記事『岡崎次郎失踪事件』イメージ画像

1984年9月30日、大阪のホテルでの滞在記録(クレジットカード利用明細による推定)を最後に、ある老夫婦が消息を絶った。

著名な経済学者・著述家の岡崎次郎氏(当時80歳・以降岡崎氏)とその妻Kさん(当時86歳)である。

岡崎次郎夫妻失踪事件 概要

岡崎氏は、社会主義思想の巨人カール・マルクスの著作『資本論』の翻訳で知られた経済学者・著述家であり、生年は1904年。旧制一高・東京帝国大学というエリートコースを経たものの、卒業後は定職に就かず断続的に翻訳・著述業に携わっていた。

1933年から東亜経済調査局に勤務するが、在職中、思想弾圧により逮捕・勾留された時期がある。実際には社会主義運動へ参加した事実はなく、一年ほどで釈放されている。

その後中国大陸に渡り、満州鉄道等の調査機関にて研究員を務め、終戦・帰国後の1950年からは九州大学、法政大学の教授職を歴任、1968年の辞職後は都内の賃貸マンションに夫人と二人で暮らし、著述業に専念していた。夫妻の間に子供はいなかった。

失踪前の1984年5月19日、夫妻は自宅に親類や学者仲間を招き歓談の機会を持った。既に室内の家財道具はあらかた処分されていたという。

――これから西のほうへ行く――

招かれた客の一人である東北大教授のW氏は、岡崎氏がそう話すのを聞いている。

――『西のほう』には、『西方浄土』の意味もかけているのだろう――

W氏は、この言葉に、単なる「関西方面、もしくは西日本への旅行」以上の意味を見出していた。岡崎氏は“死出の旅立”への意思を度々口にしていた為である。

また、岡崎氏とW氏の共通の友人である経済学者T氏が、既に自ら“死出の旅”に赴いていたという背景もあった。

T氏は都内の老人ホームに入居していたが、そこから姿を消した後、神戸港沖で白骨遺体となって発見されていた。彼は、瀬戸内航路の旅客船から身を投げた事が判明している。

岡崎氏はその知らせを聞くと、知人の編集者に「先を越されてしまった」と溢し、W氏にも、「Tさんのように死体が見つかってはいかんのだ」とその内心を吐露したという。

失踪の前年に出版された岡崎氏の自叙伝『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』にも、少年期より何度も自殺を考えてきた事や、人生において自主的に行動することが少なすぎた事への後悔とともに、せめて最後の始末は自分でつけたいものだという願いが記されている。

自宅マンションを引き払った後、岡崎夫妻はホテルに滞在していたが、1984年6月5日には高輪プリンスホテル(東京都品川区)での会食に長姉一家を呼び寄せている。

その際も岡崎氏は、「西のほう」への旅行についての話題を口にした。その旅行の間の連絡先は、長姉の息子であるG氏に依頼したい事、夫人(Kさん)の足が弱っている為、旅行中の移動手段はタクシー頼みになるだろう、等である。

この日の姿が、岡崎夫妻の確実な最終目撃情報となっている。そして、これが今生の別れになる事については、一同には少なくとも暗黙の了解があったようだ。特に長姉であるYさんとKさんはしみじみ語り合い、最後は手を取り合って別れを告げていたという。

Yさんは帰宅後も「次郎が自分で決めて姿を消すというのだから、本人の気のすむようにしてやることがいちばんじゃないだろうか」と、共に会食したG氏と孫娘に話していたという。

翌日1984年6月6日、高輪プリンスホテルをチェックアウトした岡崎夫妻は、実際に西へ向かって旅をしている。

その足取りは、岡崎氏本人による旅先からの電話や手紙、前述の、旅行中の連絡先を引き受けたG氏のもとに送られてくるクレジットカードや銀行の利用明細からある程度判明している。

尤も、夫妻の失踪について関係者が週刊誌記者の取材に応えたのは、失踪から10年近く後の事であり、利用明細の現物は既に処分されていた為、内容はG氏や、電話や手紙での連絡を受けた関係者の記憶に頼ったものになっている。

6月中旬には伊豆・大仁温泉(恐らくカード利用明細で判明)、6月下旬には浜松(岡崎氏から知人への電話あり)、7月3日には京都(岡崎氏からG氏へ電話あり)、7月上旬には岡山(岡崎氏からの知人への手紙で判明)、その後G氏の記憶が定かではなくカード利用日は不明ながら、萩(山口県)、広島での滞在も確認されている。

