
映画『ヘイター』は、ネットを駆使した世論操作がいかに憎悪を煽り、社会を揺るがすかを鋭く描く。主人公は情報操作によって対立を激化させ、人々の感情を巧みに利用しながら混乱を生み出していく。ネットは選挙戦や社会運動において強力な武器となる一方、デマや誹謗中傷が拡散されやすく、憎悪が増幅される危険性を孕んでいる。
ネットでは、拡散力の高いメッセージが優先され、内容の検証が後回しになる傾向が顕著だ。政治的キャンペーンやハッシュタグ運動は、社会問題を可視化し、支持を集める手段として機能するが、同時に議論の単純化や感情的対立の助長を招くこともある。さらに、ターゲティング広告やボットを用いた情報操作、炎上マーケティングといった手法が駆使されることで、意図的に世論が誘導されるケースも増えている。
本記事では、映画『ヘイター』を起点に、日本や世界の選挙戦、政治運動、社会分断の現状を考察し、プロパガンダの進化と情報操作の実態を検証する。ネットがもたらす影響を読み解き、「私たちはどのように情報と向き合うべきか?」という問いを投げかけ、デジタル時代における情報リテラシーの重要性を考察する。
映画概要
『ヘイター』(原題: Sala samobójców: Hejter)は、2020年に公開されたポーランドの社会派スリラー映画であり、監督はヤン・コマサ、主演はマチェイ・ムシャロフスキが務める。
本作は、2011年の映画『Suicide Room』のスピリチュアル・シークエル(続編)と位置づけられるが、より政治的な要素と現代のデジタル・プロパガンダに焦点を当てている。
あらすじ
地方出身のトマシュ・ギエムザ(トメク)は、法学部に在籍していたが、論文の剽窃が発覚し、除籍処分となった。その決定を下したのは、社会正義を掲げる高名な人権派弁護士の教授だった。都市では白人至上主義と移民排斥運動が勢いを増しており、社会の分断が深まっていた。
トマシュは、彼を経済的に支援している上流階級のクラスツキ家(ロバート・クラスツキとその家族)から援助を受け、同家の次女ガビ・クラスツッカに好意を抱いている。しかし、一家は部族主義、国家主義、権威主義への批判や、LGBTQ+の権利擁護、移民の受け入れ、環境保護などリベラルな価値観を掲げながらも、内心では彼を「田舎者」として見下していた。トマシュは彼らの会話を盗聴し、表向きの支援の裏にある軽蔑の本音を知ることになる。
リベラル派の理想と現実の乖離を確認しながらも、彼は経済的な理由から彼らとの関係を断つことができなかった。自らが属する貧しい階級の世界に台頭するリベラルに対しても関心を持たず、距離を置いていた。そもそも彼には明確な政治的思想はなく、ただ自身の生存と立場の向上だけを考えていた。
倫理を持たず、目的のためには手段を問わない。他者の評価を気にしながらも、道徳には一切縛られない。彼は演技によって涙を流すことすらできる。その冷徹さが、不気味さを際立たせる。
やがてトマシュは、SNSマーケティング企業『ベストバズPR』に採用される。同社は、SNSを駆使して依頼主の敵対者や競合企業を陥れる業務を行っていた。法律を学んでいたものの倫理観を欠く彼は、企業の体質に何の疑問も抱かずに適応し、シングルマザーの女性上司の信頼を勝ち取っていく。
彼は、極右の政治活動家からの依頼を受け、世論操作を行うようになる。盗聴、潜入、スキャンダルの捏造、偽アカウントを使った情報拡散、対立候補の信用失墜工作、アルゴリズムを利用した炎上戦術など、現代のデジタル・プロパガンダの手法と古典的工作を駆使し、政治的な混乱を助長していく。
彼が操る情報戦は、やがて現実の暴力へと結びついていく。裕福な上流階級のリベラル層と貧しい労働者層、彼らの対立を利用しながら、トマシュは社会の分断を深めていく。
そして、彼自身もまた、その渦の中に飲み込まれていくことになる。ネットが人間の意識をいかに変え、社会全体を巻き込むか――その深刻な影響を、映画は冷徹に描き出す。
ハックと法と倫理 ― 境界を操る者
