1945年8月15日、日本は敗戦した。敗戦後の日本を統治したのはGHQだった。GHQ統治下に発生した「帝銀事件」は、旧刑事訴訟法の下で捜査された最後の事件だともいわれ、犯人と認定された平沢貞通には死刑判決が言い渡された。
しかし、古くから平沢貞通犯人説、帝銀事件単独犯説には多くの異論が投げられ、真犯人とされる数名の人物の存在が実しやかに語られている。
平沢貞道裁判の検察の論告に実名で登場する人物について解説など行い、帝銀事件が現代に残した宿題について考えていこう。
帝銀事件:真犯と考えられた者たち
帝銀事件の捜査線上に浮かんだ容疑者の数は、警視庁管内1368名、他府県警572名、通報2806名の合計4746名。その他、防疫関係者、衛生関係者、外地からの引揚者など約4050名を加えると合計約8796名という膨大な人海である。リンクカードは、「帝銀事件考察」に関する記事です。ぜひ、お読み下さい。
この無数の影のなかから、帝銀事件の真犯人と考えらえる数名の容疑者が浮かび上がる。
警視庁捜査一課名刺班が追った高名なテンペラ画家・平沢貞通(56歳)、同捜査二課などが追った旧日本陸軍731部隊の(※)軍医将校や中野学校出身で特務機関に属した複数の人物、都内の歯医者(731部隊関係者との説がある。「不思議な歯医者」といわれたこの人物は、1989年頃に80代前半で死亡したといわれる)、千葉県野田市の医師、自ら帝銀事件の真犯人を匂わせ世間を騒がせた茨城県の詐欺師M(48歳)などである。
また、1954年、茨城県内で発生した青酸を使った殺人事件の自殺した容疑者も犯行手口が帝銀事件に似ているとの指摘がある。
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(※)S少佐が有名であるが、Sという名前の陸軍軍医将校は実在しないといわれる。ただし、この説に対する反論もあり、S少佐は、特務機関出身の731部隊軍医将校のため、偽名を使っていたとの説がある。中野学校、特務機関、731部隊という日本の裏の歴史と人物が関係するという説は、人々の好奇心を擽り続け永遠にループする。なお、平沢貞通の弁護団は、S中佐を真犯人とする、第17次再審請求を行った。しかし、東京高等裁判所は「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」で、731部隊関係者の捜査を担当した警視庁捜査一課の刑事N氏はS中佐について直接捜査したことすらない。同中佐と帝銀事件との具体的なつながりは一切明らかになっていないと指摘し、再審請求を棄却した。
前述の茨城県のMは医者を名乗り女性を騙す詐欺師で、平沢貞通の逮捕一か月前に、別件詐欺の容疑で水戸地検に逮捕されていた(終戦後の一時期、検察が直接捜査を行う時期があった。帝銀事件でも東京地方検察庁の検事が事件発生直後の現場に赴き捜査にあたっている)。
また、警視庁が発表した犯人の似顔絵(1948年2月初旬公開)や日本初のモンタージュ(1948年5月初旬公開)を見た多くの国民から通報が寄せられ、1948年2月初め頃、「人相が似ている」との匿名通報を受けた警察により、神奈川県在住の元軍医少佐で医学博士を名乗るO(46歳)が逮捕されている。Oは前科7犯の詐欺師だった。
社会的地位の高い医者などの職業を名乗り女性を騙す手口は、古典的な詐欺師の手口だ。
国民総出の真犯人捜しは、1948年8月21日の平沢貞通逮捕により収束の方向に向かう(旧日本陸軍731部隊関与説や特務機関関与説及びそれらを隠蔽しようとするGHQとその思惑の考察などの推理、言説、論調は、その後も消えることはなかった)が、1949年10月、帝銀事件の犯人に似た詐欺師Y(39歳)が千葉県警小金井署(小金井は現在の松戸市内の地名であり、小金井署は、現在の千葉県松戸署だと思料される)に逮捕され、弁護士から検事に転職したという異色の経歴を持つ千葉地検の武村検事による「帝銀事件」関与の取調べが開始される。
山梨県生まれのYは、医師の肩書を詐称する前科4犯の詐欺師であり、殺人の前科もあるという。
