1984年、日本社会を揺るがしたグリコ・森永事件の犯人グループは、警察や企業を挑発する一方、ある作家には「ええ男やな」と語り掛けた。相手は『月光仮面』『愛の戦士レインボーマン』の原作者、川内康範である。川内は私財を投じて犯行をやめさせようとし、犯人側はその金を拒みながら、翌年に至るまで繰り返し川内の名を挑戦状に記した。[1][2][3]
犯人グループの名は「かい人21面相」。江戸川乱歩の『怪人二十面相』を、名称だけでなく変装の演出においても意識した名乗りである。怪人二十面相は変装と予告状によって警察や名探偵を翻弄する架空の悪党であり、月光仮面は悪を制しながら殺害を戒める正義の味方として創作された。正反対に見える二者には、覆面、匿名性、自らに課した行動規範、そして人命の扱いをめぐる意外な接点がある。[1][6]
ところが現実の「かい人21面相」は、月光仮面への親近感を示した同じ口で、殺すかどうかは自分たち次第だと語った。さらに、疎開先で飢えたと挑戦状に記し、アフリカへの援助を求め、自らの悪党ぶりを誇った。川内もまた、炭鉱労働、土方、売血という苦しい青春を回想し、犯人側の境遇を理解しようとした。[1][7]
川内が回想する貧困と、犯人側が挑戦状で語った疎開の飢えは、戦後社会に向き合う姿勢を比較する手掛かりとなる。怪盗の名を選んだ現実の犯罪者は、どのような悪党を演じ、どこまでその役柄を信じていたのか。本稿は、命名の問題から戦前・戦後の大衆文化へ遡り、1984~85年の挑戦状と川内自身の回想を読み合わせる。「時代が生んだ表裏」という仮説から、その接点と、越えられなかった一線を考察する。
第一章 「かい人21面相」という名前から始める
グリコ・森永事件の犯人グループは、なぜ「かい人21面相」という名前を選んだのか。犯人側が自らに与えた名称は、その思想や社会に提示しようとした人物像を考える手掛かりとなる。
グリコ・森永事件では、「黄巾賊」「カルロス軍団」という名称も、事件との関連が取り沙汰されてきた。既稿『グリコ・森永事件:かいじん21面相の思想背景を考察』では、こうした名乗りと思想の関係を検討した。
「黄巾賊」は中国後漢末の反乱、「カルロス軍団」は国際的な武装活動を思わせる。これに対して「かい人21面相」は、江戸川乱歩の怪人二十面相の変装像を取り入れた名称である。1984年11月13日18~24時の下谷局消印がある朝日新聞東京本社宛ての挑戦状「全国の すいり ファンの みなさん え」では、「あるときは 警さつかん」など職業や立場を次々に挙げ、最後に「そのしょうたいは かい人21面相」と名乗っている。
複数の身分を列挙して正体を明かすこの形式は、映画『多羅尾伴内』シリーズで知られる「ある時は……、しかしてその実体は……」という決めぜりふとも重なる。ここには、乱歩の怪盗像に加え、昭和の変装活劇に親しまれた名乗りの演出が現れている。さらに犯人側は、乱歩の怪盗が予告状で警察や名探偵との対決を読者に見せたように、新聞社を通じて捜査機関を挑発し、その過程を公衆に知らせた。予告、脅迫、挑発を一つの物語として提示し、読者を観客に変える。「かい人21面相」という名乗りは、自ら演じる役を選ぶ行為でもあった。[2][6][8]
第二章 怪人二十面相――悪党に課された規律
江戸川乱歩の『怪人二十面相』は1936年、雑誌『少年倶楽部』に登場した。怪盗は変装を重ね、美術品などを狙い、予告状を送って明智小五郎と少年探偵団に挑む。標的に警戒させ、その警戒を知略によって破る公開の勝負が物語を動かしている。[6]
二十面相には二つの顔がある。一つは、姿と声を変えて捜査を逃れる犯罪者としての顔。もう一つは、警察や探偵という秩序の側に挑戦し、自らの技量を観客に見せる演者としての顔である。明智が追うからこそ二十面相の変装は見せ場となり、二十面相が仕掛けるからこそ明智の推理が力を得る。
