熊本県菊池郡大津町5歳男児失踪事件(猪原修くん行方不明事件)

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その日、熊本県では冷たい雨が降り続いていた。5歳の男児が姿を消したのは、ほんの数分の出来事だった。家族の目を離したわずかな瞬間が、後に深刻な失踪事件へとつながる。

少年の行方は今もわからず、未だに解けない謎を残している。

この「雨の日の失踪事件」は、関係者全てにとって、忘れられない苦しみをもたらした。

ある雨の日の失踪事件/事件概要

1973年(昭和48年)7月3日(火曜日)、熊本県菊池郡菊陽町に住む寿司店店員・Tさん(42歳・当時)は、長男である猪原修くん(5歳・当時)と親戚の女性(修くんの叔母)の3人で、自宅最寄り駅である国鉄(当時)原水駅から一駅(直線距離で4km程度)離れた肥後大津駅近の、N産婦人科医院(現存しない)を訪れていた。

親戚女性(以降・叔母)は自ら車を運転してこの産院を訪問したようであるが、Tさん父子を同乗させて向かったのか、現地で落ち合ったのかは不明である。

その日Tさんは、出産予定日が迫り入院していた妻のM子さん(42歳・当時)を見舞い、医師の診察に立ち会って経過の説明を受ける予定であったようだ。M子さんは当時、修くんの妹を身籠もっていた。

現在の失踪地点周辺地図(GoogleMap)

その日は朝方に、1時間に30mm近い土砂降りの雨が降ったものの、3人がN医院を訪れた午後にはそれも止んでおり曇り空が広がっていたという。その為、両親が診察室にいる間、修くんは病院の庭で叔母に遊んでもらっていた。

午後2時半から3時の間、元々そのような約束であったのか、叔母は産院の玄関に修くんを連れて行き、母親の病室へ戻るよう言い聞かせた後、修くんを一人残し、車で帰路についた。

その後スタッフや患者、来院者の中から修くんを見たという声はあがっておらず、叔母の証言はそのまま修くんの最終目撃情報となった。

産院での用事を終えたTさんは、院内にもその庭にも修くんがいない事に気づいたが、叔母と一緒に車で先に帰ったものと考え、夕方頃一人で帰宅した。しかし自宅に修くんはおらず、病院に引き返した。恐らくはその後叔母と連絡を取り、その時点でようやく修くんの失踪が発覚したものと思われる。熊本県警大津署に捜索願が届け出られた頃には、既に夜の8時になっていた。

その日の修くんの服装は白い半袖シャツと同じく白の半ズボン。履いてきた靴はN産院玄関の下駄箱に残されており、他の履き物がなくなったという情報も無い事から、修くんは裸足のまま失踪したものと考えられているが、庭等に裸足の足跡が見つかったという情報は無い。その日は激しい夕立にも見舞われたといい、足跡がかき消されてしまった可能性もある。

産院の庭には幅2.6m、深さ30cmほどの用水路が設置されており、7月は元々集中豪雨の多い時期であり、その上、午前中の雨もあり更に増水していた事から、修くんは誤って転落し、流されてしまった可能性が高いと考えられた。

翌朝からは警察や地元消防団員が、河川や用水路を中心に、周辺の田畑や山林への迷い込み、交通事故の可能性も(修くんは車好きであり、よくバスに乗りたがっていたという)考慮された聞き込みや捜索活動が2週間に渡って行われた。

しかし、何らかの痕跡や遺留品の一つとして見い出される事は無く、彼は河川に転落し、もはや海まで流されてしまったものと断定され、捜索は打ち切られた。

両親は生存を信じ、修くんが好きだったバスに乗ったのではないかと考え、写真を手に県内を巡って目撃情報を求めたが、新聞記事としては7月5日の地方紙や全国紙地方版に小さく掲載されたきりその続報も無く、修くんの失踪は、夏場に連日のように報道される不運な水難事故の一つとして、次第に人々の記憶の奥底へと埋もれていった。

「犯人」からの告白状<1>

それから2年後、一度は永い眠りに就いたと思われたこの事件は、唐突に動き始める事となる。

1975年(昭和50年)6月16日(月曜日)朝10時頃、猪原家の郵便受けに一通の封書が投函された。差出人の名前や住所の記載は無く「TYCK」というアルファベット4文字のみであった。文面は黒のボールペンで書かれ、殆どの文字が故意に筆跡を変えた片仮名であったという。

