飯塚事件:日本の司法制度の課題と冤罪のリスク

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2024年3月11日、『冤罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟』は衆議院議員会館で結成総会を開催し、発足した。

設立趣意書には、冤罪犠牲者の速やかな救済には捜査機関が保持する証拠の活用、再審手続きの明確化と透明化が必要であり、冤罪の疑いが明らかになった際には迅速に裁判のやり直しが行えるよう法整備を行うべきだと記されている。

再審事件の報道を契機に国民の再審制度への関心が高まり、法改正が喫緊の課題として認識されているため、制度改革に取り組む時期が来ていると述べられており、これを背景に議員連盟が設立された。

また、以前から日本の司法制度は国際社会からも度々問題視されており、国連の自由権規約委員会などからの指摘がある。

これらの国際機関は、長期にわたる拘留期間、弁護人が立ち会えない取調べ方法、自白の重視といった問題点を指摘しており、日本政府に対して取調べの全過程の録音・録画の徹底、拘留期間の短縮、弁護人立会いの保証の強化などを勧告している。

これらの勧告は、日本の法改正の議論において重要な参考点とされているが、改革は進行中であり、完全に国際基準に適合しているわけではない。

飯塚事件

1992年2月20日(木曜日)、福岡県飯塚市で発生した小学校1年生の少女二人の殺害事件、いわゆる「飯塚事件」は、日本社会に二つの側面から長年にわたり衝撃を与え続けている。

一つは、登校途中の二人の少女が何者かによって誘拐され、その後殺害された事件の残虐性である。もう一つは、逮捕された被疑者(被告)が自らの無実を主張し続けているにも関わらず、情況証拠のみに基づき死刑判決が下され、再審請求が予定される中で2008年10月24日、死刑が執行されたことの衝撃である。

福岡県飯塚市で起きた少女二人の殺害事件は、当初から謎に包まれていた。逮捕された被告人は、自らの無実を主張し続けたが、証拠は彼を犯人と指し示しているように見えた。しかし、証拠の多くは情況証拠に基づいており、物的証拠に乏しかった。裁判所は被告人の有罪を宣告したが、この判決は日本の司法制度の根本的な問題点を示唆していると言える。

本件は、冤罪の可能性を指摘する声が後を絶たず、日本の司法制度に対する再評価の必要性を浮き彫りにしている。冤罪とは、実際には犯罪に関与していないにも関わらず、有罪と判断されてしまうことを指し、これはしばしば司法制度の欠陥が原因で起こる。

この記事は、「飯塚事件」を事例として取り上げ、日本の司法制度の問題点を検証する。

事件の経緯

1・以下の図表は、裁判で認定された誘拐から遺体発見までの流れ

図表:裁判で認定された誘拐から遺体発見までの流れ

2024年2月15日、福岡地方裁判所において、飯塚事件の第2次再審請求に関連した3者(裁判所、検察、弁護団)協議が行われた。協議は非公開で実施され、その後、弁護団は記者会見を開催した。

同会見では、被害女児2名を最終目撃したとされる女性が、事件当日ではなく別の日に女児たちを目撃したとする新証拠が明らかにされた。また、女性は、警察による誘導で以前の証言をしたとも述べている。

この新たな証言は第2次請求審で尋問され、検察側はその信憑性に疑念を示しているこの点が再審可否の争点となっており、裁判所は判断を4月以降に下すこととしており、本事件の大きな注目点になるだろう。

2・K元死刑囚側が主張した当日のK氏の動向

1992年2月20日7時55分頃、K氏は妻を乗せて自宅から出発した。その後、妻を勤務先である消防署で降ろし、福岡県山田市内にある実母宅に米を届けるために向かった。さらに、10時20分頃から12時30分頃には某パチンコ店で遊戯をしており、13時頃に自宅に戻った。なお、某パチンコ店でのK氏のアリバイは確認されていないようである。

図表:K元死刑囚側が主張した当日のK氏の動向

3・補足情報

1. B子さんの自宅から学校までの距離は約1420メートルで、子供の足で20分から25分の距離である。

2. 元死刑囚K氏(54歳)が運転していた車両はマツダ・ステーションワゴン・ウエストコーストである。

3. その車の登録番号は「筑豊55つ6112」である。

4. この車は1983年7月に北九州市在住の男性によって新車として購入され、約6年間使用された。

5. 1989年7月、前述の男性はこの車を北九州三菱自動車に下取りに出し、その後飯塚市内の中古車販売業者がこの車を購入し、ボディの傷を修理した上で展示・販売された。

6. 1989年9月末、K元死刑囚はこの車を購入した。所有者は妻である。K元死刑囚はこの車をほぼ3年間使用した。

7. 警察がこの車を押収したのは、K元死刑囚が売却した後である。

8. 1992年8月16日、西日本新聞は朝刊の一面に「飯塚の2女児殺害 重要参考人浮かぶ DNA鑑定で判明 県警 現場の体毛と一致」という見出しでスクープ記事を発表した。