トマシュの行動原理は、「ハック」の概念と深く結びついている。彼は社会のルールを守るのではなく、システムの隙間を突き、それを利用することで生存戦略を築く。社会を公正な競争の場とは考えず、抜け道を見つけ、最適な手を打ちながら生き延びるゲームとして捉えている。
自身の社会的地位を維持するため、彼は選択的情報開示と富裕層からの支援を戦略的に活用する。倫理的規範を考慮することなく、利害関係を巧みに操り、自己の利益に最大限寄与する状況を構築していく。
SNSを駆使し、選挙戦や世論形成に介入しながら、政治を理念ではなく戦略として扱う。候補者の評判を貶め、対立を煽ることで選挙結果を左右し、さらに情報の「見せ方」を操作することで大衆心理を誘導する。彼にとって、デマや扇動は犯罪ではなく戦略の一つであり、情報操作は現代社会のゲームのルールとして機能している。
トマシュの行動は、常に法と倫理の狭間にある。彼は法を守るのではなく、利用する。規範を破ることにためらいはないが、法の枠外に出ることには慎重である。このスタンスこそが、彼を単なる犯罪者ではなく、システムを操るハッカー的存在にしている。
映画『ヘイター』のリベラル派富裕層と現実の政治変動の関連性
映画『ヘイター』に登場するリベラル派富裕層は、移民問題や環境問題、人権擁護といった進歩的価値観を掲げる一方で、労働者階級や地方出身者を内心では見下し、社会的ヒエラルキーを維持しようとする。
彼らの二重基準は、現実の政治変動と密接に関連しており、特に近年の欧米諸国におけるポピュリズムの台頭とリベラル政党の退潮と共鳴する構造を持つ。本章では、映画で描かれるリベラル派の欺瞞が、現実の政治状況にどのように反映されているのかを分析する。
2024年大統領選と「米国第一」への回帰――支持基盤の変化と民主党の苦境
2024年の米国大統領選挙では、ドナルド・トランプが再選を果たし、共和党が上下両院を掌握する「トリプルレッド」を達成した。この勝利は、都市部のリベラル派エリート層に対する地方や郊外の労働者層の反発だけでなく、ヒスパニック系や黒人男性の一定層が共和党支持へと転じたことも重要な要因であった。
従来、民主党の支持基盤とされていたこれらの層が共和党へ流れた背景には、バイデン政権の経済政策や社会政策に対する不満がある。特に、移民政策の影響による労働市場の変化、環境政策がもたらすエネルギー価格の高騰、犯罪増加への懸念が影響を与えた。
これに対し、トランプは「経済優先」「米国および米国民優先(America First)」のメッセージを打ち出し、国内産業の保護、移民規制の強化、治安対策の徹底を訴えた。結果として、白人労働者層のみならず、経済的安定を求めるヒスパニック系や黒人男性の一定割合がトランプ支持に回った。
一方、民主党は気候変動対策や社会正義を重視するあまり、インフレ対策やエネルギー政策の問題に対する明確なビジョンを示せなかった。特に、アイデンティティ・ポリティクスを前面に押し出したことで、「自分たちの問題が軽視されている」と感じた労働者層や一部のマイノリティ層の離反を招いた。共和党が「庶民の味方」を強調し、民主党の政策がエリート層に偏っていると批判したことも影響を与えた。
これにより、アメリカ政治は従来の「労働者 vs 富裕層」という階級闘争の構図から、「エリート vs 反エリート」へとシフトしつつある。かつては労働者階級を基盤としていた民主党が都市部の富裕層や高学歴エリートの政党へと変容し、一方の共和党はポピュリズムを取り込みながら、労働者層を中心とする「反エリートの党」へと再編されつつある。
映画『ヘイター』の主人公トマシュも、リベラル派の掲げる理想を理解しつつ、富裕層のエリートが実際には自分を見下していることを知り、反発を強めていく。彼の行動原理は、ポピュリズムの台頭と世論操作の手法と共鳴し、情報操作の危険性を浮き彫りにしている。
この構造は、単なる白人労働者層とエリート層の対立ではなく、リベラルなエリート層が掲げる「平等」や「社会正義」の理想が、実際には特定の階層の利益にしかつながっていないという広範な不満を反映している。
この変化が一時的なものなのか、それとも今後の選挙でも固定化されるのかは不透明である。しかし、SNSを通じた情報戦がこの構造変化を加速させていることは間違いなく、アメリカ政治の今後を占う重要な要素となっている。
