夜の暗闇に1機の飛行機が飛び立った。行き先や目的を誰にも告げず、飛行機は夜の中に消え去った。
普段と変わらない平凡な日常の中で、人が姿を消してしまう。周囲の人々はその行方となぜ彼が消えたのかを追い求めるが、どちらも見つからない。
個人的な理由からの失踪なのか、なにか大きな事件に巻き込まれたのか――1人の自衛官が自衛隊機ごと消えた――自衛隊機乗り逃げ事件について解説と失踪の背景等を考察していこう。
事件概要
1973(昭和48)年6月23日(土曜日)20時50分から21時頃、陸上自衛隊「北宇都宮駐屯地:陸上自衛隊航空学校宇都宮分校」(栃木県宇都宮市上横田町1360)の滑走路から1機の自衛隊機が飛び立った。
同機は、富士重工が初期練習機のビーチT34メンター機を改造した濃紺色の連絡機「LM-1」(通称「はるかぜ」)、全長7.9メートル、全幅10メートル、最大速度時速310キロ(巡航速度223キロ)、航続距離1100キロ~1300キロ、4人乗り、低翼、単葉プロペラ機だった。
エンジンの爆音を聞いた隊員が飛び立つ飛行機を視認し、その報告により当直幹部が飛行機の点検を行った。すると、「LM-1」と呼ばれる1機が基地内から消えていた。
隊員の緊急招集と点呼の結果、東北某県出身の整備員A三等陸曹(20歳)の姿が見当たらず、「LM-1」の格納庫内からA三等陸曹の帽子が発見された。
これらの事態から、周囲はA三等陸曹が無断でその機に搭乗し、飛び立ったと結論づけた。同駐屯地では17時以降の管制が行われておらず、また、操縦経験のないA三等陸曹が無許可で離陸した可能性が考えられた。これが周囲に混乱をもたらしている。
その後、陸上幕僚監部内に事故対策(捜索)本部が設置され、陸上自衛隊東部方面警務隊は自衛隊法違反、航空法違反、窃盗の容疑でA三曹に対する逮捕状を取る。
自衛隊は、陸、海、空の自衛隊員延べ3000人と述べ200機の自衛隊機を動員し捜索を行うが、A三等陸曹と「LM-1」の行方は不明のまま、捜索は同年7月21日に打ち切られた。
その後、8月1日にはA三等陸曹に対して懲戒免職処分が下された(20日以上の無断欠勤が正当な理由なく行われたため)。同時に、陸上自衛隊航空学校宇都宮分校の校長やA三等陸曹の直属上司など、計8名が処分を受け、事件は結末を迎えた。
なお、本事件は極めて偶発的なA三等陸曹の自殺行為と判断されたため陸上幕僚監部の幹部に対する処分は行われず、また、1981(昭和56)年にはA三等陸曹の失踪宣告審判が確定している。
消えた航跡─捜索と追跡の困難
自衛隊から連絡を受けた栃木県警の話によれば、A三等陸曹が乗り逃げしたとされる「LM-1」には無線機が設置されていた。しかし、A三等陸曹には無線機の操作技術がなく、離陸後は一度もA三曹との連絡が取れなかったという。
同機が無断離陸した6月23日、「北宇都宮駐屯地:陸上自衛隊航空学校宇都宮分校」は、日本の本土にあるレーダー基地(埼玉県、千葉県、福島県、新潟県などにある基地)に対して、同機の発見や無線連絡の支援を依頼したが、情報は得られなかった。
同機が洋上に出た場合、自動防空警戒管制組織(BADGE)に感知される可能性があるが、同機が低速かつ低空で飛行するならば、外国軍用機と判断されず対象から外され航跡も記録されないといわれる。
上記のような状況のなか、事故対策(捜索)本部は、6月24日の夜明けから日没まで、自衛隊機、ヘリコプター40機を投入し、栃木県と茨城県の山中、青森県八戸市から千葉県銚子までの洋上探索を行うが、同機とA三等陸曹の発見には至らなかった。
最終的に同本部は、「LM-1」の積載燃料と航続距離、寄せられた20数件の目撃情報を考慮し、同機は低空で栃木県宇都宮市から茨城県方面へ飛行後、太平洋上に墜落したと判断した(同機は燃料50ガロンを満載、5時間20分から6時間の飛行が可能だった)。
A三等陸曹の略歴など
A三等陸曹は東北地方の某県の比較的豊かな農家の三男として1953(昭和28)年に生まれ、地元の小中学校卒業後の1969(昭和44)年3月、神奈川県に所在する陸上自衛隊少年工科学校に入隊し、15期生として訓練を受ける。