9. 1992年9月26日、K元死刑囚はこの車を下取りに出し、新たな車を購入した。

10. 被害者女児の一人の顔には硬い物体で殴られたと思われる傷があった。

11. もう一人の女児には頭部にも同様の傷があり、多量の出血があったことが伺える。

12. 両者の衣服は乱れており、靴を履いていなかった。

13.被害女児2人の死因は、頸部を圧迫されたことによる窒息、具体的には扼頸(手による圧迫)によるものであり、他殺である。 上記の3に関して、元死刑囚が使用していた車の登録番号の4桁一部を、E村方三叉路付近でその車らしきものを目撃したと証言した人物が覚えていた。ただし、警察による数字の誘導があったとの指摘も残っている。

4・以下の図表は、捜査開始から逮捕、起訴、裁判、死刑執行までの流れ

図表:捜査開始から逮捕、起訴、裁判、死刑執行及びこれまでの流れ

1999年9月29日の福岡地方裁判所(裁判長裁判官・陶山博生)の判決文(死体遺棄、略取誘拐、殺人被告事件)によれば、「本件において被告人と犯行との結び付き証明する直接証明はせず、情況証拠によって証明することのできる個々の情況事実は、そのどれを検討してみても、単独では被告人を犯人と断定することができないのである。

しかしながら、情況証拠によって証明された個々の情況事実は、これらをすべて照合して総合評価する必要がある。」と述べながら、元死刑囚K氏は、午前8時30分から午前9時頃には、福岡県飯塚市内またはその近郊でA子さんの頚部を手で締め付け窒息させて殺害した。

同時刻、彼は同様にB子さんの頚部も締め付け、窒息させて殺害し、午前11時頃、被告人は福岡県甘木市(現、朝倉市)大字野鳥の国道322号線沿い、八丁峠第5カーブ付近の山中にて、A子の死体とB子の死体をそれぞれ投げ捨てて遺棄したと認定された。

指摘される疑問点と問題点

警察は、事件の発生後、約15万人の捜査員を動員したとされる本件で、元死刑囚のK氏は自らの無実を訴え続けている。誘拐された場所や手段、殺害現場についての直接的な目撃証言は存在せず、K氏の犯人性に関する他の目撃証言や証拠も、推定や仮説に基づく事実認定が行われている。

図表:一審判決の認定事項

また、K氏のDNA型の鑑定結果や彼の車から見つかったとされる被害者のDNA鑑定結果の正確性についても疑問が提起され、繊維鑑定についても被害者の着衣から発見された繊維片がマツダ以外の自動車メーカーが製造した自動車の中にも存在する可能性を完全に排除できないため、「被害児童の着衣に付着していた繊維片がマツダ・ステーションワゴン・ウエストコーストから脱落した繊維片であるとまで断定することはできないといわざるを得ないのである」と述べている。

ぼやけたパズルのピースが集まると、ある凶悪犯の顔が徐々に形をなすが、ピース自体が不明瞭であるために、結果として現れる顔もまた曖昧である。時に元死刑囚の顔に似通って見えるが、違った角度からはまるで別の顔にも見える。

福岡県飯塚市7歳女児行方不明事件との関連性

1988年12月4日、飯塚事件の被害者と同じ小学校に通う当時1年生の女児Iさんが、弟と共にK氏宅を訪れた後、行方不明になる事件が発生していた。この女児を最後に目撃した人物がK氏であり、彼はIさんの捜索活動にも町内会長として参加していた。

警察は、IさんがK氏の自宅を訪れた後に行方が分からなくなったことや、K氏が最後にIさんを目撃した人物であるという事実を基に、K氏がIさんの失踪事件に関与している可能性を検討し、捜査を開始した。しかし、Iさんの現在の所在や安否に関する具体的な情報をつかむには至らなかった。K氏は、1992年に飯塚事件が起こる以前から警察から疑惑の目で見られる存在だった。

I氏が飯塚事件の被疑者として逮捕された後、警察は彼に対してポリグラフテストを実施し、Iさんに関する質問を行った。このテストでK氏が反応を示したとされるIさんの自宅がある集合住宅から西方向に1キロメートル離れた山の麓での捜索を1994年11月11日の午前10時から開始した。

この捜索には地域の消防団も参加し、メディアの注目を集めながら行われた。その後、捜索開始から約25分で、行方不明の女児が着用していたと見られるジャンパーとトレーナーが発見され、女児の母親によって娘のものであると確認された。警察は、数キロメートルにわたる同市明星寺南谷の雑木林からわずか25分で女児の着衣を発見したことを、ある程度の捜査情報に基づいた効果的な捜索として述べているが、具体的な情報源には触れていない。

この捜索で発見された行方不明女児の衣類は、色褪せが少ないため、約6年前の事件発生時に捨てられたものではなく、比較的最近に捨てられた可能性が高いと考えられている。また、近隣住民の証言によると、約2年前にはその発見場所には何もなかったとのことであり、これが1992年の年末以降に捨てられた可能性を示唆している。

飯塚事件発生後、K氏は警察による厳しい監視下にあり、尾行や張り込みが常に行われていた。1993年9月29日午前8時10分頃、福岡県警捜査一課の巡査長と飯塚署の巡査長がK氏宅からゴミ袋を拾うというやや強引な手法で行われた捜査は、K氏に対する警察の厳しい監視体制を示している