最後の消息は冒頭で述べた通り、9月30日のホテル、ホリディ・イン南海(大阪府)でのクレジットカード利用であった。

旅の前半は確かに「西のほう」へと向かったものの、最終的には大阪まで戻ってきていた事になる。

岡崎夫妻の失踪は疑いようもなく自発的失踪であるが、自殺を企図した家出であるのも明らかであり、高齢である事も考慮すれば、家族には警察に届け出て、捜索と保護を求める選択肢もあったと思われるが、岡崎氏本人による、周囲への理解を求める試みも功を奏したのであろう。届出は勿論の事、失踪宣告審判の申立もされることはなかった。

タクシーを乗り継いで長旅を楽しむ老夫婦はそれなりに人目を引いたであろうから、仮に公開捜査が行われていたとすると、その足取りは更に詳細が判明したと思われるし、夫妻を保護し、説得の末その天寿を全うしてもらう事も、やりようによっては不可能ではなかったのかもしれないが、二人の意志は尊重され、旅の目的は恐らく完遂した。

夫妻は1984年9月30日前後、大阪湾に身を投げたものとみなされている。

手がかりとその検討

岡崎夫妻が自ら死を選んだ事については、まず疑いようがない。その為、本項ではその背景や動機、手段について検討していきたい。

岡崎夫妻について

夫妻が出会ったのは1929年頃というから、岡崎氏が25歳頃、Kさんは31歳頃ということになる。東京府北多摩郡保谷村(当時)の一軒家を借りた岡崎氏のもとに、通いの家政婦としてKさんが訪れたのが馴れ初めであるようだ。

正式に結婚したのは満鉄調査部時代の1940年。通勤事情の宜しくない独身寮から出るには所帯を持つしかない、という理由であったといい、当時、東京の洋裁学校で教師をしていたKさんを中国大陸の日本租借地・大連に呼び寄せている。

Kさんによると、再会時の岡崎氏の第一声は「金はいくら持ってきたか」であったという。

彼が、自身の金遣いが荒いことを自覚していたかは自叙伝からも判然としないが、いつも金に困っている事、どうやって当座の資金を工面したかについての記述が目立つ。お金の使い途は、書籍や文具の購入は職業柄不可避としても、学者仲間との旅行、飲食、遊里(いわゆるプロの女性)への出費も多く、その生活は清貧とは程遠いものであったようだ。

しかし、終戦・帰国直後の、岡崎氏に定収入が無く、住居も他家に間借りを余儀なくされた四年間の終わりに、心労でKさんが倒れた際には周囲の一切の援助を断り、二人分の家事、看病全てを引き受け、『資本論』の翻訳作業とも両立したというから、家庭に対して責任感や愛着が欠けた人物という訳では無かったようである。

尤も、以上の記述は全てが岡崎氏の自叙伝が根拠となっており、読み物として面白くするため(もしくは見栄のため)に、彼が話を盛っている可能性も無くはない。

岡崎氏の自叙伝の執筆を勧めた編集者M氏は、その出版にあたって岡崎氏から献本を受けた際の出来事について語っている。

「おかげでいい本ができたよ」と、お礼のメッセージが裏表紙に手書きされた自叙伝を差し出す岡崎氏の傍で、Kさんは突然涙をみせたという。

M氏は、夫妻には子供がなかった為「この本(自叙伝)ができたら(二人の子供として残し・筆者注)、この世から身を隠そう」という約束が二人の間で出来ており、遂にその時が来た、と感極まったのではないかとその涙の意味を汲んでいる。

岡崎氏は、60代に入った頃から“死出の旅立”への意思をM氏に漏らしていた。

「まだ女房の承諾がとれないんだ」と岡崎氏は冗談混じりに話していたという。『承諾』という文言の言葉尻を捉えるのなら、Kさんを道連れにする意思は、当初岡崎氏には無かったと言えるかもしれない。

同時に、岡崎氏が一人では旅立つ決意ができなかった事も示しているように思う。

彼のように、物書きが長年習い性になっている人間にとって、「もう書きたい事は書き尽くした。満足した」という心境に辿り着くのは中々困難なことではないだろうか。

勿論「自ら人生の始末をつけたい」のは口だけであったと言いたい訳ではなく、夫人によって「心中の同意」が与えられたことにより、遂に旅立ちへの決意が固まった可能性があるという事なのである。

