下山事件考察:時代に翻弄された真相

ブログ記事「下山事件考察:時代に翻弄された真相」イメージ写真D51機関車と記事タイトル

本記事は、GHQ統治時代の国鉄三大ミステリー(未解決・未解明事件)の一つに数えられる「下山事件」について事件当時の新聞・雑誌の報道、捜査資料、捜査担当者身が後に書き表した著書等から、激動の国内・国際・社会情勢(「下山事件」の資料には、「GHQの統治」、「シベリア帰還兵」、「共産主義勢力の台頭」、「人民列車」、「労働組合運動の激化」、「反共戦線」、「革命前夜」、「非常事態宣言用意」、「列車妨害」、「反共立法」、「熱海決議違法」、「反共指令第一号」、「対中共戦」、「反共戦は安全保障の戦い」等の言葉が散見される)に翻弄された「下山事件」とは何だったのか?利用され続けた(る)下山定則氏の「死」の意味等を考察・検証することを目的とする記事である。

注意:本記事内の人名に関する指針――公人(役人、新聞記者、小説家等)は実名で記載し、公人以外の人物(例:目撃者など)は、仮名で記載します。古い報道資料、先行の考察書籍では、公人以外の人物も実名で書かれています。本記事読者が独自考察・検証等を行う際には、本記事参考資料一覧をご覧のうえ各資料をご確認下さい。

また、住所、時間(GHQ統治下の日本は1948から1951年までサマータイムを導入していた)、人物の年齢は事件当時のものです。

下山事件の概要

本記事の事件概要は、下山事件の一次資料である担当捜査員作成の『下山白書(下山事件研究会編『資料・下山事件』みすず書房1969年(収録)』、『ガリ版捜査資料『下山事件その後(七月二十一日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過』足立区立郷土博物館蔵書』及び下山事件の担当捜査官・関口由三氏の著書『真実を追う下山事件捜査官の記録(サンケイ新聞社1970.)』と下山総裁自殺説を主張する毎日新聞社記者・平正一の『生体れき断(毎日学生出版社1964.)』を参考とする。

勿論、近代からの大原則である国家権力性悪説から警察や行政等の捜査・発表・資料を鵜呑みにすることの危うさを充分に認識しているが、担当捜査官関口由三氏の著書『真実を追う下山事件捜査官の記録』が発する圧倒的な熱量(関係者の実名と住所が記されているため第三者による検証が可能にする。また、関口氏自身も住所を公開している)に第一級の一次資料としての価値を感じる。

国家権力を盲信することは危険だ。特に下山事件はGHQ統治下という特殊な社会情勢のなか発生した。だが、20世紀に起きた多くの悲劇を知る我々は、一つの思想的価値基準(国家権力性悪説)を絶対視することの危険性も充分に知っている。

下山総裁の7月5日の行動(自宅から三越まで)

GHQの統治下の1949年(昭和24)年7月5日午前8時20分頃、日本国有鉄道(以下、国鉄)の初代総裁下山定則氏(47歳)は、東京都大田区上池上に所在した同人宅を出て迎えに来た総裁専用車両「ビュイック41年型・黒・登録番号41173」の後部座席に乗車した。

当日の総裁の着衣は、薄ねずみ色(グレー色)の格子の縞の背広(スーツ)上下、緑色の手編みのネクタイ、チョコレート色の短靴、べっ甲の眼鏡を使用し、弁当の入った鞄を所持していた。

昭和23年5月から総裁専属の運転手を務める大西氏(48歳)は、いつものように国鉄本庁(東京都千代田区丸の内)に向かうため、大田区洗足周辺、品川区五反田周辺、御成門(港区芝公園)付近を抜け、丸の内方面へ車を走らせる。

車が日比谷、和田倉橋(千代田区)から東京駅付近に差し掛かったころ、突然、総裁は「買い物をしたいから三越へ行ってくれ」と大西氏に伝える。

1949(昭和24)年7月5日の総裁の奇妙な言動と指示が始まる。この下山総裁の奇妙な言動と指示は、その後の「自殺説/他殺説」双方の推理に影響を与えている。

当日の総裁専用車の走行ルートと所要時間及び総裁と大西氏の車中でのやり取り等を「ガリ版捜査資料『下山事件その後(七月二十一日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過』足立区立郷土博物館蔵書資料」にある大西氏の供述から摘記してみよう。

下山邸(午前8時20分頃発)→(12分)「品川」→(3分)「三田」→(4分)「御成門」(御成門通過、郵便局手前の煙草屋の辺りで、総裁「佐藤さんの所へ寄るのだったが」、大西氏「引返しませうか」、総裁「イヤよろし」)→「田村町1丁目」→「日比谷」→<下山邸より25分>→「東京駅前ロータリー」(総裁「日本橋の三越へ、一寸買物がある」)→「大手町」(停留所を右折間もなく、総裁「10時までに役所(※注「国鉄」)へ行けばよい」)→「丸の内一丁目」(呉服橋へ向けて東京駅ガード通過の頃、総裁「白木屋でも良いから真直ぐやってくれ」)→「日本橋電停間際」(大西氏「未だ開店しませんね、三越に行ってみますか」、総裁「うん」)→<下山邸より29分>→「日本橋交差点」→<下山邸より29分30秒>→「三越本店」(未だ開店せず、帝銀横へ左折、大西氏「役所へ行きますか」、総裁「うん」)→「農林中央金庫」→「ガード手前」(午前8時50分頃…大西氏…、総裁「神田駅へ」)→<下山邸より31分30秒>→「新常磐橋」→「神田駅ガード」→<下山邸より34分>→「神田駅前電停」(此の間総裁は駅をのぞいて居た。此処で総裁「右へ切れ」)→「今川橋」→「室町3丁目」→「新常磐橋」→<下山邸より35分>→「交通公社前」(総裁「三菱(※注「千代田銀行」)へ行け」)→<下山邸より39分30秒>→「千代田銀行」(約25分停車)→「京橋」→「日本橋」(電車通りを行く)→「三愛食品横左折」→<千代田銀行より6分>→「三越本店」(大西氏9時30分頃)