封書は投函前に何らかの油に浸された形跡があり、宛先が書かれた二重封筒も、同封の書状(大学ノートの1ページを切り取ったもの)も黄色く変色し、ロウ引き紙や亜麻仁油紙のような光沢があった。この細工は、差出人の指紋を消す効果を狙って行われたと考えられている。

手紙の現物や全文が一般公開された事はない為、内容については断片的な新聞報道に頼るしかないが、それによると、差出人は1975年時点で19歳の少年であり、2年前の雨の日、熊本へ行く途中、(N産院のある)大津町を横切る旧国道57号で、運転していた車が雨でスリップを起こし、修くんをはねて死なせてしまった事、当時の自分は運転免許を取得して1ヶ月、車も(恐らく親に買ってもらって)3日目であった為、怒られるのが怖くなり、近隣の農家から借りたスコップで、事故現場である「大津町の東の方」から3km離れた山中に遺体を埋めて隠匿、逃走した事を告白、懺悔するといった大筋であった。

封筒に押された消印は6月14日付で、N産院から直線距離で東に10km程離れた阿蘇郡(現阿蘇市)赤水局のものであった。投函されたポストが阿蘇町永水(当時)に存在することも特定されているという。

警察は当該ポスト周辺で聞き込みを行うと共に、阿蘇郡(当時・現在では阿蘇市が独立して分かれている)一帯で1973年6月に免許を取得し、車を買った者のリストを作成、当日のアリバイを聴取する等の捜査を行なった。

捜査員が全面的に告白状を信用したのは、その文面が、2年前に事故として事実上捜査が終了しており、大々的に報道されて衆目を集めた訳でもない失踪事件の捜査を、刑事事件である「ひき逃げ事件」として再開させ、自身の逮捕に繋がる可能性を生じさせるものであり、差出人にとって不利益しか齎さない事。近隣への聞き込みの結果、旧国道57号線と並走する国鉄豊肥本線の線路上に設置された、菊陽町原水踏切付近の農家から、「2年前の雨の日、訪ねてきた若い男に1時間ほどスコップを貸した」という証言が得られた事に依るようである。

修くんの母親は『熊本日日新聞』の取材に応じ、その紙面で、わが子の居場所を教えて欲しいと訴えた。6月16日に届いた告白文では、判明している訳でもない事故現場から、3kmの場所に埋めたという情報しかなく、正確な埋葬場所を特定できるような内容ではなかったものと思われる。

猪原夫妻の憔悴し切った姿は、TVニュースとしてブラウン管にも映し出された。その姿を見て更に罪悪感を募らせたという「犯人」から、2通目の告白状が届いたのは7月2日の事であった

「犯人」からの告白状<2>

1975年7月2日(水曜日)、宛先を書くべき部分に「済みませんが警察に届けて下さい」と黒のボールペンで書かれた封書が熊本北警察署に届けられた。その日は修くんの失踪から丁度2年となる日の前日であった。

便箋がわりに大学ノートの切り離したページが使われているのも、封筒と書状が油に浸されて黄変しているのもまた1通目と同様であった。告白状の内容は修くんを埋葬した場所を述べ、罪の償いをしたいと訴えるものであった。

しかし、その文面はこの期に及んでも「大津高校の前を真っ直ぐ南に行き岩坂の三ツ角を左へ折れ、右へ上った山の途中の右下の杉山」というあまりにも漠然としたものであり、2年前の埋葬が事実であったとしても、その痕跡を、夏草が生い茂る中で探し当てるのは困難を極めるものであった。

大津町岩坂は実在する地名であり、告白状の通り、修くんが姿を消したN産院のすぐ北を横切る旧国道57号線から県道経由で3km程の距離にある。 捜査員はこの土地に、東西3km余にわたって細長く広がる杉山をしらみ潰しに捜索、数十ヶ所を掘り返したが、亡骸を発見する事はついに出来ないまま、修くんの捜索は再度打ち切られる事になった。

