最近は見かけることが少なくなった井戸。あなたは、井戸の底を覗き込んだことがあるだろうか。
水が満ちていても、枯れていても、井戸が持つ雰囲気は神秘的だ。底がどうなっているかが全く見えず、何がいても、どこかに繋がっていても不思議ではないように思える。そうでありながら人間の生活に欠かすことができない。だからこそ、昔の人は井戸を特別なものだと考えていた。
今回見ていくのは、井戸が深く関係する世界の物語たちだ。これらの物語を知れば、人類共通とも言える「井戸への認識」が少し分かってくるだろう。
小野篁と地獄に通じる井戸
京都の六道珍皇寺の境内に、地獄に通じると言われる井戸がある。井戸こそが地獄への出入り口という訳だ。この井戸は現在でも、小窓を通して覗き見ることが可能である。
そして、この井戸を通じて地獄と現世を行き来したと言われる人物が、この項でご紹介していく小野篁(おののたかむら)だ。
小野篁は、遣唐使で有名な小野妹子の子孫と言われる人物だ。日本で井戸と言えば、ビデオを介して広がっていく怨霊のイメージが強いが、小野篁はそれよりも遥か昔に生きた人物である。平安時代の貴族であり、優れた頭脳を持っていた。和歌の名手でもあり、文武両道な人物だったと言われている。「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよ 海人の釣り船」という歌は現在でも有名だ。また、破天荒な逸話を持つことでも知られている。
逸話によると、小野篁は夜な夜な六道珍皇寺の井戸を通り抜け、地獄の閻魔大王の手伝いをしていたと言われている。知人が急死し閻魔大王の裁判を受けることになった際、小野篁により生き返ることができたという話も有名だ。
また、六道珍皇寺には小野篁作と言われる閻魔大王像が現存している。この像はかなりの迫力を持つもので、小さな小窓から見ることができるので、訪れた際には見学しておこう。
グリム童話の井戸
ホレおばさん
『ホレおばさん』は、グリム童話の中に収録された童話の一つだ。特に有名な童話でもなく、知らない人も多いと思われるため、以下で簡単に紹介していく。
「とある所に、2人の娘を持つ女性がいた。1人は不器量で怠け者、そしてもう1人は、美しく働き者だった。しかし女性は、実の子供だからという理由で、怠け者の娘ばかり可愛がっていた。
ある日、働き者の娘が血で汚れた糸を洗おうと井戸を覗き込んだところ、間違えて、糸を井戸の中に落としてしまう。糸を取りに井戸の中に飛び込んだ娘は、美しい草原で目を覚ました。
娘は草原を進むなか、パンからのお願いやリンゴからのお願いを聞き入れ叶えていく。そして行き着いたのが、『ホレおばさん』の家だった。
ホレおばさんは娘を家に招き入れ、「布団を振るって人間界に雪を降らせる」仕事をする代わりに面倒を見てくれるという。娘はその申し出を受け入れ、一生懸命に働いた。
しばらくは楽しく過ごしていたが、娘はホームシックにかかってしまう。ホレおばさんに伝えた所、娘の頭上から金の雨を降らした後、家に帰してくれた。
体中に黄金を付けた娘は、家で歓迎される。そして、怠け者の娘も同じように井戸に飛び込むが……」
この物語は分かりやすい。虐げられていた働き者の娘が幸せになり、もう1人の娘はそのなまけ癖からひどい目に合う、というものだ。しかし、注目すべきは「ホレおばさん」という存在と、彼女が住むという井戸の底の世界だ。
働き者の娘が井戸に飛び込んだ後、目にした世界を考えてみて欲しい。そこに広がるのは一面の草原という、美しい世界だ。川こそ流れてはいないものの、水の底にある美しい世界は、死後の世界のイメージにピッタリである。井戸の水を三途の川になぞらえることもできるかもしれない。
そして、ホレおばさんの役割とは、人間界に雪を降らせることだ。雪が降る冬の世界では、多くの生き物が眠りについている。植物も皆枯れてしまい、春や夏のような活気はない。
つまり、ホレおばさんは死の世界を司る神秘的な存在と考えることができるのだ。 井戸を通して死後の世界を行き来する。ジャンルは違うが、小野篁の逸話との共通点が見られる童話である。
蛙の王子
『蛙の王子』とは、『ホレおばさん』と同じくグリム童話にある物語だ。その内容は以下のもの。
「ある国に、美しい姫を3人持つ王様がいた。ある日、3人の中で一番美しいお姫様が、井戸の中に毬を落として泣いてしまう。