これに対してK氏が反応し、刈り込みバサミで警察官を襲ったとされるが、この行為もK氏が異常なほどのストレスと圧力下にあったことを物語っている。K氏はその後、傷害と暴力行為の疑いで緊急逮捕され、10日間の勾留の後、罰金10万円の略式命令を受けた。これは、捜査機関がK氏を犯人と断定するために不適切な手段を用いた可能性があることを示唆している。

このような状況は、冤罪の可能性が存在することを強く示している。K氏に対する警察の行動が、適正な法的手続きを逸脱していたのではないかという疑念を抱かせるものであり、事件の真相解明に向けてさらなる慎重な検討が求められる状況である。

1995年2月9日から19日にかけて行われた再捜索で、人骨と思われる骨片3点が発見されたが、福岡県警が非公式に依頼した九州大学法医学教室の鑑定結果は、それらが人骨であると断定するには至らなかった。結果として、福岡県飯塚市で起きた7歳女児の行方不明事件は解決されずに未解決のままとなった。

この事件が犯罪によるものか事故によるものかも明らかにならず、女児の行方も依然として不明である。この状況の中でK氏の死刑が執行されたことは、疑問を残す結果となった。 K氏は長期間にわたって福岡県飯塚市で発生した7歳女児行方不明事件の容疑者であったと考えられている。飯塚事件の発生に伴い、K氏への疑念はさらに強まった。しかし、K氏の死刑が執行されたことにより、彼に対する捜査は完全に終了した。もしK氏が7歳女児行方不明事件の犯人であれば、死刑の執行を遅らせるため、あるいは罪の意識から自白する可能性もあったであろう。

同地域で頻発していた類似事件:白い車の男

福岡県飯塚市秋月地区において、白い車を運転する男性が児童を狙った不審な行動を繰り返しているとの目撃情報が寄せられていた。

同様の情報は飯塚市潤野地区においても報告されており、同地区で過去に発生した福岡県飯塚市7歳女児行方不明事件の前後にも、白い車に関する拉致未遂の事案が複数確認され、甘木署が地域内のパトロールを強化する状況だった。

これらの報告を踏まえ、県警捜査一課と飯塚署、甘木署の捜査本部は、県警捜査一課と飯塚、甘木署の捜査本部は、両地区に精通する同一人物が行動していたとみて、この白い車の男を探し出すことを急いでいたといわれる。

男が目撃された秋月地区の地元住民と捜査本部によると、1991年11月頃、秋月小学校の近くで通学中の女児が、白い車を運転する男から「学校に送ってやろう」と誘われたという。

その他、女児たちが30-40歳の男から不審な声かけを受ける事件が連続して発生していたが、幸い女児たちは逃げて無事であった。

さらに潤野小学校においても、1992年2月6日に児童から変質者に関する報告があり、教職員が一時期パトロールを行ったが、以降は類似の事件が報告されなかったため、警察への通報は行われなかった。

しかし、1992年2月20日に発生した「飯塚事件」後、改めて児童から聞き取りを実施したところ、十数件の新たな同様の情報が提供されたといわれる。

時期地域車両情報備考
1988年12月4日潤野小校区福岡県飯塚市7歳女児行方不明事件
1989年甘木市内(遺体遺棄場所近隣)白い車連れ去り未遂
1991年秋潤野小校区内及び隣接校区内
甘木市秋月地区(遺体遺棄場所隣接地域)
白い車変質者・連れ去り未遂
1992年2月6日潤野小校区内変質者/不審者
1992年2月10日潤野小校区内飯塚事件
1992年3月7日、10日潤野小校区内白い車連れ去り未遂
飯塚事件資料:同地域で頻発していた類似事件(白い車)

飯塚事件から約1ヶ月後の1992年3月7日、同月10日、潤野小学校の隣の校区の児童が白色の車の男性から声をかけられる事件が発生した。男は児童に道を尋ねなら車に誘い込もうとしたと報道されている。

飯塚事件の謎を考察

飯塚事件では、2名の女児が被害者となったこと、誘拐の手口、殺害場所が謎として残っている。これらは未解決事件の核心部分であり、それぞれが捜査において解明されるべき重要な要素である。

なぜなら、事件の背後にある動機や手口、犯行場所の特定は、犯人を特定し、事件の真相に迫り、正義を実現するために不可欠だからだ。

被害者2名の謎

過去のわいせつ目的の児童誘拐及び殺害事件で、同時に2人の児童が被害に遭うケースは非常に稀である。男女2人の児童が誘拐され殺害された2015年8月の「寝屋川市中1男女殺害事件」が確認できるが、それ以外の事件は確認できない。

2人の女児を短時間(D山D子の証言とV田V子の証言が正しいと仮定するなら、犯行時間午前8時30分頃から8時33分頃の約3分間である)で誘拐することは非常に難しいと考えられる。2人が一緒にいる場合、一方が危険を察知して逃げたり、助けを求めたり、もう一方を助けようとする可能性が高く、単独犯が短時間で2人を制圧して車両に連れ込むのは困難だろう。