大阪との縁

岡崎氏と大阪との縁はそれなりに深い。まず、父親の転勤で1920年4月(15歳)から約一年間、大阪の天王寺付近に居住した。自宅は大阪〜和歌山を結ぶ南海電鉄の沿線にあり、海が近かったので毎日泳ぎに出かけていたという。

当時、読書は好きでも学校での授業は嫌いだった岡崎氏は、日本の委任統治領になったミクロネシア行きの青少年移民団へ参加を夢見て、南の海に思いを馳せたこともあったという。

岡崎氏の父親は1935年に体調を崩し、当時息子二人(岡崎氏とその弟)が住んでいた東京へ転居するまでそのまま大阪に住んでいたので、それまでは実家は大阪であると言っても差し支えない状態であった。

次に、岡崎氏は東京帝国大学在学中、母親の縁で、大阪の旧家の主であり子供のない女性と養子縁組をしていた時期があった。養母からすると帝大を出れば「末は博士か大臣か」といった期待があったのかもしれないが、岡崎氏は卒業後、職に就かないばかりか養家の財産を食い潰す一方であり、ついには離縁されている。

本人も「大阪にはまったく親しみがない」と自叙伝で述べているように、終焉の地に大阪を自らの意志で選択する理由は薄いように思う。少年時代に培った土地勘では、仮に当時入水するのに適した静かな水辺の心当たりがあったとしても、1920年と1984年の大阪湾では、もはや共通点を探すほうが難しいようにも思う。

また、大阪湾は閉じた地形であり、湾内の海流も複雑で、遺体が湾内の何処かの陸地に打ち上げられてしまう可能性も高い。その事は海流について詳しく調べなくとも、地図を眺めるだけである程度見当がつく。

遺体を人目に触れさせたくないのであれば、適した入水場所が他にあるように思われる。

それも岡崎氏に言わせれば、「(人手を煩わせるのも)せいぜい数時間か数日のことだろうから、これから何年も世間に老害を流しているよりはましなのではなかろうか」という事なのではあるが……。

出典:国土交通省近畿地方整備局 大阪湾環境データベースHP 藤原建紀ら「大阪湾の恒流と潮流・渦」(1989年海岸工学論文集36巻)より作成

暢気な虚無主義者

若き日の岡崎氏を一高時代の同級生の一人は「暢気に遊んでいる」「虚無主義者」と評している。岡崎氏はその「暢気な虚無主義者」評に感じる所があったようだ。

岡崎氏をそう評したのは岡崎氏が「不屈の闘士」と呼ぶ西田信春氏であった。社会主義者で社会運動家、共産党員であった西田氏は1933年に九州における「共産党大検挙」で検挙された際、一切を黙秘したまま拷問の末、虐殺されている。

「暢気な虚無主義者」の評が書かれたのは四・一六事件(1930年)の思想弾圧により検挙された市ヶ谷の獄中から、西田氏の妹宛に送られた手紙の中であった。

岡崎氏は、同じ社会主義を信奉しながら、勝ち目が無いと知りつつ闘争殉じた同級生と、実践運動への参加を頑なに拒否して生き延びた自分とを比較して、いわゆる「サバイバーズ・ギルト」を長年抱えており、一層その虚無感を募らせていたのかもしれない。

向坂逸郎氏との確執

岡崎氏の自叙伝『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記』には告発本としての側面がある。

告発の相手は社会主義界の大立者であり、政界にも影響力を持つ社会主義協会の創設メンバーである向坂逸郎氏である。

岩波文庫から向坂氏訳の名義で出版されていた『資本論』は、ほぼ全部が岡崎氏の訳によるものであり、向坂氏は岡崎氏の仕事を盗んだ上、他社から岡崎氏が自身を翻訳者とした新訳『資本論』を出版すると怒り、岩波文庫から岡崎氏に支払われていた岩波文庫版『資本論』の印税支払いを停止させたという。

最終的には岡崎氏は岩波文庫版の印税受領権を放棄。岩波文庫はその直後に新装版の向坂逸郎訳『資本論』の一大キャンペーンを打って大々的に販売を開始し、岡崎氏の神経を逆撫でした。

