
要約
岩手県川井村で発見された17歳少女・佐藤梢さん遺体。容疑者として浮上した小原勝幸は車内から血痕が見つかる一方、鵜の巣断崖での自殺示唆後に失踪した。恐喝事件の被害届、G氏関与説、死亡推定時刻や遺棄態様など捜査の疑点を、黒木昭雄氏の指摘も踏まえ検討する。
少女は、沢の底に横たわっていた。
県道の橋からわずか数メートル下、ほとんど水の失われた川床で、17歳の時間は止まっていた。
2008年7月、岩手県川井村(当時)で発見された佐藤梢さんの遺体は、やがて一人の男の名を浮かび上がらせる。田野畑村在住の小原勝幸。彼は被害者と最後に接触した人物とされ、車内から血痕が見つかり、断崖で「死」を仄めかしたのち、姿を消した。以後、彼は指名手配犯として全国に名を掲げられながら、2025年現在に至るまで、生死すら確定していない。
だがこの事件には、沢の底に溜まる冷気のように、単純な逃亡劇では回収しきれない「霧」が残されている。死亡推定時刻の曖昧さ、遺体遺棄の物理的な不自然さ、証拠収集の欠落、そして事件以前に存在していた恐喝被害という別の物語。そこに、元警察官ジャーナリスト・黒木昭雄が示した異なる構図が重なり、捜査そのものの輪郭が揺らぎ始める。
人は、逃げた者を「犯人」と呼びたがる。ポスターに刷られた顔写真と短い言葉は、やがて疑いを確信へと変えていく。しかし、裁かれていない者を断罪することは、どこまで許されるのか。推定無罪という原則は、この事件において、いかなる位置に置かれているのか。
本記事は、結論を先取りしない。
事実と推測、証明と空白を一つずつ切り分けながら、「失踪した指名手配犯」という像の背後に横たわる事件の構造を、静かに見つめ直す試みである。
事件概要
2008年7月1日(火曜日)午後4時半頃、岩手県下閉伊郡川井村田代(当時・現在は宮古市に編入)の松草沢で少女の遺体が発見された。松草沢は岩手県宮古市を流れる二級河川・閉伊川の支流にあたり、沢の3mほど真上には県道171号線(大川松草線)の一部である下鼻井沢橋が架けられていた。
遺体はその橋から投棄されたものと考えられたが、県道とはいえ周囲は民家や農地すら途絶えた原野であり交通量は乏しく、遺体の第一発見者は、たまたま通りかかった道路工事の関係者であった。
発見時、沢の水位は2〜3cm程度まで枯れており、遺体はうつ伏せの状態で川床に倒れていた。下半身は下着姿であり、靴は履いていなかった。
7月3日の午後、家族により、少女の腕や背中に彫られた蜘蛛や薔薇の刺青から、宮城県栗原市在住の佐藤梢さん(当時17歳・無職)である事が判明した。彼女は当時交際相手の家で暮らしており、7月1日には家族から捜索願が出されていた。
司法解剖の結果、遺体には頭頂部に骨折を伴う外傷、顔面には歯が折れるほどの打撲痕が見つかったが、直接の死因は手で首を絞められたことによる窒息死であることが判明した。
梢さんの死亡推定時刻は、岩手県警宮古署に設置された捜査本部により「6月28日夜から7月1日夕方の間」と発表されたが、その始期は彼女の生前最後の目撃時刻、終期は遺体発見時刻と、とても現代の法医学から導き出されたとは思われないものであった。
その理由としては、遺体がどの程度川水に洗われていたかが不確定である為とされたが、この事は、00年代に続々と発覚した組織的不正経理問題によって醸成された、警察組織全体への不信感も手伝ってか、後に疑惑を呼ぶ事になる。
彼女が生前最後に会った人物と目されたのは、岩手県下閉伊郡田野畑村在住の小原勝幸容疑者(当時28歳・無職)であった。彼は殺害された梢さんの同級生の交際相手であり(奇しくもその同級生の名も、同姓同名の「佐藤梢」さんであるという)、
梢さんの知人からの証言に依れば、彼は6月28日午後10時半頃、「恋の悩み(元カノとの復縁)を相談したい」という口実で彼女を呼び出し、2人は宮城県登米市にあるコンビニで待ち合わせた。
彼らが実際にそこで落ち合った事自体は後日捜査員によって確認され、同時に梢さんの確実な生前最後の目撃情報でもあったが、目撃時刻には午後9時15分頃〜10時半頃の間でぶれが生じている。
また、事件の前、梢さんらしき女性が小原のものと思われる車両で寝泊まりしていたとの目撃情報もあがっており、両者の間には一定以上の交友が窺われた。