2人を同時に誘拐することは、計画や実行が複雑であり、犯人が2人を同時にコントロールする必要があるため、犯行はより難しくなる。また、犯行が目撃されるリスクを考慮すると、短時間での実行が重要であるが、2人を同時に連れ去るには時間がかかり、その結果、目撃される可能性が高まる。

さらに、2人の子供を同時に制圧するには、犯人が強い威圧感を与え、即座に従わせる必要があるが、それを短時間で行うのは難しい。特に、子どもたちが抵抗した場合、状況はさらに複雑になる。

また、2人が同時に動いていると、目撃者の注意を引きやすく、周囲の人々に異常を感知されるリスクが高まる。これらの要素を考えると、犯人が短時間で2人の女児を誘拐するには、特別な状況が必要だったと考えられる。

特に、犯行現場が住宅街である場合、その難易度はさらに高まる。住宅街では、周囲に家があり、通行人や住民がいるため、目撃されるリスクが非常に大きい。特に平日の朝、通勤や通学で多くの人が行き交う時間帯ではリスクがさらに増す。このような環境下で2人の子供を同時に短時間で制圧し、車両に連れ込むのは非常に困難だと考えられる。

また、犯行に使用する車両に2人を迅速に乗せる必要があるが、住宅街では人目を避けるのが難しく、移動中に目撃される可能性が高まるため、単独犯が2人を同時に車に乗せ、目撃されずに実行するのは極めて難しい。

このような状況では、複数犯が関与している可能性が高い。複数犯であれば、一人が子供たちを制圧し、もう一人が車両を準備するなど、犯罪の役割分担を行い、短時間で犯行を完了できる。

また、犯人が被害者と面識があり、信頼されていた場合、子供たちが抵抗せずに従った可能性も考えられる。この場合、単独犯でも短時間での誘拐が可能になるが、それでも住宅街で目撃されずに行うのは難しい。

以上を踏まえると、住宅街という環境や2人の子供を同時に短時間で誘拐するという状況を考慮すると、単独犯が成功させるのは非常に困難である。複数犯による計画的な犯行や、犯人が被害者と面識があり信頼されていた場合でなければ、このような状況下での犯行は成立しにくい。

この点は、事件の捜査において犯人像を特定する上で重要な手がかりとなるため、複数犯の可能性や被害者との関係性に焦点を当てた捜査が必要だと思われるが、元死刑囚K氏と被害者女児2名の事前の関係性を示す証拠は提示されていない。

また、飯塚事件が複数犯の犯行だと推測できる証拠なども認められない。

想定できる2人の児童を同時に誘拐する条件と手口は、①「2人の児童の知人・顔見知り」、②「2人の児童の家族の知人を装う」③「警察官、学校関係者など信用性と権威のある職業に偽装」、等があるが、K氏がどのような手口で2人の児童を誘拐したかは、裁判で明らかにされていない。

殺害場所の謎

地図は、誘拐場所と認定された「三叉路」から車で5分、10分、15分で到着できると予想できる範囲である。

当然ながら1992年当時と現在(2024年)では、道路事情、道路状況、通行量などに違いがあると思われるため、あくまでも参考情報での扱いとなるが、15分で到着できる範囲に東は嘉麻市、南は桂川町、西は篠栗町の近辺まで行ける範囲が含まれる。

K氏の裁判(地裁判決)では、被害者の2人が1992年2月20日の午前8時30分から8時50分の間に、福岡県飯塚市潤野の三叉路で誘拐され、その後8時30分から9時の間に殺害されたと認定されているが、殺害場所については明らかになっていない。

前述のとおり、K氏が誘拐に使用した手段が不明なため、K氏と被害者女児2名が遭遇してから誘拐されるまでの所要時間も不明であるが、①「2人の児童の知人・顔見知り」、②「2人の児童の家族の知人を装う」、③「警察官、学校関係者など信用性と権威のある職業に偽装」といった状況で接触から誘拐までの所要時間は長くなると推察される。

地図は、誘拐場所と認定された「三叉路」から車で5分、10分、15分で到着できると予想できる範囲である。1992年当時の道路事情、道路状況、通行量等を考慮する必要があるため、参考情報としての扱いに留まるが、15分で到達可能な範囲には飯塚市内及び東は嘉麻市、南は桂川町、西は篠栗町の近辺まで広がっている。

この範囲内にK氏の自宅も位置しているが、殺害時間帯におけるK氏宅近辺の聞き込み捜査に関する資料は公表されていないため、K氏が自宅にいたか、自宅で2名の女児を殺害したかについて(K氏は不在だったと供述している)は不明である。

では、K氏が殺害などしたと仮定するならば、地図の範囲内のどこかに秘密のアジト的な場所を持っていたのだろうか。

もしK氏を犯人と仮定しない場合、真犯人Xが地図の範囲内にある自宅で2人の女児を誘拐し殺害したと推測することも可能である。

K氏が犯人だとするならば、警察は地図の範囲内にある駐車場や廃屋なども捜査したのだろうか。この点は非常に気になる。

三叉路の証言の疑問点

D山D子の証言では、午前8時30分頃にE村方三叉路で2人の女児を目撃したとされているが、その後3分以内に同じ場所をV田が通過した際には女児は目撃されていない。この短時間で女児が姿を消すのは不自然である。

