国内外を問わず、観光客が押し寄せる街・京都。長い歴史を持つ古都であり、平安時代の公家文化や舞妓といった要因から、華やかなイメージを持つ人も多いことだろう。
しかし、光があれば影もある。京都は意外と闇に満ちた場所で、一条戻り橋には式神が住んでいたし(安倍晴明に命じられて)、妖怪や怨霊が跋扈していた。政治の中心であり天皇の住まいだった京都御所も、その例外ではない。
かつての京都には、どんな妖怪が息づいていたのだろうか。この記事で紹介していこうと思う。
日本的キメラ「鵺」
京都の妖怪を語るにおいて、「鵺(ぬえ)」は欠かせない存在だ。
と言いながらも、鵺は「訳の分からない」ものを表す言葉でもある。つまるところ、鵺とは「訳の分からない」妖怪なのだ。こうした部分は、どことなくぬらりひょんに似ている。
鵺という言葉は、『古事記』に登場する位古いものだ。もっとも、『古事記』に登場する鵺は普通の鳥のようである。鵺が妖怪として語られるようになったのは、平安時代末期あたりのことだと考えられている。
『平家物語』で語られる伝説は、妖怪・鵺が持つ逸話の中でも有名なものだ。以下で、簡単に見ていこう。
仁平(1151年~1154年)の頃、近衛天皇は、夜な夜な御殿に掛かる黒い雲と不気味な鳴き声に悩まされ、病気になってしまった。そこで帝を怪異から守るために選ばれたのが、源頼政である。
頼政は見事、化け物を打ち取った。その姿は「猿の頭に狸の胴体、蛇の尻尾の虎の手足」という恐ろしく不気味なものだった。
平家物語にはもう1つ、鵺の伝説が載っている。
応保(1161年~1163年)の頃、二条天皇が鵺の鳴き声に悩まされていた。この鵺の退治を命じられたのは、先と同じ頼政である。頼政は2本の矢を使い、鵺を射落とした。
近衛天皇の伝説では、一種キメラ的な姿が描写されているものの、「鵺」という名前を出してはいない(鵺に似た鳴き声、と言及されているだけだ)。しかし、二条天皇の伝説では名前に言及されてはいるものの、姿には言及されていない。鵺が持つ「訳の分からなさ」は、このあたりから来ているのかもしれない。
ちなみに、鵺の正体はトラツグミだと言われている。夜に鳴く鳥であり、「ヒィー」という高音で、あたりに響き渡るような鳴き声をしている。
平安時代の夜は暗く静かだ。そんな中でこんな鳴き声が聞こえてきたら、恐ろしく感じても無理はないだろう。
鬼の頭領「酒呑童子」
日本人ならば、「酒呑童子」という名前を聞いたことがあるだろう。鬼の中でも有名な酒呑童子もまた、京都を荒らしまわった妖怪である。
酒呑童子の大まかな伝説は以下のものだ。
一条天皇の頃、京都で姫君や若者が次々に行方不明になる事件が起こった。安倍晴明の占いにより、この事件は、大江山を根城にしている酒呑童子が犯人であることが分かった。
一条天皇は酒呑童子討伐のために、源頼光と彼が率いる四天王を大江山に向かわせた。この四天王のメンバーには、「金太郎」で知られる坂田金時が参加している。
頼光たちは山伏の格好をして、酒呑童子と酒盛りを始めた。大酒呑みである酒呑童子も、依光に振舞われた毒酒によって酔いつぶれてしまう。頼光たちはその隙を突き、酒呑童子の首を刎ねてしまった。
酒呑童子の首は斬り落とされてからも、頼光の兜に食らいついてきたという。
酒呑童子の出自には、さまざまな伝説がある。美少年が女性たちの恨みを買い、その結果鬼に変化してしまったもの。ヤマタノオロチの血を引く父親と、人間の女性の間に生まれたとされるもの。元々は暴れ者の破戒僧だったとされるもの。こうした伝説では、「酒呑童子は尋常ではない期間、母親のお腹の中にいた」と語られることが多い。
京の都で暴れまわった酒呑童子だが、死後はその行いを悔いたとされている。そして、京都の西にある沓掛の地で、「首塚大明神」として祀られている。心霊スポットとも言われているが、首から上の病気にご利益があるとされている。
まつろわぬ民から妖怪へ「土蜘蛛」
鵺や鬼はもちろん恐ろしい。しかし、現代人にもより分かりやすい姿をした恐ろしい怪物が、かつての京都にはいた。それが、巨大な蜘蛛の姿をした妖怪「土蜘蛛」である。「鬼の顔に虎の体、蜘蛛の手足」という姿で語られることが多い。
土蜘蛛は源頼光(酒呑童子を討伐した武将)に関係が深い妖怪である。能『土蜘蛛』の中に、以下のエピソードを見ることができる。
武勇で知られる源頼光は、ある時病にかかった。さしもの頼光も病には勝てず、泣き言をこぼすばかりであった。
ある夜、1人で休んでいる頼光の前に怪しげな僧侶が姿を現した。驚く頼光に対し、僧侶は病の原因が自分であることを告げ、巨大な蜘蛛に姿を変えた。そして、頼光に大量の糸を吐きかけて動きを封じようとしてきた。
とっさに「膝切」という刀で応戦した頼光は、蜘蛛を退散させることに成功する。頼光はこの「膝切」を讃え、「蜘蛛切」と名前を変えた。