EU内のリベラル政党の弱体化
欧州においても、リベラル政党の影響力は低下し、ポピュリスト政党が台頭している。フランスでは、エマニュエル・マクロン大統領の与党『ルネサンス』が2024年の欧州議会選挙で敗北し、極右政党『国民連合(RN)』が勢力を拡大した。
この結果を受け、マクロンは国民議会の解散を決断し、新たな選挙を実施したが、議会は左翼・中道・右翼に分裂し、リベラル派の影響力が低下している。
ドイツでは、極右政党『ドイツのための選択肢(AfD)』が移民政策への不満を背景に支持を拡大し、2025年の連邦選挙で第2党となった。伝統的な保守政党は支持を失い、リベラル派の影響力が減退している。
ポーランドやハンガリーでは、民族主義的な政権が安定した支持を維持し、リベラル派政党は主に都市部のエリート層に依存する構造が強まっている。 映画『ヘイター』に描かれるリベラル派富裕層の姿勢は、現実の欧州社会における進歩的価値観とエリート主義の矛盾を象徴しており、これらの政治的変動と共鳴する構造を持っている。
現代日本との比較と実例
日本においても、SNSの影響力は選挙戦や世論形成において急速に拡大している。本章では、東京都知事選、衆議院選挙、兵庫県知事選といった具体的な事例を分析し、映画『ヘイター』が提示するデジタル・プロパガンダの手法と日本の政治環境の類似点を探る。
東京都知事選におけるSNS戦略
2024年の東京都知事選では、候補者のSNS戦略が選挙結果を左右する大きな要因となった。従来、都知事選ではテレビ討論や街頭演説、政見放送が主要な選挙戦術として機能してきたが、今回の選挙ではSNSがより重要な役割を果たした。特に、YouTubeやTikTokといった動画プラットフォームを積極的に活用した候補者が注目を集め、従来のメディア戦略ではカバーできない層への浸透を果たした。
石丸伸二氏は、TikTokやYouTubeを駆使し、特に若年層や無党派層への訴求力を強化した。従来の街頭演説に加え、SNSを通じた積極的な情報発信を行い、候補者自身の政策や思想をダイレクトに伝えることで、多くの支持を集めた。特に、短尺動画を活用して分かりやすく政策を説明する手法が成功し、TikTok上では再生回数が急上昇。若者層を中心に話題となり、「ネット選挙」の新たな可能性を示した。また、彼の戦略の特徴は、支持者とのインタラクションを重視した点にある。YouTubeのライブ配信を頻繁に行い、視聴者の質問に直接答える形で議論を展開した。これにより、既存メディアを介さずに候補者の考えを知ることができる環境が整い、特定の層からの強い支持を得ることに成功した。
一方、主要野党の支援を受けた蓮舫氏は、SNS戦略が十分でなかったと指摘されている。彼女はX(旧Twitter)を中心に情報発信を行っていたが、TikTokやYouTubeの活用は限定的であり、動画コンテンツの拡散力において他の候補者に劣っていた。選挙戦終盤には一部の動画を投稿したものの、SNSネイティブな戦略とは言い難く、ネット上での存在感は限定的であった。さらに、野党共闘の失敗が影響し、特定の支持層を超えての広がりを欠いた。共産党との連携が一部の有権者の反発を招き、SNS上でもこれを批判する声が目立った。結果として、ネット上での支持拡大には成功せず、従来の支持層に留まる結果となった。
作家でありインフルエンサーでもある暇空茜氏は、従来の選挙戦術を一切採用せず、完全にSNSのみを活用した戦略を展開した。街頭演説やテレビの政見放送を行わず、YouTubeやXを中心に情報発信を続け、さらに顔出しをせず、テキストや音声、動画のみで選挙戦を戦うという異例のスタイルを貫いた。彼の発信する内容は強いメッセージ性を持ち、既存の政治に対する批判的な視点や、ネット世論における話題を巧みに利用した戦略が特徴的であった。その結果、特定の支持層を獲得し、11万196票(得票率1.6%)を獲得して7位に入るという結果を残した。この事例は、SNSが従来の選挙戦術を変革しつつあることを示しており、今後、ネット上での発信力を持つ候補者が既存の政治家と対等に戦える可能性を示唆している。
