東京都荒川区24歳男性船上失踪事件(宮本直樹さん行方不明事件)

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2002年3月、東京・荒川に暮らす24歳の青年が、何の前触れもなく船上から姿を消した。

残されたのは荷物と眼鏡、そして船室に置かれた読みかけの本。

目撃証言は皆無。携帯も沈黙したまま。

彼は果たして本当にフェリーに乗っていたのか――それとも、誰かと“入れ替わった”のか。

北朝鮮による拉致の可能性、偽装工作、事故の線……。 二十年を経た今なお真相は深い霧の中にある。本記事は、「不在のまま生き続ける」青年、宮本直樹さんの痕跡を追う試みである。

事件概要

2002年(平成14年)3月3日(日曜日)。東京都荒川区在住のフリーター男性、宮本直樹さん(当時24歳・以降、直樹さん)は、父親に、

「今夜の夕飯はいらない」

と、母親への伝言を頼み、午後3時半頃自宅を出た。その際の服装は黒の皮ジャンと黒のロングブーツであった。

外出先や帰宅の予定について直樹さんは何も告げなかったが、当時は既に携帯電話やメールが普及しており随時連絡が可能であり、彼のマメな性格に対する信頼感も手伝ってか、家族もこの時点では特に心配はしていなかったものと思われる。

両親、兄と共に実家である都内荒川区のマンションで暮らしていた直樹さんは、高校在学中に清掃員のアルバイトを始め、卒業後も主にその仕事に就いていたが、失踪数日前には、長く続けたそのバイト先を虚偽の理由で退職していたという。

直樹さんは1977年(昭和52年)11月9日生まれであり、後にロスジェネと呼ばれる世代に該当する。

とは言え、世間的には十年近くを要したバブル崩壊の後始末も一段落。景気回復の兆しが見え始めたかという時期であり、直樹さんも持ち前の明るい性格で、交際相手や友人との交流、時には一人旅を楽しむ充実した日々を過ごしているものと、少なくとも周囲からは見られていた。3月9日にも友人との約束があったという。

同日午後6時半頃、直樹さんは都内江東区・有明港にあるフェリーターミナルに現れ、オーシャン東九フェリー福岡県北九州市・新門司港行きの乗船申込書(片道分)を記入したと考えられている。車両やバイクについての記載は無く、書類は彼の直筆である事が確認されている。

オーシャン東九フェリー乗り場2002年6月2日撮影 出所:GoogleEarth(クリックで拡大できます)

乗船手続きには事前の電話による空席確認が必要であったが、2月28日に直樹さんの名前で受付にかけられた電話の番号は彼の自宅のものではなく、彼が所有する携帯電話のものでもなかったという。一方で彼はその日、交際相手と共に、兼ねてからの念願であった人気インド料理レストランでの会食を楽しみ、記念写真を撮影している。旅行の予定についての話題は出なかったが、普段と特に変わった様子も無かったという。

オーシャン東九フェリーは東京都・有明港と福岡県北九州市の新門司港を結ぶカーフェリーを運行しており、直樹さんが乗り込んだとされる船は「カジュアルフェリー」であった。

カジュアルフェリーは従来型の「スタンダードフェリー」からレストランと個室(一等以上の船室)を廃して設計された合理化型客船であり、直樹さんは、当時就航していた同型の姉妹船(2016年引退)の片割れである、「おーしゃんのーす」に乗船したものと考えられている。

フェリーの出港時刻は午後7時10分。直樹さんの携帯電話のパケット通信料がこの時間帯まで課金されていた事が確認されているが、それがシステムで自動的に取得されたものなのか、持ち主(または他の何者か)の操作によるものなのかは不明である。当時の電波状況では東京湾から出た段階で圏外になり、一般客が利用できる外部との通信手段は、船内の公衆電話(衛星通信システム使用)のみになると思われる。

翌日3月4日の午前中には、船内で、5日の新門司港入港後についてのアナウンスがあった。到着時間は早朝の午前5時であり、公共交通機関が動き出す前である為、迎えの車が来ない乗客は、(船内の公衆電話等で)早めにタクシーを予約するようにという趣旨のものであったが、直樹さんがタクシー会社に連絡を入れた形跡は無いという。

3月4日の午後1時半頃、フェリーは経由地である徳島県徳島市の津田港に到着した。徳島までの旅客や車両を下船させる必要がある為、出港予定時刻は一時間後の午後2時半頃である。

