練馬パン工場次長失踪事件(野田金次郎さん行方不明事件)

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坂本九の『上を向いて歩こう』が海を渡り、米誌『ビルボード』の全米チャートで1位に輝いた。茶の間の白黒テレビでは、『鉄腕アトム』が空を飛び始めていた。

その夏のある日――東京・練馬のパン工場で、次長を務める一人の男がタイムカードを打った。その夏のある日――東京・練馬のパン工場で、次長を務める一人の男がタイムカードを打った。

午前中、息子は「仕事に行ってくるよ」という父の声を聞いた。午後、神奈川県藤沢市の旧友は14年ぶりに彼の姿を見た。

タイムカードと証言は、彼がいた場所と時刻を残している。しかし、そのどれも、彼がどこへ消えたのかを語らない。

一本の電話、「つぶれそうなパン屋」、正午から午後3時までの空白。44歳の工場次長は、誰かに誘い出されたのか。それとも、長く築いた人生から自ら歩み去ったのか。

時代は、こうした失踪を「蒸発」と呼んだ。

事件概要

1963年(昭和38年)7月29日(月曜日)午前8時43分、当時、東京都練馬区大泉学園町にあった松月堂製パン大泉工場で次長を務めていた野田金次郎さん(当時44歳。以下、野田さん)は、出勤と同時にタイムカードを打刻した。

ほどなくして、事務所内を清掃していた女性社員が、野田さんに一本の電話を取り次いだ。作業に気を取られていた彼女は、相手が名乗った名前や声の訛りなどを思い出すことはできなかったが、声は確かに中年男性のものだったという。

野田さんは電話に出て、しばらく話し込んでいた。通話を終えると、ちょうど出勤してきた工場長に、

「昔の友達から、藤沢につぶれそうなパン屋があり、職人が7、8人失業しそうだというので、誘いに行ってくる。条件さえ合えば、今日にでも連れてくる」

と伝え、許可を得ると、あたふたと事務所を後にした。本来、求人は工場次長である彼の業務ではなかったが、旧友のつてということで、工場長は野田さんにそのまま人集めを任せたという。

現在よりも機械化されていなかったパン製造の現場において、職人の質と数は生産能力に直結し、腕の良い人材の獲得は最優先事項であったと思われる。

野田さんは一旦、工場から徒歩10分ほどの自宅に戻り、シモフリ(織物の模様で、生地に細かい白の斑点が入ったもの)の背広とライトブルーの開襟シャツに着替えると、現金2、3万円(当時の一般的なサラリーマンの月給程度)を懐に入れた。

財布にも2、3万円が入っていたといい、合わせて5万円程度を所持していたことになる。持ち物は小さめの革カバン一つだけだった。

帰宅は午前9時過ぎだったと思われる。夏休みで在宅していた息子のK君(当時高校2年)は、野田さんが再び自宅を出たのは午前10時45分頃だったと証言している。

一家は、野田さん、20年近く連れ添った妻のIさん、息子2人(K君と中学生の弟)の4人家族だった。Iさんは工場の社員食堂で働いていて不在であり、K君の弟もその場にはいなかったようである。

野田さんは、朝のTVドラマを見ていたK君の背後に立ち、一緒にじっと画面を見ており、その番組が終わった頃、

「仕事に行ってくるよ」

と言いながら、自宅を後にしたのだという。

その日の午後3時過ぎ、神奈川県藤沢市鵠沼通りでパン屋を経営するK田氏(当時45歳)は、14年ぶりに旧友の訪問を受けた。野田さんとK田氏は、かつて松月堂製パンの上野本店で、ともにパン職人の修行に励んだ仲間だった。

終戦後、復員したK田氏は藤沢市に移住し、パン屋を開業した。野田さんと会うのは、その時以来だったという。野田さんは、藤沢市内の『つぶれそうなパン屋』から職人を集めるために来たこと、さらに、

「正午に旧友(恐らく朝、大泉工場に電話をかけた人物)と藤沢駅で会ったが、職人との面談は午後4時からになった」

とK田氏に告げ、時間つぶしを兼ねて訪ねたと説明した。再会を喜んだK田氏は、彼を自宅の座敷に上げ、昼間からビールを振る舞って歓待したが、その話には違和感を覚えたという。