その後、小原の姿は翌29日午前2時14分からおよそ3分間の間、遺体発見現場から車で40分程の距離がある岩手県盛岡市内のガソリンスタンドの防犯カメラに捉えられた。その時彼の右手には白い布が巻かれていたという。
29日午前9時頃、小原は盛岡市から車で2時間程度の距離のある、岩手県田野畑村の次弟夫婦の家を訪れ、右手に負った負傷の手当てを受けていた。田野畑村には小原の実家もあったが彼は両親とは疎遠であり、既に結婚し村内に一家を構える次弟を頼る事が多かった。
また、同じ29日付で、小原は知人宛に画像付きメールを送信していた。画像は自撮りと思われ、彼が見せつける様に掲げた右手には、29日の撮影日付と共にその怪我が写り込んでいる。次弟によると、負傷は「丸い形状の突起物で突き刺したような」傷であり、箸も持てない程に腫れ上がっていたという。
その日の午後7時頃、小原は次弟夫妻に付き添われ、岩手県岩泉町にある『済生会岩泉病院』(岩手県下閉伊郡岩泉町岩泉中家19-1)で診察を受けている。本人の言では「酒に酔って壁を殴った」際に出来た怪我との説明であったが、医師はそれを否定し、右手には運動機能障害があった事、(被害者が抵抗した際に残したような)咬傷では無かった事を後日証言している。
7月1日、松草沢で梢さんの遺体が発見されたおよそ5時間後の午後9時40分頃、小原は田野畑村の北山地区で、自らが所有する国産高級車を運転した際に自損事故を起こしていた。現場を車で通りかかった地元の男性(40代)によると、小原の車のボンネットは道路脇の電柱にめり込み、エンジン付近からは煙が上がっていたという。
小原は足元も覚束ないほどの泥酔状態で右手から出血していたが、それが事故による怪我ではない事を強調し、
――女とケンカして殴った。もうおしまいだ。死ぬしかない――
等と口走っていたという。
事故の状況からも小原の言動からも、本来であれば即座に警察に通報すべき所であったが、地元男性は自らのワゴン車に小原を乗せ、知人の車両整備業者に連絡を取った。しかも整備業者と落ち合った後、午後10時過ぎには小原を実家まで送り届けている。
事故車両は7月3日になって警察に押収された。その後の検証で、車内からは梢さんの血液、ビール缶数本と女性物の赤いパンプス(靴)が発見されている。彼女が29日夜に履いていたのはキャラクター物のサンダルであり、家族にも見覚えのないものであった。また、犯罪捜査には欠かせないと思われる指紋の検出は、理由は不明ながら実施されなかったという。
翌2日午前7時〜8時頃、小原は父親によって「酒が抜けたら警察に出頭しろ」と匿われていた実家を、「もう久慈署で警官に会う約束をしている」旨を言い残して出発した後、JR田之畑駅やタクシー会社を訪れて移動手段を探していたが、何故か最終的には偶然出会った、近所に住む親族男性に『鵜の巣断崖』まで送るよう依頼している。
鵜の巣断崖は田野畑村に属する景勝地であり、高さ200mに及ぶ海岸沿いの岸壁であった。親族は車で20分程車を走らせて、断崖に設置された展望台の手前に設置された駐車場まで彼を送り、そこで別れた。小原はサンダル履きで手ぶらであったという。
2日9時頃、観光バスの運転手が、鵜の巣断崖の危険防止柵の向こう側(海側)に座り、一心に携帯電話を操作している小原らしき男性を目撃している。
その頃、彼は知人や親族、新旧の交際相手に宛てたメールや電話で、「これから死ぬ」旨を連絡していた。
その中には高校時代の恩師や旧友の男性がおり、彼らは実際に断崖の小原の元へ駆けつけた。恩師は彼が警察官と思われる人物と通話している所を目撃したが、終話後に小原から警官が来るからと告げられ帰宅。旧友は小原に缶コーヒーを差し入れて自殺を止めるよう説得したという。
また、連絡を受けた交際相手や小原の三弟は、警察に相談して彼の様子を見に行って欲しいと懇願したが、捜査本部からの発表において、その日の断崖における警官の動向については言及された事がない。
旧友は、恐らくは小原から「もう帰宅する」等の言質を取り、自殺を思い留まったと判断してその場を去ったと思われるが、小原はその後消息を絶っており、2025年12月現在、旧友男性は確実に小原を目撃した既知かつ最後の人物となっている。
