映画『ミシシッピー・バーニング』考察:憎悪の生成と対抗暴力の正当化

映画ミシシッピーバーニング考察憎悪の生成と対抗暴力の正当化

――クロに負けちゃおしまいだ――

――黒人を憎んだ親父の本当の敵は貧乏だった――

引用:ルパート・アンダーソンの回想・台詞

1988年公開の映画『ミシシッピー・バーニング』は、1964年に米ミシシッピー州で発生した公民権運動家3人の殺害事件を基底に据え、連邦捜査局(FBI)捜査官と、クー・クラックス・クラン(KKK)を中核とする白人至上主義勢力、ならびにこれと癒着した地域権力との対峙を中心に展開する。作品に顕在化するのは、黒人に対する差別、リンチ、放火、殺人という明白な加害である。本作が提起する論点は、人種差別の不当性を確認するという規範的命題に縮約されない。

作品序盤、アラン・ウォード捜査官は、黒人に対する凄惨なリンチの写真を前に、南部出身のルパート・アンダーソン捜査官へ「一体なぜ、こんな憎しみが?」と問う。これに対し、アンダーソンは幼少期に近隣で暮らしていた黒人モンローと、自身の父親をめぐる記憶を語る。

父親よりも「幸運」であったモンローはラバを購入し、畑を耕し、やがて所有地を拡大していく。ところが、そのラバは何者かによって毒殺される。少年期のアンダーソンは父親の表情から犯人を察知し、父親はそれを見抜かれたことを羞恥するかのように「クロに負けちゃおしまいだ」と口にする。アンダーソンは、その記憶を「黒人を憎んだ親父の本当の敵は貧乏だった」と総括する。

この挿話は、直接的な加害関係を持たない他者に、いかなる心理的・社会的機制を通じて憎悪が形成されるのかという問いを開く。さらに物語後半では、別の問題が次第に顔を覗かせる。KKKによる犯罪的暴力を追うアンダーソン自身が、捜査のために暴力、脅迫、欺罔を含む拷問的手段へ踏み込むためである。

作品概要

映画『ミシシッピー・バーニング』(Mississippi Burning)は1988年に公開された。監督はアラン・パーカー、脚本はクリス・ジェロルモ。南部出身のFBI捜査官ルパート・アンダーソンをジーン・ハックマン、その上司アラン・ウォードをウィレム・デフォーが演じる。フランシス・マクドーマンドは、副保安官ペルの妻を演じている。第61回アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞、助演女優賞を含む7部門で候補となり、ピーター・ビジウが撮影賞を受賞した。

本作が参照する史実は、1964年6月21日、ミシシッピー州ネショバ郡で、公民権運動家ジェームズ・チェイニー、アンドリュー・グッドマン、マイケル・シュワーナーの3人が殺害された事件である。

3人は、KKKによる襲撃と放火を受けたマウント・ザイオン・メソジスト教会の関係者を訪ねた後、ネショバ郡副保安官セシル・プライスに拘束された。プライス自身もKKKに属していた。3人は同日夜に釈放されたが、その後を追ったKKKの構成員らによって拉致され、殺害された。

この事件にFBIが大規模に介入した背景には、当時の南部における公民権問題と、これに対する連邦政府の関与の拡大がある。ジョン・F・ケネディ政権は、州・地方当局による人種隔離や投票権侵害に対し、司法省を通じた連邦レベルの法執行を強化していた。司法長官ロバート・F・ケネディは司法省公民権局を拡充し、ミシシッピー州を含む南部の投票権問題への介入を進めた。その政策は、1963年11月のケネディ暗殺後、リンドン・B・ジョンソン政権にも引き継がれていた。

3人が消息を絶った1964年6月21日当時、司法省の職員はミシシッピー州内で投票権訴訟に従事し、公民権団体COFOとも接触していた。失踪の通報を受けた司法省はFBIに連絡し、翌22日にはロバート・ケネディ司法長官がFBIに捜査の主導を求めた。さらに、地元法執行機関の関係者自身が事件への関与を疑われたため、捜査は州・地方当局から独立して進めざるを得なかった。FBIは同事件を「MIBURN(Mississippi Burning)」と呼称し、大規模な捜査を開始した。

