ご注意:この記事には、映画『エル・トポ』のネタバレが含まれています。
内容が特殊すぎたり、残酷すぎたり。万人には到底おすすめできないものの、ハマる人はとことんハマる。
こうした特徴を持つ映画は「カルト映画」と呼ばれ、有名な作品がいくつかある。そして、その代表格が「ミッドナイトムービー」の1つに数えられる『エル・トポ』である。
しかし、カルト映画と呼ばれる作品の内容は、大抵理解しにくいものだ。そこで今回は、『エル・トポ』の内容について解説していきたいと思う。章ごとに解釈を付け、作品全体の見方について触れていくため、観賞のお供にして欲しい。
映画『エル・トポ』の作品概要
映画『エル・トポ』は1970年に公開された、メキシコの映画である。
監督と主演を鬼才・アレハンドロ・ホドロフスキーが務めた。ちなみに、物語中盤まで登場する裸の男の子は、監督の実の息子である。
『エル・トポ』は深夜帯に上映される「ミッドナイトムービー」でありながら、カルト映画の大作として有名になった作品である。
ファンと公言している著名人も多く、その中でもジョン・レノンは有名だ。
今作がカルト映画とされる所以は、その内容の特殊さにあり、宗教的・哲学的要素がメインに用いられている。その描かれ方は、説明が少ないこともあり非常に難解だ(日本人のキリスト教的素養の薄さも関係しているかもしれない)。その上、ストーリーの端々に本物の動物の死骸や暴力描写、そしてフリークスが登場する。
こうした描写は慣れない人にとっては辛いだろう。しかし、こうした味があってこそ『エル・トポ』なのだ。
『エル・トポ』のストーリーを章ごとに解説
映画『エル・トポ』はプロローグを含んだ、合計5つの章で構成されている。この項では、章のそれぞれをあらすじ付きで解説していきたい。
創世記(プロローグを含む)
<あらすじ>
とある荒野で、黒ずくめの服を着たガンマン・エルトポが、息子を連れて旅をしていた。
ある日、エルトポは7歳になった息子に対し、母の写真とおもちゃを埋めるように告げる。7歳は大人だから、というのがその理由だ。
旅の途中、エルトポは虐殺された人々を発見した。そこでエルトポは、犯人たちの居所を探し出し、リーダーである大佐を去勢。自殺に追い込むことに成功する。そこでエルトポは、大佐の愛人にされていた女と出会う。
女はエルトポを誘惑し、彼はそれに屈してしまう。息子を置き去りにして、女と旅に出たのだった。 エルトポにより「マラ」と名付けられた女は、彼が自身を愛している証拠として、砂漠にいる4人の達人たちを殺して欲しいと願う。エルトポの達人探しの旅が始まった。
<解説>
「創世記」とは、旧約聖書内で天地創造やノアの箱舟、ソドムとゴモラなどの物語を語る、キリスト教の聖典である。キリスト教に詳しくなくとも、これらの名前を聞いたことがあるだろう。
映画『エル・トポ』で描かれる創世記は、すなわち、エルトポの物語の始まりだ。エルトポがなぜ「こうなった」のか。なぜ、「そうなっていく」のか。
エルトポは、自身の事を「神」と称している。それが傲慢であることには間違いがないが、彼にはガンマン及び、シャーマンとしての才能がある。岩から水を噴出させるのが、その表れだ。
しかし、彼は堕落してしまう。その原因は、大佐の愛人であった女・マラだ。彼女の存在により、エルトポは正義感からの行動ではなく、私欲のための行動を起こすようになる。
「マラ」とは、作中でも触れられている通り「苦い水」を意味する。イスラエルはキリスト教の聖地であるが、同時に砂漠でもある。砂漠にとって水は重要だ。しかし、その水が苦ければ、飲みたくても飲めないものとなる。つまり、エルトポにとってマラとは、「凄まじい誘惑をする存在」なのだ。