その後の検証や一般からの通報によって、小原の靴(サンダル)、腕時計、財布、車の鍵や免許証、缶コーヒー、タバコ、携帯電話の電池等が、彼が居た断崖の柵の向こう側で発見された。しかし、血痕や遺体、着衣等の自殺の痕跡は見つからず、警察は前後の状況から、彼が自殺を偽装して逃亡した可能性が高いものと判断した。
梢さん殺害容疑により小原が指名手配を受け、公開捜査が開始された7月29日以降、「彼を雇用したかもしれない」「地下鉄で見た」といった不確かな目撃情報が県警に寄せられはしたが、2025年12月現在、その行方はおろか生死さえ判明していない。
手掛かりとその検討
本章では、事件をめぐって残された手掛かりを、感情や印象から切り離し、ひとつずつ検討していく。それは「誰が犯人か」を即断するためではない。むしろ、何が確定し、何が推測にとどまり、何が見落とされてきたのか――その境界線を明らかにするためである。
被害者である佐藤梢さんの生活史、容疑者とされた小原勝幸の人物像、両者の関係性、そして事件前後に交錯した証言や物証。これらは単独では意味を持たず、並べ方によって全く異なる像を結ぶ。
手掛かりとは、真実へ一直線に導く道標ではなく、しばしば誤読や思い込みを誘う断片でもある。
本章は、捜査や報道が与えてきた「物語」を一度解体し、手掛かりそのものが語りうる範囲と、その限界を見極めたい。霧の中で形を断定するのではなく、輪郭がどこまで見えているのかを確かめる作業である。
佐藤梢さんについて
殺人事件の被害者となった梢さんは、中学時代まではスポーツに打ち込む普通の少女であったが、地元の公立高校に入学して程なく、理由は不明ながら(家族には、勉強するより働きたいからと話していたという)自主退学した。
実際にレジ打ち等のアルバイトで働いた事もあり、勤務態度自体は真面目であったが長くは続かず、その後は友人や交際相手の家を転々としていた。
プロフ(自己紹介サイト)で彼女は、「ネガティブ」「寂しがり」「頑固」等と自らの性格を評しており、2008年1月〜2月の間には、
「死にたい」「気が済むまで殴ってください 刺してください 殺してください」「(恋人に)壁に突き飛ばされた」「膝を蹴られ流血した」
という精神的な不安定さやデートDVを描写する発言がみられ、自らのリストカットの跡や、刺青の画像がアップされる事もあったという。一方で「好きな人と結婚して幸せになる」という“将来の夢”も綴られていた。
6月28日夜に小原と会う直前、梢さんは「殺されるかもしれない」と知人にメッセージを送っているが、これもまた彼女の口癖のようなものであり、必ずしも自らに迫る身の危険を訴えたものとは限らないのだという。
梢さんが10歳近く年長の小原と、どのような関係であったのかは定かではないが、事件前に彼の車で寝泊まりしていたとの証言や、彼女の精神状態、恋愛相談という口実で呼び出された事を考慮すると、かつて恋愛関係にあったか、あってもおかしくはない程の親密さはあったと見るべきなのかもしれない。
小原勝幸について
彼もまた地元の高校を卒業(中退とも)後、定職には就かず実家からは勘当同然の状態となっており、埼玉、仙台等の職場を転々としていた。痩せ型で見た目が良く女性からは人気があったといい、事件当時もナンパから恋人関係に発展したという、梢さんの同級生である10代の少女と恋愛関係にあった。
激昂しやすい性質ではあったが、ボス格の不良仲間の威を借りて悪ぶる程度であり根っからの悪人ではなく、とても殺人や断崖絶壁からの飛び降り自殺ができるような人物ではないというのが、知人による評価である。
事件の際、地元住民は事故を起こした彼を警察に通報する事なく見逃しており、疎遠であった父親も彼を匿い、次弟夫婦をはじめとする親族、知人も親身である。彼が断崖で投身自殺を仄めかした時は恩師や旧友が駆けつける等、指名手配捜査のポスターから受ける酷薄そうな第一印象に反し、何処か「可愛げのある」「放っておけない」人柄を感じさせる。
事件の約1カ月前、小原は恐喝事件の被害者として、岩手県警久慈署に被害届を提出していた。
