グリコ・森永事件:事件前「周到に準備された計画」

グリコ・森永事件-3

公開日:2021年10月26日 / 最終更新日:2026年3月6日

前稿までの検証では、グリコ・森永事件との関連が囁かれる「黄巾族(1976年)」や「昭和53年テープの男(1978年)」を軸に、当時の社会情勢を紐解いてきた。

昭和50年代という時代――。それは、学生運動の残滓や過激派によるゲリラ事件、さらには潜伏する外国工作員の影が、平穏な市民生活の裏側に色濃く溶け込んでいた時代でもあった。

そして1984(昭和59)年3月18日21時。日本中を震撼させる「江崎グリコ社長誘拐事件」が発生する。のちに「かい人21面相」と名乗るグループは、この日、いかにして犯行へと至ったのか。事件前夜までの彼らの足跡を検証する。

犯人グループによる事前準備の推移

過去の報道および公開されている捜査記録に基づき、事件発生の数時間前から「江崎グリコ社長誘拐」の実行に至るまでの準備状況を以下にまとめる。

犯人グループは、単なる誘拐犯とは一線を画す緻密な準備を行っていたことが後の捜査で明らかになっている。

報道の範囲で確認できるグリコ・森永事件の犯人と思われる者(達)の行動および年月日、曜日

犯人(人物)の行動/人物の特徴(人数)年月日時間曜日
昭和53年テープ 江崎グリコ常務宛てに送られてくる
人数(1名~不明)男性A 初老の男性の声
1978/8/17着は木曜日投函は火曜日、水曜日か?
脅迫状の送付に使用された「使い古された速達印」の製造業者は
愛知県豊田市の業者(2000.01.22 毎日新聞)
購入時期不明不明
犯人グループは東京秋葉原で犯行に使用したと思われる無線機、カセットテープを購入
「山下」と名乗る男性が犯行に使われたタイプライターの文字盤を神田の事務機器販売店で購入(1986.03.13 NHKニュース)
1982/12~1983/1頃不明
何者かが江崎グリコ社長の世帯全員分の住民票取得
(2000.01.12毎日新聞)(2000.02.03読売新聞)
(『キツネ目の男:岩瀬達哉,著:講談社』)
1984/3/7水曜日
江崎グリコ社長宅付近での不審者目撃情報人数1名:男性B 30歳後半 身長180センチくらい 筋肉質 ガッチリ型
(『キツネ目の男:岩瀬達哉,著:講談社』)
1984/3/10
12時以降
土曜日
出典:『キツネ目の男:岩瀬達哉,著:講談社』及び新聞記事

準備工程にみる犯人像の特異性

これらの準備工程を俯瞰すると、犯人グループの行動には極めて特異な性質が認められる。

第一に、犯人グループには長期にわたる計画性が認められる。仮に「黄巾族」や「昭和53年テープの男」が地続きであるなら、接触の端緒は1978年まで遡る。犯行は突発ではなく、長期間にわたり機を窺った末の実行であった可能性が高い。

第二に、調達と実行の舞台は愛知・東京・大阪・兵庫にまたがっている。少なくとも、狭い地域圏だけで完結する犯行ではなく、広域移動と情報網を備えた集団であった可能性が高い。

第三に、情報収集と戦術面の周到さである。犯人グループは住民票の取得によって家族構成と居住実態を把握し、周辺状況の下見も重ねていた。さらに無線傍受機や車両偽装など、捜査を意識した準備も確認される。単なる粗雑な実行犯とは異なる性格がここに表れている。

これら、法執行機関の裏をかく徹底した事前準備が、決行前夜の段階で既に完遂されていたと言える。

この長期的計画性と事前準備段階からの広域性が、この事件を戦後最大の未解決事件へと押し上げる要因となった。

犯人グループの装備調達と標的調査

「かい人21面相」を名乗るグループは、1984年3月18日の「江崎グリコ社長誘拐事件」決行に至るまで、極めて組織的かつ多角的な事前準備を行っていた。その足跡は、装備品の調達、標的の情報収集、そして過激派組織との奇妙な符号という三つの側面から浮き彫りになる。

装備品の調達:東京拠点の浮上

犯行声明や脅迫状の作成に用いられた和文タイプライター「日本タイプライター社製パンライター(P45型またはM45型)」を巡る動向は、犯人グループの足取りを追う上で重要な鍵となっている。

「山下」と名乗る男の動向

事件発生の約1年2か月前となる1983年1月頃、東京・神田の事務機器販売店に「山下」と名乗る30代の男が現れた。男は事前に電話で「9ポイント細丸ゴチック体の文字盤」の在庫を問い合わせ、取り寄せを依頼。入荷連絡から1時間足らずで店に現れ、代金4万円を支払い「上様」名義の領収書を求めたとされる。連絡先として告げた電話番号は東京23区内の局番であった(※出典:NHKニュース 1986.03.13)。

他事件・組織との関連性

同型のパンライターは、1974年発行の新左翼による爆弾製造教本『腹腹時計』で使用されていたほか、1987年以降の「赤報隊事件」の前身組織とされる「日本民族独立義勇軍 司令部」が1983年の朝日新聞放火未遂事件で用いた機種とも合致する。

ただし、グリコ・森永事件の脅迫文が9ポイント活字であるのに対し、独立義勇軍の声明文は12ポイントであり、本体は同機種ながら文字盤が異なる点に注意が必要である(※出典:北海道新聞 1992.08.12)。

標的の特定と情報収集

犯人グループは、単なる建物の外観の下見に留まらず、当時の行政制度の運用の実態を熟知した、極めて合理的な調査能力を発揮していた。

事件発生直前の1984年3月7日、何者かが江崎グリコ社長世帯全員分の住民票を取得している。当時は住民基本台帳法改正前であり、正当な理由がなくとも第三者が住民票を取得できるという「制度上の隙」が存在していた時代であった。犯人グループはこの仕組みを利用し、合法的かつ確実な手段で家族構成や正確な居住実態を事前に把握していたのである。