エルトポはマラによって、人々を救う存在(救世主的存在と言っても良いかもしれない)から、1人の「弱い・卑怯な手を使う」人間に堕ちてしまった。
そう考えると、この章「創世記」で描かれるのは「堕天」していく様なのかもしれない。
予言者たち
<あらすじ>
エルトポの前には、達人たちへと誘う一人の女がいた。
マラは初めの内、女に対し嫉妬心をむき出しにするが、2人は徐々に親密な関係になっていく。
3人目の達人に対し、エルトポは卑怯な手で勝利を収める。しかし、最後の4人目の達人でエルトポは衝撃を受けることになる。
4人目の達人はガンマンではない。武器は虫取り網1つ。どんな銃撃も、彼は虫取り網だけで返してしまう。
彼は、エルトポが求める「決闘」と「命」には何の意味もないと諭し、その目の前で自殺をする。
<解説>
この章で描かれるのは、エルトポの苦悩と悟りに至る様だ。
ここで、「予言者」という言葉の意味を整理してみよう。
予言者とは一般的に、「未来に起こることを教えてくれる人」というイメージを持ちがちだが、キリスト教的には違う。予言者はあくまでも、「神の言葉を伝えてくれる人」なのである。
エルトポが決闘をした達人たちを考えてみよう。
4人の達人たちは皆、達観している。秀でている物事があり、それぞれに信条を持っている。そして皆が、エルトポに対し教え諭してくれる。
しかしエルトポは、彼らに勝つことしか考えることができない。しかし、エルトポと達人たちの実力差は大きい。エルトポもそれを理解しているが故に、卑怯な手に頼らざるを得ないのだ。
この章のタイトルにある「予言者たち」とは、正に達人たちのことを指すのだろう。
達人たちは皆、勝利にこだわっていない。4人目の達人に至っては、自分の命にすらこだわりが無い。決闘にも、命にも意味がないと考えているからだ。これこそが、エルトポと彼らの大きな違いだ。
エルトポは最初、正義を持っていた。その後マラと出会ってから正義を無くし、私欲に走った。しかし、4人目の達人の自殺を見届けたことをきっかけに、再び正義に目を向けつつ、永い眠りにつくことになる。
ここで描かれているのは、堕落した存在が真実を見つける過程なのである。
詩編
<あらすじ>
エルトポは広い洞窟の中で目を覚ました。
エルトポが眠っている間世話をしていた女に話を聞くと、ここは「フリークス」たちが住まう村だと言う。フリークスたちは地上の町から隔絶されており、洞窟に閉じ込められて生活していた。そして、エルトポは彼らの神として崇められていたのだった。
エルトポはかつてのエルトポではなかった。フリークスたちのために、街に繋がるトンネルと作ろうと決意する。
エルトポは長く伸びた髪を切り、修行僧のような服を身にまとった。そして。トンネル工事に必要な金を稼ぎに、世話役の女と共に町に向かうのだった。
<解説>
映画『エル・トポ』は4つの章で構成されてはいるが、ストーリーを追っていくと、大きく分けて2つの物語が展開されていることが分かる。
一つ目の物語は、「予言者たち」で終わりを迎える西部劇風のものだ。その独特の描写やセリフの少なさから理解に苦しむことがあるかもしれないが、筋書きそのものは分かりやすい。「エルトポが最強のガンマンを目指し、4人の達人を倒そうとする」、という一種少年漫画にありがちなものである。
しかし、『エル・トポ』の物語は「詩編」という章で作風が大きく変わる。この章以降のエルトポには、前半のような傲慢さは持ち合わせていない。後半の彼はどちらかと言えば「無私」であり、下世話な芸で金を稼いででもフリークスたちを助けたいと考えている。
また、エルトポの目覚めはイエス・キリストの復活に関連していると考えることができるが、この章以降の彼には、前半で見せた超常的な能力も、奇跡を起こす力も、何も残っていない。
再生によって、エルトポは普通の人間になったのである。
啓示