K田氏は、開業後14年で藤沢パン工業組合の理事を務めるまでになっており、同市で倒産しそうなパン屋には心当たりがなかった。積もる話の途中、K田氏は『つぶれそうなパン屋』の屋号を野田さんに尋ねたが、彼は、

「君には分からないよ」

と空々しい返事をするだけだったという。

午後3時半頃、野田さんはK田氏の自宅の電話を借り、大泉工場の製造課長U井氏に報告を入れた。その内容は、正午に紹介者と会ったこと、午後4時から職人たちと面談することなど、K田氏に話したものと同じだったが、さらに、

「4人くらいは採用できる見込みなので、宿舎を用意してほしい」

「夜7時からの、工場での会議には出席できる」

という情報も含まれていた。その際、K田氏とU井氏は、同業者ということで受話器越しに挨拶を交わしており、この時間帯の野田さんの動向は、二人の証言によって裏付けられている。

その後、野田さんは、自分の店へ向かうK田氏とともにK田氏宅を出た。二人はそこで別れ、野田さんは職人との約束があるという藤沢駅の方向へ歩いていった。しかし、これ以降、野田さんは消息を絶った。職場や自宅に戻ることはなく、都内で既に再嫁していた前妻や、北海道の実家に預けていた前妻との間の息子を訪ねた形跡も見つからなかった。

失踪から9日後の8月7日には、K田氏の談話とともに彼の行方不明が新聞で報じられた。野田さんは架空の求人話によって何者かに誘い出されたものとして、警察の捜査が続けられたが、身代金の要求はなく、大泉工場からまとまった金が持ち出された形跡など、犯罪との関わりを示す事実も挙がらなかった。

また、工場に職人集めの話を持ち込んだ『旧友』や、藤沢の『つぶれそうなパン屋』が特定されることも、その関係者が名乗り出ることもなかった。事務員の証言から、大泉工場に電話をかけた中年男性は実在するとみられたものの、人集めの話自体の真偽も疑われ始めた。

そもそも、野田さんの息子K君の証言に誤りがなければ、午前10時45分に大泉学園町の自宅を出て、旧友と落ち合ったという藤沢駅に正午までに到着するのは時間的に無理がある。また、彼が説明した正午から午後3時過ぎにK田氏宅へ現れるまでの行動にも、疑いが持たれた。

当時、行方不明者数は年々増加する傾向にあり、社会問題として捉えられ始めていた。もっとも、その増加分の多くは、地方から上京した若者が都会での生活に行き詰まったことに起因する事案だと考えられていた。

野田さんには、借金や病気などの問題がなく、円満な家庭と社会的地位もあった。それにもかかわらず自ら姿を消した可能性があることから、この行方不明事件は当初、特異なものとみなされ、『謎の蒸発』として週刊誌にも取り上げられた。

しかし、そのような失踪は決して珍しい事例ではないことが、次第に明らかになっていく。しかも、これは日本に限らず、世界的な現象でもあった。

戦後の復興期を経て、市民が生活の安定と経済成長を享受し始めるなか、その暮らしをなげうって姿を消す人々の存在は、現代社会の病理として衆目を集めた。1967年6月には、巨匠・今村昌平監督が失踪事件を題材にしたモキュメンタリー映画『人間蒸発』が公開された。

誘拐か、自殺か、駆け落ちか、それとも一人、気まぐれに放浪の旅へ出たのか……。答えが出ないまま、1971年(昭和45年)6月29日、野田さんに対する失踪宣告の審判が確定した。

手がかりとその検討

野田さんの失踪には、犯罪を示す物証がなく、その後の足取りを追える確かな目撃情報も得られていない。ただし、家族、勤務先、藤沢の旧友による証言から、当日の行動はいくつかの時刻と場所に区切ることができる。

野田さんの人物像、出発時刻と移動経路、藤沢での言動、警察の捜査をたどり、残された手がかりが何を示し、どこから先を裏付けられないのかを検討する。

野田金次郎さんについて

野田さんは1919年(大正8年)2月7日生まれで、出身は北海道札幌市と思われる。義務教育の修了とともに上京し、松月堂製パンに職人見習いとして就職した。確かな記録は見つからなかったが、その後、最初の結婚をして一子をもうけた。