もっとも、本作は史実を再現するドキュメンタリーではない。人物関係、情報提供者、捜査手法、FBIの役割には脚色が施されている。黒人活動家の主体性を後退させ、FBIを物語の中心に据えた構成には、公開当時から批判がある。

あらすじ

1964年、ミシシッピー州の小都市で、公民権運動に参加していた3人の若者が失踪する。捜査のため派遣されたFBIのウォードとアンダーソンは、到着直後から地域社会を覆う沈黙と敵意に直面する。

白人住民の一部はKKKと結びつき、保安官事務所を含む地域権力もまた、人種的序列を維持する秩序の内部に組み込まれている。黒人住民は事情を把握していても、証言に伴う報復を恐れ、法執行機関との接触自体を忌避する。その背景には、長期にわたる暴力と報復の記憶に加え、本来は人間の安全を保障すべき法とその執行主体が、差別的秩序の一部として機能してきた現実がある。

痩身で眼鏡をかけ、端正なスーツに身を包むウォードの外見は、現地の保安官や南部育ちのアンダーソンと鮮明な対照をなす。この差異は外見にとどまらない。肉体性や威圧を伴う「タフな白人男性」が強く意識される南部社会にあって、ウォードは知性、制度、法的手続を体現する異質な存在として映る。現地側が彼を軟弱な外部者として扱う態度も、こうした対照の延長に位置している。

彼は連邦法と組織的捜査を重視し、多数の捜査官を投入することで正面から圧力を加える。これに対し、南部で育ったアンダーソンは、地域社会に固有の言語感覚、虚勢、恐怖、沈黙の規則を熟知している。両者の対立は性格上の差異にとどまらず、連邦政府が掲げる法の普遍性と、南部社会の内部に蓄積された慣習、帰属意識、局地的な権力関係との緊張として描かれる。

序盤、アンダーソンが市長と接触する理髪店には南軍旗が掲げられている。政治的演説の場ではない日常的な地域空間の内部に置かれたその旗は、南北戦争以来の歴史的記憶と人種的秩序が、1964年の現在にも生活世界の一部として残存していることを視覚的に刻印している。

捜査の進展に伴い、黒人住民への暴行や教会への放火が相次ぎ、連邦捜査官の介入それ自体が報復を激化させる契機となる。正規の手続だけでは地域社会の沈黙を破れず、捜査は次第に強圧的な手段を帯びていく。

「本当の敵は貧乏だった」――憎悪の形成過程

ウォードによる「一体なぜ、こんな憎しみが?」という問いに対し、アンダーソンは政治思想や宗教教義を援用しない。彼が返すのは、貧しい白人であった父親と、漸次的に生活条件を改善していった黒人の隣人をめぐる個人的記憶である。

決定的なのは、モンローの生活改善が父親に対する直接的な損失を何ら伴っていない点にある。モンローがラバを所有し、耕作地を拡張しても、父親の財産が減少するわけではない。それにもかかわらず、父親はモンローの上昇を受容できない。

自己より下位に位置するはずの者が、自己を凌駕する経済的成果を獲得する。その事態は、白人である自己と黒人であるモンローとの間に当然存在すると信じていた序列そのものを動揺させる。貧困、生活上の失敗、屈辱によって生じた葛藤は、すでに社会に存在する人種的序列を媒介として外部化され、経済的不満はモンローに対する人種的敵意へと転位する。

アンダーソンは、父親がモンローのラバを毒殺したと悟り、その後モンローは姿を消す。父親にとって、自身の停滞と人種的序列の動揺を象徴していた存在は失われた。しかし、それによって父親自身の生活条件が改善したわけではない。比較の対象そのものを消去しても、自己の所有する資源が増えるわけでも、社会的位置が上昇するわけでもない。それでも、モンローを引き下ろすことによって両者の相対的位置だけは回復したかのように知覚できる。貧困が不変であっても、「自己より下位の者が存在する」という序列感覚は取り戻される。