X田X男の証言では、E村方三叉路付近で車を移動させた際、ボンゴ車がかなりの速度で走り去ったとされているが、そのボンゴ車(K元死刑囚の車と思料される)がどの方向から来たのか(誘拐現場の可能性が高いE村方三叉路北方の道路から来たのか、それとも東方の道路から来たのか)は不明であり、他の証言と一致しているかも確認が必要である。

弁護人は、D山が目撃した作業員風の男性が犯人である可能性を指摘したが、これはX田X男と誤認されており、犯人である可能性はないとされた。しかし、D山が目撃した車両の数や種類に関する証言(彼女の証言には、三叉路付近で駐車していた乗用車1台、ワゴン車1台、種類不明の車両1台、そして時間不明に県道大日寺潤野線に出る手前で離合した40代の男性が運転するワゴン車1台の合計4台が登場する)には矛盾があり、D山の記憶違いとされている。このように、被害女児2人を最後に目撃したD山の証言には疑問が残るのは重要な点である。

また、2人の被害者女児が短時間で姿を消すのは不自然とされているが、その点についての合理的な説明は不足している。全体として、複数の証言に基づいて誘拐の状況が推測されているが、いくつかの証言には矛盾や不自然な点が見られる。

特に、犯人使用の車両の目撃に関しては、目撃された車が犯人のものである可能性が高いとされるものの、他の可能性が完全には排除されていない。

被害児童の遺留品発見現場付近の証言の疑問点

K元死刑囚の車にはサイドウインドーに水色のフィルムが貼られていたことが確認されているが、T田が目撃した車両の運転席側後輪車軸部分が黒かったとの証言と、検証時にその部分が黒くなかったという点で矛盾が生じている。

この矛盾については、K氏が車を手放す直前に丹念に掃除をしたために汚れが取り除かれた可能性があるとされているが、この説明がどれほど合理的であるかには疑問が残る。

また、T田が目撃した男の年齢や風体が被告人の実際の年齢や外見と矛盾しており、特に年齢の差や頭髪の状態(禿げ具合)について証言と実際の被告人の状態が一致していない点が指摘されている。

原審の判決文では、T田の人物識別に関する供述は一瞬の目撃であり正確性に欠けるとされており、このことが証言の信頼性を損なう可能性があると考えられる。さらに、目撃証言の信頼性についても問題があり、T田が目撃した車両と被告人の車両が同一であると断定するには証拠が十分ではなく、特に他の車両も同様の特徴を持っていた可能性があるため、目撃された車両が被告人のものであると断定するのは無理がある。

そもそも、T田の証言が一瞬の目撃に基づくものであり、その信頼性については慎重に検討する必要があるだろう。

K元死刑囚の居住地と犯行現場の関係についても疑問が残る。被告人が事件現場付近に土地勘を持っていたことが強調されているが、これだけでは被告人が犯人であると断定するには不十分であり、捜査の結果、他の人物が犯人である可能性も排除されていない。

結論として、この事実認定には車両の特徴、犯人像、目撃証言の信頼性において矛盾や疑問が存在し、これらの矛盾はK元死刑囚が犯人であると断定する上で重大な問題となり得る。

特に目撃証言の信頼性や車両の特定に関する証拠の一貫性が弱い点は、再審請求や冤罪の可能性を主張する上で重要な要素となるだろう。

尿痕、結婚、繊維片の謎

原審判決文によると、K氏の使用していた車両から血痕と尿痕が検出されており、原審は「被告人の車に被害児童2名が乗せられたことと矛盾しない」と認定している。この認定から、2人の女児は車内で殺害された可能性も考えられるが、車が駐車された場所は不明である。

また被害女児の着衣の微物鑑定もK氏の車のシートとの比較は行われているが、犯行現場の特定に繋がる可能性のある他の微物の付着の有無、鑑定の有無に関する情報は公開されていない。

被害女児に付着していた繊維がK氏使用の『マツダウェストコースト』の繊維と「極めて類似し、ほぼ一致するものと認めることができる」という指摘は、犯行に使われた車が『マツダウェストコースト』であると断定するものではない。

この指摘は、昭和57年3月26日から昭和58年9月28日までに製造された『マツダウェストコースト』の座席シートを対象に、女児に付着した繊維を鑑定した結果、類似性の可能性が高いことを示唆しているに過ぎない。

たとえば、東レ製のナイロン6ステープルであると推定されているものの、他の製造元や他の車両に使用されている可能性を完全に排除することはできず、この点から、犯行に使用された車両が被告人の車であると断定する根拠としては不十分である。

また、似た特徴を持つ他の車両が存在する可能性も指摘されており、特に、マツダ以外の車両や他の自動車メーカーの車両で同様の材料や染料が使用されている可能性が完全には排除されていない。このため、被告人の車両を唯一の犯行車両として特定するには不十分な要素があると言える。