恐らく兵役を経験しており、その直前か復員直後に離婚した。1946年(昭和21年)には、復職した松月堂製パンで出会ったIさんと2度目の結婚をし、二子をもうけた。

その間、時期は不明ながら、職人から事務方に転身した。失踪直前の5月には、大泉工場の営業課長から次長に昇進したばかりだった。上司の工場長によると、野田さんは新しい役職に就いて張り切っており、悩みを抱えている様子はなかったという。

大戦と離婚を挟んでいるとはいえ、おおむね堅実な人生を歩んできたといってよいだろう。転職癖や放浪癖は見当たらない。

妻のIさんの言葉を借りれば、野田さんは『真面目で賭け事や酒、女性にも手を出さない、陰気な感じ』の人物だったという。一方で、住み込みのパン職人として集団生活を送り、営業職も大過なく務めており、社会性に問題があったとは思われない。

仕事仲間による人物評も、『物静かで真面目一点張り』『喜怒哀楽を表に出さず、他人から恨みを買うとは考えられない』といった好意的なものだったという。

家族との関係も円満だったようである。子供たちが将来の進路などで難しい時期に差しかかるなか、失踪の2、3週間前からは、息子2人と一緒に妻の前ではしゃぐ姿を見せるようになったという。ただし、この性格の変化を捉えて『兆候はあった』とし、彼が既に失踪を企図していたとみる向きもある。

経済面では、妻のIさんにも収入があり、失踪時には財布の中身と合わせて2か月分の生活費にも匹敵する金額を持ち出していたことから、経済的な不自由はなかったとうかがわれる。

職場以外で人間関係を築いていたかどうかは不明である。ただ、練馬区大泉学園町は当時、工場や農地、牧場の合間に民家が散在する地域で、自宅から駅までの距離も23区内としては遠かった。夜7時以降に会議があるのが常だったとすれば、遊びに使える時間はあまりなかったと考えるべきなのかもしれない。

野田さんの失踪当日朝の行動について

その日、野田さんが職場から帰宅した午前9時台に放送されていたテレビ番組のうち、ドラマと呼べるものは、日本テレビの映画劇場『荒海の王者』(1957年公開、田口哲監督、主演・宇津井健)である。

失踪当日の朝のTV欄 出典朝日新聞1963年7月29日

画像 失踪当日の朝のTV欄 出典・朝日新聞1963年7月29日付(画像クリックで拡大)

ほかにも2つの局で映画や劇映画が放送されていたが、CMやエンドロールの時間を考えると、ちょうど午前10時45分頃にラストシーンを迎えたと思われるのは、この番組だけである。

念のため、K君が時間を混同し、午前9時45分に終了する番組を見ていた可能性も検討した。しかし、当日の新聞のテレビ欄を1時間さかのぼっても、該当する時間帯にドラマと呼べる番組は放送されていなかった。したがって、野田さんが午前10時45分頃に自宅を出たという証言は、信頼できる情報とみてよいだろう。

一方、目的地の藤沢駅で何とか正午頃といえる時間帯に待ち合わせるには、遅くとも東京駅を午前11時30分に発車する東海道本線・豊橋方面行き下り列車(藤沢着午後0時27分頃)に乗らなければならない。到着後、電話で相手を呼び出すのであれば、時間的な制約はさらに厳しくなる。

東海道本線下り時刻表 出典交通公社の時刻表 1963年7月

画像 東海道本線(下り)時刻表 出典・交通公社の時刻表 1963年7月(画像クリックで拡大)

野田さんの自宅から東京駅までは、公共交通機関で1時間ほどはかかる。

まず、自宅から最寄り駅(東武東上線・朝霞駅または西武鉄道・大泉学園駅)までは約3kmあり、バスで約20分かかる。

次に、最寄り駅から池袋駅まで電車で約20分かかる。さらに、池袋駅から東京駅へ向かう電車または地下鉄に乗り換える必要がある(待ち時間にもよるが20~30分程度)。

タクシーで東京駅へ直接向かった場合、自宅からの所要時間は40分程度に収まると思われる。配車を依頼してから20分以内に迎えが来れば、鉄道より早く着ける可能性はある。しかし、1963年当時の道路事情や、朝の通勤ラッシュの余波が残る時間帯であることを考えると、それも確実とはいえないだろう。

本当に正午から旧友と会う予定があり、遅刻したくなかったのであれば、自宅で身支度を整え、すぐに出発するのが最も確実だったと思われる。しかし、野田さんはそうしていない。