オーシャン東九フェリー発着時刻表 出所:徳島新聞2002年3月3日交通案内欄(クリックで拡大できます)

出港後、更に一時間程度経過すると、船は四国の南東海上に出、再び携帯電話は圏外かそれに近い状態となると思われる為、使い慣れた自分の電話から、直樹さんが4日の夕飯も必要ない事を母親に伝える、あるいは、新門司港への迎車をタクシー会社に依頼するとすれば、この時間帯が最後の機会となるが、どちらにも連絡は入っていない。

また、その日(4日)の午前から昼頃には、直樹さんの兄が留守番電話のメッセージを吹き込み、交際相手もメールを送っているが、マメに折り返しや返信をするその性格に反して、直樹さんからの反応は無かった。留守電を吹き込む側や、メールの発信側からは、受信側の電話に電源が入っているか、圏外であるか否かの判別は出来ないという。

3月5日午前5時頃、フェリーは最終目的地である福岡県北九州市・新門司港に到着、乗客や車両の下船後に乗員が船内を点検した所、二等客室(8人程度が就寝できる大部屋・カジュアルフェリーにはこのタイプの客室のみが20室設置されていた)の一つに旅客の荷物が残置されているのが見つかった。

残されていたのは、手提げカバン(恐らく旅行バッグ)やセーター風の上着、替えの下着、洗面用具、デジタルカメラといった旅の荷物の他、眼鏡とコンタクトレンズ(直樹さんは目が悪く、矯正器具なしでは生活が困難であったという)、2泊3日に及ぶ船内の旅程で暇を潰す為のものか、健康食品についての書籍三冊であった。書籍のうちの一冊は寝台において読みかけの状態(恐らく枕元に開いたまま)で残されていたとの情報もある。

船内2階の貴重品ロッカーからも、現金21,000円(読売新聞2005年9月15日の記事では27,000円)とクレジットカード三枚、直樹さんの免許証、ビデオカード(VOD視聴用のプリペイドカードの事と思われる。船内に存在した個人用TV視聴席で使用するものであろうか)、そして、直樹さんの筆跡ではないメモ書きが入った財布が見つかった。メモの内容は公表されていない。

ただ、直樹さんの事件について調査したくちなし氏によるブログ「くちなし日記」(※注、参考資料欄参照)によると「船の乗員が乗客にメモを渡す事はない」との、フェリー会社からの証言が得られたようである。

しかし、船内のどこにも持ち主である直樹さんの姿は無く、下船時に回収された乗船券の半券や目撃情報等から、船を下りた形跡も認められなかった為、当日のうちにフェリー会社は家族へ確認の連絡を行い(恐らくは乗船申込書の緊急連絡先宛て)、彼の失踪が発覚した。

失踪当日の直樹さんは、身長178cm・体重67kg前後で筋肉質の体躯を黒の皮革製ジャンパーに包み、足元は黒のロングブーツ。頭髪にも軽くパーマをあてており、それなりに人目を引く風貌であったと思われるが、乗員、乗客からの目撃情報が一切上がっておらず、その最後の消息は、2002年3月3日18時半頃に、フェリー会社で記入された直筆の乗船申込書という事になる。

直樹さんの自宅の自室の本棚の裏からは、読み古した北朝鮮関係の書籍が見つかり、彼の交友関係の中には総連(在日本朝鮮人総聯合会の略称・北朝鮮と関係の深い組織であり、傘下団体等には「北朝鮮による日本人拉致事件」の協力者が複数所属していた)との繋がりがある人物も居たという。詳しい状況は不明ながら、その人物が3月3日の失踪直前、直樹さんと接触していたという情報も存在する。

この特異な失踪状況を受けて、家族は警察に通報。北朝鮮による拉致の可能性が否定できない失踪者として、寄港地である東京都、徳島県、福岡県の警察組織がホームページ上で情報を公開。また、『特定失踪者問題調査会』や『NPO法人日本行方不明者捜索・地域安全支援協会(外部リンク:MPSホームページ)』といった民間の組織も、家族からの情報提供を受けて広く直樹さんの手がかりを求めたが、2025年3月現在も尚その行方は掴めていない。