東京都知事選の結果は、SNSの活用が選挙戦において不可欠な要素となったことを明確に示している。特に若年層や無党派層にリーチするためには、テレビや新聞といった従来のメディアよりも、YouTubeやTikTokといった動画プラットフォームがより効果的であることが証明された。また、SNSを活用した選挙戦では、候補者自身の発信力が重要になるため、従来の政党支援や組織的な後援とは異なる新しい形の選挙戦が今後さらに増える可能性がある。2024年東京都知事選は、SNS選挙の新たな時代の幕開けとも言えるだろう。
衆議院選挙とSNSの役割
2024年の衆議院選挙では、各党がSNSを積極的に活用したが、その戦略の違いが結果に影響を与えた。国民民主党はTikTokやYouTubeを駆使し、短時間で広範囲に情報を拡散する戦略を展開し、若年層の支持を獲得した。
一方で、SNS戦略を軽視した政党は、特に若年層の支持を得るのに苦戦した。SNS時代においては、政策の内容よりも発信の手法が選挙結果を左右する傾向が強まっている。
兵庫県知事選とその後の動向に見るSNSの影響
2024年の兵庫県知事選では、SNSを利用した選挙戦が大きな問題となった。選挙戦が進むにつれ、候補者へのデマや誤情報が拡散され、候補者陣営同士の対立が激化した。特にX(旧Twitter)やYouTubeでは、候補者の政策ではなく、人格攻撃やスキャンダルの追及が目立ち、政策論争よりも感情的な対立が前面に出る選挙戦となった。
現職の斎藤元彦知事に対しては、「おねだり知事」という揶揄を含む批判がSNS上で頻繁に取り上げられた。これは、彼の政治資金パーティーに関する問題や、一部の発言が「公私混同」と受け取られたことが原因であった。一方、対立候補の稲村和美氏の陣営も、SNS上での批判にさらされ、デマや中傷が拡散される事態となった。
SNS上では、政治的な立場を超えた陰謀論的な投稿も増え、「兵庫県政が一部の権力者に私物化されている」「特定の候補はメディアによって過剰に持ち上げられている」といった扇動的な言説が支持者間で拡散された。Xのコミュニティノート機能が機能せず、事実確認が困難なまま、誤情報が拡散されるケースも多発した。
また、選挙戦期間中には、候補者やその支持者に対する脅迫や誹謗中傷が相次ぎ、一部の候補者陣営は法的措置を取ると発表する事態にまで発展した。SNS上の情報戦が過熱し、選挙戦が終わった後も、候補者やその支持者に対する誹謗中傷が続いた。
さらに、選挙戦が終了した後も、兵庫県政をめぐるSNS上の対立は続いた。SNSの影響が単なる選挙戦にとどまらず、その後の政治的動向や県政にまで影響を及ぼす現象が見られた。
こうしたSNS上での対立が現実社会にまで波及した象徴的な事件が、2025年3月14日に発生した政治活動家・元参議院議員の立花孝志氏襲撃事件である。立花氏は、YouTubeやSNSを活用した政治活動を展開し、独自の視点から政治批判や政策論を発信していた。そのため、彼の支持者と反対派の間で激しい議論が繰り広げられ、SNS上では過激な発言も見られた。
犯人は、立花氏のYouTube番組や切り抜き動画を通じてその動向を把握し、計画的に犯行に及んだとされる。この事件は、SNS上での政治的対立が単なる言論の応酬にとどまらず、実際の暴力へと発展する危険性を示している。さらに、立花氏の襲撃後、SNSではさまざまな陰謀論が飛び交い、一部では「メディアによる偏向報道が彼を危険にさらした」という主張も見られた。
この一連の出来事は、日本における選挙戦とSNSの関係性を再考させる契機となった。SNSは政治参加を促進するツールとしての側面を持つ一方で、対立を煽り、誤情報が拡散しやすい環境を作り出している。兵庫県知事選をめぐるSNS上の混乱や、立花氏襲撃事件のような事例は、ネット社会における政治的言論のあり方と、その現実社会への影響を改めて問い直すべき課題を突きつけている。
