映画『偽りなき者』の考察と感想:偏見が奪う、考える力と正しく見る目

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この世で最も忌むべき犯罪として、幼い子供に対する性的虐待が挙げられる。逆らえない、もしくは、その行為の意味すら分かっていない子供を手に掛けるのだから、卑劣極まりない犯罪である。

しかし、「性的虐待をされた」と訴える子供が嘘を付いていたとしたらどうなるだろう。ほんの些細なきっかけから、話し相手を困らせてやろうとして付いた嘘。それは周囲の大人を同様させ、話は大きくなっていく。

映画『偽りなき者』は、子供の嘘で性的虐待の疑いをかけられた男性を描く物語だ。

この記事では、本作を「偏見」及び魔女狩りとの類似点から考察していこうと思う。

映画『偽りなき者』の作品概要

『偽りなき者』は、2012年に公開されたデンマークの映画作品である。主演は『ファンタスティック・ビースト』シリーズなどで知られるマッツ・ミケルセン。絶望に苛まれる描写が多い本作でも、「北欧の至宝」と評されるその美しさを見ることができる。

本作は、マッツ・ミケルセン演じる主人公が、1人の少女の嘘により地獄の底に落とされていく様子を淡々と描いた作品である。静かで陰鬱な雰囲気が特徴的で、見ているのが辛いながらも最後まで見てしまうストーリー構成が素晴らしい。

あらすじ

ルーカスは妻と離婚し、デンマークの小さな村で幼稚園教師として働いている男性である。友人や恋人にも恵まれており、皆でお酒を飲んだり、狩りをしたりして日々を暮らしていた。

子供から慕われているルーカスだが、少女・クララは少し違う目線で彼を見ていた。彼に好意を寄せ、プレゼントをしようとしたり、唇にキスをしたりするのだった。

出典:シネマトゥデイ

もちろん、ルーカスはそれを受け取れない。プレゼントは断り、唇へのキスはダメだと優しく注意する。

クララはルーカスが思いを受け取ってくれないことがおもしろくない。彼女はささやかな仕返しとして、幼稚園の園長にルーカスについて告げ口をしてしまう。その内容は「ルーカスが男性器を見せてきた」というものだった。

子供は嘘を付かないのか:偏見とセイラム魔女裁判との類似性

本作の邦題「偽りなき者」は、子供のことを指す。作品内で何度が言及されているように、「子供は嘘を付かない」とされているのだ。ちなみに、「子供と酔っ払いは嘘を付かない」というのは、実在するデンマークの諺とのことである。

本作に登場する大人たちは、この諺を妄信している(ように思える)。本来事件とは無関係であるはずの村人たちは言うに及ばず、ルーカスを良く知っているはずのテオを始めとする友人たち、勤務先の園長まで、クララの証言を100%真実だと受け止めてしまうのだ。※テオはルーカスの親友でクララの父。

テオがルーカスを糾弾する。これはある程度理解ができる。ルーカスと親友として付き合ってきたとはいえ、彼はクララの父だ。娘が性的虐待を受けたと言われれば、誰だって冷静さを失うだろう。

問題は幼稚園の園長と、他の友人たちである。彼らはルーカスの人となりを良く知っているにも関わらず、彼の無罪をほんの少しも考えなかったのである。

特に園長は大問題だ。園長は自体を重く受け止め、第三者にクララの聞き取りを頼んだ。しかし、その聞き取りは公平なものではない。真実を聞きだすのではなく、ルーカスを有罪と断定した上で、そうクララが答えるように誘導尋問めいた導き方をしているのである。

さらに園長の問題行動は続く。警察に通報するのは良いとしても、調査の結果を待たずに、「ルーカスが性的虐待をした」と保護者たちに言いふらしてしまうのだ。もちろん、ルーカスの言い分は一切聞かない。

この理不尽極まりない状況を、ルーカスは耐えることになる。彼の無実を信じているのは1人息子と数少ない友人だけ。しかも、それはいつ終わるとも知れない。

この状況を、「偏見」という言葉から見ていこう。

本作には2人、周囲からの偏見の目にさらされた人物がいる。1人は主人公・ルーカスその人であり、もう1人はクララである。

ルーカスが悩まされた偏見は、「変態」・「小児性愛者」といったものである。もちろん真実ではないが、村人は信じない。偏見が先行するあまり、彼の本来の姿を見られないのだ。元々の彼を知っている人物でさえ、偏見には抗えない。

そしてクララもまた、偏見にさらされた人物である。彼女に対する偏見は、「子供は嘘を付かない」というものだ。嘘を付かない、と「思い込まれて(もしくは、思い込もうとして)」いるからこそ、彼女が持つ「いじわるな気持ち」であるとか、「いたずら心」だとかが無視されてしまうのだ。

テオはクララのことをこう語る。

――娘は嘘を付いたことがない――

これが本当であるはずがない。

話は変わるが、17世紀のアメリカ・マサチューセッツ州にあるセイラムで、村を上げての魔女狩りが起こった。有名な「セイラム魔女裁判」である。

200人以上が魔女として訴えられ、20人以上の死亡者を出したこの事件は、数名の少女たちの証言が大きな影響力を持った。村の中でも立場の弱い3人の女性たちを魔女として告発しただけでなく、その後の裁判でも証言を続けたのである。画像のリンク先は、魔女に関連する記事

