三島由紀夫(1925~1970)は小説家として有名で、新潮文庫で34冊も出ているくらい、多くの著作がある。戯曲も数多く執筆し、上演されなかった作品も含めると60作近くある。そのうち、歌舞伎作品は6作品である。
日本を代表する現代作家三島由紀夫と日本の伝統芸能文化「歌舞伎」の関りから三島由紀夫と歌舞伎の魅力を紹介していきたいと思う。
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三島由紀夫の最初の歌舞伎作品『地獄變』
三島由紀夫は松竹の会長にまでなった永山武臣(1925~2001)と学習院初等科からの友人であった。その永山武臣からの「芥川龍之介の『地獄変(『地獄変(芥川龍之介,1919年)青空文庫のリンク』)』を歌舞伎にしてくれないか」という誘いに乗ったのが歌舞伎脚本を書いた最初である。
歌舞伎『地獄變』は新作ということで、どんな現代的な作品になっているかという周りの予想とは裏腹に、むしろ古典的で、義太夫狂言仕立てで、下座も使い、セリフ回しも歌舞伎の古典様式にのっとった作品であった。初演は1953(昭和28)年12月歌舞伎座である。しかしその後2回しか、つまり全部で3回しか上演されていない。
その頃の歌舞伎界は「名優」と今でも言われる役者がたくさんいた。『地獄變』の主な出演者は、八代目松本幸四郎、六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎らである。
特に六代目中村歌右衛門(1917~2001)との出会いは三島に歌舞伎を書かせる大きなきっかけとなったようで、6作品のうち5本は歌右衛門ありきで書かれている。
三島由紀夫の歌舞伎 喜劇『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』
2作目は翌年1954(昭和29)年11月に歌舞伎座で上演された『鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)』である。『地獄變』とは違って、喜劇である。この演目は今や中村屋の演目になってしまって、主役の猿源氏役は初演の十七代目勘三郎。そのあとは十八代目勘三郎(五代目中村勘九郎)、六代目中村勘九郎(二代目中村勘太郎)しか演じていない。
相手役の蛍火は初演時が中村歌右衛門、そのあとは坂東玉三郎、中村七之助である。この作品は本当に楽しく人気もあるので、2022年までに15回上演されている。そして2010年に文楽化までされている。題材は「御伽草子」から取られており、義太夫狂言である。 初演時がどうだったかはわからないが、私が見ている十八代目勘三郎(五代目勘九郎時代も含める)、六代目勘九郎での時には、普段、役者と竹本(義太夫の演奏者)がやりとりをする、などということはないのだが、竹本にまでちょっとした芝居をさせて(セリフはないものの)、客席は大いに沸く。ただ十七代目勘三郎の猿源氏は三島の思っていたのとは違ったようで、本人としては納得がいっていなかったらしい。
十八代目勘三郎は自分の父親である十七代目から稽古をつけてもらっているのだから、そんなには変わらないだろう。
三島がどんな猿源氏をイメージしていたのか、気になるところではある。
三島由紀夫の歌舞伎『熊野(ゆや)』
3作目は『熊野(ゆや)』で、長唄での歌舞伎である。歌右衛門からのオーダーで書いた。初演は1955(昭和30)年2月歌舞伎座で、第2回莟会での上演だった。「熊野」は能から題材を得ている。
能ではどの流派でも演じられる演目であるし、山田流箏曲の流祖である山田検校が箏曲にもしていて、山田流の中でも最も重い曲、大事な曲の「四つもの」の一つとなっている演目である。
能の「熊野」は「平家物語」から題材を得ているので、翻案の翻案ということになる。歌右衛門が桜の下で踊っていたらさぞ美しかったことだろうと思う。
しかしこれは歌右衛門が依頼して作られた作品ということもあってか、歌右衛門以外は演じていない。歌右衛門は6回演じている。2003年、2008年に同名の演目を坂東玉三郎が踊っているがこちらは明治時代に作られたもので、三島の作品とは別である。
三島由紀夫の歌舞伎 悲劇『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじっき)』
4作目は『芙蓉露大内実記(ふようのつゆおおうちじっき)』で、フランスの劇作家ジャン・ラシーヌの「フェードル」という悲劇を元にして書かれたものである。1955(昭和30)年11月歌舞伎座初演。初演もなにも、再演されていない。題材が難しすぎたのだろうか。二代目市川猿之助と相性が悪かったという話もある。こちらも義太夫狂言となっている。悲劇は義太夫狂言と相性がいいので、再演を望みたい。
三島由紀夫の歌舞伎 『むすめごのみ帯取池(むすめごのみおびとりのいけ)』
5作目は『むすめごのみ帯取池(むすめごのみおびとりのいけ)』で、1958(昭和33)年11月歌舞伎座初演。題材は山東京伝の「桜姫全伝曙双紙」から取っている。「桜姫全伝曙双紙」とは、初代歌川豊国が絵を描いた1805(文化5)年発刊の読本で、「清玄桜姫もの」の一つ。この作品を作ったことによって、1959(昭和34)年には『桜姫東文章』の監修をしたのではないかと思われる。「清玄桜姫もの」の作品はたくさんあるが、現在上演されているのは鶴屋南北の『隅田川花御所染』と『桜姫東文章』くらいである。
先ほど書いたが『桜姫東文章』は三島の監修で1959年に上演されている。しかし、三島版『桜姫東文章』はこの1回だけで、あとは郡司正勝補綴・演出版である。『桜姫東文章』は人気演目で、戦後から現在までで16回(そのほか1回は2020年の明治座で中村屋の面々で公演予定だったがコロナで中止)上演されている。しかし、戦後初めての上演は三島の監修による上演だったのだから、三島が桜姫の魅力を再認識させたのかもしれない。 『桜姫東文章』は2021年に歌舞伎座で、4月と6月とに分けて上演され、2022年シネマ歌舞伎にもなっている。
三島由紀夫の歌舞伎 最後の作品『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』
6作目は曲亭馬琴の長編小説の歌舞伎化『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』で、1969(昭和44)年11月初演。この作品だけは歌舞伎座ではなく、国立劇場で初演された。この作品は上・中・下と長い演目で「通し狂言」として上演された。三島は国立劇場の理事もつとめていたので、やりたいこともいろいろあったのではないか。演出だけでなく、美術、音楽にも関わった。この初演時のポスターは横尾忠則氏が描いている。いかにも横尾氏らしい色使いのポスターで、国立劇場も昔は面白いことをやったのだなと、最近のチラシなどを見て思ってしまう。この作品が三島の最後の歌舞伎脚本であり戯曲である。これまでに5回上演されている。そして1971(昭和46)年に国立劇場開場5周年記念で文楽化もされている。
因みに、文楽化された『鰯売恋曳網』と『椿説弓張月』はその文楽化された1回しか上演されていない。
もし三島由紀夫が自決しなかったら、まだ歌舞伎の作品を書いただろうか。文楽にも興味を示していたというので、文楽作品も書いたかもしれない。そうだったら今の歌舞伎界はもっと違っただろう。
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★「三島由紀夫」の画像:パブリックドメイン
解説:三島由紀夫の肖像、1955年。土門拳
日付:1955年1月15日
作者:Ken Domon
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