向坂氏の肩を持つならば、「名義と仕事は譲ってもらったとしても、約20年もの間、岩波文庫版の印税は支払われるように手配したし、岡崎氏に九州大学の教授職を世話したのも自分(向坂氏)である。既に十分な見返りは受けたではないか。新訳の『資本論』の出版も邪魔した訳ではない。一体何が不満だというのか?」といった所であろうか。

マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記

“死出の旅”を前にして自叙伝を上梓した岡崎氏の心に去来した思いとは、一体何だったのだろうか。彼は社会主義者として社会運動に身を投じる事もなく、社会主義思想家として自らの社会主義理論を打ち立てる事もなく、ひたすらマルクスの著作の翻訳に人生を捧げた。

幸い、翻訳は金になり、生計を立てる以上の収入を得ることができた。

一高時代、岡崎氏は著名な劇作家である菊池寛氏に面会し、勉強にもなる仕事は何かと尋ねている。菊池氏は「翻訳がよい」と答えたという。恐らくそれは適切な助言だったのだろう。しかし、それは同時に「勉強にもなる仕事」以上の何かではなかったのかも知れない。

岡崎氏はマルクスに凭れかかり、翻訳という「勉強にもなる仕事」に打ち込んだ。そして六十年を過ごした。勉強も、仕事も、恐らく当初は何らかの目的にたどり着くための手段であった。しかし、いつの間にかそれは目的へとすり替わってしまった。

その事に気づいてマルクスからついに「独り立ち」した時、岡崎氏は自ら隠してきた真の目的……少年時代から彼と共にあり、勉強と仕事に打ち込む事で長年目を背けてきた、「虚無感」との決着を着ける時を迎えたのかもしれない。

私はマルクスから多くのものを学んだ、だが、学び尽くしたのではない。学ぶべきものはまだまだ無限に多い。しかし、彼からことごとくを学び取るには、私はあまりにも道草を食いすぎた。生来根気の乏しい、そして老いてますます根気のなくなった私は、この思想と行動とにおいて無類に頑強な怪物とこれ以上取り組むことを諦めたのである。完全な敗北である

岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』第13章 マルクスとの別れ より引用

真相考察

岡崎氏は、かつて、鳴門の渦潮に飛び込もうかと口にした際、友人の忠告に対し一時は「(入水や遺体を発見されて、捜索や収容のために)人手を煩わせるとしても、何年も老害をタレ流すよりはマシだ」と啖呵を切っているが、自分一人ではなく、夫人を伴って“死出の旅”に赴くにあたり、遺体が発見されない工夫についてはある程度真剣に考えたものと思われる。

一方で、足の悪い高齢の夫人と、いくら健康体とは言え80歳の高齢男性が共に実行するのが可能な手段は限られている。例えば活火山の火口に身を投げる、人跡乏しい山奥まで踏み込んで最期を迎え、朽ち果てるといった方法は、ほぼ不可能であろう。

消去法的に導き出される方法はやはり入水ということになるが、工夫を加えるとすればオモリを体に括り付けるという手段がまず思い浮かぶ。しかし、腐敗しても浮かび上がらないほどのオモリを抱えれば、恐らくは歩くことも出来ない位の重量になるであろう。

補陀落渡海

岡崎夫妻が消息を絶ったのは大阪であった。

「大阪にはまったく親しみがない」岡崎氏が最期に敢えて大阪に戻って来るとは思われない。

大阪は交通の要衝であり何処にでも行くことが出来る場所でもある。岡崎氏が恐らく思いつきで口にした、鳴門の渦潮へと向かう事も、T氏のように瀬戸内航路の旅客船に乗り込む事も可能である。また、かつて岡崎氏が少年時代に憧れたように、南の海に船出する事も可能である。

古代日本には、常世の国信仰が存在した。海の彼方には理想郷が存在するというものである。この信仰が、時代が下るとともに仏教と習合した結果生じたのが「補陀落信仰」であった。

これは、南方海上に、西方の極楽浄土とは別の、観自在菩薩の浄土「補陀落」が存在するという信仰であり、平安時代後期から江戸時代初期まで、位人臣を極めた公家から高名な僧侶、庶民までもが浄土を夢見て、生きたまま渡海船に乗り込み、または船上から身を投げたという。