手がかりとその検討

直樹さんの姿が最後に確認されたのは、有明港での乗船申込書だけだった。

船内に残された私物、使われなかった携帯電話、公表されない謎のメモ。

目に見えるものと、見えないもの。その断片を拾い集め、失踪の背景に何があったのかを探る。

ここからは、事件の周辺に残された手がかりを一つずつ検討していく。

宮本直樹さんについて

前述の通り直樹さんは失踪当時24歳、失踪直前にバイト先を退職し無職となっていた。気軽に仕事を辞めて長期の旅行等を楽しめる点がフリーターである利点の一つであり、彼は実家住まいであって、(歓迎はされないだろうが)収入が無くとも即座に寝食に困窮する身の上ではなかっただろう。

しかし、特定の交際相手が居て20代も半ばともなれば、そろそろ実入りの良い定職を得て身を固めようと考え始めていたとしても不思議はない。職業を斡旋すると偽ってターゲットを呼び出し、身柄を拘束、工作船で本国へと移送するという手口は北朝鮮による拉致事件でも見られるものである上、当時日本国内は氷河期と呼ばれる就職難の時期であった。

拉致事件の可能性について

2002年は歴史的な日朝首脳会談が行われ、北朝鮮政府が公式に日本人拉致を認めた年として知られているが、一般市民のレベルにおいては、9月に実際に会談が行われ、その後帰国した5人の拉致被害者をブラウン管で目の当たりにするその時まで、拉致事件が本当にあったのかどうかさえ半信半疑の者が大半であったように記憶している。

直樹さんの失踪は2002年3月で、会談自体の成立可否が未だ流動的な時期であり、言葉は悪いが駆け込み的に拉致等の対外工作が、日本に潜伏する北朝鮮工作員によって行われていたと考える事も可能であろう。

会談において北朝鮮の元首自身が拉致の存在を認めるその時まで、国民の間では半島情勢については警戒心よりも、地理的に近い外国の出来事としての好奇心が勝っており、「韓国で働いてみないか」「北朝鮮を観光してみないか」いった勧誘があったとしても、特に非正規労働者の若者の中には、身の危険を感じるよりも、人生の逆転を賭けて、あるいは単に話の種として、その話に乗ってみようかと考える者がかなりの割合で存在していたであろうと思われる。

また、北朝鮮政府が公式に認めた日本人の拉致の発生時期は、朝鮮戦争休戦後の1970〜80年代までであるが、その後も依然として朝鮮半島は休戦状態のままであり、拉致の利益がなくなったとは考えにくい。例えば、工作員の教育にあたる若い日本語教師の需要は常に存在した筈である。自分たちの日本語が日本の若者として自然であるか否かという評価をさせる分には、教師が韓国語を理解している必要もない。

事故の可能性について

とは言え、失踪前の直樹さんの言動、そして服装や荷物にも、就職活動や海外旅行を連想させるものは含まれておらず、気ままな国内一人旅といった印象も強い。彼は航空機や新幹線といった、遠隔地での就活の際に選択されるであろう確実性の高い移動手段ではなく、また、自分の車やバイクを持ち込みたいという動機が無いにも関わらずカーフェリーを利用している。

無職青年のぶらり旅として考えた場合、カーフェリーでは、二泊分の宿泊費と九州への旅費が14,640円(2002年当時の二等寝台運賃)で賄える事を考えると、手段として十分な魅力があったと考えられ、この船旅計画自体がバイトを辞めた理由と考える事も可能である。

旅程の殆どにおいて携帯電話は圏外となり、外部からの連絡に煩わされる事も無くなる。船内で読書やTV席での映画視聴、同舟者とのお喋りに熱中するのもまた、時間の有意義な使い方と言えるだろう。

当然ながら、あらかじめその旨を家族や友人知人に共有しておかなければ、周囲に気を揉ませる事になるが、直樹さんは、旅行に出掛ける際にも家族に心配をかけるような事はそれまでに無かったという。

尤も、今回は無職旅行であり、バイトを辞めた事も周囲にはまだ秘密であった事を考えると、面と向かってその話をする気まずさから、出発後に電話かメールで計画を伝えようと考えた可能性もある。その場合であれば、直樹さんの失踪は船外への転落。しかも出航後数時間の間に起きた事故である可能性が高くなる。

失踪当日の状況について

気象庁の記録によると、2002年3月3日19時の東京都心部での天気は曇りで、気温は6.5度。フェリー出航後は風が強くなり体感温度が更に低下する事を考えると、甲板上に長居したいとはあまり思えないコンディションであったと思われる。

しかも、夕方から深夜にかけて、フェリー航路に比較的近い伊豆大島では0.1mm/時に満たないとは言え降雨が観測されており、甲板上は少なくとも革ジャンとロングブーツで過ごしやすい環境では無かった事が想像できる。