手紙の送り主は、新聞報道等を通じて捜索が難航している事を知っていた筈であるが、後続の告白状が送られてくる事は二度となかった。

その後も修くんは、現在で言う「特異行方不明者」として発見のための努力が続けられていたが、失踪から50年以上が経過した2024年9月現在、失踪宣告審判の請求こそ確認できないものの、行方不明者としての情報の公表等はされていないようである。

手がかりとその検討

本事件において、いくつかの重要な手がかりが浮上している。ここからは、これまでに確認された手がかりの詳細と、それに基づく仮説、可能性のあるシナリオを分析する。

猪原修くんについて

修くんは近隣の保育園に通う5歳児であり、翌年度には小学校入学を控えていた。団地育ちで色白、性格は几帳面であり、裸足で外遊びに飛び出すようなタイプの子供ではなかったという。ただ、車好きであり、特にバスに乗るのを好んでいた為、丁度産院付近を通りがかったバスに気を取られた可能性がないとは言いきれない。

しかし、N産院の周辺は国鉄の駅にも近くある程度の人通りや車通りが予想され、失踪が1970年代である事も考慮すると、路上にはガラスの破片や飲料用缶のプルタブ、煙草の吸い殻、噛んだ後のガム等が結構な頻度で捨てられており、子供であっても、余程の事がなければ裸足で歩くことには抵抗があったものと考えられる。

彼が一人でバスに乗れたのか、N産院に訪れるのは何度目であったのか、運賃になる程度のお小遣いを持ち合わせていたのかについては情報が無いが、両親の不在や、慣れない場所に一人残された事で心境に変化が生じ、普段ではあり得ない行動をとってしまった可能性はあるだろう。

告白状について

<事件概要>で述べた通り、2通の告白状は一般公開されていない上、原文が引用される事は殆ど無く、意訳した内容が新聞で断片的に取り上げられているのみである。後に差出人の身柄を確保した際に正確な文面を証言させ、「秘密の暴露」とする意図があったのかもしれない。

警察は当初から「イタズラである可能性はほとんどない」と、告白状の内容をほぼ鵜呑みにしたと思われる捜査を行っているが、現代の「劇場型犯罪」に慣れ親しんだ者の目で見ればこの「告白状」には少々訝しく感じられる所も多い。

果たして、自らが起こした事故について2年間真摯に反省したはずの若者が、油で細工し、筆跡を変えた手紙を送りつけてくるものなのだろうか……。

まず、油に紙を浸して指紋を消す方法が広く知られていたとは思われない。少なくとも脅迫状や怪文書が送られてきた国内の事件で、このような細工がされた例は確認できなかった。海外の事件でも『ブラック・ダリア殺人事件』で、1947年に犯人と思われる人物が、被害者の遺品を新聞社に送りつけた際、封筒をガソリンで洗浄していたという前例が出てくる程度である。

海外事件マニアでなくてもその知識を得られる職業や環境が、当時の日本には存在したのかもしれないが、インターネットなど影も形もない時代に、普通の19歳の少年が得られる知識であるとは考えにくい。

告白状の内容も、原文では「お宅の坊やを車でハネ飛ばして殺した」「イタイ、イタイお母さんと言った」といった文章が使われていることが示唆されており、反省どころか、家族に読ませることで精神的苦痛を与えようという意図を読み取れない事もない。

そして、結局は、「修くんを事故に遭わせた者にしか分からない事実」が、告白状に従った捜索により明らかになる事は無かった。

一旦裏付けが取れたと思われた「農家でスコップを借りた」件さえも、1975年6月19日に報道された、菊陽町原水踏切付近の農家から得た証言について疑い(原水でスコップを借りて旧国道57号線を引き返し、大津市岩坂で埋葬のために使用する必要がある状況で、1時間で返却するのは可能なのか)が生じた為であろうか、1975年7月4日の時点でも、新たな証言を岩坂の農家で求めている事が報じられている。

当日の天候について

前述の通り、失踪当日である1973年7月3日は午前中に集中豪雨があり、その事は気象庁の過去データからも裏付けられている。午前6時頃、失踪地点から南西に約20km離れた熊本市では27.5mmの降水が記録されている。大津町には観測所が存在せず、失踪地点に最も近い観測所は北に約15km離れた菊池市に存在するが、1973年当時は1時間毎のデータが観測されていなかった。

「告白状」では、雨でスリップした車で修くんをはねてしまったと記されている。しかしその日、修くんが失踪した時間帯以降には降水の記録がない(–は降水が無かった事、空欄はデータ自体が存在しない事を示している)。