(資料作成者=捜査員)注
1・本省 下山邸間の距離約14km 所要時間25分
2・7月5日の三越本店到着迄の所要時間 70分30秒 従って下山邸出発時刻を8時20分とすれば三越着は9時30分30秒となる
3・大西方(※同人宅のある中央区の国鉄官舎)から三越に総裁が下車する迄の走行距離34km
当日の総裁専用車の走行ルートと所要時間及び総裁と大西氏の車中でのやり取り
※注:本文中の固有名詞(例:「役所」等)にある注釈は本記事作者による

総裁は、9時35分頃、大西氏に「五分くらいだから待っていてくれ」(引用:関口由三『真実を追う下山事件捜査官の記録』P23、サンケイ新聞社1970.)日本橋三越本店(東京都中央区日本橋室町1丁目4-1)と言い残し、手ぶらで同店南口入口から店内に入った。車中には弁当と数点の書類の入った鞄が残されていた。

捜査開始

同日の午前9時を過ぎても総裁は登庁しなかった。同日の総裁には、9時から局長会議、11時からはGHQ訪問の予定があった。

午前11時頃、国鉄副総裁・加賀山氏は斎藤国警(1948年1月1日から1954年6月30日まで存在した「国家地方警察」の略称)長官に総裁不登庁の連絡を入れ、14時頃、国鉄秘書課の者がGHQと警視庁に連絡を入れ、警視庁は正式な捜査依頼を行う。

国鉄総裁の失踪は単なる行方不明事案ではない。国鉄の秘書室長から報告を受けた警視庁は、直ちに殺人・誘拐等の凶悪事件を担当する捜査一課の係員を総裁宅へ捜査員を派遣し、管下73署に総裁専用車の手配、事故の負傷者情報の確認、白バイ隊の動員等を指示・下命する。

当然だが、総裁と国鉄の異変は、国鉄担当の新聞各社の記者にも漏れ伝わり始める。 メディアに漏れ伝わったことによる余計な混乱を避ける目的からだろうか、17時頃から国鉄は「下山総裁失踪」を正式に発表することとなる。

総裁失踪

下山総裁の失踪は、新聞各社が発行した号外やラジオを通し、大々的に発表された。

三越本店で午前9時35分頃から総裁の帰りを約6時間待ち続けていた大西運転手は、17時05分にラジオから流れた総裁失踪のニュースを耳にし、総裁が失踪したことを知り、国鉄に連絡を入れた。

一方、警視庁の担当刑事達は、大西氏への事情聴取を行い、1万5千坪ある三越本店売り場内及び全階(当時の7階建て日本橋三越建物の1階部には「宝町一丁目郵便局」、「日本交通公社」が所在し、4階から6階には、民間企業、団体等が)の探索を始め、総裁の関係者(以前から総裁が懇意にしていた東京都中央区日本橋新川の貸席「成田屋」の女将へは、6日の午前1時頃)や予想立回り先への手配が行われるが、総裁の姿や情報を見つけることは出来なかった。

死因不明・死後轢断

7月6日午前0時16分、上野駅を出発した松戸行き列車の運転手S氏(24歳)が東武線(浅草-日光間)と常磐線が交差するガード下(当時住所表記:東京都足立区五反野南町924さき常磐線上)線路上で轢断死体と思しき「もの」を発見したと綾瀬駅のA助役に伝えた。

下山総裁の遺体は、上記電車の前に同線路を通過した、0時16分田端駅始発のD51615号機関車牽引の869号貨物列車(50両編成の空車:機関区・車掌区「水戸」)に轢断され、下山総裁の轢断死体の上を午前2時15分の貨車までの5本の下り電車が通過した。

捜査により、下山総裁を轢断した列車の事件(事故)現場通過時間は午前0時20分頃と断定された。

現場から発見された下山総裁が使用していたドイツ製ストップウォッチ兼用12型、三針付、白支(ネジ部分)も「長針と短信は零時二十分を指し、秒針は58秒を指していた」(引用:参考、平正一『生体れき断』P26毎日学生出版社1964.)。

下山総裁が轢断死体となったのは、1949年(昭和24)年7月6日午前0時20分だ。このことに異論を挟む余地はないだろう。

下山事件の最初の争点は、下山総裁の轢断死体が、「生体轢断」か「死後轢断」である。

警視庁は、6日午前3時30分頃、国鉄から総裁らしき人物の轢死体が発見されたの報を受けた。

6日の東京は、午前1時頃から雨が降り始め、午前3時頃には激しい雨が降っていた。総裁の轢断死体は、激しいの雨に晒されながら現場に散乱していたといわれる。

総裁の遺体の一部(胴体)は、午前3時20分頃から始まった「西新井署」署員による仮の現場検証の頃まで、線路内にあったが、他の列車の運行に支障を与えるとの判断により、線路に印をつけ線路外に運び出されたという。

