★ご注意:この記事には、映画『日本のいちばん長い日』のネタバレが含まれています。
全てが変わった1945(昭和20)年8月15日から約22年後に公開された『日本のいちばん長い日』――。
映画『日本のいちばん長い日』の概要、あらすじ、そして作中で描かれた「宮城事件」とはなんだったのか?などをご紹介しながら岡本喜八監督の「想い」などを考察していきたいと思います。
1967年版『日本のいちばん長い日』の概要
東宝で配給された『日本のいちばん長い日』は、1967年に公開されました。
原作は半藤一利による日本のノンフィクション書籍を映像化した作品で、東宝創立35周年記念作品の第1作目として制作されました。
白黒映画で、157分の長編作でもありました。終戦を告げる「ポツダム宣言」を発表するまでの、24時間を刻々と描いた緊張感がある作品となっています。
実際に、一部陸軍将校たちが起こした宮城(皇居)へのクーデター未遂事件「宮城事件」を軸に、当時の鈴木首相を拘束しようとする横浜警備隊有志たち、終戦を知りながら最後まで本土決戦を戦うと言い張る厚木基地の将校たち、そして何も知らされず飛び立つ特攻隊、陸空海軍のトップが集った長い会議、そして地下防空壕で行われた昭和天皇も含めた御前会議、天皇陛下が録音したポツダム宣言のレコードが宮内庁で必死に守られる様子が同時進行で交互に描かれました。
『日本のいちばん長い日』は、映画配給収入で4億円という大成功を納め、その後「東宝8.15シリーズ」として、主に太平洋戦争をテーマで5作品作られています。
なお劇中では顔は出ていませんが、昭和天皇も出演しているため、実際に家族と共に昭和天皇も映画をご覧になりました。 その後2015年に松竹から役所広司主演で、同名作品として再び制作されています。
豪華なスタッフ・出演者・キャスト
東宝が総力を投じた作品ということで、スタッフも出演者も製作費もビックな一作で予告から既に派手に報じられていました。
本作の監督は『大誘拐』『独立愚連隊』で軽快ながらも独特な切り口が持ち味の、岡本喜八監督。 当時は映画会社所属の俳優たちが主に映画の中枢を担っていましたが、他会社からも有名俳優も多数出演していて、豪華な出演陣となっています。
まず主演の陸軍大臣の阿南惟幾役には、「世界のミフネ」と呼ばれ特に黒澤明監督作品の常連で『七人の侍』『羅生門』で海外での知名度も高かった三船敏郎さん。
実は岡本監督と、三船さんは若い頃からの旧知の仲なんです。岡本監督の作品でも『血と砂』や『暗黒街の対決』など、既に作品で何回も主演しています。
共演者も昭和を代表する俳優陣が、錚々たるメンツで周囲をがっちり固めます。
鈴木貫太郎総理大臣に『東京物語』の笠智衆さん。情報局局長の下村宏を演じるのは『生きる』『七人の侍』の志村喬さん。児玉基地の飛行団長・野中俊雄大佐に『ああ爆弾』の伊藤雄之助さん。『若大将』シリーズの加山雄三さんが日本放送協会の放送員・館野守男を演じ、ナレーターには『乱』の仲代達矢さん。などと数えたらキリはありませんが、今回、特に大きなインパクトを残しているのは、「宮城事件」で走り回る、クーデターの中枢だった畑中健二少佐役の黒沢年男さんだと思います。
ぎょろっとした瞳で、終戦を受け入れられず戦争を続けようと過激に奔走する若者を好演しています。 バラエティなどで見る、穏やかで天然なキャラクターとは全く違うので、はじめはとても驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんね。
『日本のいちばん長い日』のあらすじ
1945年8月、日本は大きな決断を迫られていました。
広島、長崎への原爆投下、そしてソ連参戦と、大きなダメージで既に本土決戦をするか否かまで追い詰められていました。
そこに、アメリカから届いた「ポツダム宣言」が届きます。それは日本の降伏を促す文章であり、すなわち太平洋戦争の敗戦を意味していました。
そして昭和天皇の決断により、無条件降伏の受け入れが下ったのです。
8月14日0時の時が刻まれると『日本のいちばん長い日』とクレジットされ、長い長い24時間がはじまります。
陸空海軍の大臣は各々、省庁に戻ると部下たちにポツダム宣言が下ったことを告げました。
陸軍省の阿南陸相も集まっていた陸軍関係者たちに告げます。
反応は各々で受け入れる者、諦める者、そんなの関係ない、戦争は継続させると諦められない者と分かれていきました。
ポツダム宣言の文章内容を決める会議に阿南陸相が会議へ出かけた際に、エリート陸軍少佐だった畑中少佐は、天皇の居る宮城でクーデターを起こし終戦を帳消しにしようと企てていました。同調した椎崎中佐と他の陸軍関連を回っていくものの、既に英断は下ったと相手にしてもらえず、やきもきして次第に過激な行動に移っていくのです。