平沢貞通の公判は、1948年12月10日に始まっている。公判開始後に真犯人の可能性のある人物が逮捕され、千葉地検の検事が取調べを始めたことは、帝銀事件の犯人と思われた平沢貞通に対する冤罪説の根深さを端的に現わしている。
一説によれば、武村検事は前科者に成りすまし、Yと同じ留置場に入り、千葉県警小金井署は、1年分の予算の半分をYの捜査に使ったともいわれている。
千葉地検の武村検事と千葉県警小金井署の担当刑事の執念の凄まじさに思いを巡らせたくなる。平沢貞通を被告とする帝銀事件の検事の論告でも取り上げられているYについて語る前に、次章では平沢貞通冤罪説と背景などについて述べていこう。
現在も囁かれる平沢貞通冤罪説
主な平沢貞通冤罪説の主張には、GHP統治下の日本と米国の関係に基づく政治的な思惑、政治的決着、米国の陰謀をはじめ、帝銀事件は単独犯か複数犯か、巧妙な話術と堂々たる医者の振る舞いが平沢貞通に可能なのか、平沢貞通に薬品(毒物)の取扱い知識があったのか、使われた毒物が青酸カリの類か、旧日本軍の研究施設「登戸研究所」で開発された青酸ニトリールか、などの多岐にわたる。
そして、最も重要な冤罪説の根拠は、「帝銀事件」が、旧刑事訴訟法の下で捜査された最後の事件だということだろう。
平沢貞通に対する捜査のなかで平沢貞通と帝銀事件の関係を推測させる物証は、実在の厚生技官「松井蔚」の名刺と思しき名刺を平沢貞通が持っていたことだけだろう。平沢貞通は、以前、同人と名刺交換したことがあるが、松井氏の名刺は、過去のスリ被害で盗まれたと主張している。
平沢貞通を犯人とする根拠の「幹」は彼の自白だといえる。帝銀事件は、彼の自白を「幹」にし、その「幹」に「枝葉」を生やした事件だともいえるだろう。
旧刑事訴訟法の下で捜査では、自白は「証拠の女王」といわれている。日常的に過酷な取り調べが行われ、長期間にわたる過酷な取り調べを受ける。これには、長時間の尋問や睡眠剥奪などが含まれていたとされ、平沢貞通に対する自白強要の虞が指摘されているが、旧刑事訴訟法では、被疑者の権利保護が現代の基準に比べて不十分であり、このような取り調べ方法が可能であったとされている。
また、証拠の扱いの稚拙さも指摘される。事件捜査においては、科学的根拠に乏しい証拠や、後に疑問視されることになる証言が用いられることがあった。旧刑事訴訟法下での証拠法則の未発達が、不公正な証拠収集や証拠評価につながった可能性がある。
さらに、起訴と裁判の問題点もある。平沢貞通に対する裁判は、公正さを欠いたと批判されてることがある。これには、証拠の不備や、裁判所の偏見、当時の社会的・政治的圧力、世論が影響していた可能性が考えられると指摘されることがある。
長期間の勾留、自白の強要、密室の取調べ、弁護士同席の取調べ拒否、証拠開示の問題などは、現在でも論じられる問題でもある。
検事の論告―記述された男
平沢貞通の公判中、千葉地検の検事が追ったYは、山梨県生まれの39歳の人物だった。Yと外1名が詐欺の現行犯で千葉県警小金井署に逮捕されたことから全てが始まる。警察と検事が注目した点は、彼の風貌が帝銀事件の1回目公表似顔絵に似ていること、薬品に詳しいこと、1935年と1936年に女性を劇物で殺害したと申し立てたことなど、彼の風貌と過去の犯罪歴及び手口が帝銀事件の犯人を連想させたからだろう。
Yは医者の肩書を名乗る名刺を使い、犯罪を繰り返していた。彼は医学博士を名乗り東京の下町地域の診療所での診療や無免許の外科手術などを行い、「厚生省薬務監視官」という偽の名刺を使い薬品を詐取し、喘息薬などと偽り麻酔薬を老婆に注射し意識を失った老婆から衣類などを奪うなどの事件を起こしていた。
また、Yは前述の松井蔚の遠縁だといわれ、帝銀事件の2日後の1948年1月26日(2日前との説もある)、千葉県松戸市内の旅館に「山口二郎」の偽名を使い宿泊していたことも確認されたという。この「山口二郎」の帝銀事件に関係する事前事件で犯人が使用した名刺記載の氏名と同一である。
さらに、山梨県内に所在するYの実家を捜査したところ、青酸カリ(ただし、戦後直後には青酸カリが一般家庭などにも普及していた)やスポイトが発見され、帝銀事件の犯人目撃者や「山口二郎」の名刺を作った露天商は、Yの風貌が犯人に似ていると証言する。
