グリコ・森永事件 検証-2『昭和53年テープの男』

グリコ・森永事件2

グリコ・森永事件「昭和53年テープの男」

前回の(『事件は滋賀県から始まり滋賀県で終わった』)で記したとおり、「警察庁広域重要指定114号事件(「グリコ・森永事件」)」に「昭和53年テープの男」が関係していたと仮定した場合、「昭和53年テープ」の送り主は、「滋賀県の琵琶湖東岸地域を走る近江鉄道の電車音」の入る地域に土地鑑を持つ、当時50歳代から70歳代の関西弁の日本語を話す男性だと断定できる。

動画から警察が公開した『昭和53年テープの男』と脅迫電話の『女(児)』『男児』の声が聞けます。グリコ・森永事件 グリコ・森永事件『昭和53年テープの男』『女(児)』『男児』の声 Clairvoyant report channel

グリコ・森永事件 昭和53年テープ

今回の記事では、この「昭和53年テープの男」に焦点を当ててみたいと思う。 前回でも記したとおり、公開された「昭和53年テープ」は、「(事件から)十五年前の昭和五十三年八月、当時大阪豊中市に住んでいた江崎グリコの役員の自宅に、大阪天王寺局の消印付きの封筒に入れられて郵送され ※NHKニュース 1993.12.25」、「テープはおよそ一時間の長さですが、きょう(1993(平成5)年12月25日)はこのうち一分半に編集されたものが公開されました。※NHKニュース 1993.12.25」ものであり、現在も確認可能な「送り主=昭和53年テープの男」の自己紹介の内容は以下のとおりである。

我々は人のオシェワ(お世話)をさしてもらって得をされた方から金額の一割か一割五分の謝礼をもらって生計をたてております。

また、「昭和53年テープ」に関する過去の報道から以下の内容も確認された。

<報道>

[真相]グリコ・森永事件/中 古オーバー、脅迫テープ くすぶり続けたグリコ原点説

中国東北部(旧満州)の奉天(現瀋陽市)と東京、大阪に戦前、江崎グリコの全寮制青年学校ができた。実習社員らはここで商業簿記、一般教養、軍事教練を学んだ。一時期、ラシャ地のダブルのオーバーの支給を受けていた。オーバーの色は、東京は国防色、大阪は紺、奉天は黒に分けられていたという。捜査本部がこの事実を知ったのは、事件から数年後だ。古オーバーが再び注目された。(中略)遺留品のオーバーの捜査は、さらに続く。左えり裏側についている「名刺入れ」。開口部(縦に長さ10センチ)の上下のステッチが三角形で、開口部の片側に幅を持たせて縫いつける「戻り」の手法を用いるなど特殊な縫製方法だったことが分かった。そして、金沢市の仕立て職人が戦後も同様のステッチをしていたという情報にたどりつくには、さらに数年を要した(中略)■一致したシナリオ「私は昭和22年に復員してからある会をつくりまして、会長を務めておるものでございます」93年12月、捜査本部はこんな言葉で始まるテープを公開した。オリジナルテープを1分間に再編集したものだ。テープは78年8月17日、江崎グリコ役員宅に郵送された。江崎グリコに1億7500万円を要求していた。当時、恐喝未遂事件として捜査されたが、送りつけた人物は不明のまま。それが再びクローズアップされたのは、未公開部分を含め約1時間にわたる中身は、グリコ・森永事件そのものだったからだ。「高野山の宿坊で過激派から聞いた」として、江崎グリコの役員を拉致▽同社施設に放火▽グリコ製品に毒物を入れて全国のスーパーにばらまく--などのシナリオを実行して、グリコから3億円を脅し取る計画があり、「1億7500万円に引き下げさせたので応じてやってほしい」という内容だった。捜査本部は、グリコ ・森永事件と同一犯による前兆事件と断定、テープを徹底的に調べた。声の分析から、50~70歳の男性で、方言やアクセントから奈良県在住者か出身者の可能性が高いことが分かった。捜査本部は「高野山」にも注目する。