原作『怪人二十面相』の「はしがき」は、二十面相がそれまで人を傷つけたり殺したりしたことはなく、「血がきらい」だと記す。その一方、追い詰められた場合の行動には含みを残している。「魔法使い」では、羽柴壮太郎を玩具の拳銃で脅した二十面相が、逃走の際にそれを投げ返し、「ぼくは人殺しなんてしませんよ」と告げる。そこでは殺傷を避ける態度も、知恵比べの規律を支えている。[6]
変装は人格をいくつにも分け、予告状は犯罪に先立って受け手の想像を動かす。近代社会が一人の人間を一つの身元に結び付けようとするのに対し、二十面相は幾つもの顔を使ってその認識を攪乱する。この特徴は、乱歩文学に見られる変身願望、合理主義への懐疑、遊戯性ともつながる。ロジェ・カイヨワの遊戯論に照らすと、明智との競争、変装、感覚の攪乱は、それぞれ異なる遊びの類型に対応する。[6][9]
二・二六事件の起きた1936年、少年向けの物語に登場したこの怪盗は、力による制圧に頼らず、知恵と演技で社会の秩序や権威を翻弄する人物として造形された。
第三章 月光仮面――正義もまた覆面を被る
1958年に登場した『月光仮面』は、川内康範が原作・脚本・主題歌の作詞に携わった作品である。悪事を阻止する白い覆面の人物が、市民と警察の危機に現れる。明智と対決する二十面相とは立場が異なるが、月光仮面も素顔を明らかにしない。両者は自らの本名で評価されることを求めず、仮面と行為によって社会に認識される。[1]
川内は月光菩薩を着想の一つとし、憎悪と殺害を戒める正義観を語っている。『生涯助ッ人』248~249頁でも、月光仮面を正義そのものと同一視する態度を退け、正義の味方という立場の意味を問い直している。正義を行うという名目が、相手を害する権限を無制限に与えることにはならないという認識がある。[1]
両者とも行動に制限を設けるが、二十面相は遊戯や美意識、月光仮面は慈悲と他者への責任をその根拠とする。
川内の創作は『愛の戦士レインボーマン』(1972年)で別の主題へも及ぶ。主人公ヤマトタケシは私的な目的から修行を始め、戦争に苦しむ人々を知って、得た力を他者のために用いようとする。敵の「死ね死ね団」は、偽札の流通など社会全体の信用を損なう攻撃を企てる。また、首領ミスターKには、戦時中の日本人による加害への復讐という背景があるとする解説もある。[1]
月光仮面が「正義の力をどう制限するか」を問い、レインボーマンが「敵を生んだ歴史をどう受け止めるか」を問うとすれば、川内の作品における悪は単純な排除対象に収まりきらない。1984年、川内が現実の犯人グループに向けて呼び掛けた行為にも、この関心が続いている。
第四章 1984年――正義の味方の作者が悪党に呼び掛ける
川内は1984年、グリコ・森永事件の犯人グループに犯行中止を求め、1億2,000万円の提供を申し出た。『生涯助ッ人』第十三章は、この決断を当事者自身の言葉で回想する。川内は、菓子に毒を入れると予告し、消費者、とりわけ子どもを不安にさらす犯行に強い危機感を抱いていた。[1]
川内が考えたのは、警察の追跡とは別の接触経路だった。新聞・週刊誌の紙面を借りて犯人側へ直接言葉を届け、金銭の提供を通じて殺傷の危険を断とうとする。回想録には、銀行からの借入れも視野に入れて資金を用意し、相手に逃げる余地を与えようとした経緯が記されている。単なる道徳的な説得にとどまらず、現実に行為を変えさせようとする試みだった。[1]
『生涯助ッ人』には、1984年10月28日号などの『週刊読売』を介して犯人側へ語り掛けた経緯も記される。こうして川内が報道機関を通じて呼び掛けると、犯人側も新聞社宛ての挑戦状で応じた。[1]
11月22日――二つの宛先に同じ意思を伝える