総裁の遺体を最初に検案した八十島監察医は、「他殺の疑いなし」の判定を下したが、日本の官僚国鉄総裁の死という重大事案を勘案し、司法解剖が行われることになる。

総裁の遺体が司法解剖のため、東京大学法医学教室に移されたのは、6日の13時頃だといわれる。解剖は6日13時40分から始まり17時12分に終了している。

司法解剖の指揮(立会人)は古畑種基博士が執り、執刀は桑島直樹博士が担当し、助手に中野博士、立会人に警視庁捜査一課関口由三警部補(『真実を追う下山事件捜査官の記録』の著者)、鑑識課巡査部長沢田幸三、西新井署鑑識巡査大場恒二、鈴木康市、東京地検の布施検事と金沢検事、関口元警部補の記憶では、薬学科の秋谷七郎博士、塚元久雄博士も立合ったといわれる(参考:『真実を追う下山事件捜査官の記録』P41)。

そして、桑島博士は解剖終了後に以下を発表した。(引用:『真実を追う下山事件捜査官の記録』P46)

  • 死因不明(窒息死ではない失血死か?)
  • 死後轢かれたものと認む
  • 麻酔薬の有無不明
  • 飲酒は不明
  • 死後の時間不明なるも昨日の晩
  • 血液型A型

つまり、「死因はわらかないが、死後に轢かれた遺体」だとの見解である。

下山事件問題の原点は、「生体轢断」なら自殺と考えられ、「死後轢断(ただし、厳密には即死後の轢断も死後轢断になる)」であるなら他殺後に遺体が現場に置かれたと考えられ、事件発生当時から多くの先人達が様々な仮説、検証、考察、結論(推論)を提示している。

下山事件の争点は以下のとおりだ。

  • 生体轢断か死後轢断か?
  • 生体轢断なら自殺が考えられ、死後轢断なら他殺が考えられる
  • 他殺だとするなら誰が下山総裁を殺したのか?
  • 自殺、他殺に関わらず、下山総裁の死を利用する者がいたのか?
  • 時代により下山総裁の死を利用する者は時代とともに変化したか?

上記の争点の検証、考察の前に事件当時の時代背景、社会情勢等を再確認したいと思う。

時代背景、社会情勢

1945(昭和20)年8月15日、ラジオから玉音放送が流れた。日本は無条件降伏を受け入れたのだ。

戦前、戦中に取締りの対象となっていた共産党員や左翼活動家等の思想犯が釈放され、日本全国で労働組合が結成される。

9月2日から始まったGHQの統治と米国の対日政策及び対共産主義政策は、下山事件が発生した1949(昭和24年)に転換を迎える。

日本経済の自立とインフレ抑制を目的に「ドッジ・ライン(経済9原則)」が実施され、それまで運輸省鉄道総局に属していた国鉄は、同年6月1日に公共企業体「日本国有鉄道」となり、初代総裁に運輸省官僚・下山定則氏が就任する。

合理化を進める国鉄初代総裁に求められた最優先任務は、約9万5000人の人員削減であり、一回目の人員削減は総裁失踪の前日(失踪の前日)かつ米国独立記念日の7月4日に行われ、3万3963人が削減された。

当然ながら日本最大の労働組合員数を誇る「国鉄労組」は、人員削減に抵抗する。特に国鉄労組左派(国鉄労組委員長は、左派の加藤徳太郎氏)は、スト等で抵抗し、ストに反対する右派とも対立関係にあったようだ。

図表は、1949(昭和24)年7月1日から下山事件発生前(7月5日)までの朝日新聞に掲載された国鉄関係、労組関係、社会情勢、政治情勢、国際情勢等に関する主な見出しを「株式会社ユーザーローカル」が提供するAIテキストマイニングを使用し可視化したものである。

1949(昭和24)年7月1日
政府人員整理に着手きょう国鉄に基準通告か/強硬方針で臨む/退職金の政令発表/違法指令に従うな国鉄総裁訓示/非常態勢へ国鉄労組本部/保守新党を検討 吉田、犬飼氏ら会談/警察を不法占拠 共産党員、掲示板撤去に反対 平市署へ七百余押かす/私も殴られた平市署木田署長談 警護に警官六百余/重軽症者十名/市内要所に見張り 地区署にも群衆殺到 大部分は党員/群衆、十一時過ぎ漸く解放/樺太から初の引揚げ
 
1949(昭和24)年7月2日
国鉄整理を発表 今月中に九万五千名 運輸相労組に基準を示す/協力の程度を重視/認定方法は所属長一任/被整理者二年間は優先採用 下山総裁声明/抜打断行せず 加賀山副総裁/違法闘争を指令 国鉄労組 ストと同じ効果をねらう/必要なら非常事態宣言 スト発令者は検挙/治安乱す者とは闘う 赤化した引揚者に卿党の温情要望 首相一問一答
 
1949(昭和24)年7月3日
国鉄折衝打切り 当局きのう労組へ通告/対立とけず 国鉄当局声明/労組の出方注視 治安閣僚会議で対策協議/反共連盟の結成 犬飼総裁きょう提唱/一般退職手当内定 十年未満勤続一年に十八日分/社党・民同動く国鉄再建共闘発足へ
 
1949(昭和24)年7月4日
マ元帥重大声明 アメリカ独立記念日に不敗の反共防壁へ 共産運動の法的是認が問題/民権を奪う共産主義運動/組合の申入れを拒否 国鉄整理、実施段階へ
 
1949(昭和24)年7月5日
第一次分に三万七百 国鉄、整理を通告 残余は中旬から実施/マ元帥声明に即応 政府、きょう反共声明/最悪の事態うぃ検討 下部の動き頼む左派/まず扇動者検挙 最高検の見解表明/平事件 全関係者を検挙 仙台高裁で騒乱罪を適用
各所に列車妨害続く/千七百の引揚者 乗車断わる 京都で労組員の検束から
AIテキストマイニングに使用した主な見出し一覧

下山事件発生当時の緊迫した社会情勢、国鉄と組合の関係性、政治対立等の言葉が並んでいる。

米ソ対立、労使対立、左翼と保守勢力の対立等からの緊迫した情勢のなか、総裁は轢断死体となり発見されたのだ。

下山事件考察「捜査資料ガリ版2③」現場地図
下山事件考察捜査資料ガリ版2③現場地図

争点:自殺か他殺か?