よって、直樹さんが事故に遭ったとすると、出航早々である可能性がより高い。それは直樹さんの船内での目撃情報が皆無である事や、自宅を出た際の衣類や携帯電話が残された荷物に含まれていない事実とも符合する。

家族へ出航を連絡しようと考えた直樹さんが、船のエンジン音の影響が少なく、かつ電波状況の良い場所を探して安全柵から身を乗り出しながら散策している間に、足を滑らせるか、体勢を崩す等して船外に転落したという筋書きである。

しかし、東京湾内であれば夜景等見るべきものもまだ多く、多数の乗客が甲板上や通路に出ており、乗員も、船舶で混雑する湾内では、障害物や他船との衝突を防ぐために見張り等の警戒を強化しているであろう事を考慮すると、乗客の転落が見落とされる恐れは小さいのではないだろうか。また、湾内の事故であれば、海流の影響で、直樹さんや彼の着衣等の遺留品が陸地に漂着するか、失踪発覚後の海上の捜索で発見される可能性も高い。

入れ替わりの可能性について

では、始めから直樹さんがフェリーに乗っていなかった可能性についてはどうであろうか。

フェリー乗船前には、航空機のような一方通行のセキュリティチェックも無ければ、顔写真つき身分証の提示を求められる事もない。

乗船申込書の記入直後に直樹さんが別人と入れ替わり、その替え玉が彼の切符と荷物を持って乗船。その際乗船券の右側の乗船票が切り離され、直樹さんがフェリーに乗った証拠として運行会社に残る。替え玉は乗船券の半券(左側)を持ち、直樹さんの荷物を船室や貴重品ロッカーに納め一般の乗客として振舞う。当然ながら船内に直樹さんの目撃情報は残らない。

フェリーには協力者があらかじめ車両と共に乗り込んでおり、徳島県・津田港で替え玉は直樹さんの荷物を船内に残したまま、協力者の車両に隠れて下船。仮に乗員に見咎められたとしても、替え玉は他人である直樹さんのものとはいえ正規の乗船券の半券を所持しているのであるから、いくらでも言い逃れが可能であろう。

船は津田港到着から一時間で次の目的地に出航しなければならず、基本的に手荷物のチェック等も行われない為、船内に貴重品を含む自らの(直樹さんのものではあるが)荷物を、故意に残して下船するという行為がその場で発覚する事はまず無い。

特に途中の寄港地である津田港では出航まで一時間という時間的な制約もあり、最終的に新門司港で人数の帳尻が合えば良いという考えからなのか、それとも不景気による人件費削減による人手不足に由来するものか、乗船券半券の回収等、下船人数のチェックさえもが軽視されがちであった事が、前出のくちなし氏の調査で判明している。

下船の際に乗船券の半券が回収されず、直樹さんの荷物のみが残されているという状態がこのようにして作られたとして、替え玉たちの目的は何なのだろうか。

事故、あるいは自殺の擬装について

常識的に考えて、無職の24歳独身男性が家出(自発的失踪)する際に、替え玉を使ってまで船上からの消失を自演する必要性は皆無である。

また、創作物では、保険金詐欺や相続等による利益、または借金、刑罰等の不利益からの逃亡を目的とし、事故や自殺を装って、被害者や、時には犯人自身の姿を消すというストーリーが時折見受けられ、これらを参考にしたと思われる現実の事件も発生している。

特に保険金詐欺の為の事故死の擬装事件はセンセーショナルなものが多く、実子を手にかけた事件も発生している。しかし、その手の事件ではすぐにでも保険金を受け取りたい(あるいは渡したい)という事情がある事が多く、一定の期間(7年)と失踪宣告審判を経る必要があるターゲット消息不明という迂遠なやり方は、現実には採用されにくい。

直樹さんの失踪宣告は令和4年末に申立てられ、同6年2月6日に審判が確定している。その理由が公表されている訳ではないが、恐らくは彼と親族との間に相続が発生したか、失踪から20年の節目にあたって、相続問題が発生する前に彼の法的な立場を確定しておこうという意図があると考えられ、不審な点を見出す事は難しい。

これらの周辺状況から、直樹さんの船上からの失踪は略取誘拐の一部であって、事故または自殺を擬装する事により、犯罪捜査機関の動きを鈍らせる目的があったものと見るべきであろう。