1975年6月19日の記事では「(2年前の失踪の)当日は午後3時半頃から夕立となり、そのまま雨はやまず土砂降りとなった」という記述があるが、どのような情報源に拠るものかは定かでは無い(少なくとも隣接する熊本市では降雨が記録されていない)。

隣市では晴れているにも関わらず、ごく狭い範囲に激しい雨が降るという所謂「ゲリラ豪雨」は、異常気象が表面化する以前である1970年代であっても皆無ではなかったであろうが、1973年7月5日の失踪事件発生当時の記事では、雨で既に増水していた用水路について言及したものはあっても、夕立について言及したものは確認できなかった。

気象庁HP 過去の気象データ 熊本県菊池市・熊本市

本当に激しい夕立があったのであれば、それと子供の失踪がほぼ同時刻に起きていたのであるから、失踪事件の第一報の時点で何らかの言及があるのではないかと思われる為、2年後の「告白状」の記述に引きずられて、朝の豪雨の記憶が夕方に書き変わってしまった可能性が考えられる。

そうであるとすると、「告白状」の信用性は更に低下することになるが、その日に失踪地点周辺で局地的な大雨があった事、または無かった事を証明するのは、今となっては困難であろう。

失踪地点周辺について

最も事件当時に近い1983年刊行のゼンリン住宅地図によると、N産院の庭を出て、バス停があり、「告白状」で修くんが事故に遭ったとされた旧国道57号に出る為には、民家の間を通る細い路地を抜けるか、大津小学校(当時・現在は移転済み)の裏を通って大きく回り込むか、どちらにせよ最低限の土地勘は必要であるように見受けられる上、たとえバスが通ったとしても、産院や旧国道57号沿いの商店街の建物が邪魔をして、庭からは見えない可能性も高い。

警察が最初の捜索打ち切りの際に結論づけたように、修くんが付近の河川で遊んでいる間に溺れ、海まで流されたとするのは更に可能性が低い。最寄りの河川である上出手川は旧国道57号のさらに北を流れており、辿り着くためには子供が裸足で10分以上かけて、幹線道路に準じる旧国道57号を横断する必要もある事を考えると、途中で心が折れてしまうか、通りがかった大人に見咎められて既に目撃情報が上がっている可能性が高い。

尤も、何者かが修くんを誘い出し、抱き上げるか背負う、車に乗せる等して連れ出したのであれば、これらの問題は容易にクリアできるものであろう。

誘拐事件である可能性について

産院には新生児を狙う人物が徘徊しているのだという。1975年(昭和50年)8月、東京都足立区内の病院から生後12時間の赤ちゃんが誘拐された「Yちゃん事件」が発生した。その後、翌年の1月、42歳の女性飲食店経営者(42)の容疑者が逮捕され、犯行の動機は「子どもが欲しかった」などと語り、Yちゃんは同女性に育てられていた。

また、1976年(昭和51年)10月には、東京世田谷区の病院から生後一週間の男の赤ちゃんが身代金目的で誘拐され翌日に近隣の公園で保護された。犯人の47歳男性は、翌年の2月に逮捕された。

1981年(昭和56年)7月には名古屋市内の病院から赤ちゃんが誘拐され、1984年(昭和59年)年7月には群馬県桐生市内、同年12月には大阪市内病院内から生後間もない赤ちゃんが誘拐される事件が発生するが、いずれも発生当日に犯人が逮捕され、赤ちゃんは両親のもとに戻った。

尤も、産院からの新生児の誘拐事件は、「母子家庭として公の扶助を受けて働かず生活するため」、「体の弱い自分の子供と取り替えるため」、「子供を授かれない女性が自分の子供として育てる為に誘拐するため」などと、ほとんど都市伝説的な理由づけがされている事が多いのであるが、昭和時代の産院は新生児の兄姉である子供を物色する場としても機能し得るのではないかとも考えることもできそうだ。

当時は子供を2、3人儲けることが一般的であり、妊婦が産院で診察を受ける際には、まだ目を離してはいけない年齢の子供を連れている事が多い一方で、両親ともにお腹の子供に気を取られるあまり成長した子供からは目を離しがちであったかもしれず、また、病院ということで看護師等の人目があるのだと思うと、油断も生じやすかったのかもしれない。