その内容は、小原が、地元の不良仲間であるG氏が紹介した仕事に就いて早々「飛んだ(無断退職した)」事で面子を潰されたとして、口に日本刀を咥えさせられた上、出刃包丁で脅され、ケジメ(小指の切断)と詫び金(120万円)を要求されたというものであった。
梢さんの遺体が発見される前日にあたる6月30日夜、小原は父親の見守る中で久慈署に電話をかけ、理由は不明(G氏による脅しである可能性が高い)ながら被害届の取り下げを申し出ている。
その際、やはり彼の人柄によるものか、それともG氏の凶悪性から来るものなのか、久慈署の担当警察官は「2、3日中必ず捕まえる」と、取り下げを思い留まる様小原とその父親を説得した。しかし、G氏は逮捕される事はなく、被害届の存在もいつの間にか有耶無耶となった。
これらの背景から、事件の背景にはG氏の介在があり、120万円の取り立てのための連帯保証人として、小原経由で梢さんが呼び出され、何らかの行き違いから殺害に至ったのではないかという説が立てられている。
元警察官のジャーナリスト・黒木昭雄氏
上記のG氏黒幕説を提唱したのは、警視総監賞受賞23回という経歴を持ちながら、警察の捜査体制への疑問から告発の為にジャーナリストに転身した元・警視庁刑事である黒木昭雄氏であった。
彼は日頃から、先入観による見立てに固執し、捜査方針を改めようとしない警察の捜査を批判しており、今回の事件に対する岩手県警の捜査においてもいくつかの不審点を指摘していた。
<不審点1> 小原には梢さん殺害の動機がない
自らの交際相手である「佐藤梢」さんはともかく、その同姓同名の同級生に過ぎない梢さんに対して、小原が殺意を抱き得る程の深い関係があった事実は、黒木氏の取材した範囲では浮上しなかったようである。
尤も、車両という密室で彼らが2人きりになった際、突発的に何らかの諍いが起きた可能性までは否定し切れない。
<不審点2> 梢さんの死亡推定時刻の不確かさ
前述の通り、6月28日夜から7月1日の夕方という梢さんの死亡推定時刻は、いわば「木で鼻をくくったような」ものであって、もう少し絞り込みが可能なのではないかというものである。この点については、元東京都監察医務院長である上野正彦氏も疑問を呈している。
素人考えでも、遺体の腐敗状況等から6月29日か7月1日のどちらか1日位は推定時刻から除外するか、もう少し始期か終期のどちらかに寄せられるのではないかと思われる。
しかし、水中の遺体は地表に置かれたものよりも腐敗の進行が遅いとされており、沢の増水によって一時的に遺体が完全に水没していた可能性まで考慮すれば、そこまで的外れとは言えないのかもしれない。
特に黒木氏が指摘したのは、「小原による単独での梢さん殺害という、警察の見立てを成立させる為には、死亡推定時刻を絞り込む、又は動かす訳にはいかなかったのではないか」という点である。
小原は6月29日の時点で利き手である右手に箸も持てない程の怪我を負っており、死亡推定時刻から29日より以前が除外されるような事になれば、彼が梢さんの殺害や、橋の上からの遺体の投棄を単独で遂行する事が不可能になってしまう。
それでは警察の見立ての誤りが確定してしまうが為に、故意に死亡推定時刻を確定させていないのではないかというのがその要旨である。
<不審点3> 遺体発見状況
梢さんの遺体は下鼻井沢橋の欄干まで持ち上げられ、3m下の沢へと放り出すように投げ捨てられたと推定されている。
周囲に裸足の足跡は見つかっておらず、まだ息があった梢さんが自ら移動したとは考えにくい上、橋から遺体までの距離はおよそ5m離れており、相当な勢いをつけて投げ出されなければ届かない(手の負傷が無くとも、単独犯ではほぼ不可能である)事を黒木氏は指摘している。
周囲は原野とはいえ昼間は地元の釣り人や山菜採りが訪れる事もあり、一方で夜間に橋の下の沢まで遺体を抱えて進入することもまた別の危険を伴うであろう。
夜間に橋の上から投棄する以外の手段が考えにくい以上、小原単独でそれが可能であったとは思われない。よって警察の見立てである小原単独犯行説はそもそも成立しないというのがその要旨である。
黒木氏による後日の現場検証が正確な情報に基づくものであれば、この説にはかなりの説得力があるが、遺体発見現場の詳細が公表されておらず答え合わせは困難である。