その後、1971年(昭和46年)9月には航空学校霞ヶ浦分校に入学し、1972年(昭和47年)9月には東北方面航空隊へ配属された。そして、1973年(昭和48年)3月15日には事件の舞台となる陸上自衛隊「北宇都宮駐屯地:陸上自衛隊航空学校宇都宮分校」に異動し、三等陸曹に任官された。
人づきあいを好まないが、非常に頭が良く真面目で几帳面な性格だったと評されるA三等陸曹の上記の経歴からは、事件当時の社会風潮や極端な思想、特に左翼思想との関連性は想像できない。A三等陸曹は文字通り国を守るために自衛隊員の道を選んだのであろう。
A三等陸曹の陸上自衛隊「北宇都宮駐屯地:陸上自衛隊航空学校宇都宮分校」配属期間(1973年3月15日~1973年6月23日迄)の住まいは8人部屋の宿舎だったが、同年4月から所謂「日曜下宿」を理由に宿舎から約1キロメートル離れた市内某所にアパートを借りる。
中学卒業後、東北の農村から自衛隊員を目指した20歳の若者が一人になれる空間を持つことを希望する。その気持ちは特別な感情ではないだろう。
人づきあいを好まず、いつも一人だったと評されるA三等陸曹。彼は家族思いの心優しい若者だったのかもしれない。部屋には折り鶴が残され、宿舎には父親を受取人とする約1900万円の生命保険証書が残されていたが、事件に関係する書類、手紙類は見つからなかった。
また、A三等陸曹は、事件前の5月頃、数回にわたり除隊願いを提出していた。除隊の理由は、「家庭の事情」「親が病気」「自衛隊が嫌だから」だったといわれ、事件直前は飲食店で酒を飲み同店の店主女性に「(ミソ漬けが)美味しい。明日も来るから残しておいて」等と言ったという。
A三等陸曹は悩みを抱えていたのだろう。その悩みは自衛隊内に友人がいないことや、同期生が防衛大学に入校し先を越されたと感じていたこと、また、陸曹航空操縦学生試験に合格できなかったことなどが挙げられているが、真相は誰にもわからない。
知られざる背後の事情の有無を考察
自衛隊機乗り逃げ事件は、自衛隊での勤務、人間関係等の悩みを抱え事件直前に飲酒したA三等陸曹の突発的な自殺的行為と判断され捜索・捜査に幕が引かれた。 しかし、上記の公式的な見解は別に「単独亡命説」「複数亡命説」「外国人工作員の関与説」説がある。
これらの説の根拠は以下の項目に分類される。
1・A三等陸曹には操縦経験が無い。
2・「LM-1」の格納倉庫の扉は大きく数トンある。A三等陸曹1人だけで開けるのは難しい。
3・「LM-1」を格納倉庫から出す際に複数の人間の力が必要だ。
4・「LM-1」を格納倉庫から出す際に牽引車を使うこともあるが、牽引車のエンジンを始動させれば、大きな音が出る。しかし、エンジン音を聞いた者はいない。
5・そもそも、「LM-1」を操縦するA三等陸曹を目撃した者はいない。
6・1970年代から80年代は外国(ソ連、北朝鮮)の日本国内での工作活動、諜報活動、拉致等が頻発していた。
ここからは、上記の異説の根拠について考察、検証していこう。
他の自衛隊員失踪事件
1954(昭和29)年7月1日に設立された自衛隊(Japan Self-Defense Forces)の隊員失踪事件は、意外にも多い。
自衛隊機乗り逃げ事件の約9年前、1962(昭和37)年、航空自衛隊松島基地第七飛行隊の二等空曹整備員がT33Aジェット機を乗り逃げする事件があった。同整備員は、海外亡命(中国だといわれる)を目的としT33Aジェット機に乗り込むが、離陸に失敗したため未遂に終わっている。
また、自衛隊機乗り逃げ事件から約二か月後の1973(昭和48)年8月23日、北海道で訓練中の22歳の陸上自衛隊員が銃を持ったまま失踪し、四日後に保護されるという事件が起こっている。
図表は1989(平成1)年から2023(令和4)年12月末までの確認できた自衛隊員失踪事件である。
平成から令和の時代にかけても確認できた範囲で10件の失踪事件が発生していることがわかる。
さらに、元自衛隊員がロシア、北朝鮮の海外機関等の標的にされた事件も確認できる。1997(平成9)年7月29日、警視庁公安部は日本国内で諜報・工作活動を行っていたロシアの諜報機関SVRに所属するアジア系ロシア人に対し、旅券法違反等の容疑での逮捕状を請求した(同ロシア人は2年前に出国していた)。