毎日新聞2000.01.21 

確認された報道内容など(ネットの個人ブログなども含む)から推察される「昭和53年テープの男」の人物像(属性など)は以下のとおりである。

『昭和53年テープの男』の人物像 クリックすると大きな画像になります

なお、過去の報道記事などからの裏取りは出来なかったが、公開された「昭和53年テープ」には以下の内容もあったとのブログ記事などがネット上に散見される。

ただし、以下の内容は「2ちゃんねる」の書き込みをまとめた記事だと思われるため真偽不明の情報とした。 引用:(【グリコ森永事件】53年テープのフル音源はどこに 「東京暗黒街の散歩者」氏の2020年6月7日 note記事 リンク切:https://note.com/fuck0ff/n/ne9937cbdc751)

創業者、江崎利一は高野山に「江崎グリコ株式会社墓所」を建て毎年七月高野山にこもることにしていた。

「・・・私は高血圧と心臓病を患っておりまして・・・」

「私は先日、高野山にお参りしました。深夜、大師の御廟の前で、般若心経を唱えるのが、私のやり方です・・」

「高野山の宿坊で過激派の計画を聞いた」

「過激派がグリコから三億円を脅し取ろうとしている。私が彼らに交渉して、一億七千五百万円にまけさせるので、応じてほしい」

「私は昭和二十二年に復員してから、ある会を作りまして、会長を務めている者でございます。・・我々は、人のお世話をさしてもらって、得された方から、金額の一割か一割五分の謝礼をもらって生計を立てております・・」

「八月一日が父の命日」

「奈良県のY元代議士と知り合い」 「グリコ乳業が昭和四十年に倒産したヤシマ乳業を買収したため、ヤシマ乳業に出入りしていた取引業者が多数、辞めさせられた・・」

グリコ・森永事件 革命家と工作員が暗躍した時代

「昭和53年テープの男」は、大正から昭和元年頃、奈良県内で生まれ育ち(奈良県出身の両親などに育てられた中国大陸、朝鮮半島生まれ人物の可能性もある。)、昭和22(1947年)に復員した。引き揚げ場所は不明だが、昭和20(1945)年10月7日から昭和33(1958)年までの13年間に約66万人の引揚者や復員兵を迎え入れた京都府にある「舞鶴港」の可能性が高いかもしれない。

その後、「昭和53年テープの男」は、石川県金沢市の某店でオーバーを修繕し、「人のオシェワ(お世話)をさしてもらって得をされた方から金額の一割か一割五分の謝礼」を貰う団体、組織を設立または入会、就職などしたと思料される。

また、前述の真偽不明の情報には「旧、日本社会党系代議士」との関係も指摘され、同代議士は奈良県出身の同和系の団体とも関係する人物だともいわれており、「奈良県」は前述の「昭和53年テープの男」の方言から推測される出身地(長期居住地域)に重なっている。

大正から昭和の激動の時代を生き抜いた「昭和53年テープの男」の自己紹介に嘘がないと仮定するならば、彼の周囲または彼自身が過激派(「高野山の宿坊で過激派の計画を聞いた」)に近いとも推察される。(高野山の宿坊で過激派の計画を『偶然』聞いたとは考え難いため、過激派との何らかの関りがあった可能性が高いと推察される)

「昭和53年テープの男」は「黄巾族」を念頭に置きながら数々の犯罪行為を自己正当化したのかもしれない。それは、「グリコ・森永事件」で使われた数々の脅迫文に漂う「義賊」的な雰囲気からも感じられる。(脅迫文からは、指示が細かく、時には気遣いもあり、人を使うことに慣れている。パートやアルバイトなどを使いこなす中小企業の社長や商店主などの印象も受ける。また、1984(昭和59)年6月2日の「寝屋川アベック襲撃事件」の際の過去の報道などによれば、誘拐・監禁などの被害者女性には暴行、脅迫などの危害は加えおらず、解放時に交通費名目と思われる2,000円の現金を与えている)

グリコ・森永事件 昭和53年テープ 黄巾族 時代背景

ここまで、犯人グループの一員または首謀者などと推察される「昭和53年テープの男」の人物像や属性を整理してきたが、つぎは昭和53(1978)年はどのような年(時代)だったのか、を昭和53年の警察白書から確認していこう。