映画『ヘイター』においても、主人公トマシュはSNSを駆使して政治的対立を煽り、それがやがて現実の暴力へと発展する。彼が仕掛ける情報戦は、感情を刺激し、分断を深めることで世論を操る手法を取る。兵庫県知事選におけるSNS上の誹謗中傷やデマの拡散、さらに、立花孝志氏襲撃事件は、この映画が描くデジタル・プロパガンダの危険性を現実世界で証明するかのようである。
SNS上での情報操作が、単なる言論の問題ではなく、現実の社会に重大な影響を及ぼしうることを示唆している。『ヘイター』が描くように、デジタル空間における対立が暴力へと転じる過程は、もはやフィクションではなくなっているのかもしれない。
SNS時代におけるプロパガンダの進化
SNSの普及により、プロパガンダの手法も大きく進化を遂げた。かつてのプロパガンダは国家や大企業といった権力者がメディアを通じて大衆を操作するものであったが、現代ではSNSの発展によって情報発信の主体が多様化し、一般個人でも世論形成に影響を与えられる時代になった。その結果、プロパガンダの担い手は政治家やメディアだけではなく、インフルエンサーや一般市民の投稿者へと広がっている。
SNSの特徴として、情報が爆発的に拡散されるスピードの速さ、個人がメディアと同等の発信力を持てること、そしてアルゴリズムによってユーザーごとに最適化された情報が提供される点が挙げられる。これにより、従来のマスメディアのように一方通行の情報発信ではなく、相互作用的なプロパガンダが可能になった。
特に、選挙戦や政治運動では、このSNSの特性を利用したデジタル戦略が不可欠となり、ターゲティング広告やボットを用いた情報拡散、炎上マーケティングによる話題の独占など、多様な手法が駆使されるようになった。
また、現代のプロパガンダは「感情の操作」に重点を置くようになった。従来のプロパガンダは国家的イデオロギーや政治的スローガンを直接的に広める手法が主流だったが、SNSではユーザーの感情を刺激することで拡散を促す戦略が中心となっている。この背景には、SNSのアルゴリズムが「エンゲージメントの高さ」を優先して情報を拡散する仕組みがある。
つまり、人々が感情的に反応しやすい情報ほど、多くの人に届く可能性が高まるのだ。 こうした変化により、SNSは単なる情報の伝達手段ではなく、意図的な情報操作や心理戦の場となっている。SNS上で「事実」として受け取られる情報も、実際には操作されたものである可能性が高く、ユーザーは日々、無意識のうちにプロパガンダの影響を受けている。
映画『ヘイター』で描かれたようなデジタル空間における世論操作の手法は、まさに現代社会で実際に起こっている現象であり、SNS時代におけるプロパガンダの新たな形態を象徴している。
SNSによる世論操作とバズるコンテンツの特性
SNSでは、事実そのものよりも「拡散されやすい表現」が優先される傾向がある。特に、怒りや驚きを誘発するコンテンツは拡散されやすく、対立を煽る言説が「バズる(急速に拡散する)」ことで政治的分断が加速する。これが、現代の情報環境における最大の問題の一つとなっている。
バズるコンテンツの特性を理解するには、SNSのアルゴリズムの仕組みを考える必要がある。SNSのプラットフォームは、ユーザーの関心を引き、より多くの時間をアプリ内で過ごさせることを目的として設計されている。そのため、刺激的な内容や感情を揺さぶる投稿が優先的に表示される。特に、怒りや恐怖、不安といった負の感情を引き起こす情報は、人々の注意を引きやすく、共有されやすい。これにより、デマや誤情報、陰謀論などが拡散しやすい環境が形成される。
また、バズるコンテンツのもう一つの特徴として、「二極化」が挙げられる。SNSでは、異なる意見の人々が交わる機会が少なく、似たような考えを持つ人々が集まる傾向がある。この現象は「エコーチェンバー(共鳴室)」や「フィルターバブル」と呼ばれ、特定の政治的立場や価値観が強化されやすい環境を作り出す。この結果、異なる立場の人々との対話が減り、社会全体が分断されやすくなる。
映画『ヘイター』に登場する主人公の手法も、まさにこの「バズる」構造を利用したものである。彼は意図的に対立を煽るコンテンツを作成し、特定の層をターゲットに世論を操作する。これは、現実の選挙戦や政治運動でも用いられている戦略と一致しており、SNS時代における情報操作の危険性を如実に示している。