イエズス会の宣教師ガスパル・ビレラによる『ビレラ書簡』には、1561年か1562年、大坂・堺から「悪魔に惑わされた人々が船出した」という記録も残されている。

ほとんどの場合、遺体が何処かへ漂着することは無く、これは補陀落へ迎えられた証として信仰を更に強化する要因となった。

勿論、これにも当然タネがあり、渡海船や遺体が強力な黒潮(日本海流)に乗って流されれば、日本列島から離れた東方海上に運ばれ、戻ってこないという明快な自然現象に過ぎない。

しかし、岡崎氏にとって必要なのは「戻ってこない」という結果だけであろう。

出典:日本海学推進機構・キッズ日本海学HP 日本近海の海流

自叙伝中に渡海を匂わせる記述は存在しないが、1962年4月には、ベストセラー作家井上靖氏が補陀落渡海について扱った短編小説を発表しており、一般人にも信仰の存在は知られていたと考えられる。

大阪からもう少し旅行を続けた夫妻が、更にタクシーを乗り継いで国道26号線・42号線に乗って紀伊半島を南下し、和歌山湾、南紀白浜の絶景を眺めながら、終焉の場所を選んだと考えるのも十分に可能であろう。

更に国道42号線を進んだ先の那智勝浦には、補陀落渡海の総本山とも言うべき補陀落山寺が現在も存続しているが、勿論、そこまで辿り着く必要はない。

旅立ちの前、岡崎氏は母校(旧制一高)の同窓会の世話人へ葉書を書いている。

ハガキの内容は、同窓会名簿の住所変更を依頼するもので、「こんど、ちょっと長い旅に出ることにした。名簿の住所は『旅行中』としておいてくれ」というものだった。

その10年後、1994年に、岡崎夫妻の失踪を記事にした記者が取材した時点でも、岡崎氏の同窓会名簿での住所は「旅行中」であった。

1904年生まれの同窓生たちの名簿がいつまで保存されていたか、現在も保存されているのかは定かではないが、恐らくは最後まで「旅行中」のままだったのだろう。

失踪から40年近く経過した2023年9月現在も、二人の遺体も、その終焉の地も見つかってはいない。


◆参考資料
・岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社2023年2月
・郡司武「老マルクス学者岡崎次郎夫妻の死出の旅路の果て」『週刊朝日』朝日新聞社1994年6月17日号
・佐藤優「岡崎次郎と語る」『週刊金曜日』株式会社金曜日2011年2月25日号
・根井浄『観音浄土に船出した人びと 熊野と補陀落渡海 オンデマンド版』吉川弘文館2019年9月
・呉智英『犬儒派だもの』双葉社2002年3月
・朝倉喬司『老人の美しい死について』作品社2009年1月


◆独自視点の行方不明・失踪事件(事案)考察シリーズ


Tokume-WriterWebライター

投稿者プロフィール

兼業webライターです。ミニレッキス&ビセイインコと暮らすフルタイム事務員。得意分野は未解決事件、歴史、オカルト等。クラウドワークスID 4559565 DMでもご依頼可能です。

この著者の最新の記事

関連記事

おすすめ記事

  1. 記事『映画『リアリティ』の考察:リアリティ・ウィナーとナウシカの正義感』アイキャッチ画像
    映画『リアリティ』(原題:Reality)は、実際のアメリカ国家安全保障局の25歳の契約社…
  2. 記事『富山県高岡市伏木の廃墟:詳細報告』アイキャッチ画像
    2024年5月6日(火曜日)未明、富山県高岡市伏木地区にある廃墟で、何かに腰掛けて前かがみ…
  3. 記事『静岡県伊東市7歳男児失踪事件(鈴木俊之くん行方不明事件)』アイキャッチ画像
    1965年7月3日(土曜日)、静岡県伊東市の海岸沿いに広がる半農半漁の集落、初津(はづ)在…
  4. 記事『柴又三丁目女子大生殺人放火事件:犯人考察と分析』アイキャッチ画像
    上智大学生のA氏(21歳)が殺害され、自宅が放火により全焼した未解決の殺人放火事件は、19…
  5. 記事『こつぜんと人が消える神隠し~各国の伝承と創作物からその姿を探る~』アイキャッチ画像
    ある日突然、人が消えることがある。古来より、日本ではこうした事象を神隠しと呼び、原因を神や…

スポンサーリンク

スポンサーリンク

スポンサーリンク

スポンサーリンク

ページ上部へ戻る