もっとも、仕事とはいえ相手は初対面ではなく旧友であり、当日の朝、急に呼び出されたことを考慮すると、多少の融通は利いたのかもしれない。職場やK田氏には自宅でひと休みしたことを伏せ、開始時刻を実際より早く伝えていたとしても、決して不自然ではない。

野田さんの藤沢での行動について

前述のとおり、藤沢市は野田さんにとって未知の土地ではなかった。14年前にはK田氏の開業祝いで、直近では7月12日にも、大泉工場の従業員らとともに藤沢の海岸を訪れていたという。

その際、あるいは営業課長時代の業務の合間を縫って土地勘を養い、失踪の協力者となり得る人脈を築くことも可能だっただろう。そのうちの一人がK田氏だった可能性も否定できない。

K田氏は藤沢市在住の『旧友』であり、『パン職人集め』に関わっていてもおかしくない立場の中年男性だった。失踪当日の朝、野田さんを電話で呼び出した人物と共通する点が多い。長年会っていなかった自営業の旧友を突然訪ねても歓迎されたのは、あらかじめ打ち合わせるなどして、K田氏が当日の予定を調整していたからではないかと疑う余地はある。

K田氏は、新聞や週刊誌の取材に実名や顔写真を出して積極的に応じている。もちろん、友人である野田さんの発見に協力したいという気持ちからとも考えられる。一方で、自身の属性が、失踪に関与した可能性の高い『旧友』に近すぎたために警察から疑われ、それを払拭しようとした可能性も想像に難くない。

いずれにせよ、仮に野田さんの失踪が自発的なものだったなら、最後に足跡を残す土地として藤沢を選んだことには、何らかの意味があったと考えられる。

警察の捜査について

2026年現在、健康な成人の失踪では、血痕など暴力の痕跡が残されていたり、多額の金銭が違法に持ち出されていたりするなど、犯罪の蓋然性が高い事案でなければ、積極的に捜査されないことが多い。

1963年当時は、まだ事情が異なっていたようで、警察の捜査は比較的早い段階から始まり、大きな扱いではなかったものの、新聞でも報じられた。

もっとも、目撃情報や遺留品などの手がかりが乏しいなか、捜査員にとっても雲をつかむような話だったようである。週刊誌上では、失踪の理由も行き先も見当がつかないことへの苛立ちが吐露されている。

真相考察

1963年7月29日。暑さの残る夏の夕方、藤沢市役所の転入・転出窓口の列に、シモフリの背広とライトブルーの開襟シャツを着た男性の姿があった。外がまだ明るい時間に、わずかに酒のにおいを漂わせたその中年男性は、自分の順番が来ると、どこか吹っ切れたような表情で1通の書類を差し出した。

「転出届ですね」

名前、印鑑、届出人と転出者は同一。現住所、転出先の住所、家族なし、年齢、性別……。窓口担当の職員は届出人の顔をちらりと見たが、すぐに書類へ目を戻す。国民健康保険証が手元にないため、後日郵送で返却する必要があると説明するほかは、特に注目すべき点はない。

職員は手慣れた様子で、男性に転出証明書を発行した。関心は既に次の申請者に移っていた。

男が手に入れた書類に記入された名前は、『野田金次郎』ではなかった。

当時、いや、比較的近年まで、転出届を提出する際には、現在のように本人確認書類を求められることもなく、他人が本人になりすまして提出することも容易だった。本人の意思を確認するために届出人の印は必須だったが、かといって、印鑑登録などによる証明力までは求められず、新品の印章で事足りた。

転居先の役所で転出証明書を提出すれば、その土地の住民票を取得でき、別人として暮らし始めることができる。

もちろん、書類上では同じ人間が二人存在することになる。そのため、二重登録を調べられるような事件や事故に関わらないなど、慎重な生活態度が求められるものの、立ち回り次第では、別人としての印鑑登録証、銀行口座、保険証、自らの顔写真が貼られた別人名義の運転免許証さえ入手できたという。

社会保険の加入者ではないことや単身者であることなど、なりすます相手の選定には注意が必要だった。しかし、当時既に人口20万人に迫っていた藤沢市には、適切な人物の氏名や現住所を用意できる『旧友』がおり、彼はその協力を得られたものと思われる。