古い車は部品を取り替えて使用されることがあり、約10年前の廃車同然の『マツダウェストコースト』から座席を部品取りし、マツダ社以外の他の車種や他のメーカーの車に使用されることも可能である。

また、弁護側が主張するように、マツダ以外の自動車メーカーが製造した車に被害者女児に付着した繊維が使われていた可能性を否定できない。

女児の着衣の繊維片から染料の「ラナシンブラックBLR200」と「イソランイエローK-RLS200」が検出され、配合比がK氏使用車『マツダウェストコースト』の座席に酷似しているが、着衣の繊維片には「ラナシンブラックBLR200」が含まれていない可能性を指摘することも可能だ(参考:飯塚事件弁護団『死刑執行された冤罪・飯塚事件』現代人文社 ,2022.)。

上記のとおり、繊維の一致について、被告人の車のシートからのものであるとされているが、完全に一致するかどうかは曖昧である。

このため、被告人の車両を唯一の犯行車両として特定するには不十分な要素があると言える。さらに、ラマンスペクトルや二酸化チタンの含有量の一致性が重要な証拠とされているが、これらの分析においても100%の一致が確認されたわけではなく、特に、ラマンスペクトルでの一致や二酸化チタンの含有量における微妙な違いがあるため、これが決定的な証拠とされるには疑問が残る。

いくつかの分析手法、特にラマン分光法や二酸化チタン含有量の分析に基づいて証拠の一致が議論されているが、これらの手法には限界があり、結果に多少の誤差が含まれる可能性があるため、証拠の信頼性についても慎重に考慮すべきである。

結論として、この事実認定に基づく限り、被告人の車両が犯行に使用された車両であると断定するには、いくつかの重要な矛盾や不確定要素が存在する。

特に、繊維の一致性や他の車両との区別の問題については、より詳細で確実な証拠が必要とされるため、現時点での証拠だけでは、被告人が唯一の犯人であるとするには合理的な疑いが残ると言えそうだ。

被害者から採取された犯人の血液の謎

被害者から検出された被害女児以外の血液は、事件当時の犯人があり出血していた可能性を示唆している。

原審では、犯人は指または爪で女児を傷つけた旨の認定がなされているため、犯人の血液は犯人の指付近から出血していた可能性が高いと思われる。

では、犯人は手指に怪我をしていたのだろうか。K氏が真犯人だとするならば、亀頭包皮炎により出血した陰部を「手」で触りその手の「指」で女児に加害を与えたのだろうか。

仮にそうだとするならば、自身の「掌」(指先だけで自身の陰部に触れた場合は違う)に血がついた状態で女児に被害を加えたと考えるのが自然であり、そう仮定するならば女児の下半身、上半身、衣類などにも元死刑囚の「血」が付着していたと考えることができる。

しかし、そのような証拠は認められない(検察が開示していないだけかもしれないので証拠が無いとは言えない。これは証拠開示の問題の議論に繋がる)。

そうすると、(真)犯人は被害者女児に危害を加えた「指だけ」に怪我をしていたのでは?と考えられる。そして、その怪我は治りかけだったのでは?治りかけだったが激しく動かしたため出血したのでは?と考えることも可能である。 これらから、元死刑囚が亀頭包皮炎を患い出血し、その血が被害者女児に付着したとの思い込みは危険な思い込みだといえそうだ。

そもそも、被害女児の膣内や周辺から採取された血液が犯人に由来すると認定されているが、陰茎の挿入については言及されていない一方で、指や爪で損傷が与えられたと認定されている。この場合、犯人の血痕が膣内にあることを説明するために陰茎からの出血を持ち出すのは、論理的に不整合である。

指や爪で損傷があったという事実認定があるならば、その際に犯人の手指から出血した可能性が高いと考えるのが自然である。それにもかかわらず、陰茎からの出血に話が移るのは、被告人の亀頭包皮炎の存在を強調するための無理な推論と受け取れる。

このような論理展開は、証拠の評価や犯人特定のプロセスにおいて大きな問題を引き起こし得る。事実認定が一貫していないため、この部分の結論には疑問が残る。

遺体発見翌日の不審な電話

被害女児の遺体が発見された翌日、1992年2月22日(土曜日)15時頃、一人の被害女児の家に中年男性と思しき人物から不審な電話があった。この電話の主は押し殺した低い声で、「一晩中一緒だった」と示唆する発言をしたと報じられている(参考:読売新聞1992年2月25日付)。

この声の主が真犯人かどうかは不明であるが、この発言は注目に値する。

この電話は遺体発見の翌日にかかってきたが、その時点での殺害時間は不明である。もし電話の主が真犯人である場合、この発言は捜査を混乱させる意図があるのかもしれない。また、遺体遺棄が事件発生の翌日、1992年2月21日に行われた可能性も考えられる。 それ以降、このような不審な電話がかかってくることはなかったとされている。

早すぎる死刑執行

K氏の死刑は、最高裁での死刑確定から2年1ヶ月後の2008年10月24日に執行された。一般的には再審請求中に死刑を執行することはないが、再審請求が行われる可能性が十分に予想される中での執行は、早すぎると指摘され、刑の執行には何らかの意図があるのではないかとの憶測を呼んでいる。