東京大学法医学教室の「死因不明、死後轢断」の見解は、警視庁捜査一課長・堀崎氏と東京地検により発表された。「死後に轢かれた」という言葉は、総裁が第三者により殺害され、死後に現場線路上に遺体が放置され、通過した列車に轢かれたということを連想させる。

不安定で一触即発の社会情勢のなか、国民の多数が総裁の失踪と死に第三者による関与を思い浮かべたのだろう。

7月6日から7月9日迄の報道分析

当時の報道傾向を確認するため、事件発生の1949(昭和24)年7月6日-7月9日間の読売新聞、朝日新聞、毎日新聞の主な「本見出し」、「肩見出し」、「袖見出し」を株式会社ユーザーローカル」が提供するAIテキストマイニングを使用し「下山事件」の報道傾向を可視化した。

図表は、3紙の発生から3日間の報道傾向である。

図表からもわかるとおり、事件発生、発覚後の各紙の見出しには、「他殺」や「不審な自動車」等の言葉が散見される。

<読売新聞>
1949年7月6日
下山国鉄総裁消息を絶つ昨朝三越に入ったまま/行方不明の謎解けず/人と逢う約束もしていない/安否気遣わる運輸相談/判断がつかぬ/車は夕方来た/万一に待機公安委会/下山総裁豪放の反面細かい神経
1949年7月7日
下山国鉄総裁・他殺と断定/犯人の捜査を開始/堀検事正死後轢断と発表/死体常磐線北千住綾瀬区間で発見光藤警部談/昼、夕飯ぬき夕刻まで生存/死因判明せず死体解剖の結果/鈴木副委員長談発表/中闘支部へ黙祷指示/死因の見当つかない/政治的暗殺の犠牲 下山氏側近談/既に数回脅迫 総司令部鉄道課長語る/数日中に犯人判明か/カギは三越地下道警視庁が捜査に3つの重点/殺害後運ぶ?現場に残る裏付け2つ/現場に怪自動車3人の目撃者/加賀山氏の昇格確定的国鉄総裁後任/国家非常事態宣言首相布告準備を完了/政府短期国会を考慮/斎藤国警長官更迭か/閣僚、国鉄幹部の警護を強化/テロを排撃する下山事件を4氏にきく 迷惑するのは民衆田中耕太郎氏談豊島与志雄氏談、高良とみ女子談、新居格氏談/冷徹な暴力をにくむ ゆうべお通夜・故下山氏次男語る/引揚者の歓迎デモは失策徳田書記長談/法を守ろう/民同派の動き漸く活発 新宿検車区は全員が組合脱退/共闘方針決定 全官公拡大委
1949年7月8日
捜査陣新事実をつかむ/暴力の世相と下山総裁の死/轢断現場で1万円札発見/謎ひめる結婚祝いの相手「旧部下」/第1日の捜査結果発表/死因撲殺と認む/毒物検出始まる/尾行車から数人下車三越で有力な聞き込み/若い男女の話声 30分位前に現場付近で聞く/議事堂横で見た事件の朝・車内に総裁と数名の男/秋谷教授談/不穏分子の動静把握を指令
1949年7月9日
斎藤国警長官更迭 政治問題化す/轢断3時間前に絶命 捜査範囲・俄然狭まる/屋内で格闘殴殺解剖鑑定/凶行は現場付近か自動車で死体を運ぶ/三越付近の足取り明確化 堀崎課長談/5人乗の怪自動車 都電浅草橋停留所で目撃/5人の目撃者似た人が旅館でも休憩/砂の血量、靴の泥を鑑定 現場を再検証/当駅では見かけず 五反野駅改札掛談/不吉な前兆ロンドン・タイムズ評/下山氏撲殺確定まで5つの死因を究明 出血点で他殺と見抜いた監察医
<朝日新聞>
1949年7月6日
下山国鉄総裁消息を絶つ登庁の途中三越から/用事は5分ですむといって/堀崎課長談、加賀山副総裁談、吾孫子文書課長談/捜査に協力 鈴木労組副委員長談/下山国鉄総死体発見さる 今暁北千住・綾瀬間線路上で/手掛かりなしユウカイとは思えぬ/予定した用事があったのに/変わった素振りは見えぬ/銀行には寄らぬ?千代田銀古川業務部長談/
1949年7月7日
下山総裁裁れき死 今暁常磐線(綾瀬付近)で死体四散/他殺説が決定的 特別捜査本部設置/最高検で見解公表/深夜の怪自動車/解剖結果即断は出来ぬ/終電車が発見/他殺に4つの根拠/惨たる現場/全官公連絡会議/徹底的に調査 増田官房長官/参院で聴取/大西運転手帰宅/自殺は信じられぬ下山夫人談鉄道にささげた半生/予感があったか下山氏意味ありげな一言/他殺と確信する 島工作局長談/家族死体に対面/鈴木副委員長談/腰を落着けていた自殺なら遺書くらい
作家の推理ワナに掛った?
1949年7月8日
捜査進展 背後関係をつかむ発見した手帳から判明/最高検でも捜査本部/死亡時刻はきょう判る/千代田銀で新事実金庫を開けて去る/三越での行動目撃者がない/労組も調査に協力/手向けの花束/公務?単身秘密の会見 特殊な関係の知人
怪しい自動車の音 私も聞いた
1949年7月9日
下山氏自殺説は消滅/け殺し有力/複雑巧妙な殺人/姿を見た近所の人/捜査線に足どり浮かぶ/死亡は夜9時-10時/解剖結果轢かれたのは死体/見つからぬ眼鏡/よく似た紳士喫茶店香港に2人連れ/現場近くの旅館で休む/地図を書く男/貸金庫には三万円
<毎日新聞>
1949年7月6日
下山国鉄総裁 行方不明に/下山国鉄総裁のれき死体、常磐線北千住・綾瀬間で発見
1949年7月7日
下山総裁轢死体で発見/昨晩常磐線北千住綾瀬間で/他殺説有力死んでから運ぶ/謎秘める下山総裁の死/ノドに刃物の傷/他殺を思わす疑問点/目を覆う現場/腕時計は零時ニ十分をさす/金は下ろさなかった/深夜に自動車の音/大仕事だ身を張る/生前しみじみ洩らす/遺書などない/日に千五百通整理反対投書
1949年7月8日
「下山事件」、「下山総裁」、「国鉄総裁」で検索するが不見当
1949年7月9日
現場一帯を再調査 三越浅草間も/傘を持たない男 しょんぼり線路のわきの電柱に/現場近くで次々目撃者/見つからぬ眼鏡/地下鉄改札へ三越内、下山氏の行動/血液の量で判定 鑑識課死体下の土を検証
AIテキストマイニングに使用した3大紙の主な見出し一覧