こうした机上の調査に加え、物理的な偵察も並行して行われていた。犯行の約1週間前には、社長宅付近で身長180cm、がっちりとした体格の不審な男(男性B)が目撃されている。犯人グループは社長宅のみならず、犯行の足場となる隣接した実母宅の間取りや警備状況、さらには家族の日常的な動線までも細部まで掌握していた。

これら行政情報の戦略的収集と現場での執拗な偵察を組み合わせることで、極めて緻密かつ組織的な犯行計画を構築したと推察される(※出典:産経新聞 1997.07.04)。

小括:準備段階から見える犯人像

これらの準備工程から浮かび上がるのは、次の三点である。

第一に、東京と関西を往来する広域的機動力。
第二に、既存の地下組織や過激派的手法との接点をうかがわせる装備選定。
第三に、住民票取得や下見に示される執拗な事前調査である。

これらすべての準備を完遂させた犯人グループは、1984年3月18日21時頃、ついに江崎勝久社長宅への侵入を開始する。

グリコ・森永事件:遺留品が語る犯人の「日常」と「非日常」

犯人グループが現場や経由地に残した数々の遺留品は、沈黙の中に彼らの素顔と戦術を色濃く反映している。そこには、長年の使用によって生活感が染み付いた「私物」と、犯行を完遂するために戦術的に揃えられた「新品」が混在していた。本章では、これら物証が描く対照的な足跡から、犯人グループの隠された実像を炙り出す。

犯人グループが犯行以前から所持・所有していた主な遺留品

以下の図表は、江崎グリコ社長誘拐事件および一連の事件において、犯人グループが決行以前から所持・所有していたと推測される主な遺留品を整理したものである。

犯人グループが「犯行以前」から所持、所有していた遺留品

これらの遺留品の中でも、特に愛知県豊田市内の業者が製造した「使い古された速達印」の存在は、犯人像を絞り込む上で極めて重要な意味を持つ。その印面の摩耗状況から、犯人グループ(とりわけ脅迫状の作成担当者)が、これを作業用に調達したのではなく、日常生活において長期間にわたり常用し、消耗させていた実態が強く示唆されるためである。

犯行時に使用された遺留品:「現地調達」の足跡

一方、以下の図表にまとめる遺留品は、「江崎グリコ社長誘拐事件」の決行に際し、犯人グループが誘拐および監禁を完遂するためだけに新調した物品群である。

「江崎グリコ社長誘拐事件」の犯行時に使用された遺留品

特筆すべきは、これら一連の物品が大阪府枚方市内の店舗において集中的に購入されている点である。購入総額は約8000円という比較的少額なものであったが、その内訳は犯行の各工程に必要不可欠なものばかりであった。

長年愛用された形跡のある「使い古された速達印」とは対照的に、これらの物品は犯行直前に「現地調達」された形跡が強く、グループが標的近辺の土地勘を有していたこと、あるいは捜査の攪乱を狙って特定の地域で資材を一括調達したことを如実に物語っている。

総括:見え隠れする真の動機とその正体

「かい人21面相」を名乗るグループは、長きにわたる歳月と相応の資金を投じ、極めて緻密にこの事件を構築してきた。その周到な足跡を俯瞰すれば、日々の困窮に突き動かされた者たちによる突発的、あるいは刹那的な犯行とは考え難い。

本事件の深層には、「金銭」という表層的な目的を超えた別の動機が通底しているのではないか。ある者はそこに強烈な「怨恨」の情念を見出し、ある者は「株価操作」という経済的攪乱の企図を指摘する。

しかし、犯罪の動機が複合的であることを差し引いても、それら既成の枠組みだけでは説明しきれない、不気味な「なにか」が澱のように横たわっているのを感じざるを得ない。

果たして、日本中を翻弄した「かい人21面相」の正体とは、いかなる者たちであったのか。次回は、彼らの実像とその組織性に焦点を当て、その深層を考察する。

(4「目撃された者たち」につづく)


◆参考資料
NHKニュース『グリコ・森永事件タイプ文字盤を買った男都内電話番号を連絡先に』1986年3月13日付
産経新聞『グリコ・森永事件 最後に「北」が残った江崎社長に恨みを持つ工作員』1997年7月4日付
北海道新聞『グリコ・森永・朝日新聞襲撃脅迫状タイプは同機種捜査当局新事実つかむ』1992年8月12日付
岩瀬達哉『キツネ目グリコ森永事件全真相』2021年3月
NHKスペシャル取材班『未解決事件グリコ・森永事件捜査員300人の証言』2012年5月


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投稿者プロフィール

Jean-Baptiste Roquentinは、Albert Camusの『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartreの『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場する主人公の名を組み合わせたペンネームです。メディア業界での豊富な経験を基盤に、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルチャーなど多岐にわたる分野を横断的に分析しています。特に、未解決事件や各種事件の考察・分析に注力し、国内外の時事問題や社会動向を独立した視点から批判的かつ客観的に考察しています。情報の精査と検証を重視し、多様な人脈と経験を活かして幅広い情報源をもとに独自の調査・分析を行っています。また、小さな法人を経営しながら、社会的な問題解決を目的とするNPO法人の活動にも関与し、調査・研究・情報発信を通じて公共的な課題に取り組んでいます。本メディア『Clairvoyant Report』では、経験・専門性・権威性・信頼性(E-E-A-T)を重視し、確かな情報と独自の視点で社会の本質を深く掘り下げることを目的としています。

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