沼がある。ジメジメとして、鬱蒼として暗い。人間が住む世界とは、少しばかり違う世界だ。
沼がある。水を豊富に湛えた、生命に満ち溢れた世界だ。
このように、沼は相反する二つの顔を持っている。そして、今回取り上げるのは、そんな沼(湿地帯)の風景を美しく、神秘的に描いた映画『ザリガニの鳴くところ』である。
本作は沼地で生き抜いた女性を主人公としている。そして、そんな主人公の描写は独特で、それでいて魅力的だ。 性別を一括りにして語ることが難しくなってきた昨今だが、今回ばかりは「女性」という観点を中心に、女性である筆者から見た本作を語っていきたいと思う。
映画『ザリガニの鳴くところ』の作品概要
『ザリガニの鳴くところ』は、2022年公開のサスペンス映画である。原作はアメリカの小説家&動物学者であるディーリア・オーウェンズの同名小説で、原作の大ファンであるテイラー・スウィフトが曲を提供している。
本作は女性が原作小説を書き、それが女性支援に積極的な女優&映画プロデューサーであるリース・ウィザースプーンの目に留まり、女性監督がメガホンを取った。まさに、「女性による女性のための」映画なのである。
映画は押しつけがましくない女性らしさに溢れ、その雰囲気は神秘的だ。
さらに、主演を務めるデイジー・エドガー・ジョーンズは動物的な野性味と共に、人間の美しさと繊細さ全身から発している。この2つが組み合わさることで、本作は他にはない空気感を持つ作品となった。
出典:Taylor Swift YouTube “Carolina”
テイラー・スイフトが歌う主題歌「Carolina」も、物語の理解に欠かせない。映画と一緒に、しっかり耳を傾けてほしい。
あらすじ
ノースカロライナの湿地で、裕福な青年・チェイスの遺体が発見された。彼を殺したとして逮捕されたのは、「湿地の娘」と呼ばれ、町中から差別されていた女性・カイアだった。弁護士と話す中で、カイアは自身の半生を振り返っていく。
幼い頃、カイアは家族と共に湿地で暮らしていた。しかし、父親の暴力的なふるまいにより、家族は1人ずつ家を去って行く。その後父親も死に、湿地の家には小さなカイアだけが残されたのだった。
そこからカイアは、湿地で獲ったムール貝を売ることで、ただ1人生きていくことになった。優しい人もいたが、町のほとんどの人は彼女を蔑んでいた。
そんな中で、カイアはテイトという少年と親しくなる。テイトはカイアに文字を教え、やがて2人は恋愛関係となる。
人間と動物の「生き方」の違い/女性が持つ「強さ」
※ネタバレを含むため、読む際には注意してください
映画『ザリガニの鳴くところ』は殺人事件をきっかけとして話が展開していく、サスペンスの構造を持つ作品である。しかし、物語の本質はそこにはない。本作の軸は、主人公・カイアの生き方にあるのである。
カイアという人物を考えてみよう。
カイアは幼い頃から、湿地で1人生き延びてきた。学校には通わず教養はないものの、本にできるだけのクオリティを持つスケッチを描けるなど、観察眼に優れた聡明な女性である。そこには、「沼地の娘」という蔑称から連想させるような、おどろおどろしさなどみじんもない。
また、カイアは美しい女性でもある。物静かな妖精のようでいて、野生動物のようなパワフルな美しさを芯に秘めている。だからこそ、テイトやチェイスが惹かれたのだろう。チェイスは特に、町の女性とは違う魅力を彼女に感じていたはずだ。
カイアの美しさに潜む、動物的な部分。これが、本作の重要な部分であるように思える。
人間に飼いならされず、野生で生き抜く動物は美しい。そして同時に、恐ろしくもある。彼らは皆生きることに必死で、人間側の理屈など通用しないからだ。
例えば、サバンナの真ん中で飢えたライオンと対峙したらどうなるだろう。おそらく、武器も持たない人間はあっという間に食べられてしまう。場合によっては、武器を持っていても敵わないだろう。
人間は人間の枠組みで生きているのに対し、ライオンはライオンの枠組みで生きている。そして、この苛烈さこそがライオンたち野生動物を美しいものにしているのだ。
カイアにも、これと似た部分がある。
カイアは人間たちの町ではなく、他の生命たちが息づく湿地の中で生きてきた。彼女の根本は自然にあるのだ。だからこそ、彼女は体面よりもなによりも「生きること」を重要視する。
物語の冒頭に死体で見つかったチェイスは、どうしようもなく「人間側」にいる。良い家柄に生まれ、見た目にも恵まれ、町の人気者である。町の人々から蔑まれるカイアに惹かれつつも、誰よりも彼女を蔑んでいるのだ。