修くんも父親に連れられて産院を訪れたものの、その日の世話はほぼ叔母に任されており、姿を消したのは彼女が目を離した直後の事であった。彼と同じように、父親に連れられて母親の見舞いに来たものの、病院内では騒いだり走ったりもできず退屈してしまった子供に声をかけ、外に連れ出すという手口があり得たのではないか。面会人のふりをしてそういった子供を物色する人物が付け入る隙が、当時の産院にはあったのではないだろうか。

真相考察

修くんは産院内から誘い出されて、誘拐されたものと考えている。目的は身代金等ではなく、性的関心や連れ回し等のために「子供を誘拐すること」自体であった可能性が高い。

修くん自身が単独で外に出て事故に遭ったと考えるには、産院の玄関に残されたままの外靴の説明が困難であり、何者かに背負われるか、抱きかかえられて外出したと考えるのが自然である。

誘拐犯は当時阿蘇郡部に住み、大津町にもある程度土地勘がある人物で「告白状」を書いた者と同一人物ではあるが、年齢こそまだ若い(産院に出入りする新生児の親として違和感が無い程度)可能性が高いものの、「告白状」で自己紹介したような初々しい人物とは程遠く、ひき逃げの告白も、捜査を撹乱するための嘘であったと考える。

しかし、「告白状」が語る通り、実際に修くんが今も大津町岩坂のどこかに眠っている可能性は高い。犯人は見つからないようなヒントを出して警察を右往させて楽しむ一方で、内心では探し当てて欲しかったのではないかとも思う。

一見、自己顕示欲の成果物と見える「告白状」には「両親に頭を下げる」「罪を償いたい」という言葉があったという。それ自体は本心であり、「告白状」で謝罪の意思を表現することで、大罪を犯した罪悪感がある程度軽減された為に、実際に遺体が発見されていないにも関わらずそれ以上の「告白状」を送るのは止めたという事であったのかもしれない。

関連事件

恐らく、この事件の犯人も購読していたと思われる『熊本日日新聞』の1973年7月20日の記事では、奈良県で、その日に月賦で買ったばかりの中古車で親子3人をはね、子供2人を死亡させて逃亡、指名手配されていた大学生が「死んでお詫びをする」と書いた遺書を残して車内で排気ガス自殺した状態で発見されたという事件が報じられている。

「告白状」のひき逃げと上記事件には部分的な共通点が存在する。勿論答え合わせをする術はないが、犯人はこの事件を参考に告白状の筋書きを考え出したのではないだろうか。

「死んでお詫びをする」というあり方で全ての罪が償えると考えるのもそれはそれで安直ではあるが、安全圏に身を置いて、指紋を洗い流した手紙の上だけで「ただただ頭を下げるのみ」「TVで猪原夫妻が悲しんでいる姿を見て責められた」「(1975年7月)3日で(事件から)丸2年となり、自分もすごく責められている。罪の償いをしたい」と訴える、この「犯人」の心裡の寒々しさを思うと戦慄せざるを得ない。事件から50年以上経っているとはいえ、この犯人は未だ存命の可能性がある。

近隣で類似の事件が起きたという話が出ていない事は不幸中の幸いであるが、「告白文」で犯人が望んだ通りの「償い」が既になされている事を祈るのみである。


◾️参考資料
・ゼンリンの住宅地図(菊池郡東部・旭志村・大津町)1983 株式会社ゼンリン1983年8月
・熊本日日新聞 1973年7月5日付、7月20日付、1975年6月18日付、6月19日付、7月3日付、7月3日付(夕刊)、7月4日付、7月5日付
・西日本新聞(熊本県版)1973年7月3日付
・朝日新聞(熊本県版)1973年7月5日付
・読売新聞(熊本県版)1975年6月18日付
・毎日新聞『最近の赤ちゃん誘拐、犯人はいずれも逮捕』1987年12月30日付


◆子どもの行方不明事件(事案)考察


Tokume-WriterWebライター

投稿者プロフィール

兼業webライターです。ミニレッキス&ビセイインコと暮らすフルタイム事務員。得意分野は未解決事件、歴史、オカルト等。クラウドワークスID 4559565 DMでもご依頼可能です。

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