事件担当捜査員(刑事)21人の意見

7月7日、東京地検検事5名、坂本・警視庁刑事部長、捜査一課捜査員(刑事)21名、捜査二課・吉武第三係長、捜査第三課課長など4名、鑑識課・塚本課長及び東大法医学教室から古畑種基博士と秋谷七郎博士が参加する捜査会議が開かれた。

東大法医学教室の「死因不明、死後轢断」の見解は、総裁の死の原因が自分の意志による自殺なのか、何らかの事故に巻き込まれたのか、第三者の意志による殺人なのか、の3つの仮説を成り立たせる。

前述のとおり、新聞報道は他殺説を主張している。同会議での捜査一課の熟練刑事21人(後に昭和の名刑事と称された平塚八兵衛も参加)の意見も「他殺説」9人、「他殺8分自殺2分」2人、「他殺6分自殺4分」1人、「自他殺五分五分」3人、「自殺六分他殺4分」2人、「自他殺不明」2人といわれ、「自殺説」を意見する者は2人だけだった(参考:関口由三『真実を追う下山事件捜査官の記録』P54サンケイ新聞社1970.)。

捜査会議の記録から、自殺と他殺の2つの可能性を念頭にした捜査方針が組まれていることがわかる。それは、総裁が失踪した7月5日の目撃情報、総裁の公私の知人関係、国労や共産主義者の思想的背景を持つ人物の事件への関係性の有無等の広範囲に及ぶ捜査である。

国会答弁

他殺説(自殺ではない説)を主張する者のなかには、事件当時の国鉄副総裁・加賀山之雄氏や事件当時の国務大臣・樋貝詮三氏がいる。

樋貝詮三氏は、昭和24年7月7日「第5回国会・衆議院・法務委員会」で共産党公認の衆議院議員(弁護士)梨木作次郎氏からの質問に答え、以下のように答弁している。

樋貝國務大臣 自殺でないというふうに考えております。その点は当時総裁が失踪した前後の状況から考えましても、それから死体発見の状況から考えましても、自殺ではないという終局的な考えを持つております。さらに進んで檢察側でも、本日の新聞で見たところですが、他殺の疑い十分であるということを申しておりますが、これは新聞の報道であります。ただいま政府といたしましては、自殺ではないだろうということを考えておるような次第であります。

昭和24年7月7日「第5回国会・衆議院・法務委員会」

さらに、総裁が他殺であるなら、想定される犯人像は労働組合関係者、共産党関係者ではないのか?という世相を批判する梨木議員の質問と樋貝大臣の答弁も引用しよう。

梨木委員 では最後にもう一点伺います。昨日参議院におきまして、法務委員会並びに地方行政委員会の合同の委員会でありますか、これが開かれ、その際に殖田法務総裁がこの際左右両翼に対して断固たる処置をとるというようなことを言われたということが新聞に報道せられておるのでありますが、左右両翼の左翼と言えば、共産党の別名のように使われておるのでありますが、この下山國鉄総裁の死と何か共産党と結びつけておるような印象を受けるのでありますが、この点について樋貝國務相はどうお考えになつておられるか、見解を伺いたいと思います。

昭和24年7月7日「第5回国会・衆議院・法務委員会」

梨木委員 これは常識の問題といたしまして、從來たしかに下山國鉄総裁の死と共産党と結びつけるような宣傳が事実なされておる。ところが政府も御承知のように、過去の事実をお調べになれば、こういうような——これがあるいは政治的な暗殺の最初の犠牲だというようなことも新聞に出ておるのでありますが、こういうことをやつたのは、極端なる反動的な國家主義者あるいはそういう團体に所属する人々がやつて來たのであり、共産党はかつてこういう暴力的な暗殺などというようなことをやつた事実はない。現にわが党の徳田書記長や、あるいは聽濤君に対してはこれは反共連盟とか、そういうフアシスト的な團体に所属する人々がこういうことをやつておる。この点について政府自身も何か今度の下山國鉄総裁の死と、それから共産党と結びつけて、そうして断固たる処置をとろうというようなことで、これを政治的に利用しようとする点が見受けられるのでありますが、この点は過去の事実に徴してみましても、非常にこういうやり方をされることについては、共産党といたしまして抗議せざるを得ないのでありますが、もう一度この点についてのあなたの御見解を承りたいと思います。