また、遺棄時には沢が増水しており遺体が流された可能性も除外できない以上、警察の見立てを完全に覆すのもまた難しい。
それに、G氏を筆頭とする複数犯が梢さんを殺害したとして、遺体を橋から5m余り離れた地点に放り出した理由も謎である。それほどの人手があれば、遺体を地中深くに埋める等の手段を採ることも容易であっただろう。
<不審点4> G氏が容疑者として浮上しない事
事件当時、小原と深刻な利害関係にあり、彼を陥れる動機が存在する不良仲間G氏については、恐喝事件についてはともかく、梢さん殺害への関与については取り調べられた形跡がないという。
G氏が詫び金120万円の契約書を小原に書かせ、連帯保証人を用意するよう要求していた事は、小原が被害届を出す原因となった恐喝事件に実際に立ち会ったという次弟の証言から事実のようである。
小原はその場では保証人として、本人には無断で恋人である「佐藤梢」さんの名前を記入し、G氏も納得したのかその場は引き下がったという。
黒木氏の説では、6月28日夜、小原を呼び出したG氏は連帯保証人である交際相手本人の署名を要求。小原は彼女を電話で呼び出そうとしたが拒否された為(後日、交際相手への取材によって、それが事実であることが判明したという)、同姓同名であり交際相手の友人でもある梢さんを代わりに呼び出した。交際相手の説得をさせる為か、替え玉として署名させるつもりであったのかは不明である。
しかし、そこで2人がG氏から何らかの不興(替え玉を呼んだ事自体か、梢さんが交際相手の説得に失敗した為か、どちらの梢さんも未成年であり保証人たり得ない事が明らかになった為か)を買い、真犯人であるG氏によって梢さんが殺害されたのではないかというのが黒木氏による見立てである。
恐喝事件の解決が遅れ、G氏を野放しにしたばかりに梢さんが殺害されたとして、責任を問われる事を恐れた警察が、逃亡を図る小原を放置。梢さんの死の責任を彼に押し付け、発見するつもりが無いにも関わらず、表向きには捜査継続中としてその指名手配を更新し続けているのではないかというのがその主張となる。
一見辻褄は合うように思われる推理ではあるが、粗もある。G氏が面子を何よりも重んじ、かつ凶暴な人物であって、彼が自らを欺こうとした(と考えた)梢さんを衝動的に殴打・絞殺した後、その隙を突いて逃走したと思われる小原を放置するとは考えにくい。
G氏の面子を潰した当の本人は小原であり、外見的には、いわば「まんまと逃げられた」状況であり名誉が回復されたとは言い難い。小原もまた、G氏が自分の生命を狙っていると知りながら、契約書から確実にその住所が割れている筈の実家周辺で貴重な時間を空費している。
恐喝の被害届の件についても、もっと手軽な書類の改竄程度の手間で、小原が改めて被害届の取り下げを申し出た為、G氏への捜査を中止するに至った(だから警察に責任はない)と見せかける事が可能であるように思われる。
黒木氏によるブログでは、7月1日午後5時過ぎ頃、松草沢での少女遺体発見の通報があった時点で、(同日)家族から提出されていた捜索願から内々ではこの遺体の身元が梢さんである事が判明しており、また、既に小原の名は梢さん殺害の容疑者として挙がっていたにも関わらず、警察は不作為により彼の追跡をしなかったのだと述べられているが、情報収集や伝達にかかる時間から考えて、かなり無理がある仮定であるように思われる。
彼には、古巣でもある警察組織が持つポテンシャルについて絶対的な信仰があり、警察が持てる全ての知識と情熱を注いで完璧な捜査を行いさえすれば、どのような事件も解決できる力があるかのように考えていた節がある。
しかし、構成員の腐敗や怠惰によって組織は機能せず、理想は実現しなかった。内部改革に限界を感じた彼はジャーナリストへと転身するが、その理想主義は最終的に彼自身の心身を灼くことになったのであろう。
この事件の捜査において警察にいくつもの不手際が存在した事自体は否定できない。特に小原の身柄を確保する最後の機会であった鵜の巣断崖において、彼は自ら警察に接触を試みた可能性が高く、現時点では梢さんの殺害容疑がかかっていなかったとしても、断崖に急行し、自殺企図のある者として保護することも出来たように思われる。
黒木昭雄氏の死