その頃、ポツダム宣言の噂は軍の中で広がっていき終戦阻止するため鈴木首相を狙った誘拐事件を横浜警備隊が計画します。終戦を知っていながらも最後まで徹底抗戦を告げる厚木基地の空軍大佐たち、何も知らずに出撃していく特攻隊と見送る群衆、全てを知って敬礼する飛行団長。
やっとポツダム宣言の文章が決まったものの、畑中少佐たちのクーデターを知り止めようとする阿南の力も及ばず、行動は暴徒化してしまいます。
天皇が録音した玉音盤を狙っていると知った宮中の人々は必死で隠そうとします。宮城を占拠して玉音盤を探し出そうとするクーデター軍。緊張感が漂う場面が続きます。
翌日、なんとかラジオ局に玉音盤が運び込まれるもののラジオのアナウンサーを殺してでも、畑中は戦争維持の原稿を読むから席を空けろと、銃をつきつけましたが目的は果たせませんでした。苛立ち、ラジオ局から出てゆく畑中少佐。
そして、正午。無事にラジオからは玉音放送が流れて、戦争が終わったのです。
残された畑中少佐と椎崎中佐は、戦争維持のビラを撒き皇居前で自決しました。
その姿を知ることなく阿南陸相は自宅で全ての責任を持つと、15日早朝に割腹自殺を遂げていました。
こうして、長い長い24時間は幕を閉じたのです。
『日本のいちばん長い日』で描かれる「宮城事件」とは?
映画だけ見ると色々な情報や場面が錯綜しているので「宮城事件」自体を、少し整理していきましょう。
以下は「宮城事件」の主な関係者です。
阿南惟幾陸軍大臣 |
陸軍所属の将校たち(主に畑中健二少佐、椎崎二郎中佐) |
森赳中将(宮城管理トップの近衛師団長) |
徳川義寛侍従(昭和天皇の側近、宮内省勤務) |
昭和20年8月14日、陸軍を束ねるトップ、阿南陸相は昭和天皇が「ポツダム宣言」に合意する御前会議に参加していました。
戦時中、人間ではなく神様として祀られていた天皇の「ご聖断」が下さったことで、それぞれの省庁で部下の将校たちにポツダム宣言が伝えられていきました。
しかし陸軍将校たちの多くが、軍国主義で育てられ「日本は神様の国、負けるはずがない」と陸軍学校で鍛え上げられてきた戦場を知らないエリート達が数多くいました。
その中でも天皇がポツダム宣言を出す前に、天皇がいる宮城を乗っ取り、宣言を出させず陸軍が占領すれば、日本は徹底抗戦を続けられると信じ切ったのが、まだ若く血気盛んな畑中少佐たちでした。
阿南陸相は、畑中達の暴走を知りポツダム宣言の文面を考える首脳会談から、陸軍省に戻ると必死でクーデターを起こすな、「全ての責任はこの阿南が取る!」と叫び、戻っていきました。
しかし、阿南の言葉をまったく受け止められない畑中たち。
そこで畑中たちは宮城のトップ、森師団長に直接、クーデターに協力して欲しいと直談判に行くものの、阿南陸相、及び天皇に逆らうことはできないと拒否しました。
それを聞いた畑中たちは激怒し「決断の邪魔になる」と判断し、森師団長を殺害してしまいます。
森師団長から勝手に宮城受け渡しのために必要な印鑑を奪うと、畑中達はそれぞれ散って他の官庁の将校達に決起を促しに夜通し、走り回ることになります。
その頃、無事にポツダム宣言の文面も決まり、天皇はレコード(以下玉音盤)に録音することに決まり、地下防空壕にて録音が行われました。
クーデター軍団はは既に宮城にまで手が回り、玉音盤が狙われることを恐れた宮内省は、側近である徳川侍従たちに玉音盤と、念の為もう一枚作っていたレコード盤を預け、翌日ラジオ局に持ち込むまで預かるよう命じました。
でも、既にもう宮内省に将校達が詮索しにくるのも時間の問題です。
徳川たちは、荷物でいっぱいの物置の奥深くに玉音盤を潜ませます。
その後、将校達は攻めてきますが徳川たちの願いも届いたのか、玉音盤を見つけることはできませんでした。
その頃、既に畑中達の暴走を聞いていた阿南陸相は静かに自宅に戻り、一人酒を飲んでいました。そこへ報告にやってきた義弟の竹下正彦中佐に見守られ、遺書を綴り辞世の句を読みました。
早朝、阿南は全ての責任は私にあると言い残すと割腹自殺しました。
その後ラジオ局に持ち込まれた玉音盤を狙い、最後に畑中が攻めてきましたが放送阻止はできず、陸軍の総意と称したビラを街中で撒きながら、行動を共にしていた椎崎中佐と共に皇居内で自殺して果てました。
そして、正午。
ラジオからポツダム宣言が流れ、宮城内占拠も制圧され「宮城事件」は幕を閉じました。
岡本喜八監督が伝えたかった本当の『日本のいちばん長い日』とは?