昭和24年7月7日「第5回国会・衆議院・法務委員会」

樋貝國務大臣 政府においても共産党と結びつけたという事実は私はないと思うけれども、しかしそのいずれの政党に属するとを問わずに、今申し上げたように法律を無視した直接行動をとるというならばそれに対しては反撃を加えざるを得ない。これはどの政党に属しておろうとも、ただいま申し上げた通り共産党に所属すると、あるいは自由党に所属するとを問わず、そういう行動に出ることは、それに対しては十分な正当な力をもつて対應するほかはない。それが從來においてどういうふうに、どの党派に属する人が最も多かつたかは存じませんが、それに対しては左翼であろうと右翼であろうと、あるいは中間であろうと、そういうような行動をとります者に対しては、十分な力をもつて臨む、こういうことが法務総裁の意思ではないかと考えております。

昭和24年7月7日「第5回国会・衆議院・法務委員会」

上記の質問と答弁は、総裁の死に第三者が関与しているならば、共産党、共産主義者、組合の中の過激勢力ではないか?という当時の世論を現わしている。

列車に衝突した際の総裁の態勢は?

下山総裁の遺体は、D51-869号機関車に轢断された。下山事件の「謎」の本質は、総裁の轢断死体が生前轢断か、死後轢断かであるが、いずれの説にせよ、総裁(遺体)は列車進行方向のレールに首・頭付近を乗せ、二本の足を片側のレールに乗せたうつぶせ寝の態勢で轢断されたと推認されている。

なお、総裁の身長は約174センチメートル、体重約72.6キログラム、胸囲約93センチメートル、日本のレールの幅は、106.7センチメートルといわれる(参考:『サンデー毎日』P4、「メスは何を語る犯罪を追う法医学の力」1949年7月31日号、毎日新聞社. 下山事件研究会編『資料・下山事件』みすず書房1969.)。

国警茨城県本部鑑識課・近江技官と警視庁鑑識課・岩田警部補が、D51-869号機関車を鑑識したのは、7月6日午前3時49分からだった。

両名は、D51-869号機関車の前部右側排障器が上部から下部にかけ約17度曲がっていること、機関車前部右側給水器排気管や機関車の底部、側部等に血痕。肉塊、毛髪、骨欠等が付着していることを確認する。

写真は参考資料「柏西口第一公園」展示「D51 453」

総裁の(生前、死後に関係なく)身体は、D51-869号の前方から見て右側の右側排障器に巻き込まれ、機関車に牽引される50両の貨車や後続の列車にも轢かれている。

ここで問題なのは、D51-869号機関車の前部右側排障器が上部から下部にかけ約17度曲がっていることは、総裁の身体が最初から寝ている状態で前部右側排障器にぶつかり死亡(即死)し、そのままの状態で巻き込まれ轢断されたことを証明することにはならないことだろう。

では、総裁がD51-869号機関車にどのような態勢でぶつかったのだろうか?「下山事件研究会編『資料・下山事件』P225みすず書房1969.」に、総裁の司法解剖を執刀した桑島直樹博士の「(前略)それから右肩のところにとびだしているのは心臓で、右手が全部肩からとられまして、そのとれたところから心臓がとびだしているのでいるわけであります。(後略)」との証言がある。

総裁の胸部(特に左側)は、非常に強い圧力を受けたのだろう。総裁の遺体が前部右側排障器に巻き込まれたことと勘案するならば、総裁は列車の進行方向左側から線路を横切る瞬間に進行してきた列車に轢かれ即死したのではないのか?等の疑問がわいてくる。

さらに、総裁が線路を横断しようとした瞬間に列車とぶつかったと仮定するならば、飛び込み自殺と事故(飛び込む意志はなかったが結果的に列車とぶつかった)可能性が推察される。

D51-869号機関車は、予定時刻を遅れ出発した。また、前照灯の故障により、通常の100ワットから3ワットに落ちていた。誰かがD51-869号機関車に飛び込んだとしても、気づかなかった可能性が高い。

下山総裁の性格

総裁の死が列車に飛び込んだ自殺または列車と接触した事故と想定した場合、なぜ総裁はそのような事態に陥ったのかが問題となる。事態の動原因と動機の解明が必要となるだろう。

自殺の原因、動機は統計を持ち出すまでもなく複合的であるが、原因・動機の過半数は心身の病気が関係している。

では、総裁の心身の状態はどうだったのだろか?警視庁捜査一課が作成した『下山国鉄総裁捜査報告(下山白書)』に残された知人等の証言によれば、総裁の性格は、「真面目」、「気が小さい」、「細かい物事を気にする」、「責任感が強い」、「人情深い」、「部下の面倒を見る」と評され、「友人はいない」との証言もある。

また、詳細は割愛するが、総裁には過去3回(昭和10年、昭和14年、昭和15年)の入院歴があり、昭和17年の入院時のK医師は「細かい神経質なところがあった」と証言している。

初代総裁に就任した昭和24年6月以降、以前から「睡眠剤(カルモチン)」を処方して貰うため、東京鉄道病院に4回の通院歴があり、6月26日には、「軽度の神経衰弱症」と診断されたとの証言もある。

総裁が三越本店から消えた日の7月5日、14時から17時30分頃、東京都足立区千住末広町内のS旅館で休憩した「総裁と思しき男性」は、同旅館で睡眠を伴う文字通りの休憩をしたようだ。

他殺説に立つのならS旅館で休憩した「総裁と思しき男性」は、「総裁の替え玉」となり自殺説に立つのなら、繰り返しになるが総裁は文字通り「睡眠を伴う休憩」を望んだのだろう。