以下は、着眼した同白書「第8章 公安の維持」の目次である。

昭和53年警察白書 公安の維持 クリックすると大きな画像になります

同白書「第8章 公安の維持」によると、当時の極左暴力集団(「革命」「闘争」を目的とする過激派)の“総結集勢力は、昭和49年以来約3万5,000人(横ばいのまま推移)」、「しかし、こうしたなかで極左暴力集団は、組織全体の非公然化、軍事化を図り、「テロ」、「ゲリラ」への指向を一層強めた。”と、ある。また、「イ・内ゲバの実態と警察の対応」の項目では、“犯行の手口をみると、専門の調査隊が、襲撃対象者の動静や通勤通学の状況等について、尾行、張り込み、偽電話、資料の窃取、電話や警察無線の盗聴等あらゆる方法を用いて周到綿密な事前調査を行い、これに基づいて訓練された少数精鋭の実行部隊が、相手方の出勤途中や帰宅時、あるいは就寝中等をねらって襲撃している。また、犯行に際しては、盗んだ車両等に巧妙に偽造したナンバープレートを取り付けて偽装したり、警察への通報を遅らせるため、犯行直前に電話線を切断するなど、悪質な方法を用いている。”と述べており、「グリコ・森永事件」の犯行手口(尾行、張り込み、偽電話、資料の窃取、電話や警察無線の盗聴等および犯行に際しては、盗んだ車両等に巧妙に偽造したナンバープレートを取り付けて偽装)との類似点が伺える。

さらに、「3 多様化する大衆行動」の項目では、「成田闘争」「狭山(事件に関係する)闘争」「公害闘争」「反戦・平和運動、基地闘争」について述べられ、「4 厳しい経済情勢下の労働運動」の項目では、“昭和52年の春闘は、倒産が史上最高を記録する厳しい経済情勢と参議院選挙絡みの政治情勢の下で行われた。”などと記されており、昭和53(1978)年前後を含む昭和50年代は、革命、闘争の時代だったともいえる。

また、「6 スパイ活動等外国人による不法事案」には、次のように記されている。

我が国における諸外国のスパイ活動や各種の非公然工作活動は、我が国の国際的地位の向上とともにますます活発化してきている。スパイ活動を展開する工作員は、外交官、特派員等の合法的な身分を隠れみのに、時には日本人になりすますなどその身分を隠し、我が国の政治、経済、防衛等各般にわたる調査活動や秘密情報の収集を行い、あるいは我が国を活動の場として第三国について同様のスパイ活動や敵対国の弱体化を企図した謀略活動を行っている。取り分け北朝鮮は、我が国が韓国に隣接し、かつ、約65万人に及ぶ在日朝鮮人が居住していることなどを利用して、スパイを不法潜入させ、日本や韓国に対するスパイ活動を広範に行っている。平和国日本でこうした武器なき戦いが展開され、国益が害されているにもかかわらず、我が国にはスパイ活動を直接取り締まる法規がないことに加えて、その手段方法が巧妙化しているため、摘発されてその実態が明らかにされるスパイ活動は氷山の一角にすぎない。一方、緊張が続く朝鮮半島の情勢は、在日朝鮮人の活動に影響を与え、韓国系と北朝鮮系との団体相互間における対立抗争事案が多発し、治安上注目された。

(1)申栄萬事件

昭和52年4月6日、警視庁は、北朝鮮スパイ申栄萬(52)を外国人登録法違反(無登録)で逮捕し、更に、申の活動を助けた補助者5人を犯人蔵匿等で逮捕するとともに無線機、乱数表、暗号表等多数の物件を押収した。申らの取調べの結果、北朝鮮のスパイ活動の実態が明らかになった。