この規模の都市では、1日当たりの転出・転入者も多い。申請の際によほど目立つ行動をしなければ、市職員も、訪問者一人ひとりの顔を覚えている余裕はなかっただろう。

『旧友』も、なりすます相手も、同業者ではなかったとしても、彼には藤沢市でパン屋を経営する知人のK田氏がいた。K田氏への接触は、架空の求人話に捜査の目を向け、追っ手を足止めする格好の囮になり得ると考えたのかもしれない。

新しい住まいには、大都市を選ぶに越したことはない。東海道本線で名古屋や大阪へ向かったとも考えられるが、意表を突くために、土地勘のある東京都内へ戻ったのではないだろうか。

市役所を出たとき、彼の顔には『陰気な人』と呼ばれたかつての面影が、もうかけらも残っていなかっただろう。

人間関係リセット症候群

オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーによると、『人間の全ての悩みは対人関係上の問題である』という。人々は、かつては狭い人間関係から逃れることの難しさに、近年ではSNSなどのバーチャルな人間関係が加わったことによる複雑さに直面し、大小さまざまなストレスを抱えてきた。

人間関係のリセットは、SNS疲れからの解放や、断捨離・ミニマリズムの対象を人間関係にまで広げる行為として、ストレスへの対処法の一つと肯定的に捉えられることもあるが、

『堕落した』家族5人全員を殺害して失踪し、債務や逮捕から逃れて偽名での生活を18年にわたって送った米国の犯罪者ジョン・リスト(ジョン・リスト事件 出典・Wikipedia内の記事https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・リスト事件)や、

ウェブ掲示板上の人間関係のトラブルを清算する手段として無差別大量殺人を選んだ加藤智大(外部リンク:Wikipedia内の記事『秋葉原通り魔事件』)のように、最悪の経過をたどるものもある。

また、共同体から姿を消した事例のうち、古来『神隠し』と名付けられてきたものの一部も、人間関係のリセットとして説明できるのかもしれない。

上記は極端な例だが、SNS上の人間関係を何度もリセットしたことへの後悔や自己嫌悪、転職癖が経歴に与える悪影響は、さらなるストレスの要因となる。

また、突然関係を断たれた相手や職場が抱く困惑や苦悩も、我々にとって身近な問題である。

もともと人間には、緊密な人間関係を築きたいという欲求と、すべての関係を断ち切って新しい環境に身を置きたいという欲求が備わっている。人類が食料に恵まれた温暖なアフリカを出て、寒冷地や砂漠地帯にまで勢力を拡大したのも、その欲求の働きによるものだという。

真面目な性格だったという野田さんは、自らに課した家庭人・勤め人としての理想も高かったと思われる。離婚歴や大戦によるキャリアの中断があるからこそ、今ある家庭や仕事を壊したくないという思いは、なおさら強かっただろう。

彼はパン職人として一つの会社で長年働き、ホワイトカラーに転身した後も、営業課長、そして次長にまで昇進した。

しかし、もしかすると、目標を立てやすい営業課長の職にあった彼にとって、職場全体の調整や上長の補佐を担う次長という職務は、苦手な分野だったのかもしれない。少なくとも、未知の領域ではあったと思われる。

仕事上の悩みを抱えている様子はなかったという上司の証言は、他意がなかったとしても、そう簡単に鵜呑みにするわけにはいかないだろう。

工場内では、職人の出入りは頻繁だっただろうが、事務方はそうではない。それまでの20年余り関わってきた人々の多くと、さらに十数年にわたり、ともに働き続けることになる。

部下と一緒に仕事をしていれば、相手にとって耳の痛いことも言わなければならない。地位が上がるほど、上席からの叱責も、多くの社員やその家族の行く末を左右する責任と結びつき、重くのしかかる。

やがて、身辺に澱のように降り積もった対人関係の不協和音が、現実以上の大きさで頭の中に鳴り響くようになり、考えすぎだと分かっていても、思考を止められなくなる。

恐らく彼の中で、私生活上の人間関係には既に失敗の烙印が押されていた。離婚歴があり、前妻との間の息子を捨てたのも同然だった。

仕事だけは失敗が許されない。自己肯定感を与えてくれるものは、もうほかに何もない。しかし、その唯一の糸が切れてしまうのではないかという恐怖が、彼を失踪という人生のリセットへ駆り立てたのではないだろうか。