<あらすじ>
いつものように女と芸をしていたエルトポは、金と引き換えに人前でのセックスを求められる。それに応じたエルトポと女は、教会で結婚式を挙げようと考える。
2人が教会にいた神父に声を掛けると、それはかつて、エルトポが捨てた息子だった。成長した息子は、昔のエルトポにそっくりである。
息子はエルトポに復讐しようとするが、「トンネルの完成まで待って欲しい」という命乞いを聞き入れ、その上、資金を稼ぐ手伝いまでするようになる。3人で資金集めを続ける内、息子の心には復讐心とは違うものが芽生えてきた。
<解説>
今作の最終章である「啓示」は、これまで以上に衝撃的なシーンが連続して映し出される。
人前でのセックスを求められるエルトポと女。それに金を払おうとする町の男。動物の本能をむき出しにした、堕落しきった町。町の人々が信仰する、インチキだらけの宗教。フリークスたちが望む地上の町は、まるで地獄だ。物質的に満足していたとしても、精神的に満たされているとは到底思えない。
エルトポはそんな所に人々を導いて良いのだろうか。
その答えは、物語の最後で明かされることになる。フリークスは地上に出られたことに喜び「盲目」になってしまう。つまり、自分たちの置かれた状況を考えることができなくなった。そして、地上の人々はフリークスを受け入れることができないのだ。
映画のタイトルであり主人公の名前である「エルトポ」には、モグラという意味がある。モグラは地中で生きる生き物で、日光に弱い。
物語の冒頭で、地上に出ると失明してしまうモグラの詩が読まれる。このモグラとはエルトポ自身を指すと同時に、フリークスも表現しているのだろう。この章は、タイトルが持つ意味を表現する、重要な部分なのだ。
物語の最後で、エルトポは焼身自殺を果たす。その姿はまるで即身仏の様で、その墓にはミツバチが巣を作る。
エルトポの死によって、新しい命が繁栄していくのかもしれない。
映画『エル・トポ』とはどんな映画なのか
映画『エル・トポ』とはどんな映画なのか。それを一言で答えることは難しい。1つだけ言えることは、理屈で見る映画ではないということだ。
今作の鑑賞には、感性が重要だ。それも難しいものではない。今作で描き出されるシーンそれぞれを「受け入れられる」かどうか。そして、物語のどこかにピンと来るものがあるかどうか。今作に拒否感を抱かず、どこかしらを美しく感じられるのであれば、観賞することをおすすめしたい。
最初は『エル・トポ』の意味が分からず、混乱するかもしれない。先の項で、筆者は章ごとの解説を書いたが、人によっては全く違う見方をする人もいるだろう。こうした解釈の違いこそを知ることこそが、『エル・トポ』が代表するカルト映画を見る醍醐味でもあるのだ。
そして何より、今作が持つ色彩は特殊かつ魅力的だ。全体が茶色めいた背景の中に、黒が映え、鮮やかな色が浮かびあがる。勿論、血の色も例外ではない。
『エル・トポ』の鑑賞においては、物語を理解することなど後回しで良い。その代わり、シーン一つ一つが持つ力強さや、振り切りすぎているアート性を存分に味わってほしい。その上で惹かれるものがあれば、数回鑑賞してみよう。
映画『エル・トポ』は、「考える映画」ではないのである。
まとめ
カルト映画の代名詞『エル・トポ』について解説してきた。
今作は有名ではあるものの非常にアクが強く、途中で見ることをあきらめてしまった人も多いことだろう。しかし、見れば見るほど味が出てくる映画でもある。
この記事を読んで少しでも興味が湧いたならば、再度チャレンジして欲しい。
ちなみに、今作ではグロテスクなシーンが多数みられる。こうしたシーンが苦手な人は、避けた方が無難だろう。
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