申は、昭和14年から4年間我が国に滞在し、この間、東京で新聞配達や牛乳配達をしながら中学に通っていたが、2年の時満州に渡り、官吏となり、20年春日本陸軍に入隊した。終戦後は北朝鮮に帰郷し、21年秋朝鮮労働党に入党、翌年人民軍に入り、幹部学校を経て中尉に昇進したが、隠していた戦前の経歴が発覚し、24年軍人の身分をはく奪され、以後教員生活に入った。44年高等農業学校の校長をしていた時に労働党中央に召喚され、約3年間にわたるスパイ教育を受けた。スパイ教育としては金日成思想を揺るぎないものにするための政治思想教育をはじめ、スパイに必須の無線機の組立 て、修理方法、アンテナの展張要領、交信訓練を含む無線技術、電信及びラジオ放送による具体的な通信連絡方法、暗号の作成、解読方法、暗号手紙の作成方法、写真技術の教育訓練のほか、射撃、空訓練、岩登り訓練、体力練成のための行進訓練が行われた。更に、日本に潜入し、スパイ活動に従事するための教育として、潜入、上陸訓練、日本及び韓国の政治、経済、社会、軍事等万般にわたる情勢、日本人の生活様式、日本語等の教育及び警察に対する防衛対策、北朝鮮本国との秘密の連絡方 法、北朝鮮への帰還方法等についての教育、指導が徹底して行われた。特に、日本人の生活様式及び日本語に関する教育では、日本で発行されているエチケットの本や、NHKの「新日本紀行」を収録した記録映画が教材に利用されたほか、約20日間にわたるソ連、東ドイツ、フランス等の海外旅行 において、同地滞在の日本人と接触させての実習教育が施された。また、日本警察に対する防衛対策では、職務質問や逮捕時における対応の仕方、尾行点検等についての細かい注意、指導が行われた。なかでも「上陸するときに発見されて警察官に質問を受けるようなときには、無線機、乱数表等の秘密物件等の入ったリュックサックを素早く海に投げ込むこと、警察官の質問には、「私は、朝鮮民主主義人民共和国の水産庁直轄の指導員であるが、風波のため漂流状態で、ようやくここまで来たので助けて下さい。」といえばよい。」等と指導されたという。

申は、以上のようなスパイ教育を受けた後、基本任務として、在日韓国人を工作してこれを韓国に送り込み、韓国の軍事情報を収集すること、副次的任務として日本の自衛隊、防衛産業等に関する情報を収集することを下命された。日本潜入に際して、申は、無線機、乱数表、暗号表、工作資金2万米ドル、邦貨250万円のほか、潜入用装備品として短刀、ピッケル、小型シャベル、背広、ネクタイ、下着、洗面道具、水筒、食糧等を収納したリュックサックを携行し、47年4月25日午後8時頃、北朝鮮元山港から用意された約50トンの高速工作船で出航、翌26日深夜、京都府丹後半島に到着した。工作船は、沖合1キロメートルの海上に停船し、申は、乗組員2人の案内により本船から降ろされたゴムボートで伊根町海岸に上陸した。 

申は、任務遂行の補助者を獲得するため、本国から指定されていた北朝鮮に親族のある在日韓国人数人を次々に訪ね、北朝鮮から持ってきた親族の手紙や写真を見せたり、録音テープで生の声を聴かせて執ように説得し、いわゆる人質戦術によって補助者となることを誓約させた。 次に申は、不正な方法で外国人登録証明書を手に入れ、これを偽造して在日朝鮮人になりすまし市民生活のなかに身を隠し、定期的に送られてくる本国からの暗号放送による指令を受けて活動していたが、任務の遂行が思うに任せず、苦悩の日々を送っていた。その一方では、我が国における社会生 活が長びくにつれ、自由に満ちあふれた我が国の民主主義と祖国の民主主義の違いを肌で感じて、祖国の実情に疑問を抱くようになり、52年4月6日警視庁に自首した。

終戦の1945年から約33年後の昭和53(1978)年は、戦前、戦中、戦後の混乱を生き抜いた者が社会の中心にいた時代であり、高度経済成長の矛盾を肌で感じた者たちの時代でもあり、「革命・闘争の時代」「過激派が勢力を維持する時代。北朝鮮スパイが暗躍する時代」「正義(身勝手な正義だが)を目的とするなら手段が正当化される時代」だったのかもしれない。

そのような時代の空気のなかで「昭和53年テープの男」は「そこ」に居た。 (3「事件前(周到に準備された計画)」につづく)


★引用文献

グリコ森永事件 6年前の脅迫テープを初めて公開 兵庫県警…NHKニュース 1993年12月25日付 

昭和53年版 警察白書 警察庁

★参考文献

・書籍:『闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相 一橋文哉 1996年7月 新潮社』

・映像:『NHKスペシャル 未解決事件File.01 グリコ・森永事件』

そのた、新聞記事、個人ブログ、個人SNSなどを参照しました。


日本の未解決事件を考察


Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste RoquentinはAlbert Camus(1913年11月7日-1960年1月4日)の名作『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartre(1905年6月21日-1980年4月15日)の名作『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場するそれぞれの主人公の名前からです。
Jean-Baptiste には洗礼者ヨハネ、Roquentinには退役軍人の意味があるそうです。
小さな法人の代表。小さなNPO法人の監事。
分析、調査、メディア、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルなど。

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