これにより、セイラムの街は大パニックに陥った。少女たちは様々な人々を告発し(もちろん冤罪である)、収容できる人数を大きく超える人々が収監されることになった。

この事件の悪質なところは、少女たちが「遊び半分」で人々を告発していたことを認めているということだ。

本作の構図は、このセイラム魔女裁判と似ているように思える。子供の言葉によって、大人たちが冷静な思考能力を失ってしまう。そして、それを助長するのが偏見や思い込みだ。よそ者に対する偏見・「変態だ」という思い込み・「嘘を付かない」という根拠のない思い込み……。

セイラム魔女裁判は、最終的に裁判のやり直しが行われることになった。結果、多くの人の無罪判定がでることとなったものの、この事件が残した傷は深い。対して、ルーカスは自分自身の努力により、村の人々に再度受け入れられるようになった。しかし、疑いの目や偏見の目がなくなった訳ではないことが最後に描かれている。

『偽りなき者』とは、日本で独自に付けられた邦題である。原題は「Jagten」といい、これは「狩猟/狩り」を意味するそうだ。

物語の最後、ルーカスは自身に対して銃弾が発射されたことを知る。それは、そういうことなのだろう。ルーカスは「狩られる側」なのである。

感想:自分がその立場だったなら?

筆者は映画を語るとき、基本的に感想をメインで語ることがない。しかし、今回は非常に感想を語りたくなる作品だったため、書き連ねていこうと思う。私見がかなり含まれるので、注意していただきたい。

本作終始、心がシクシクする映画だった。見ているのが辛く、一時停止を繰り返した。それでもなお、最後まで見通してしまう力を持った作品だった。

心に感じたシクシク感。あれはなんだったのだろう。私(感想のため、以下からは「私」で書いていこうと思う)は、ルーカスにも感情移入をしたし、クララにも感情移入をした。

ルーカスに対する感情移入は分かりやすい。あらぬ疑いをかけられた経験が、私にもあるからだ。

私は子供の時、クラスの中で孤立していた。そんな子供は、偏見の目にさらされやすい。クラスに馴染めない変わり者だということだ(変わり者であることは確かだが)。

そんな折、クラスメイトが作った工作が壊されていた。疑いは私にかけられた。否定はしても聞いてもらえない。疑いを晴らすことができないまま、小学校時を卒業することになった。今でも時折思い出す、苦い記憶である。

おそらく、似たような経験をしたことがある人は多いことだろう。それが分かっていてもなお、トゲは抜けることがない。

そしてクララ。彼女に対する気持ちはもっと複雑だ。私はクララの気持ちが分かる。子供特有の残酷さから、ムカついた相手を困らせてやろうという思い。そんな大事になるとは思わず、軽い気持ちでついてしまった嘘。周囲の大人をだましているのかどうなのか分からなくなる、なんともいえない浮遊感。もしかすると「本当に被害にあったのかもしれない」という思い……

「子供は嘘を付かない」。こんなもの大嘘である。むしろ、子供は嘘をつく生き物だ。嘘を付きまくって、子供は成長していくのだ。

本作を見ていると、そういった思いが心の中で渦巻くことになる。辛い目に遭い続けるルーカスに対する同情や、周囲の人に対する苛立ち。クララに共感する気持ちと、激しく腹が立ってくる気持ち。大きな声で、「私が嘘をつきました!」と叫んで欲しいと思う。もちろん、そうすることは逆効果であり、不可能であることは分かっている。

それとは別に、クララの父・テオにも感情移入をしてしまった。

彼は葛藤している。娘に性的虐待を加えたとされるルーカスを憎みながら、彼がそんなことをするはずがないとも思っているのだ。当事者であるが故にその悩みは深く、村人や他の友人たちのような激しい行動に出ることができない。彼は「性的虐待を受けた娘の父」である前に、「ルーカスの親友」なのである。

ルーカス目線で見たとき、テオの行動は腹立ちを誘うものとなる。しかし、彼は娘の無垢を信じる(妄信しすぎている)、1人の父親なのである。割り切れない辛さがそこにある。

このように、本作は随所に感情移入をしてしまう人物が登場している。これが、見る人をどんどん追い詰めてしまう。しかし、ストーリー構成は見事であるため、辛くとも見通してしまうのだ。

私は本作をもう二度と見たくない。と、言いながらも、記憶に深く植え付けられている。過去のトラウマを清算できたなら、もう一度見ることができるのだろうか。

まとめ

映画『偽りなき者』について、考察と感想を述べてきた。

正直な所、本作は刺激が強すぎる作品である。辛い記憶を持つ人ならば、見ている間中、チクチクと刺さるトゲの痛みを感じ続けることになるだろう。

それでいてなお、本作は見る価値のある作品でもある。ストーリー進行は素晴らしいの一言で、マッツ・ミケルセンの布を被ったような演技が光る。辛いとき、皆ああなるものだ。

ぜひ一度見て欲しい。辛くなったら止めればよい。作品の奥に隠れた人間を、その目で見て欲しいのだ。


◆成人男性と少女の関係を描いた映画

◆成人男性と少女が関係する実際の事件


オオノギガリWebライター

投稿者プロフィール

ココナラをメインに活動中のWebライターです。2017年より、クラウドソーシング上でwebライターとして活動しています。文章を読んで、書く。この行為が大好きで、本業にするため日々精進しています。〈得意分野〉映画解説・書評(主に、近現代小説:和洋問わず)・子育て記事・歴史解説記事etc……

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