本作では主に「宮城事件」「ポツダム宣言」が緊張感ある、岡本監督独特のリズム感ある映像で刻々と描かれていきます。
御前会議、「ポツダム宣言」の文面をめぐる長い会議、畑中たちのクーデターももちろん描かれますが、その合間に入れられる「名もなき人々」の描写に、岡本監督の「体温」を感じました。
例えば、厚木基地でポツダム宣言を知りながらもマラリアにかかり、当時は合法だった商品名『ヒロポン(メタンフェタミン)』と思しき注射を自ら打ちながら、魘されるように「何が終戦だ、厚木は最後まで徹底抗戦だ」とうめく司令官。
ポツダム宣言すら知らず、美味しそうにぼた餅を食べて出撃する若い特攻隊、見送り歓声を上げる人々。
多分、終戦を知りながらも見送ることしかできない特攻隊の飛行団長。
空に散っていった特攻隊の辞世の句は、カッコよくなくて、でも人間臭くて。
普通の戦争関連番組では、見ない類の作品が詠まれていて。その時に、岡本監督は名もなき戦争に巻き込まれた人々を、名もなき人々を描きたかったのかなあとずっと思っていました。
そして、暴走した横浜警備隊の佐々木大尉についていった若き有志達も、普段は普通の若者で、それがたった一瞬描かれる、若者の後ろポケットに無造作に捻り込まれた小説に描かれていて切なくなるのです。
「『日本のいちばん長い日』では、偉い人を描きすぎた」と考えた岡本監督は、その後、低予算を組みATGから1968年に『肉弾』を制作、公開し、名もなき偉くもない人々を、躍動的に描き切りました。
岡本喜八監督が亡くなるまで貫き通した「想い」
岡本監督は、亡くなるまで「反戦の人」でした。
2015年にも同名作品が制作されますが、本作との違いは「1967年の出演者が戦争経験した年代が殆ど」だったことが挙げられます。
岡本監督は自分のエッセイなどでも描かれていますが、特攻隊として従軍中に空襲に遭い、すぐ側にいた仲間が亡くなる中、戦友達の血を浴びながら生き残った記憶もありました。
それから一貫して「戦争批判」を作品にも反映させるようになります。
例えば代表作の『独立愚連隊』や、少し異色作『江分利満氏の優雅な生活』もありますが、真正面から描き出したのは、この『日本のいちばん長い日』や『血と砂』『沖縄決戦』、そして先述した『肉弾』だと思います。
実は以前、資料展で拝見した67年版「日本のいちばん長い日」のパンフレットに興味深い記述がありました。
それは、出演者たちに聞いた「その日(8月15日)、あなたは?」というインタビュー記事でした。
それは戦争を生きたからこそ、本作に出演したからこそ聞けた俳優陣の貴重な一言だったのです。
「自らの戦争」の記憶について戦後に語った昭和俳優はそれほど多くなかった気がします。語る人は本やインタビューで記録を残していますが、特に自らのプレイベートを表に出さず、俳優としての一生を生きる人が、昭和は特に多かった気がします。
本作の出演者は、昭和を代表する錚々たるメンバーでした。
阿南陸相役の三船敏郎さんは、従軍中で終戦の時、熊本の特攻基地で教育係と特攻隊員の遺影を撮る写真係をしていました。
情報局総裁役の志村喬さんは、ご本人は戦時中の映画にも出演されていましたが、実弟を戦争で亡くしていました。
国内局長役の加東大介さんは従軍していた激戦地、パプワニューギニアで演芸部隊の中心メンバーとして活動されていました。
ナレーターの仲代達矢さんは学堂疎開中、手を繋いだ学友が機銃掃射で吹き飛ばされ目の前で亡くなるという悲痛な経験をされています。
終戦当時、俳優をしていた、していないにしていないに関わらず、こういう経験を通して、本作が描かれたというのは、何か不思議な縁を感じてもいます。
岡本監督自身の経験もあり、本作の最後では――「この戦争では、軍、民合わせて300万人の犠牲があった」――と明記されています。
岡本監督の、戦争に対する「想い」が込められた一言だったことが分かります。
いかがでしたでしょうか?
少し古い作品ではありますが、岡本喜八監督の独特な撮り方や作風、そしてこの作品は今を生きる映画人や、ものづくりをする人たちに何かしらの影響を与え続けています。
157分という長編ではありますが、見ているとテンポが小気味よくあっという間に見終えられます。
気になった方は、一度ご覧くださいね。
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