SNSの普及によって、プロパガンダの手法は「より巧妙に、より分かりにくく」なっている。人々は、自分がプロパガンダの影響を受けていることに気づきにくくなり、結果として無意識のうちに情報操作に加担してしまう。このような環境では、単なる情報収集ではなく、「情報を疑い、検証する力」が求められる時代になっている。
ハッシュタグ運動の功罪 ― SNS時代の社会運動の変質
ハッシュタグ運動の拡大は、SNS時代の社会運動のあり方を大きく変えた。#MeToo運動や香港の民主化運動、#BlackLivesMatterなどは、短時間で広範囲に情報を拡散し、政治・社会問題への関心を高める手段として機能してきた。しかし、その一方で、議論の単純化、感情の先行、外部勢力による世論操作といった問題も指摘されている。
ハッシュタグ運動の最大の特徴は、その拡散力にある。SNSのアルゴリズムは、人々の共感や感情を刺激する投稿を優先的に拡散するため、短いスローガンやキャッチフレーズがバズりやすい。これにより、従来のメディアでは取り上げられにくかった社会問題が可視化され、多くの人々が関心を持つきっかけを作る。#MeToo運動では、女性による性被害の告発が相次ぎ、性加害問題に対する社会の認識が変化した。香港の民主化運動では、SNSを活用した抗議活動の呼びかけが行われ、リアルタイムでの情報共有が市民の結束を強めた。#BlackLivesMatterでは、警察の暴力に対する抗議が全米に拡大し、政治家や企業もこの流れに乗らざるを得なくなった。
しかし、SNSを通じた運動は、問題を単純化しすぎるという弊害も生んでいる。ハッシュタグは短い言葉でメッセージを伝えるため、複雑な社会問題の背景や多様な視点が省略される傾向があり、議論が感情的になりやすく、「賛成か反対か」という二元論に陥る。#MeToo運動では、「女性が声を上げることが正義」とされる一方で、告発された側が法的手続きなしに社会的制裁を受けるケースも発生し、真偽が不確かな告発が拡散されることで、一部の無実の人々がキャリアを失う事態に発展した。
また、香港の民主化運動では、「自由対専制」という構図が強調される一方で、運動の過激化による暴力行為や、背景にある歴史的経緯についての議論は置き去りにされた。さらに、#BlackLivesMatterでは、賛同しない企業や著名人に対して「沈黙は暴力」と糾弾する動きが見られ、社会的圧力による同調が求められる状況が生まれた。
このように、ハッシュタグ運動は社会的な意識を高める一方で、「異論を許さない空気」を生みやすいという危険性を孕んでいる。
SNSでは、怒りや共感を引き起こす投稿ほど拡散されやすい。これは、SNSのアルゴリズムが「エンゲージメント率(反応の多さ)」を重視するためであり、人々の感情を揺さぶる投稿は「いいね」や「リツイート」が増え、拡散の速度が加速する。
しかし、感情が先行することで、冷静な議論が後回しにされることも少なくない。たとえば、SNS上での告発が瞬時に拡散された後、後になって誤報だったと判明するケースもあるが、その時点ではすでに当事者の評判の失墜は避けられない。感情の波に乗せられた運動は、社会の関心を集めることには成功するが、長期的な視点での問題解決に結びつくかは疑問が残る。
また、ハッシュタグ運動は、その拡散力の高さから、外部勢力による情報操作に利用されることがある。たとえば、香港の民主化運動では、中国政府がSNS上で偽アカウントを用いてデマを流し、運動の信用を失墜させようとしたことが報じられている。さらに、ロシアや中国のサイバー部隊が、アメリカの選挙に影響を与えるために特定のハッシュタグを拡散させる「情報戦」を行っていることも明らかになっている。
日本においても、選挙戦でSNSを活用した情報操作の疑いが指摘される場面が増えており、特定の候補者を貶めるデマや、SNS上での誹謗中傷の拡散は、意図的に仕組まれたものである可能性がある。ハッシュタグを利用した運動は、一般市民が政治に参加する手段として有効ではあるが、その裏に「誰が操作しているのか?」という視点を持つことが重要である。
