屋の権利の異動の過程は、この作品の登場人物の価値観を端的に現しているともいえるだろう。特に根無し草的な生き方を好む坊や哲の価値観が垣間見れるともいえるだろう。なお、土地家屋の権利を手に入れた、出目徳、ドサ健、女衒の達、坊や哲、上州虎のうち、その権利を欲しがるのは年配の上州虎だけである。また、この土地家屋の権利が最終的にどうなるのか?どうなったのか?は、映画『麻雀放浪記』では描かれていない。そう、全てが博打の勝ち負けだ。終戦により全ての価値が一夜にして変わった時代だ。先の事はわからない。
そして、この青春の物語はドサ健、まゆみ、坊や哲を3人の若者の物語だけではない。戦争に負け、それまでの政治や社会や価値観や生活が完全変わった戦後の日本の青春の物語でもある。明治維新により最初の青春を過ごした日本。その青春は激化する戦争により幕を閉じた。だが、終戦により日本の第二幕の青春の物語が始まる。その後、日本は過激な政治の年を迎え、政治の季節の後は、豊かな熟年の時代へと突入し――日本はいつの間にか老いた国になってしまったのかもしれない。老いた国から青春の時代の国への望郷。そう、映画『麻雀放浪記』の白黒の映像には青春の時代の国のなかで自分の欲望のためだけに生きたドサ健や坊や哲の「自由」な姿がある。
バイニン出目徳『明日は晴れるかな?』
繰り返しになるが、映画『麻雀放浪記』は、ドサ健、まゆみ、坊や哲や女衒の達の青春の物語である。その若者の物語の中で若者の前に老獪な明治生まれると推察されるバイニン出目徳が立ちはだかる。
相手の心理を読み、相手の感情を巧みに操り利用するこの老バイニンは、放浪癖のある坊や哲などとは違い、映画『麻雀放浪記』の中で唯一、結婚(会話に「10以上夫婦らしいことはしていない」とあるので、事実婚だとしても同居女性とはかなり長い関係だ。また、家はその女性の所有の可能性もあるが詳細は不明)し、家を持っている。
坊や哲、ドサ健、女衒の達の3人の会話に「未熟だから金を失くす(女衒の達)」「勝ち続けるヤツは金の代わりに身体を失くしてる(ドサ健)」「勝ち続けて丈夫な人もいるんじゃないの?(坊や哲)」「そういう人は人間を失くす(女衒の達)」などの言葉がある。
では、出目徳はどうだろうか?明治生まれの老獪なバイニンは、大正期も昭和の戦争中もバイニンだっただろう。だが、彼は、身体も失くしてらず(死んでおらず)、人間も失くしていない(妻と思しき女性と長年にわたり同居し彼女に対しての気遣いや優しさもみせる)。これらのことから、出目徳も勝ち続けたバイニンではないと推察できそうだ。
一度は、出目徳に負けたドサ健や坊や哲や女衒の達の出目徳に対するそれぞれの最後の言葉――そこには、「ボスと手下と敵とこの3つだけ」の世界、騙し騙され、相手を食い物にし、相手から食い物にされる優勝劣敗の人間関係のなかで、相手に対する恨みや辛みの感情は一切ない。そこにあるのは、強い者への賞賛とバイニンとして生き、バイニンとして去っていった出目徳への敬意である。そのような敬意を3人に抱かせた出目徳と出目徳の生き様を称賛する3人の若者――映画『麻雀放浪記』には、去り行く老人とその老人の遺志を継ぐ若者の姿も描かれていそうだ。
最後に――映画『麻雀放浪記』の名演により、いくつかの映画賞で助演男優賞を受賞した高品格(1919年2月22-1994年3月11日)演じる出目徳の台詞を思いだそう。
明日は晴れるかな?
映画『麻雀放浪記』1984年 監督:和田誠 角川映画
既に日没間際ともいわれる日本。年老いた国、日本。
日本の「明日は晴れる」のだろうか?
★参考文献
『堕落論』坂口安吾,著 昭和21年4月1日『新潮』 (『堕落論』青空文庫のリンクです)
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戦災後間もない駅前大通。両側に闇市が並んでいる。愛知県豊橋市 作者、豊橋市役所 パブリックドメイン
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パブリックドメイン 第一次能代大火の後、復興住宅として建設された向ヶ丘住宅
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