チェイスの粗暴な一面は、カイアに父親を思い出させた。そして、「生き残るために」チェイスを殺したのである。それは、強い生存本能の現れである。
作中で、カイアが昆虫の、特にメスについて語るシーンがある。捕食のための囮として体を光らせるホタル。交尾の際にオスを食べてしまうカマキリ。これは、人間にとっては残酷に感じる事象である。しかし、カイアはそう思わない。「メスは手強く」、こうした行為は「生きるために必要」なのである。そして、「自然には善悪がない」とも。
これらの言葉は時系列的に考えれば、カイアがチェイスを殺す直前に語られたものだ。観賞中には理解できずとも、見終わった後に思い返してゾクリとしてしまう。
一般的に、女性は男性に比べ非力だ。筋力だけでなく体格で劣ることも多く、「肉体的な頑強さ」は、男性がどうしても上手をいく。しかし女性には、男性とは違う強さを持っているのだ。
その強さを言葉に表すのは難しい。あえて言うならば、「過酷な環境を生き抜く力」であり、「環境に自分を合わせる力」である。「生命力」という言葉もあるが、これとは少し違う様に感じる。
カマキリが交尾の際にオスを食べるのは、目の前に餌があるからとも、栄養補給のためとも言われている。どちらにしても、生きる本能に根差したものだ。そして人間の母親は、出産から育児という過酷な環境を耐え抜くことができる。普通に考えて、激痛を伴う出産後すぐに子供の世話をするなど、「生きる力」が強くなければ耐えられるはずがない。
カイアは見たところ、妖精のような儚い魅力を持つ女性だ。しかし、その芯は強くしなやかで、現在の状況を打開していくことができる。これは正に、先に挙げた女性の「強さ」の表れだ。
カイアがしたことは「殺人」だ。これは決して許されることではない。しかし、カイアにとってはその道が最善だったのである。
「ザリガニが鳴くところ」とは一体どこなのか
最後に、物語のタイトルにもなっている「ザリガニの鳴くところ」について考えていきたい。これは一体どこを指しているのだろうか。
そもそも「ザリガニの鳴くところ」とは、1人父と残されるカイアに対し、兄・ジョディが示した危ない時に行くべき逃げ場である。ジョディはそれを、母から聞いたと語っている。
この項を書くために、ザリガニが鳴くのかどうかを調べてみた。ざっと調べたところ、ザリガニが音を出すことは少なくないものの、「鳴く」訳ではないようだ。当たり前の話である。
ザリガニが鳴かないということは、「ザリガニの鳴くところ」は存在しない場所だと考えることができる。
母親がその言葉をジョディに語った状況ははっきりしていない。しかし、それが「逃げる所」であると明言されている以上、辛い状態にあったことが分かる。事実、彼女は夫の暴力性に悩まされていた。
ザリガニの鳴き声が聞こえるところ。仮にザリガニが鳴くと仮定した場合、それは非常に小さな、耳を澄ましてもなかなか聞こえないようなものだろう。つまり、人々のざわめきが聞こえる町ではない。
湿地は神秘的な場所だ。多くの生命が生まれ、消えていく場所である。そしてザリガニは、そんな湿地の水の中で暮らす生き物だ。彼らが発する音や声を聞くためには、水中に潜らなくてはならない。
水の底。それは、人間が生活できない場所だ。そして、死後の世界をイメージさせる場所でもある。 少し悲しく残酷だが、「ザリガニの鳴くところ」は死者の世界のことを言っているのかもしれない。
まとめ
映画『ザリガニの鳴くところ』について考察してきた。
本作は原作小説の評価が高いためか、映画の評価がふるわない。しかし筆者は、カイアと彼女を取り巻く人々や景色の描写の美しさにのまれ、非常に完成度の高い映画だと感じた。
また、法廷での弁護士の演説には胸を打つものがあり、法廷シーンを長めに取ったのは正解だっただろう。
『ザリガニの鳴くところ(Where the Crawdads Sing)』の原作者のディーリア・オーウェンズは、動物学者だ。ジョージア州で生まれ育った彼女は大学卒業後、1974年にはアフリカに移住し、アフリカの野生生物の研究を多数、発表している。
また、彼女と夫は密猟者への厳しい対応で非難されたこともある。
彼女の人生を想像しながら映画を観る。
筆者はまだ、本作の原作を読めていない。できるだけ早く原作を手に入れ、読んでみるつもりだ。
そうすることで、物語への理解が――深まる気がする。
◆「女性」を描いた小説・映画:考察/解説