この2年1ヶ月後の執行について、同時期の他の死刑確定から執行までの期間と比較して、早いとは言えないとする意見もある。しかし、他の死刑判決事件では犯人性に争いがないケースが多く、無実を主張し、情況証拠のみで判決が下された本件とは根本的に異なる。

K氏の刑が執行された2008年には、合計15人に対して死刑が執行された。この中でK氏を含む6人は、刑の確定から3年未満で執行されている。

執行された事件には、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」、「SMクラブ下克上殺人事件」、「神戸市夫婦強盗殺人事件」(いとこの男性とその妻を殺害し現金を奪った事件)、「市貝町牧場夫婦強盗殺人放火事件」(以前の勤務先の経営者夫妻を殺害し現金を奪い、放火した事件)、及び「いわき市母娘強盗殺人事件」(資産家の家に侵入し、資産家の妻と娘を殺害し現金を奪った事件)が含まれる。

疑わしきは被告人の利益に

そもそも刑事事件においては、通称「白鳥決定」といわれる『疑わしきは被告人の利益に』という法則が存在する。これは『疑わしきは罪なし』とも呼ばれ、刑事裁判において被告人に不利な証拠が十分でない場合、その疑いを被告人の利益に解釈すべきとする法原則である。

この原則は多くの法体系において受け入れられており、被告人(国民)の権利を保護するために不可欠であり、裁判における証拠が被告人に対して明確な有罪を証明できない場合、裁判官は被告人に無罪の判決を下すべきであると考える。

『疑わしきは被告人の利益に』という法原則は、具体的に近代法制において形成され、合理的な疑いの余地がある場合には被告人を無罪とするという形で刑事訴訟法の重要なルールとして確立されている。

この原則は、個人の自由と権利を保護する基本的な枠組みの一部と見なされ、公正な裁判を保証し、冤罪を防ぐための法的な盾として機能している。ナチズムの経験を含む歴史的な背景から、多くの国々で死刑制度の見直しが進み、法原則の重要性が再認識されている。

また、『10人の真犯人を逃すとも1人の無辜(むこ)を罰するなかれ』という言葉は、刑事司法における基本的な原則を示している。この原則は、冤罪を避けるためにいくつかの犯罪が未解決に終わるリスクを受け入れることが望ましいとする考え方に基づいている。

この言葉ので、最も有名なのはイギリスの法学者ウィリアム・ブラックストーン(1723年7月10日-1780年2月14日)によるものである。ブラックストーンは1760年代に『イギリス法釈義』(Commentaries on the Laws of England)を著し、「むしろ10人の悪人が逃げることを許すよりも、1人の善人を誤って罰することなかれ」と記述している。これは、法の適用において極めて慎重であるべきであるという姿勢を強調しており、後の法哲学や刑事政策に大きな影響を与えている。

この原則は現代の法制度においても重要であり、特に冤罪の防止と人権の尊重の観点から刑事裁判において重要な役割を果たしている。

冤罪を生む構造的要因

日本の司法制度には、長期勾留や弁護士同席のない取調べ、状況証拠だけで有罪判決を下すといった特徴がある。これらの制度は、冤罪のリスクを高める可能性があり、特に長期にわたる勾留は、被疑者に心理的圧力をかけ、誤った自白を引き出す一因となり得る。また、取調べの透明性が確保されていないことも問題であり、改善が求められている。

この問題は、カルロス・ゴーン元日産自動車会長の事件においても顕著に見られた。ゴーン氏は2018年に金融商品取引法違反の疑いで逮捕され、その後、複数回にわたって再逮捕されるという長期勾留を経験した。

彼のケースでは、弁護士の同席なしに行われた厳しい取調べが行われ、公平な法的手続きが欠けていると国際社会からも指摘された。ゴーン氏の場合、彼が主張する不当な扱いが、日本の司法制度における構造的な課題を浮き彫りにする一例となっている。

日本の取調べ手法と勾留システムは、冤罪を生むリスクを抱えながらも、改革の動きは鈍い。ゴーン事件は、このような制度的弱点がどのように個人の権利を侵害する可能性があるかを国際社会に示した重要な事例である。これを教訓に、取調べの全面的な録音録画の義務化や、勾留期間の厳格な制限、弁護士の立会いを常時保証する制度の導入が、より一層強く求められている状況である。

日本の刑事裁判では、直接的な証拠が不足している場合でも、間接的または状況証拠のみで有罪判決が下されることがある。これは、証拠が完全には連鎖していないにも関わらず、複数の状況証拠が合わせて被告人の有罪を強く示唆すると判断された場合に見られる。

また、再審制度では、新証拠がないと再審開始が認められないため、一度有罪判決が確定すると、その判決を覆すことが極めて困難である。これが冤罪を疑われるケースでの救済を困難にしている。

飯塚事件の取り調べ過程は非公開であり、その内容の全貌が明らかになっていない。この非透明性は、適正な手続きが欠如していることを示しており、冤罪を生み出す構造的要因として機能している可能性がある。