心労を抱えた者が休憩のためネットカフェ、ラブホテル、ビジネスホテル、サウナ等を利用する――現代でも頻繁に見聞きする光景だ。

自殺説に舵を切る警視庁

前述のとおり、事件当初、警視庁の捜査員他殺説の線が強いと考えていた。だが、捜査が進みにつれ、自殺説に舵を切る。

捜査員が自殺説に舵を切った理由は、「総裁と思しき人物」の目撃情報の収集や他殺説論の根拠となる情報の裏取り(「怪しい車の裏取り」、「反対線路上の血痕の矛盾」、「ロープ小屋内の探索」、「現場周辺での遺体搬入と遺棄実験」等)により、総裁の死に第三者が関わり、総裁を殺害後に線路に置き列車に轢断させた可能性を一つ一つ検証し、それらの情報を潰した結果だろう。

警視庁捜査一課は、それらの情報を『下山国鉄総裁捜査報告(下山白書)』に記し、警視庁は「自殺と断定する」と公表の予定だったといわれるが、下山総裁の死を「自殺」と公表することは出来なかった。

警視庁が総裁の死を自殺と断定することが出来なかった理由については、「下山事件」を利用し、労組や共産主義者の封じ込めに利用することを目論んだ日本政府やGHQからの要請があったともいわれるが、事実は少し違いそうだ。

総裁は、9時35分頃、運転手の大西氏に「五分くらいだから待っていてくれ」と言い残し三越に入った。その後の、総裁(と思しき者)の足取りは目撃情報から推測し、轢断死体となり発見されるまでの空白の時間を埋めるこができるが、厳密にいえば、午前9時30分から午後1時30分までの目撃証言に曖昧さが残っている。

総裁と思しき人物が、轢断死体発見現場の最寄り駅「五反野駅」の改札口駅員H氏(20歳)に目撃された時刻は13時30分である。総裁と思しき男性は、「この辺に旅館はないですか」とH氏に尋ね、H氏は前述の東京都足立区千住末広町内S旅館を紹介したらしい(関口由三『真実を追う下山事件捜査官の記録』P104,サンケイ新聞社1970.)。

午前9時30分から午後1時30分までの目撃証言は、複数(三越店内の複数の目撃情報、同日の10時頃、三越前で露天ライター業学生アルバイトU氏18歳が下山総裁らしき者を目撃したとの証言、11時30分頃、地下鉄「日本橋駅」か「末広町駅」で総裁と思しき者から足を踏まれたと証言する東京都目黒区在住の陰商業N氏43歳の証言)証言が残されているが、目撃された人物が下山総裁と断言することができるのだろうか。 つまり、14時から17時30分頃、東京都足立区千住末広町内のS旅館で休憩した「総裁と思しき男性」を総裁と断定するならば、三越に入った午前9時30分頃から同旅館に来訪した14時頃までのほぼ半日の総裁の行動を特定し総裁だと断言するには、少し物足りなさを感じてしまう(防犯カメラの無い時代なので致し方ないが――)。

総裁替え玉説

他殺説の主張の中心にあるのが、総裁の「替え玉説」である。

総裁は、三越店内またはその近隣の建物内等で何者か等に拉致・誘拐され、何処かに監禁され、殺された。その後、自殺を装うため、遺体を轢断現場「東京都足立区五反野南町924さき常磐線上」に遺棄し、総裁の遺体は通過した列車により死後に轢断された。

総裁を殺害した犯人達(他殺説が正しいのなら非常に大掛かりな犯行だと推察されるため複数犯だろう)は、総裁の死を自殺に見せるため、「替え玉」を用意し、替え玉を三越から地下鉄に乗せ、S旅館に休憩させ、その後も第三者に目撃させるため轢断現場「東京都足立区五反野南町924さき常磐線上」付近を歩かせたと推理するようだ。

だが、「替え玉説」には、大きな穴がある。

前述の通り、総裁失踪の報告を受けた警視庁は、直ちに管下73署に総裁専用車の手配、事故の負傷者情報の確認、白バイ隊の動員等を指示・下命し、17時からは下山総裁の失踪が新聞号外、ラジオ放送で国民に知らされている。

仮にだが、総裁の替え玉を目撃した多くの者達が、警察に通報したのなら総裁の「替え玉」は、どうなったのだろうか?警察官が「替え玉」を目撃し、声を掛けていたら?「替え玉」の目的はたちまち崩壊する。

そう、「替え玉」を使い自殺に見せかける計画の成功は、「運」まかせの側面が強い。

総裁を拉致し、殺害し、自殺に見せかける計画を立てる犯人達ならば、計画の決め手となる部分を「運」に任せるなどしないだろう。 そして、それらの者が諜報活動、工作活動の訓練を受けたプロが作戦立案や実行の中心にいるならば、猶更のことだといえるだろう。

他殺なら誰が犯人か?

前述の通り、総裁の死に第三者が関与しているならば、共産党、共産主義者、組合の中の過激勢力ではないか?というのが当時の世論の中心だ。

事件から約5年後に出版された1954(昭和29)年3月号の左派系雑誌『真相』(真相社)は、下山事件を他殺とする記事「下山事件他殺白書」を掲載している。

しかし、同号最終頁・編集後記には、「旧『真相』が事件発生直後の報道で「自殺説」を主張した」ことを訂正し、事件当時、警察等が他殺説を流し、左翼の陰謀を匂わせていた。労働者が陰謀を企てることはないと確信していたので「自殺説」を主張した等と述べている。

上記は、共産党、共産主義、労働組合を攻撃する側の論調としての他殺説に対抗する左派の自殺説論が、時間の経過に伴いGHQ、日本政府による陰謀による他殺説に変化したことを証明する一例だろう。