1984年11月22日12~18時の京都・伏見局消印を持つ挑戦状には、川内康範本人宛てと、毎日新聞・読売新聞・サンケイ新聞宛ての文書がある。前者は11月25日発見と記録され、後者は11月13日の挑戦状に続く「全国の すいり ファンの みなさん え 2」で始まる。川内本人と公衆に向け、同じ時期に並行して発信された二つの文書である。[2][7]
報道機関宛ての末尾では、犯人側は「月光仮面の 川内はん」を「ええ男」と評し、手紙を送ると述べる。川内本人宛ての手紙では、月光仮面を見た思い出を語り、当時のテレビは安心して見られたと述べ、現代のテレビや社会の変化を批判する。自分たちは子どもをいじめているのかと問い、菓子の売られ方にまで言及している。[2][7]
「わしら こじきや ない」。その言葉によって犯人側は、金を必要とする犯罪者という自己像を拒み、施しを受け取る者ではないと主張した。裕福な者や企業からなら金を取れる、金は自分の力で稼ぐものだという発言も同じ文書にある。恐喝による金銭取得を「稼ぐ」と呼び、援助を拒むことを自尊心として語る論理は、社会的な強者への反抗という筋書きを作っている。この義賊的な自己像は、既稿『グリコ・森永事件脅迫状の深層心理を考察:義賊か、悪党か』でも取り上げた。[2]
この筋書きには、当時の消費社会への批判が組み込まれている。菓子を駄菓子屋で一つずつ買っていた記憶と、スーパーマーケットで大量に買う現在を対照させる。商品を広域に流通させた企業へ脅迫を向けながら、かつての消費文化を懐かしむのである。食品を買う消費者を危険にさらした行為は、子どもを思うという主張と矛盾している。
川内本人宛ての文書は、人生の暗さと悔しさを歌うような詩句で終わる。反社会的な行為を自らの境遇から説明する言葉は、単なる悪の誇示とは異なる調子を持つ。
同月25日8~12時の向日町局消印を持つ兵庫県警察本部長宛ての挑戦状は、翌26日に発見された。犯人側は自分たちが警察を「くんれん」していると称し、現行犯以外では逮捕できないと挑発した。川内に向けた人情の言葉とは対照的に、警察には捜査そのものを嘲弄する姿を見せている。この挑戦状にも、追跡者を物語の登場人物にする怪人二十面相との共通点がある。[2]
12月5日――飢え、人情、殺人の予告が同居する
同年12月5日18~24時の名古屋中央局消印を持つ、読売新聞東京本社宛ての挑戦状は、「手記 週かん読売から 手記かけ ゆわれた」で始まる。12月7日付朝日新聞は、週刊読売編集部宛ての長文挑戦状について、標的企業の選択、捜査への嘲笑、川内への反論が記されていると報じた。[3][7]
犯人側は、川内が自分たちに出すつもりの金をアフリカへ送るよう求め、自分たちも疎開先で空腹に苦しんだと語る。「はらへると みぢめな もんやで」。戦時の飢えとアフリカの困窮を並べ、自分たちを他者の空腹を理解できる者として描いたのである。企業恐喝で得る金と、川内が差し出そうとした金、貧しい人々に渡されるべき金には、それぞれ異なる道徳的な意味を与えている。[3][7]
その一方で、川内に対して楽観し過ぎだと反論し、殺人を行わなかったのは必要がなかったからだという趣旨を述べる。そして「正義の みかたは 月光仮面」「わしらは 悪のナンバー1や」と自らを対置しながら、人情に弱いことを自分たちの欠点だと語る。[3][7]
「悪」を誇りながら「人情」も語る犯人側は、殺人を行わないとの約束を拒んだ。この一点で、川内が説く不殺の倫理とは決定的に隔たっている。
しかも、この挑戦状は報道機関へ送られている。川内への反論は、不特定多数の読者に向けて「人情のある悪党」を演じる言葉でもあった。
川内康範の貧困――相手の言葉を受け取る側の経験