裁判所がこれらの情況証拠をどのように評価するかについては、より厳格な基準が求められるだろう。

冤罪防止のための取り組み

再審に関する手続きの改正などを議論する超党派の議員連盟が設立された。この連盟は、刑事訴訟法の再審制度に関する規定の見直しを目的としており、再審請求が長期化する問題に対処し、冤罪被害者の迅速な救済を図ることが目標である。

再審制度は、裁判のやり直しを可能にするものであるが、現行法では70年以上改正されておらず、その手続きが具体的に定められていないため、審理の長期化が冤罪を晴らす妨げとなっている。

1966年に静岡県で発生した一家四人殺害事件で死刑が確定した袴田巌氏は、再審開始が決定するまでに40年以上を要した。この事例は、再審手続きの問題点を浮き彫りにしている。この問題に対応するため、超党派の議員たちが集まり、法改正に向けて議論を進めることになった。議員連盟の設立総会は11日に国会内で開催され、元文部科学大臣の柴山昌彦氏が会長に就任した。

柴山会長は、「無実の罪で刑に処された人々の苦労は言葉に尽くせない。人権侵害や家族の苦労を考慮し、再審のプロセスを確実に改正する必要がある」と述べた。この議員連盟には、与野党から134人の国会議員が参加を表明しており、捜査機関が持つ証拠の活用や手続きの明確化、透明化を検討していく方針である。

この超党派連盟は、「冤罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」と名付けられ、麻生太郎副総裁、公明党の山口那津男代表、立憲民主党の泉健太代表、日本維新の会の馬場伸幸代表など、各党の党首クラスが呼びかけ人として名を連ねている。彼らは、再審制度の改正を通じて、冤罪による人権侵害を減少させ、日本の司法制度の信頼性を高めることを目指している。

これらの問題は、特に重大な刑事事件において被告人の権利を保護する上で重要な課題である。冤罪のリスクを減少させるためには、これらの制度的な弱点を改善する必要があり、具体的には、取調べの全面的な録画義務化、弁護士の同席強化、証拠の開示と再審のハードルの低下などが考えられる。

また、アメリカの『イノセンスプロジェクト』の活動も参考になるだろう。

アメリカの『イノセンスプロジェクト(Innocence Project)』は、冤罪が疑われる受刑者の再審支援を行う非営利団体である。このプロジェクトは1992年にバリー・シェック(チェック)とピーター・ノイフェルド(ニューフェルド)によって設立され、ニューヨーク市に本拠を置いている。主にDNA鑑定を利用して、冤罪で服役しているとされる多くの人々の無実を証明し、彼らの釈放を支援している。

再審支援では、冤罪の可能性があると考えられる収監者のケースを見直し、新たな科学的証拠、特にDNA証拠を用いて無罪を証明するための法的支援を行っている。

法改正提案では、冤罪の原因となるシステムの問題点を指摘し、それを改善するための法律の改正や新規制の導入を推進している。これには、取調べの録画義務化や目撃者同定の手法改善などが含まれる。

結論

飯塚事件から学べる教訓は多い。特に、日本の司法制度における透明性の不足とその改善の必要性が強調されている。

冤罪を未然に防ぐためには、司法制度全体の見直しとともに、社会全体の意識改革が必要である。

人間は完全無誤ではないが、事実認定と法の適正な適用に努め、真実と正義の追求を怠ってはならない。

追記

2024年6月5日、福岡地裁の鈴嶋晋一裁判長は、弁護側の新証拠を「信用できない」と判断し、再審請求審を棄却する決定を出した。弁護側は福岡高裁に即時抗告する方針と伝えられている。

弁護側の新証拠のうち、誘拐場所と認定された「三叉路」での女児目撃証言に関する新証言(女児を見たのは別の日)は、捜査側からの供述誘導の可能性と認定された誘拐場所、時間を覆す可能性を秘めた非常に重要な証拠である。

司法の正義には被害者のための正義と社会正義の2つの正義があるだろう。この2つは両立する。冤罪はこの2つの正義に反する。(追記:2024年6月6日)


◆参考資料
『福岡の2女児殺害不審な白い車の男91年秋から度々目撃』読売新聞1992年2月25日付
『福岡の2女児殺し埋もれていた変質情報事件後に証言続々』読売新聞1992年3月2日付
『観光シーズンに不安、飯塚の女児殺害で甘木市秋月地区』西日本新聞1992年3月4日付
『小1、白い車の男に誘われる逃げて無事飯塚で2度』朝日新聞1992年3月12日付
『事件後も白い車、2女児殺害の飯塚市内で相次ぎ声掛ける』西日本新聞1992年3月12日付
『愛子ちゃん事件発見の骨3点、人と断定できず』読売新聞1995年3月8日付

木寺一孝『正義の行方』講談社2024


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Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste RoquentinはAlbert Camus(1913年11月7日-1960年1月4日)の名作『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartre(1905年6月21日-1980年4月15日)の名作『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場するそれぞれの主人公の名前からです。
Jean-Baptiste には洗礼者ヨハネ、Roquentinには退役軍人の意味があるそうです。
小さな法人の代表。小さなNPO法人の監事。
分析、調査、メディア、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルなど。

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