2010年11月2日(火曜日)、千葉県市原市の墓地の裏手に駐車された車の中で、黒木氏の死亡が確認された。車は黒木氏自身が所有していたもので、車内からは練炭コンロが見つかった。彼の死因は一酸化炭素中毒であった。
黒木氏は10月27日、心療内科で不眠を訴え、睡眠薬の処方を受けていた。翌月1日夜、彼は自らと同じく警察官であった亡父の墓所を訪れ、ワンカップ酒を空けた。その酒で睡眠薬を飲み下した後、ワンカップの残りとおつまみのサキイカを墓前に供えた。
その頃、あらかじめ設定されていたタイマー機能によって送信されたメールが親族・知人宛に届いている。黒木氏の長男宛のメールは「あの世でお前の成長をお祖父ちゃんに報告しておく」という内容であったという。そして、彼は車内でコンロに点火したものと考えられている。
コンロと練炭は、クレジットカードの支払い明細が後日自宅から見つかった事から、11月1日夕方、ホームセンターで黒木氏自ら購入したものと考えられている。
彼の死亡が確認された11月2日には、関係各所に書留で遺書が届けられた。当初は謀殺説も囁かれたものの、遺書の作成に使用された自宅のパソコンからも不審な点は見つからず、1日夜11時過ぎ、黒木氏は覚悟の自殺を遂げたものとみなされている。
黒木氏は様々な要因から抑うつ状態にあり、精神的に弱っていた事も間違いないと思われる。
彼のジャーナリストとしての立ち位置は、当然ながら警察を敵に回すものであり、主要な情報源であった刑事時代からの支持者も、昇進や退職で犯罪捜査の最前線を離れ、その生きた情報を入手する事が困難になりつつあったという。
その行き詰まりを打開する為、彼は一時、政界進出を視野に入れていた時期があった。しかし、その話も選挙詐欺に近いものであったと噂されている。
出馬を打診した自称選挙アドバイザー的な人物は、岩手県の代表として黒木氏が党の公認を受ければ当選は確実であると彼を持ち上げたが、割り振られたのは敵対する党の大物が長らく強力な地盤を持つ選挙区であったのだという。
これらの背景や遺書の内容、彼自身が常日頃から、
――もし自分が死んだら、警察に殺されたと思ってほしい――
と周囲に話していた事からも、彼が生前最も解決を望み「ライフワーク」と位置付けていた梢さん殺害事件の真相が、県警の捜査方針の誤りによって解明されない事への抗議の自殺である事もまた疑いようがない。
推定無罪の原則
2025年12月現在も尚逃亡中とされ、梢さん殺害の容疑者として全国に指名手配を受けている小原は、一度として自らの罪を認めた事もなければ、警察による取り調べを受けて申し開きの機会を与えられた事もない。
「女を殴った」「もう死ぬしかない」という発言を聞いた者はあっても、「殺害した」と聞いた者はなく、彼の車から梢さんの血液が発見されたのは事実であるが、それだけで彼が下手人である事を証明できる訳でもない。
にも関わらず、警察によって作成された捜査ポスターには長年、小原の顔写真とともに「犯人逃亡中」「17歳少女殺害犯人」といった文言が載せられており、上限300万円の報奨金対象事件となった事も手伝って、彼の名前や容貌は、逃亡中の「少女殺人事件の犯人」としてもはや世間に定着してしまっている。
小原の父親は、この事で家族が社会から孤立し、精神的苦痛を被ったとして、国や県を相手取り、小原の公開捜査(指名手配)の停止、捜査ポスター撤去や損害賠償を求める訴訟を提起していた。
2014年4月11日、盛岡地裁で行われた裁判で裁判長は、請求自体は退けたものの、容疑者の段階で犯人であると断定的に公表する事は「無罪推定の原則に正面から反する」と認定した。
しかし、現在の捜査ポスターにおいても「犯人」という単語こそ使われなくなっているものの「殺人」と顔写真の横に記載された現状では、「推定無罪」には程遠いと言うべきだろう。(外部リンク:『警察庁ホームページ』令和7年警察庁指定重要指名手配ポスターPDF)
真相考察
物証と証言から考えて、6月28日夜から翌29日未明の間に、小原が梢さんに暴力を振るい、少なくとも負傷を負わせた事までは動かしようが無いように思われる。
6月28日夜、G氏から120万円の詫び金の契約書の連帯保証人を呼び出し、正式な契約を締結するよう求められた小原は、交際相手と梢さんが同姓同名である事を利用しようと考え、恋愛相談と偽って彼女を呼び出した。