12月5日の挑戦状で語られた飢えは、川内自身の境遇にも通じる。『生涯助ッ人』259頁で川内は、炭鉱の坑夫、土方、売血を経験したつらい青春を述べている。貧困は川内にとって抽象的な社会問題ではなく、身体を使って生活を支えた経験だった。彼はその記憶を踏まえて犯人側の人生を考えていた。[1]
川内は、犯人側の手紙に失望しながらも、相手の真意が十分に伝わっているとは限らないと考え、再び声を届けようとした。犯人側には複数の人間がおり、それぞれ異なる生い立ちがあると想像していた。その内実を知らないまま語り掛け続けたことが、回想の中心にある。[1]
犯人側の疎開経験は挑戦状に記された自己申告であり、書き手の実体験かどうかも、誰の経験なのかも分からない。一方、川内の困窮については、本人の回想録が資料となる。両者の接点は、貧困や戦争をめぐって用いられた言葉にある。
挑戦状の作成者が川内の貧しい青春を知っていたなら、アフリカへの送金要求は、相手の個人史に触れる働きかけでもあったことになる。
第五章 「赦さぬことが赦す」――川内の正義と事件の終息
川内の正義観を「憎むな、殺すな、赦しましょう」の一文だけに収めると、1984年の応酬で何が起きたかを十分に説明できない。川内は犯人側に金を提供してでも犯行を終わらせようとした一方、殺害を示唆する相手の発言には厳しい批判を加えている。『生涯助ッ人』262~266頁では、相手の過去や感情を想像する態度と、その危険な行為を拒絶する態度が並んでいる。[1]
2007年刊『おふくろさんよ 語り継ぎたい日本人のこころ』5頁で、川内は「憎むな、殺すな、真贋糺すべし」という言葉を「赦さぬことが赦す」という逆説と結び付けている。相手を憎まず、生命を奪わず、それでも真偽と善悪を問い、必要なときには行為を認めない。ここに、川内の「正義の味方」が自らの行動を抑制する理由がある。[5]
1985年――好意と非難を繰り返す相手
1985年1月26日に発見された毎日新聞・サンケイ新聞宛ての挑戦状には、再び川内の名が現れる。消印は寝屋川局の1月25日8~12時、サンケイ新聞宛ては同日12~18時と記録される。犯人側は川内に悪く思うと述べながら、「正義の みかたには よわいんや」と語り、アフリカへの送金が行われなかったことを非難して「義理」を持ち出す。[7]
この非難の直接の前提として、前年12月5日消印の挑戦状にあったアフリカへの送金要求がある。11月には自分たちへの金銭提供を拒み、12月には援助先をアフリカに振り向けるよう求め、1月には送金が実行されなかったと主張する。施しを受けないという自尊心は、やがて他者に援助を実行させる義理の要求へ変わった。
この間、1984年12月9日号『週刊読売』には、川内康範「青酸かしやめたのはよかった」が掲載された。[4]
さらに、1985年2月19日8~12時の茨木局消印がある挑戦状では、文章心理学や統計的な筆者推定を専門とする心理学者・安本美典氏に向けたとみられる呼びかけの中で、川内の名が再び現れる。犯人側は、安本美典氏がテレビで川内康範について語るのを聞き、感動したと記している。ただし、該当するテレビ番組は特定できず、安本氏の実際の発言内容は不明である。[7]
こうして、川内康範への言及は約三か月にわたり、異なる宛先と文脈で続いた。好意と非難の双方が、犯人側の自己演出に組み込まれていた。
1985年8月――他者の死を用いた終息宣言
1985年8月12日、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、サンケイ新聞宛ての挑戦状が発見された。消印は摂津局の8月11日8~12時。食品企業への脅迫を終えると表明した、いわゆる終息宣言である。朝日新聞大阪社会部の書籍に収録された年表では、その五日前の8月7日に滋賀県警の山本本部長が焼身自殺したと記録されている。[7]