その後、頼光の従者である独武者は軍勢を引き連れ、蜘蛛の血の後を追っていく。血の跡は大和国(奈良県)にある葛城山の塚まで続いていた。
独武者たちが塚を壊そうとすると、蜘蛛の化け物が現れ、彼らに「日本の平和を乱す」という目的を告げながら足止めをしようとする。しかし、神に祈った独武者の刀の光に怯み、とうとう首を斬られてしまった。
こうして、土蜘蛛退治を終えた独武者たちは都に凱旋したのだった。
最後に、土蜘蛛の正体について軽く触れていこう。土蜘蛛の正体とは人間である。それも、「朝廷に従わない・まつろわぬ民」たちなのである。
蝦夷や熊襲などが代表するように、古代の日本はいくつもの民族に別れ、それぞれ違う文化を持っていた。これを統一したのが大和朝廷である。そして、土蜘蛛とは大和朝廷に隷属することを拒否した集団を指すことばだった。
土蜘蛛の中でも大和国・葛城山の土蜘蛛が有名である。彼らは不思議な能力を持っていたとされ、神武天皇によって滅ぼされた。
これらの事実を踏まえた上で先のエピソードを読むと、ただの「妖怪伝説」とは言えない風景が見えてくるはずだ。
妖狐の代表格「玉藻前」
人を化かす動物及び妖怪と言えば、狐や狸が有名だ。そして狐は、美女に化けて男性をたぶらかすことが格段に上手である。
平安時代末期の京都に現れた「玉藻前」は、そんな妖狐の代表格である。
玉藻前は、鳥羽上皇の愛妾の1人である。18歳で宮中に上がり、持ち前の美しさと頭の良さで鳥羽上皇を魅了した。しかし、鳥羽上皇は玉藻前を寵愛するようになってから体調を崩すようになる。
陰陽師である安部泰成は、上皇の病の原因が玉藻前であることに気が付く。安部泰成が真言を唱えると、玉藻前は九尾の狐の姿となり逃げ去って行った。
現在の栃木県那須町にある殺生石は、逃げ去った玉藻前が追い詰められ、退治された末の姿であると言われている。
玉藻前伝説の出自を探っていくと、古代中国にまで遡ることができる。
「夏桀殷紂」という言葉がある。これは、古代中国の王朝・夏の桀王と殷の紂王を例えて呼んだ言葉である。この2人は国を滅ぼした暴君であり、そのきっかけは傾国の美女にのめり込んだことだった。
殷の紂王の愛妾は「妲己」という。ここまでくれば知っている人も多いだろうが、妲己とは、九尾の狐が人間に化けた姿である。そして、玉藻前は妲己が殷を追われ、日本に逃げて来た姿だと言われている。
死後も子供を育てる「飴買い幽霊(子育て幽霊)」
母親が子供に向ける愛情は凄まじいものだ。そして、その感情は死してなお変わることは無い。
京都には六道珍皇寺という寺がある。閻魔大王の補佐として知られる小野篁が、この寺にある井戸を通じて地獄に通っていたという伝説が残されている。そして、この辺りを「六道の辻」と呼ぶ。詳細な解釈をすると難しいため「あの世」と「この世」の境目だと思えば良い。
六道の辻には、飴屋があった。この飴屋こそ、死してもなお子を育てようとする女性の幽霊が訪れた場所である。
ある夜、とうに店を閉めた飴屋の戸を叩く音がする。主人が表に出て見ると、女が立っていた。彼女は飴を買いに来たと言う。主人が飴を渡すと、女はお金を払って帰って行った。
そのやり取りが始まって7日後、女は所持金が尽きてしまった。飴屋の主人はそれでも飴を渡し、女の後を付けていった。女の向かった先は墓地であり、新しい卒塔婆の下で声がした。
寺の人と主人の皆で墓を掘ると、飴を買いに来た女の死体の傍で、赤ちゃんが泣いていた。女は三途の川の渡し賃で赤ちゃんのための飴を買い、育てていたのだった。
その後、その赤ちゃんは高僧になったと言う。
この話は、厳密には妖怪談とは言えないだろう。しかし、京都の怪異譚ではよく知られた話であり、全国に類話がある。話中で挙がった飴屋も現存している。そのため、今回の「京都の妖怪」に入れるに至った。 怪異譚と言えば、怖いものばかりを想像する人が多いだろう。しかし中には、こうしたしんみりと感じ入るものも存在しているのである。
まとめ
東京ほどではないが、京都の夜の街は明るい。闇に満ちた空間は、今はあまり残っていない。
しかし、昔の京都は闇に満ちた場所だった。郊外は勿論、天皇の住まう場所にすら、闇は浸食していたのである。そして、妖怪たちはそんな闇の中に住んでいた。
京都に現れた妖怪を調べていると、京都の知られざる歴史を知ることができる。その多くは華やかさなどなく、陰鬱な感じがする暗い歴史である。その知識は必要不可欠ではないが、京都の街を歩く上では役に立つ。
京都の妖怪の歴史を紐解いて、その知識と共に京都を歩いてみて欲しい。必ず、これまでとは違う感覚で周囲を見渡すことができるだろう。
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