小原や梢さんに、未成年者が法定代理人の同意を得ずに行った法律行為(この場合連帯保証契約)が、取消可能であるという民法の規定について認識があったかどうかは不明である。
インターネットがデータベースとして既に機能していた2008年当時では、一般常識として少なくとも「未成年は親の許可が無ければ正式な契約ができない」程度のぼんやりとした知識としては持っていた可能性が高い。アルバイトであっても働いた経験があるのであれば、その蓋然性はさらに高まる。
当然ながらG氏にその知識が無かったとは考えにくい。詫び金120万円というのは妙に現実的で、こういった取引への慣れを感じさせる。
真剣に働けば短期間でも返済可能な金額であり、警察との煩雑なやり取りを経たり、G氏のような「怖い人間」と関わるよりも、高い勉強料として借金をしてでも支払ってしまおう(あるいは支払ってあげよう)と思わせ得る額でもあった。
しかし、相手が無職の未成年となれば話はまったく異なる。契約の場に引き出された梢さんは、二人の「佐藤梢」が同級生であり、かつ未成年であることを確認し、念のため本人に電話で直接確認を取ったうえで、金を用意する意思はないと明確に主張した。プロフサイト上では精神的な弱さを表に出していたが、家族の証言によれば、梢さんは本来、気の強い少女であったという。
小原は肝を冷やしたであろうが、G氏も本心から彼らの小指や生命が欲しい訳ではなく、恐らくは小原の両親や実弟等、経済的基盤のある保証人を立てる事、警察への被害届を取り下げる事を条件に二人を解放したと考えられる。
帰りの車で二人が揉めに揉めた事は想像に難くない。金銭を巡る諍いは、血を分けた親子間ですら、命に関わるまでに拗れる場合が少なくない。
一方で、梢さんに日頃から希死念慮があった事を踏まえると、自らの不始末で身近な人々を恐喝事件に巻き込み、後悔と自己嫌悪に苛まれた小原が、彼女に心中を持ちかけ拒絶された事も考えられる。彼は既に30代も目前の年齢であり、少年時代の成功体験のみで自己肯定感を保つのは厳しい年齢である。
見た目の良さや大人である事、高価な車を誇示する事で経験の少ない若年者を魅了する事はまだ可能であったかも知れないが、特に地方都市では未だ氷河期の就職難が後を引いており、将来への展望も決して明るくなかったものと思われる。
日付が変わって6月29日未明、小原が盛岡市内のガソリンスタンドに現れた時点で、車内には梢さんの遺体が乗せられていた可能性が高い。宮古市から盛岡市、田之畑村にかけての長時間のドライブも、小原が心の整理をする為に必要であったと説明する事が可能である。
小原の右手の怪我も、6月29日の未明までに梢さんを殺害した際に負ったものであると素直に考えるべきであろう。
彼の負傷は運動障害を伴うものであり絞殺は不可能であると主張される事があるが、骨折していたという話は無く、受傷直後はアドレナリンの影響や、出血や滲出液による炎症が追いつかない事から運動性も保たれやすい。梢さんが昏倒していたのであれば更に絞殺の難易度は低下する。
遺体遺棄場所の選定も、県道上の橋の上からである事を考えると、走行しやすく、かつ通行量が乏しい場所を闇雲に求めるうちに辿り着いたと考えてさほど無理はないように思われる。
実家のある田之畑村での小原の言動も、大罪と厭世観に追いつめられた者の、否認と諦観で揺れる心理の反映であろう。
身を寄せた次弟夫婦や父親は親切で、一瞬、自分さえ黙っていればいつも通りの日常に戻れるのではないかという錯覚を生じさせたかも知れないが、夜の客間で1人になればそうもいかない。7月1日夜間の自損事故は、自殺を企図したものであった可能性が高い。翌朝からの鵜の巣断崖行もその一環である。
しかし、彼はそこでも携帯電話を手に、地元の交友関係の中から生への可能性を見い出そうとあがいた。
断崖に残された小原の私物の中に携帯電話本体は無かったという。携帯電話だけを手にあてもなく裸足で歩き続け、その電池の残量が尽きて現世との繋がりが絶たれるのを見届けた時、ようやく彼はその覚悟を決める事が出来たのかも知れない。