映画『ヘイター』の主人公トマシュは、SNSを駆使して世論を操作する手法を用いる。彼の戦略は、現実のハッシュタグ運動と非常に類似しており、「ある特定のナラティブ(物語)」を強調することで、感情を煽り、社会の分断を加速させる。トマシュの行動は、現代のSNS社会における情報操作の危険性を象徴しており、意図的にデマを流し、対立を煽ることで世論の方向性を自らの意図に沿って動かす。
これは、現実のハッシュタグ運動が「誰かの思惑」によって利用される可能性があることを示唆している。
2024年の東京都知事選や兵庫県知事選では、ハッシュタグを利用した支持・批判が大きく拡散された。特定の候補者を応援する投稿がバズり、また、対立候補を批判するハッシュタグがトレンド入りする場面も見られた。これにより、SNS上での話題が短期間で選挙結果に影響を与える現象が顕著になった。しかし、問題はその情報が必ずしも正確とは限らない点にある。
SNS上で拡散された政策批判の中には根拠のないものも含まれ、候補者への誹謗中傷が意図的に広められるケースもある。その結果、有権者が冷静に判断する機会を奪われる危険性がある。
ハッシュタグ運動は、社会の関心を集める強力なツールであるが、その拡散力の高さゆえに、議論の単純化や感情の先行、外部勢力による操作といったリスクを伴う。SNS時代の民主主義においては、拡散された情報を鵜呑みにせず、「誰が」「どのような意図で」発信しているのかを見極めるリテラシーが求められる。
映画『ヘイター』の警鐘 ― デジタル時代の民主主義
映画『ヘイター』は、SNSが政治と社会をいかに変容させるかを鋭く描き出し、情報リテラシーの重要性とデジタル時代の民主主義の課題を提示している。本作の最大のテーマは、「SNSがいかにして人々の価値観を操作し、社会の分断を生み出すか」である。
本作の主人公トマシュは、特定の政治勢力に雇われ、意図的にSNSを利用して世論を操作する。彼は偽情報を流し、炎上を誘発し、人々の怒りを増幅させることで、対立を煽る。最終的には、この情報操作が現実の暴力へとつながり、社会全体に影響を及ぼす。この構造は、現実のSNS社会と驚くほど似ている。
実際に、SNS上での言論が暴力へと発展した事例は数多く存在する。例えば、アメリカではQアノンの陰謀論が一部の人々を過激化させ、暴力事件を引き起こした。また、日本においても、選挙戦での誹謗中傷やデマが候補者の人格攻撃に繋がり、実生活での安全を脅かす事態が発生している。
さらに、本作は「個人が情報操作の一部になり得る」という現実をも示している。主人公トマシュは、最初は単なる一個人であったが、SNSを巧みに利用することで、世論に大きな影響を与える存在へと変貌する。この点は、現代において個人がSNSを通じて社会運動や政治運動に参加し、時にはプロパガンダの一翼を担ってしまう状況と類似している。
映画『ヘイター』は、SNS時代の情報リテラシーの必要性を強調するだけでなく、デジタル時代における民主主義の脆弱性を暴き出している。本作が投げかける最大の問いは、「私たちはどのように情報と向き合うべきか?」という点にある。単なる情報の消費者ではなく、批判的思考を持ち、意図的な世論操作に流されない姿勢が、今後の社会においてより一層求められるだろう。単なる情報の消費者ではなく、批判的思考を持ち、意図的な世論操作に流されない姿勢が、今後の社会においてより一層求められるだろう。
そのためには、SNSの断片的で感情を煽る情報に頼るのではなく、国会図書館などの書籍や一次資料に触れ、深い知識を得ることが重要である。また、政治思想とは無関係なコミュニティに参加し、多様な価値観の中で現実の人間関係を築くことも、偏った情報に飲み込まれないための一つの方法だ。さらに、孤独は人を過激で極端な思考へと導きやすい。SNSの世界に閉じこもるのではなく、リアルな場での対話や活動を通じて、自らの視野を広げることが、冷静な判断力を保つ鍵となるだろう。
◆ダークな世界、社会派映画