終息宣言の文面で犯人側は、その死に触れ、山本本部長を男らしいと評したうえで、食品企業への脅迫中止を「香典」に見立てた。同時に、別の警察幹部に対する攻撃的な言葉も記している。死を悼むかのような表現と、他者の死を望む言葉が同じ文書に存在する。[7]
終息宣言は「悪党人生 おもろいで」という言葉で締めくくられる。架空の怪盗が遊戯の規律として殺傷を避けたのに対し、現実の「かい人21面相」は、毒物混入の危険に消費者をさらしながら、自らの犯罪を「面白い」と語った。
現実の事件では捜査責任者が自死し、犯人側はその死を脅迫中止の理由に挙げた。自死が犯行の終息に影響した可能性はあるものの、ほかの事情も考えられ、実際の判断理由は明らかではない。そして「かい人21面相」は、その真意を明かさぬまま、一方的に姿を消した。
第六章 同じ昭和を経験した者たち――表裏という仮説
川内康範は1920年生まれであり、1984年には六十代を迎えていた。一方、挑戦状に記された疎開先の飢えが書き手自身の経験で、1944年に始まった学童集団疎開を指すなら、その人物は川内より12~16歳程度若かったと推定される。世代には十数歳の開きがあっても、戦争、敗戦、戦後復興、経済成長という時代の推移を背景に、両者の言葉を比較できる。[1][7][10]
川内は戦後の繁栄と人間の心のあり方を問い続けた。犯人側はテレビや菓子の流通を引き合いに、かつての暮らしを懐かしむ。両者の言葉には、経済成長によって変わった社会への違和感が通う。ただ、川内は貧困の記憶を他者への働きかけに結び付け、犯人側は飢えの言葉を自らの悪の説明に用いた。[1][2][5]
「正義の味方は月光仮面、悪のナンバー1は自分たち」という対置は、同時代を共有しつつも異なる道を歩んだ川内と犯人側の表裏の関係を考えるうえで重要である。犯人側自身が川内の作品に言及し、その作者に直接返答している。戦後の大衆文化が、現実の犯罪者による自己演出にも取り込まれたのである。
犯人側は、どのような「悪」を演じたのか
これまでの挑戦状に現れた川内康範への敬意、義理人情の強調、そして自らを「悪」と称する言葉から、犯人側が演じた人物像について三つの解釈が考えられる。
第一に、川内への実際の敬意があったとする解釈がある。犯人側が月光仮面の視聴経験を語り、数か月にわたり川内の名を持ち出したことが、その根拠となる。
第二に、義理人情を備えた悪党という役柄を公衆に見せようとしたという解釈がある。施しの拒絶、アフリカへの援助要求、終息宣言での「香典」は、独自の倫理を持つかのような人物像を生む。新聞社宛ての挑戦状という媒体も、この演出を支えた。
第三に、実際の感情と演出が混在していたという解釈がある。月光仮面への親近感も疎開の記述も、挑戦状に載せた時点で読者に向けた言葉となる。体験の真偽だけでは、なぜその言葉を選んだかまでは説明できない。
同じ名義でも発言は一様ではない。文書の作成者が複数いたのか、宛先に応じて論調を変えたのか、時間とともに方針が動いたのか。こうした差異は、実際のグループ像と公衆向けの人物像を分けて考える材料となる。
結語 その名を借りた者が、最後に残したもの
乱歩の怪盗と川内の月光仮面を結ぶのは、匿名の人物が力の使い方を自ら限定するという着想だった。怪盗の行動上の規律と、月光仮面が体現する倫理には、その目的に違いがある。
1984年、架空の怪盗の名と変装の人物像を借りた「かい人21面相」は、月光仮面への親近感を語りながら、不殺の約束は拒んだ。川内は犯人側の境遇に目を向け、殺傷の危険を断つために働きかけた。
川内の回想と犯人側の挑戦状は、戦後社会への違和感という点で接する。そこから選んだ行為は異なり、川内の「赦さぬことが赦す」という言葉には、相手の境遇を理解しながら危険な行為を拒んだ姿勢が凝縮されている。