ここに、この挿話の非合理性と同時に、その論理がある。アンダーソンが「黒人を憎んだ親父の本当の敵は貧乏だった」と語るとき、その言葉が射抜くのは、貧困そのものではなく、本来別の場所にある不満が、あらかじめ下位に置かれた他者へと向け直される転位の構造である。

映画内のKKKが、黒人のみならずユダヤ人や共産主義者を敵として名指す点も、同一の構造的運動の内部に位置する。各集団が同一の理由によって憎悪されているわけではない。不安、敗北感、屈辱、既存秩序の動揺を外部へ転嫁する対象が必要とされ、その対象には一定の交換可能性が存在する。憎悪の対象は黒人だけに閉じず、社会と時代が異なれば、別の集団が同じ場所に置かれ得る。

正義による暴力――アンダーソンの越境

映画『ミシシッピー・バーニング』は、もう一つの危うい問いを隠し持っている。アンダーソンの私刑すれすれの捜査は加害者たちを追い詰め、スクリーンを見つめる我々に暗い懲罰的カタルシスを与える。ここで物語は、加害者側における「憎悪の生成」から、さらに苛烈な倫理的領域へ踏み込んでいく。憎悪に基づく加害を拒絶する者が、それを食い止めるために、自らどこまで強制と威圧に手を染めることが許されるのか。

ここに、本作が内包する規範的逆説が現れる。憎悪に基づく暴力を断罪する倫理は、同時に「いかなる条件の下であれば、大義を掲げる暴力は正当化され得るのか」という別の問題を呼び込む。無辜の人間を守り、新たな犠牲を阻止することは、殺人犯やその共犯者を恐怖によって屈服させる根拠となり得るのか。加害の所在が明白であるとき、法的手続を迂回する強制はどこまで許容されるのか。法的根拠と適正手続を欠く強制は、どの地点から私刑(リンチ)へ接近するのか。

KKKによる凄惨なリンチと、FBIによる法的手続を逸脱した強圧的捜査。両者の間には、他者の意思を圧倒し、肉体的・心理的恐怖によって屈服させるという形式上の共通性が横たわる。一方は人種的支配秩序の維持を企図し、他方は殺人事件の解明と新たな犠牲の阻止を目指す。これほど隔たった意図は、手段に宿る暴力性をどこまで浄化し得るのだろうか。

この倫理的軋轢は、ウォード捜査官の変化を通じてさらに深まる。法と手続を重んじていた彼は当初、アンダーソンの現場的な方法とは一定の距離を保っていた。しかし、南部社会に沈殿する沈黙の規則を前に正規の捜査は行き詰まり、その間にも黒人住民への暴行と報復は続く。そうした現実に直面したウォードは、やがてアンダーソンの方法を黙認するようになる。

結び――境界線をどこに引くのか

アンダーソンは正しかったのか。ウォードの黙認はどこまで許されるのか。恐怖によって他者の意思を屈服させる行為は、目的が変われば別の意味を帯びるのか。

人種対立や差別は、歴史のなかで形成された政治、宗教、規範だけに由来する問題なのか。そこには、貧困や嫉妬、敗北感、自己の位置を確かめようとする欲望もまた潜んでいるのではないか。人間が幸福を追求するとき、その幸福には、他者の不幸という毒の果実が必要なのか。

1960年代の米国社会は、自由と権利を掲げる国家の内部に、人種的序列、地域権力、宗教的規範、反共主義、貧困と格差を抱えていた。連邦政府が公民権の保障へ踏み込み始める一方、南部の一部では、それまで当然視されてきた秩序が崩れようとしていた。『ミシシッピー・バーニング』が描く憎悪は、その歴史的な亀裂から燃え上がる。

しかし、他者を下位に置くことで自己の位置を確かめようとする感情も、正義を掲げる者が目的のために強制へ近づいていく危うさも、1960年代の米国だけに封じ込めることはできない。