転職や退職は敵前逃亡であり、自殺して同僚や家族の前に屍をさらすのも同じである。それならば……。

野田さんの経歴には、調べられた限り、リセット癖は見当たらない。しかし、北海道からの上京、就職、大戦、復員、離婚、事務方への異動、再婚と、彼の人生にはたびたび転機が訪れている。それらは彼自身が意図したものではないにせよ、それまでの人間関係をある程度リセットする役割を果たしていたと考えられる。

同時に、それは彼が自らの意思で他者と安全な距離を保つ経験を積めなかったことを意味するのかもしれない。

野田さんの失踪が人間関係をリセットする手段だったとすれば、その後の人生はどのようなものだったのだろうか。

彼は若い頃、パン職人としての技術を叩き込まれていたとはいえ、恐らく長いブランクがあった。

また、彼の失踪は、当時の画質とはいえ、顔写真付きで新聞や週刊誌に取り上げられた。旅館や喫茶店など、不特定多数が出入りする施設には、警察の捜査過程で写真の現物が配布されたと報じられている。少なくとも数年は、製パン業界での就職をためらわざるを得なかっただろう。

事件のほとぼりが冷めた頃には、恐らく50歳を目前にしており、若者に混じって肉体労働を再開するには厳しい年齢だった。

希望もある。妻のIさんによると、彼は『陰気な人』だったという。しかし、それは職場の人間関係による鬱屈や、離婚への後悔から来るものであり、もともとの性格ではなかった可能性もある。

リセット後は本来の明るい性格を取り戻し、真面目さや営業課長時代の経験も生かして、実力勝負のセールスマンなどとして一花咲かせ、新しい家庭を築くこともできたのかもしれない。

自発的な失踪だったとすれば、野田さんの行動には計画性がうかがわれる。残された家族の生活についても考えた末の行動だった可能性がある。自宅は社宅だったといい、限られた情報からうかがえる彼の性格や経歴、堅実な暮らしぶりを考えると、それなりの貯蓄はあったと思われる。

また、勤続年数も長く、失踪の状況からみて普通解雇となり、退職金も規定どおりに支払われる可能性が高かったことを考えると、妻のIさんが再出発するための費用や、3人の子供たちが十分な教育を受けるのに足る資産は残されていただろう。

もちろん、夫や父親を突然失った悲しみや痛み、家族である自分にも何かできたのではないかという後悔、いつか帰ってくるのではないかという希望を諦めに変えるまでの葛藤は、想像を絶するものだっただろう。

失踪した日の朝、息子のK君とともに見た映画『荒海の王者』は、地元の権力者との抗争のなかで、海底発電所の建設に挑む青年技術者を描いた活劇だったという。

正午に藤沢駅で会うという計画に狂いが生じることを知りながら、野田さんはK君の背中越しに画面へ見入っていた。

家族との最後の時間を味わっていたのか、それとも、襲い来る苦難と闘う主人公に、自らの行く末を重ねていたのか。

それはもはや、永遠に謎のままである。


◆参考資料

朝日新聞 1963年7月29日 TV欄
読売新聞 1963年8月7日付 朝刊「求人に出て消息断つ 松月堂の大泉工場次長」 
毎日新聞 1963年8月7日付「パン職人を募集すると 藤沢へ出かけ失踪 松月堂大泉工場の野田次長」
朝日新聞 1963年8月8日付 東京版 夕刊「パン工場次長の行方さがす 十日余帰らず」
読売新聞 1963年9月3日付 朝刊「消えた三人 失踪のナゾをさぐる 野田さんの場合 カギは二つの電話 順調だった勤め、家庭」
週刊現代 「特集スリラー事件 謎にくわれたパン工場次長」1963年8月29日号18−20頁 講談社
官報 昭和46年7月10日(本紙 第13365号) 公告 失踪宣告
交通公社の時刻表 1963年7月 日本交通公社
『現代の不安−人間蒸発−』 川野京輔 山王書房 1968年3月30日発行
『完全失踪マニュアル』 樫村政則 太田出版 1994年10月31日初版発行
『人間関係リセット症候群』 ゆうきゆう 内外出版社 2024年10月1日発行


Tokume-WriterWebライター

投稿者プロフィール

兼業webライターです。ミニレッキス&ビセイインコと暮らすフルタイム事務員。得意分野は未解決事件、歴史、オカルト等。クラウドワークスID 4559565 DMでもご依頼可能です。

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