救いと解放
映画『六月の蛇』は、その内容からエロティックさをメインとして語られることが多い作品だ。
確かに、エロティックさは今作にとって欠かせないものであり、物語を構成する重要な要素だ。しかし、今作の本質はエロティックさなどではなく、「救い」と「解放」にあるのではないかと思う。
りん子は夫との関係、そして、自分の現状に閉塞感を感じている。だからこそ、りん子は通常の自分では着ないような服を着て、どぎつい口紅を引いた状態で自慰行為に及んだのだ。これは、あくまでも一時的な自己の解放である。
りん子の夫・重彦は、潔癖症の男性だ。潔癖だからこそ、妻を愛していたとしてもセックスを望むことはほとんどない。彼にとって、セックスは汚れたものだからだ。
潔癖症であることは、頑なであることも表現している。重彦は現状を変えたがらず、妻が重い病に侵されていることを受け止めることができない。妻であるりん子の病気を受け入れるということは、妻の乳房が無くなるということであり、現状が大きく変わることに繋がるからだ。
では、飴口はどうだろう。飴口は自己を解放した立場にある。りん子との対話を経て、病気で死に行く未来を受け入れることができたからだ。未来を受け入れるということは、自分と向き合うことに成功したからこそできることだ。
だからこそ飴口は、りん子の心も体も救いたいと考える。りん子が自分にしてくれたように心を解放してやり、その上で、彼女の体を蝕む病魔も取り除いてやりたいと思ったのだ。もう助からない飴口と違い、りん子には助かる可能性が十分にある。
それを妨げたのが、他ではない重彦だ。そんな重彦の態度に、りん子は治療をあきらめてしまう。あまつさえ、まだ乳房を切除していない「美しい体」を写真に収め、重彦に渡そうと考えてしまう。それは、りん子が飴口と同じように死を受け入れたことを意味する。
だからこそ、飴口は重彦に荒療治を施した。人が死にゆく様を見せ、自身の汚い部分を直視させ、りん子と、そして自分自身を見つめることを強要したのだ。つまり飴口は、りん子と重彦の二人を解放し、救ったことになる。 飴口が命を懸けて達成したもの。それこそが「救い」と「解放」であり、今作の主題と言うべきものではないだろうか。
『六月の蛇』まとめ
一般的に手を出しにくいミニシアター系の映画にも、今作『六月の蛇』のように、良作が紛れ込んでいるものだ。内容は確かに見る人を選ぶものの、一度見て、その作品世界に馴染んでしまえば、幾度も見返すことになる。
塚本晋也監督の作品は、ほとんど全てがそんな作品たちだ。だからこそ、塚本晋也作品を見るきっかけとして、『六月の蛇』をおすすめしたい。今作は、内容も描写も塚本晋也らしくはあるが、他の作品よりマイルドであることも確かだからだ。 冷たい湿度に溢れる『六月の蛇』の世界。ぜひ、一度体験して欲しい。
独自視点の日本映画 考察
女性が主人公の映画
2