犯人側は自らの「悪」を語るために、月光仮面という「正義」を繰り返し呼び出した。昭和という時代が生んだ正義の味方と悪党は、互いに相手の姿を見ようとした。
その言葉の往復は、事件の真相を超えて、戦後日本の人間と文化への問いを残した。川内康範の月光仮面とグリコ・森永事件の「かい人21面相」は、昭和史に名前を遺した。
“この世にサヨナラする時は
ひとつでいいから真実を
おぼろおぼろな生きかたの
命の証しに遺したい”
引用:川内康範『生涯助ッ人』序詩「この世に生まれて」[1]
付表 川内康範への言及と事件終息宣言の時系列
消印と発見日を区別し、川内康範への言及と事件終息宣言を時系列で整理した。
| 消印・時期 | 宛先/媒体 | 確認された記述・位置付け |
|---|---|---|
| 1984.11.13 下谷 18~24(朝日宛て) | 新聞4社東京本社宛て | 「あるときは 警さつかん」など複数の身分を列挙し、「そのしょうたいは かい人21面相」と名乗る。 |
| 1984.11.22 伏見 12~18 | 新聞3社宛て | 川内を「ええ男」と評し、手紙を出す旨と金銭拒否を公言。 |
| 1984.11.22 伏見 12~18 | 川内本人宛て 11.25発見 | 月光仮面の思い出、金銭拒否、テレビ・菓子文化への批判。 |
| 1984.11.25 向日町 8~12 | 兵庫県警察本部長宛て 11.26発見 | 捜査を「くんれん」と称し、現行犯以外での逮捕は困難だと挑発。 |
| 1984.12.05 名古屋中央 18~24 | 読売新聞東京本社宛て | アフリカへの送金、疎開先の飢え、不殺の拒絶、「悪のナンバー1」。 |
| 1984.12.09号 | 『週刊読売』掲載 | 川内康範「青酸かしやめたのはよかった」掲載。 |
| 1985.01.25 寝屋川 | 毎日・サンケイ宛て 1.26発見 | 川内への言及。「正義の味方」「義理」、アフリカ送金をめぐる非難。 |
| 1985.02.19 茨木 8~12 | 新聞宛て挑戦状 | 安本美典氏への呼びかけに川内評への言及。テレビ発言は未確認。 |
| 1985.08.11 摂津 8~12 | 新聞4社宛て 8.12発見 | 終息宣言。山本本部長の自死への言及、「香典」、末尾の「悪党人生 おもろいで」。 |
注・参考資料
[1]川内康範『生涯助ッ人――回想録』集英社、1997年5月。 ↩
[2]NHKスペシャル取材班『未解決事件 グリコ・森永事件 捜査員300人の証言』新潮社、2018年。 ↩
[3]朝日新聞「『わしら悪のNo.1や』 森永犯、週刊読売へも挑戦状」1984年12月7日東京夕刊、18頁。 ↩
[4]『週刊読売』1984年12月9日号、川内康範「青酸かしやめたのはよかった」―月光仮面(川内康範)。 ↩
[5]川内康範『おふくろさんよ 語り継ぎたい日本人のこころ』マガジンハウス、2007年12月20日。 ↩
[6]江戸川乱歩『怪人二十面相』、1936年『少年倶楽部』初出。原作「はしがき」「魔法使い」を参照。青空文庫:『怪人二十面相』全文。 ↩
[7]朝日新聞大阪社会部『グリコ・森永事件』新風舎文庫、2004年3月1日。 ↩
[8]東映『多羅尾伴内シリーズ 復讐の七仮面』(1955年)。作品紹介(©東映、Apple TV掲載):作品紹介。 ↩
[9]ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳、講談社学術文庫、1990年4月。講談社書誌。 ↩
[10]国立公文書館「学童疎開促進要綱が決定される」(1944年6月30日閣議決定。国民学校初等科3~6年生を集団疎開の対象とする)。原資料紹介。 ↩

