真相考察

直樹さんは、九州旅行等の口実で何者かに誘い出され、その後身柄を拘束されたものと考えられる。

船内での目撃情報の乏しさと、カジュアルフェリーの特性上、船内にはプライベートな空間が少なく人目を避けた犯罪行為の実行が困難である事から、彼は乗船申込書の記入と乗船券の受取の直後、フェリー乗り場駐車場の車内等で、この「旅行の主催者」と合流した際に拘束、乗船券と所持品も没収されており、船には乗り込んでいない可能性が高い。

直樹さんが所属していたと思われる清掃会社の上司と思われる人物によって齎された、「直樹さんが失踪直前に総連関係者の知人に会っていた」という情報や「自宅本棚の裏から北朝鮮関連の書籍が見つかった」という情報が強調される事が少ないのは、情報提供者に先入観を与えない為でもあるのだろうが、彼の失踪が、政治的な配慮によって政府から正式な認定を受けていないだけであって、北朝鮮による拉致事件である事自体は既に確実視されている為と考える事もできる。

2002年9月の日朝首脳会談直前まで北朝鮮による日本人拉致が行われていたという事実が明らかになれば、「被害者5人の帰国で妥協してしまった」政府の面目は丸潰れであり、その失態については勿論、それ以降、拉致問題の進展が長年に渡って全くと言って良い程見られない事についても、改めて糾弾する口実を政敵に与える事になりかねない。

そして、事件の進展と解決が両国政府間の交渉次第、言ってしまえば北朝鮮政府の気分次第である事を思えば、現況、警察でさえ、情報公開に際して拉致の余罪の可能性について言及し、両国の政府を刺激するような文言を盛り込まないよう、配慮せざるを得ない状況にあるという事なのかも知れない。

直樹さんの家族は、特定失踪者問題調査会による著書に向けて、

「もう一度、家族四人で楽しく暮らしたい」という趣旨のメッセージを寄せている。

20年前、既に彼の父親の年齢が60代と高齢あった事を考えると、その実現が可能な時間は残りわずかであるか、もはや不可能であるのかもしれない。

拉致被害者の中には、進展しない拉致問題に苛立ち、

「日本政府は、(声の大きな)拉致被害者の親世代が死に絶えるまで時間稼ぎをしているのではないか」と怒りを露わにする者もいる。

かつては殆どの国会議員の胸に輝いていた、拉致被害者の生存と救出を信じる意思表示「ブルーリボン」の記章の装着者は確実に減少の一途を辿っている。日朝関係に風穴が開けられたかに見えた首脳会談から20年。その間には政治への関心が、経済的な豊かさが、未来への希望が静かに失われていった。

この仮初めの平和さえもまたいつか失われて、大切な人が居なくなる時が来たとしても、我々はこれまで通り「怠惰のツケ」「自己責任」で済ませる事ができるのだろうか――それとも、その喪失すら、他人事として忘れてしまうのだろうか。


■参考資料
特定失踪者問題調査会・失踪者リスト
警視庁ホームページ・拉致の可能性を排除できない事案に係る方々
徳島県警ホームページ・拉致の可能性を排除できない事案に係る方々
福岡県警ホームページ・拉致の可能性を排除できない事案に係る方々
第一生命SE社員の証拠隠滅の巻き添えを食ったコンテンツ集
(関連サイト欄内にくちなし氏のブログ「くちなし日記」へのリンク有)
・かつてNPO法人日本行方不明者捜索・地域安全支援協会 (MPS)に掲載されていた宮本直樹さんの情報
(ウェイバックマシンによるデジタルアーカイブ

オーシャン東九フェリー
「消えた277人」特定失踪者問題調査会編集協力 毎日ワンズ編集部編 2007年5月18日発行
読売新聞 西部夕刊 2002年3月5日付 フェリーの乗客不明 東京-新門司
毎日新聞 西武夕刊 2002年3月5日付 東九フェリーの男性客、下船せず門司海上保安部
読売新聞 東京夕刊 2005年9月15日付 大人の家出、年7万人突破 見えぬ動機 なぜ?繰り返す家族
徳島新聞 交通案内欄 2003年3月2日付〜2003年3月5日付

官報 令和5年8月9日・令和6年3月1日


◆成人男性の行方不明・失踪事件(事案)考察シリーズ


Tokume-WriterWebライター

投稿者プロフィール

兼業webライターです。ミニレッキス&ビセイインコと暮らすフルタイム事務員。得意分野は未解決事件、歴史、オカルト等。クラウドワークスID 4559565 DMでもご依頼可能です。

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