同ロシア人は、1965(昭和40)年に失踪した福島県出身の34歳男性の戸籍を取得し、日本国内で30年以上にわたり諜報・工作活動を行い、情報収集のため元自衛官、政界関係者等と接触していたといわれる。
また、1970(昭和45)年頃、北朝鮮に拉致された疑いのある福岡県出身のM氏は元海上自衛隊員である。
平成9年版の警察白書(外部リンク警察庁HP「平成9年警察白書 国際テロ情勢と警察の取組み」)によれば、1977(昭和52)年9月から1980(昭和60)年6月の3年間に北朝鮮による拉致と考えられる失踪事件が7件(10人)発生している。
自衛隊機乗り逃げ事件が発生した1970年代は、米ソ冷戦の影響、北朝鮮の活発な対外工作活動があった時期である。ただし、確認されている北朝鮮の拉致は日本の漁船に偽装した工作船(ドイツ製の500馬力以上のエンジン4機を搭載し、50ノット以上の速度がでる)を使った拉致、欧州等の海外での日本人拉致である。
北朝鮮工作員や日本国内の土台人(日本国内の北朝鮮協力者)が自衛隊の基地に侵入し、自衛隊機を奪い、現役自衛隊員A三等陸曹を拉致するのは、かなり難しいだろう。
飛行機を使用した有名亡命事件例
自衛隊の発表によれば、A三等陸曹が操縦する「LM-1」は、茨城県沖の太平洋上に墜落した可能性が高く、A三等陸曹は自殺的な行為を目的に「LM-1」を離陸された可能性を指摘している。だが、A三等陸曹の単独亡命説も完全否定できない。
前述A三等陸曹の略歴で述べたようにA三等陸曹は、東北地方の農村に生まれ、中学卒業後15歳頃から自衛隊に関係している。これらのことから、東京等の都市部で活発化していた学生運動等との接点は考え難く、当時の報道によれば、自衛隊側もA三等陸曹に思想的背景を否定している。
しかし、前述のとおり、「LM-1」は離陸時に燃料50ガロンを満載し、1000キロから1300キロの飛行が可能だった。「北宇都宮駐屯地:陸上自衛隊航空学校宇都宮分校」から1300キロの範囲に北朝鮮が入る。
1950年代からの在日朝鮮人の帰還事業に伴い「地上の楽園」といわれた北朝鮮――以下は飛行機を使った有名亡命事件例である。
1・1941年5月10日、ルドルフ・ヘス(ナチ党/国家・国民社会主義ドイツ労働者党の副総統)のイギリス逃走(英国との単独講和が目的だったといわれるが亡命説がある)
2・1976(昭和51)年9月6日、ソ連軍人ベレンコ中尉亡命事件(ミグ25亡命事件)
海を越える亡命事件には飛行機が必要だ。A三等陸曹が「LM-1」を操縦していたのか?1人で格納倉庫を開け、「LM-1」を滑走路に運んだのか?目的は亡命だったのか?自殺だったのか?等は永遠の謎となったが――自殺説だけでは悲しすぎる。
自衛隊機乗り逃げ事件――まとめ
米ソ冷戦、地上の楽園、北朝鮮の拉致問題、高度経済成長、自衛隊の発足、学生運動、中卒は金の卵(地方出身の若年中卒労働者)――戦後の激動の時代のなか1人の若者が飛び立った。
若者は新しい時代と人生を求め操縦桿を握った。
自衛隊機乗り逃げ事件のA三等陸曹こそ純真な魂を持つ『あしたのジョー』だった――そう思いたい。
※『あしたのジョー』は、自衛隊機乗り逃げ事件の約3年前、1970(昭和45)年3月31日に発生した「よど号ハイジャック事件」の犯人グループ(共産主義者同盟赤軍派)の声明文(最後に確認しよう。われわれは明日のジョーである)で引用されている。
◆参考資料・文献
小栗新之助『自衛隊青春日記』共栄書房2013.
安明進(著)金燦(翻訳)『北朝鮮拉致工作員』徳間書店1998.
『自衛隊機を乗り逃げ』毎日新聞1973年6月24日付
『自衛隊員が連絡機乗逃げ』朝日新聞1973年6月24日付
『太平洋に墜落か』毎日新聞1973年6月25日付
『動機のナゾ』毎日新聞1973年7月1日付
『自衛隊機乗逃げ八人を処分』毎日新聞1973年8月1日付
『銃を持ち姿消す』毎日新聞1973年8月25日付
『不明自衛隊員四日ぶり保護』毎日新聞1973年8月27日付
◆成人男性の行方不明・失踪事件(事案)考察シリーズ