時代が変われば、憎悪を向けられる相手も、正義を名乗る主体も変わる。それでも、人間がその境界をどこに引くのかという問いは残り続ける。

参考資料

事件・FBI捜査

  1. Federal Bureau of Investigation, “Mississippi Burning”
    1964年6月21日の3人の拘束・釈放・失踪、FBI介入、MIBURNの名称、大規模捜査、遺体発見までの経過を確認するための基本資料。
  2. U.S. Department of Justice, Civil Rights Division, “Michael Schwerner – James Chaney – Andrew Goodman”
    ジェームズ・チェイニー、アンドリュー・グッドマン、マイケル・シュワーナー殺害事件について、司法省・FBIによる捜査、地元法執行機関の関与、証言・捜査上の障害を整理した公的記録。
  3. U.S. Department of Justice, Civil Rights Division, “Trial Transcripts in the Case United States v. Price, et al. (also known as the ‘Mississippi Burning’ Incident), 1967”
    ネショバ郡副保安官セシル・プライスらをめぐる連邦刑事裁判の記録。

公民権運動と連邦政府

  1. John F. Kennedy Presidential Library and Museum, “Civil rights: Mississippi: 1963: January-August”
    ロバート・F・ケネディ司法長官時代の司法省とミシシッピー州における公民権問題との関係を確認するための史料群。
  2. National Archives, “Civil Rights Act (1964)”
    ケネディ政権による公民権立法の提起から、ジョンソン政権下で成立した1964年公民権法までの歴史的背景を確認する資料。
  3. Lyndon Baines Johnson Presidential Library, “Tragedy and Triumph: The Summer of 1964”
    1964年の公民権法成立過程、Freedom Summer、チェイニー、グッドマン、シュワーナー失踪事件を同時代の政治状況のなかに位置づける資料。

作品情報

  1. Academy of Motion Picture Arts and Sciences, “The 61st Academy Awards | 1989”
    『ミシシッピー・バーニング』の7部門ノミネートおよびピーター・ビジウの撮影賞受賞を確認する資料。

映画と史実をめぐる批評

  1. American Historical Association, “Mississippi Burning Scorches Historians,” Perspectives on History, 1989.
    映画公開直後に生じた史実との乖離、FBIの描写、映画による歴史表象をめぐる論争を扱う。
  2. Kristen Hoerl, “Burning Mississippi into Memory? Cinematic Amnesia as a Resource for Remembering Civil Rights,” Critical Studies in Media Communication, Vol. 26, No. 1, 2009, pp. 54–79.
    黒人公民権活動家の主体性が後退し、FBIが物語の中心に配置された点を含め、『ミシシッピー・バーニング』が公民権運動の記憶をいかに再構成したかを論じる。

公式映像資料(YouTube)

本記事で取り上げた作品の公式映像資料。本稿の論点を映像として補助的に参照されたい。

文章だけでは伝わらない空気を、映像として確認するための資料として掲載する。

🎥参考映像(出典:Amazon MGM Studios)
MISSISSIPPI BURNING (1988) | Official Trailer


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投稿者プロフィール

Jean-Baptiste Roquentinは、Albert Camusの『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartreの『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場する主人公の名を組み合わせたペンネームです。メディア業界での豊富な経験を基盤に、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルチャーなど多岐にわたる分野を横断的に分析しています。特に、未解決事件や各種事件の考察・分析に注力し、国内外の時事問題や社会動向を独立した視点から批判的かつ客観的に考察しています。情報の精査と検証を重視し、多様な人脈と経験を活かして幅広い情報源をもとに独自の調査・分析を行っています。また、小さな法人を経営しながら、社会的な問題解決を目的とするNPO法人の活動にも関与し、調査・研究・情報発信を通じて公共的な課題に取り組んでいます。本メディア『Clairvoyant Report』では、経験・専門性・権威性・信頼性(E-E-A-T)を重視し、確かな情報と独自の視点で社会の本質を深く掘り下げることを目的としています。

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