サヨウナラ 迷惑な事ばかりでごめんね(小原勝幸最後のメール:2008年7月2日午前9時27分)
引用:YAHOO!ブログ 黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」2010年7月2日の記事
沢に立ちこめた「霧」は、やがて朝日とともに消えるものだ。
だが、この事件の「霧」はそうではない。
少女の死と、男の失踪。そのあいだに漂う「霧」は、私たちが拙速な結論を欲するたびに、かえって濃さを増し……「霧」の中に立たされたまま、問いだけが残されている。
◆参考資料
朝日新聞 朝刊 宮城版 2008年7月4日付「驚き隠せぬ知人 岩手で他殺の女性は栗原の17歳 ネットに交際の悩みも」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2008年7月5日付「車の持ち主、不明 断崖に靴と免許証」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2008年7月6日付「『女を殴った、死ぬしか』物損事故後に話す 川井・他殺体、行方追う」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2008年7月7日付「親類運転の車で断崖へ 少女の友人と交際か 川井の他殺体 行方不明の男」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2008年7月10日付「『酔って壁とけんか』先月末、病院に 川井の他殺体、行方追う男か」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2008年7月30日付「県警、遺留物などで断定 断崖で自殺、偽装か 川井・少女殺害で逮捕状」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2008年8月29日付「逃亡前、断崖から電話? 指名手配1カ月、川井殺人容疑者」
朝日新聞 朝刊 岩手版 2009年5月14日付「小原容疑者『これから死ぬ』、断崖から携帯で 知人ら証言 川井・女性殺害」
朝日新聞 朝刊 2010年11月3日付「警察ジャーナリストの黒木昭雄さん、社内で自殺か」
朝日新聞 朝刊 2014年4月12日付「『犯人逃亡中』手配ポスター、『無罪推定に反する』断定表現に盛岡地裁」
読売新聞 朝刊 岩手版 2008年7月30日付「17歳殺害 容疑者行方は? 全国手配で追跡 捜査本部 自殺偽装し逃走の見方」
読売新聞 東京朝刊 岩手版 2014年4月26日付「控訴しない方針」
毎日新聞 東京朝刊 2009年6月20日付「岩手・川井の女性殺害:『指名手配納得できぬ家族ら人権救済申立て』
週刊朝日 2008年7月18日発行「被災地の刺青少女がブログにつづった阿鼻叫喚 岩手で殺害された?」朝日新聞出版
週刊朝日 2008年11月14日発行「三陸ミステリー『疑惑の指名手配』前編 消えた容疑者・小原勝幸は本当に少女を殺したのか」朝日新聞出版
週刊朝日 2008年11月21日発行「三陸ミステリー『疑惑の指名手配』後編 消えた容疑者・小原勝幸の自殺偽装までの不審な足取り」朝日新聞出版
週刊朝日 2010年6月4日発行「警察改革訴えて出馬するジャーナリストは、だれ?」朝日新聞出版
週刊朝日 2010年11月19日発行「追悼 ジャーナリスト・黒木昭雄が遺書に残した無念 三陸少女殺害で岩手県警を追及」朝日新聞出版
週刊プレイボーイ 2010年11月22日発行『死の直前に墓参り。ジャーナリスト・黒木昭雄の自殺の真相』集英社
紙の爆弾 2011年1月号『元警視庁警察官・ジャーナリスト 黒木昭雄の死に横たわる疑問』鹿砦社
創2011年3月号『ジャーナリスト黒木昭雄を自殺に追いやったものは何か』創出版
YAHOO!ブログ 黒木昭雄の『たった一人の捜査本部』(ウェイバックマシンによるデジタルアーカイブで閲覧)
岩手県警察ホームページ(外部リンク:『捜査協力のお願い』小原勝幸)
◆平成の未解決殺人事件





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