時代により変化する犯人像

他殺説は、国鉄労働組合の左派及び共産主義者らの思想的動機による左翼犯人説から、共産主義の脅威と信用失墜等を狙ったGHQ、日本政府、元陸軍中野学校関係者、憲兵関係者、元大陸浪人、著名右翼等の関与する大きな物語へと変化し、近年では、白洲次郎(吉田茂の側近中の側近)の名前まで登場している。

1960(昭和35)年の松本清張『日本の黒い霧』は、米ソ冷戦や60年安保の時代に登場した。朝日新聞記者・矢田喜美雄『謀殺・下山事件』は、あさま山荘事件の1972(昭和47)年に出版された。

時と経過と伴に変化する他殺説の犯人像は、日本社会の象徴の一つなのかもしれない。

まとめ

自殺説、他殺説に関係なく下山定則氏の死は時代に利用された。総裁の死を政治的に利用する者がいる(いた)ことは、誰も否定できないだろう。

他殺説には、共産主義、労働組合を牽制する目的があった。アメリカ追従を批判し、大国アメリカの謀略を主張する目的があった。戦前から続く日本社会の闇を暴こうとする目的があった。GHQ(米国)と統治された日本との関係性を批判する目的があった。そして、自殺説は技術畑の総裁を追い込んだ人員整理、合理化の問題とする目的があった。

一人の死が社会、時代に与える影響の大きさを考えるならば、下山総裁の「死」が、戦後の日本社会に与えた影響は計り知れない。

人々はこれからも、下山総裁の「死」に時代の象徴の意味を与え続けるだろう。だが、個人・下山定則氏の「死」を忘れるような時代・社会は――殺風景で無機質な社会・時代だともいえるだろう。

個人の死の苦しみを忘れる時代は――冷酷な時代だともいえるだろう。


◆参考文献

松本清張『日本の黒い霧』文藝春秋1960年.
矢田喜美雄『謀殺・下山事件』講談社1985.kindle版
下山事件研究会編『資料・下山事件』みすず書房1969.
運輸省編集時刻表1949年2月1日現在 国会図書館蔵書
『サンデー毎日』1949年7月31日号「メスは何を語る犯罪を追う法医学の力」毎日新聞社
『真相』1954年3月号「下山事件他殺白書」真相社
平正一『生体れき断』毎日学生出版社1964.
関口由三『真実を追う下山事件捜査官の記録』サンケイ新聞社1970.
『改造』1950年2月号『下山白書 警視庁下山事件特別捜査本部』足立区立郷土博物館蔵書
『改造』1950年3月号『下山白書 問題の第二部』足立区立郷土博物館蔵書
ガリ版捜査資料『下山事件その後(七月二十一日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過』足立区立郷土博物館蔵書
柴田哲孝『下山事件 最後の証言 完全版』祥伝社 2007.
事件研究所『下山事件の真実自殺説を中心として』Amazon2013.

◆映像
東映『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』熊井啓監督,出演仲代達矢1981.


昭和20年代-30年代の(未解決)事件シリーズ

昭和の(未解決)事件・考察

◆鉄道会社を舞台にした未解決事件・事故


Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste Roquentinは、Albert Camusの『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartreの『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場する主人公の名を組み合わせたペンネームです。メディア業界での豊富な経験を基盤に、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルチャーなど多岐にわたる分野を横断的に分析しています。特に、未解決事件や各種事件の考察・分析に注力し、国内外の時事問題や社会動向を独立した視点から批判的かつ客観的に考察しています。情報の精査と検証を重視し、多様な人脈と経験を活かして幅広い情報源をもとに独自の調査・分析を行っています。また、小さな法人を経営しながら、社会的な問題解決を目的とするNPO法人の活動にも関与し、調査・研究・情報発信を通じて公共的な課題に取り組んでいます。本メディア『Clairvoyant Report』では、経験・専門性・権威性・信頼性(E-E-A-T)を重視し、確かな情報と独自の視点で社会の本質を深く掘り下げることを目的としています。

この著者の最新の記事

関連記事

おすすめ記事

  1. 乗ってはいけないJR福知山線脱線事故の予兆報道は何だったのかオーバーラン忠告記憶の再起動アイキャッチ画像
    記事要約JR福知山線脱線事故(2005年)は107名の命を奪った。直前のオーバーランと「こ…
  2. 映画PERFECT DAYSで描かれているもの~静けさと充足~
    要約映画『PERFECT DAYS』は、渋谷区でトイレ清掃員として働く中年男性・平山の規則…
  3. 西東京市一家4人死亡無理心中事件と練馬区刺殺事件二つの事件が残した問い
    年の瀬の住宅地で、3人の子どもを含む一家4人の命が失われた。 16歳、11歳、9歳―…
  4. 記事映画マイバックページ考察言葉が先行した時代と泣ける男になるまでアイキャッチ画像
    1970年代初頭、日本では「革命」という言葉が、まだ生きているように見えていた。 だ…
  5. 記事失踪した容疑者指名手配被疑者小原勝幸 岩手県川井村17歳少女殺人事件アイキャッチ画像
    要約岩手県川井村で発見された17歳少女・佐藤梢さん遺体。容疑者として浮上した小原勝幸は車内…

AIのJOIの曲など

note:社会問題を中心にしたエッセイ

NOTE

NOTE

未解決事件・冤罪・歴史的事件:一覧

昭和平成令和の未解決事件冤罪歴史的事件

昭和平成令和の未解決事件冤罪歴史的事件

映画考察・解説まとめ|60年代〜現代の名作を年代・ジャンル・テーマ別に一挙紹介

映画考察レビュー記事まとめ年代ジャンルテーマ別アイキャッチ画像

映画考察レビュー記事まとめ年代ジャンルテーマ別アイキャッチ画像

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る