Yに対する捜査が進むなか、Yが1948年3月頃、帝銀事件の事件現場となった「帝国銀行椎名町支店」付近に居たこと、1947年頃、山梨県内の銀行で改竄した通帳を使い4万円を詐取したことが報道されるが、1949年頃、Yは「帝銀事件には絶対に白である」という理由を列記する手記を発表し、疑惑に対抗した。
1949年12月7日、突然、千葉地検はYと帝銀事件は「全然無関係」と発表する。ただし、Yが帝銀事件と「全然無関係」とした理由に関する報道は確認できなかった。 では、なぜ、千葉地検は、Yと帝銀事件は「全然無関係」と判断したのだろうか。この判断に関する記述が「帝銀事件における検事の論告 (検察資料9)」(法務府検務局編 法務府検務局)に記載されている。以下は、平沢貞通を被告とする「帝銀事件の検事の論告」にあるYに関する記述である。(原文は実名表記だが、本記事ではYと表記とする。また数字はアラビア数字で表記する)
(前略)千葉地検に於いて帝銀容疑者として取調べを受けたY(原文は実名)が真犯人ではなかろうかと言う疑點(テン)に関してましては、昭和24(1949)年12月9日付の千葉地検から東京高等検察局検事長宛の報告書に記録してある通り昭和23(1948)年1月19日、同月26日、同月27日のアリバイが完全に成立し且、年齢人相筆跡も相違して居て、容疑の點(テン)は全然なくなったのであります(後略)
帝銀事件の検事の論告 第三章 その他の直接又は間接証拠 14節
Yのアリバイが確認されたといわれる昭和23(1948)年1月19日は、帝銀事件の類似事件といわれ犯人が「厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課」の名刺を使用した「三菱銀行中井支店 強盗未遂事件」、同月26日は帝銀事件発生日、同月27日は、安田銀行板橋支店での小切手換金事件(帝銀事件の犯人が持ち去った小切手が何者かに換金された事件)の発生日である。
帝銀事件の「犯人の容貌と似ている」から始まったYの捜査が「人相の相違」で終わる。また、アリバイの確認によりYは帝銀事件に「全然無関係」と述べるが、そもそもYは仲間1名と共に詐欺を行い現行犯逮捕された人物だ。なお、Yの写真は当時の新聞に掲載されている。本記事著者の個人的感想だが、Yは若い頃の平沢貞通に似ている印象を受けた。
帝銀事件が複数犯による計画的かつ組織的な犯罪だとするならば、Yの事件当日のアリバイとともに仲間の存在や仲間のアリバイの有無の捜査が必要だと思われるのだが――これらの点に言及した千葉地検などの資料は見つけられなかった。
東京地検と千葉地検との関係性や千葉地検内の人間関係などの疑問点を含め、帝銀事件の疑問と冤罪説は残されたままなのかもしれない。
帝銀事件からの学びと宿題
冤罪事件とその温床ともいわれる司法制度の問題、さらに死刑制度の問題は21世紀の日本に残された大きな宿題だともいえる。
自白の強要、長期勾留、取調べの録音・録画、証拠収集、開示の問題と世論に迎合するような判決は帝銀事件から75年以上の時が経っても日本社会に残っているといえるだろう。
冤罪は一人の人間の人生を奪う。冤罪による死刑は、無実の人間から国家が命を奪うことになる。
帝銀事件から学びは、非常に重要だといえるだろう。
◆参考資料
読売新聞1948年2月6日付
読売新聞1948年10月16日付
読売新聞『宿帳に山口二郎と署名』読売新聞1948年10月26日付
読売新聞1949年10月20日
読売新聞1949年11月9日付
読売新聞1949年11月22日付
読売新聞1949年12月8日付
法務府検務局『帝銀事件における検事の論告 (検察資料9)法務府検務局編』1950年
正木亮『死刑:消えゆく最後の野蛮』日本評論社.1964年
成智英雄『刑事捜査記録第6 (特異犯罪篇)』雄山閣出版.1963年
森川哲郎『秘録帝銀事件』祥伝社文庫.2009年
佐伯省『帝銀事件不思議な歯医者』講談社出版サービス1996年
◆昭和の未解決(殺人)事件
◆昭和の事件