そんなお姫様の前に、一匹の醜い蛙が現れた。蛙は毬を取ってくる代わりに、お姫様に結婚して欲しいと言う。お姫様は了承し、蛙は瞬く間に毬を取って帰ってきた。しかし、お姫様は蛙のことを嫌い、約束を守らずにお城へと戻ってしまった。
その夜、食事の時間に蛙がお城へとやってきた。話を聞いた王様は、お姫様に約束を守るように告げる。お姫様はいやいやながら、蛙と一緒に食事をし、寝ることになった。
あからさまに嫌がるお姫様に蛙は傷つく。その姿をみたお姫様は蛙を哀れに思い、キスをした。すると、蛙は美しい姿をした王子に変化したのである。 ※多くの類話あり」
この物語は井戸よりも、約束を守ることの大切さが強調された童話だ。しかし、井戸から異形のもの(蛙)が這い上がり、落ちた毬を拾ってきたこと。そして、王子(蛙)がなぜ井戸にいたのかを考えると、井戸の役割が見えてくる。
王子は魔法使いによって、蛙に姿を変えられていた。蛙は魔女の使い魔であると同時に、魔女が調合する薬の材料にされる程、魔法に縁がある生き物だ。また、水辺の生き物であり、基本的に人間から嫌われることの多い存在だ。
水の底は、人間が生きられない世界である。王子は蛙に変えられた瞬間から、人間界では生きていけなくなった。井戸の底、水の中こそ、彼が生きていける世界だったのだろう。
不思議の国のアリスと井戸
イギリスの童話作家であるルイス・キャロルが書いた、現在でも人気の高い物語『不思議の国のアリス』。ディズニーでもアニメ化&実写化されていることもあり、元々の小説に触れていなくとも、ほとんどの人が筋書きを知っていることだろう。
そんな『不思議の国のアリス』も、井戸が関係している物語である。
物語は、時計を見ながら「遅刻だ! 遅刻だ!」と走るウサギを主人公のアリスが追いかけることから始まる。ウサギが飛び込んだ穴に、思わず飛び込んでしまうのだ。
ウサギとアリスが飛び込んだ穴は、最初は普通の穴だった。しかし、アリスは途中から「井戸のようなもの」の中を落ちていることに気が付く。しかも垂直に、かなりの深さを持つ井戸だ。
アリスが穴を落ち切って行きついた先はご存じの通り。普通の常識が一切通用しない、摩訶不思議でヘンテコなワンダーランドだ。
この物語の元型は、ルイス・キャロルがアリス・リデル姉妹に語った物語である。そして、名前から分かる通り、アリス・リデルとは主人公・アリスのモデルとなった少女である。小説の冒頭に詩が書かれているが、これこそがルイス・キャロルが物語を作り上げた背景となるものだ。
ウサギを追って井戸を落ちた先にある不思議の国。トンネルと同じく、井戸が「異世界」に通じるという考え方を示しているのだろう。
ちなみに、ルイス・キャロルは『鏡の国のアリス』という物語も創り上げている。これは、井戸ではなく鏡を通って不思議の国に行く、というものだ。古来より、鏡は神秘的なものとして世界中で扱われてきた。 井戸と鏡。異世界に行く材料としては、これほどぴったりのものはないだろう。
『不思議の国のアリス』に登場するもう一つの井戸
『不思議の国のアリス』を読み進めていくと、作中にもう一つ井戸が登場していることに気が付くだろう。それが、有名な「お茶会」のシーンである。
このシーンでは、帽子屋とウカレウサギ、そしてネムリネズミが終わりのないお茶会を繰り広げている。アリスもまた、そのお茶会に加わって、訳の分からないことになるのだ。
お茶会が進む中で、ネムリネズミが「お話」を皆に聞かせることになる。その話とは荒唐無稽なもので、「糖蜜の井戸の中に暮らす三姉妹が、糖蜜の絵を描いている」というものだ。そして、この「お話」に終わりは来ない。アリスが怒って、お茶会を離席してしまうからだ。
訳の分からない世界で聞かされる、訳の分からない「井戸の中」の話。人々にとって井戸が重要でなければ、このような物語は作られないだろうと。
まとめ
井戸に関する物語についてご紹介してきた。ここで挙げた物語を知っている人・読んだことのある人も多いことだろう。
世界中の童話や民話を読んでいると、井戸や水に関するものが多いことに気が付くはずだ。水が無ければ人は死んでしまうし、井戸はその重要な供給源になるからである。それと同時に、底の知れない井戸の中は、人々の空想力を掻き立てた。
次に物語を読むときには、「井戸」の存在に注意して読んでみて欲しい。その神秘さ、不気味さ、そして美しさに気が付くはずだ。
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