下山事件考察:時代に翻弄された真相

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本記事は、GHQ統治時代の国鉄三大ミステリー(未解決・未解明事件)の一つに数えられる「下山事件」について事件当時の新聞・雑誌の報道、捜査資料、捜査担当者身が後に書き表した著書等から、激動の国内・国際・社会情勢(「下山事件」の資料には、「GHQの統治」、「シベリア帰還兵」、「共産主義勢力の台頭」、「人民列車」、「労働組合運動の激化」、「反共戦線」、「革命前夜」、「非常事態宣言用意」、「列車妨害」、「反共立法」、「熱海決議違法」、「反共指令第一号」、「対中共戦」、「反共戦は安全保障の戦い」等の言葉が散見される)に翻弄された「下山事件」とは何だったのか?利用され続けた(る)下山定則氏の「死」の意味等を考察・検証することを目的とする記事である。

注意:本記事内の人名に関する指針――公人(役人、新聞記者、小説家等)は実名で記載し、公人以外の人物(例:目撃者など)は、仮名で記載します。古い報道資料、先行の考察書籍では、公人以外の人物も実名で書かれています。本記事読者が独自考察・検証等を行う際には、本記事参考資料一覧をご覧のうえ各資料をご確認下さい。

また、住所、時間(GHQ統治下の日本は1948から1951年までサマータイムを導入していた)、人物の年齢は事件当時のものです。

下山事件の概要

本記事の事件概要は、下山事件の一次資料である担当捜査員作成の『下山白書(下山事件研究会編『資料・下山事件』みすず書房1969年(収録)』、『ガリ版捜査資料『下山事件その後(七月二十一日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過』足立区立郷土博物館蔵書』及び下山事件の担当捜査官・関口由三氏の著書『真実を追う下山事件捜査官の記録(サンケイ新聞社1970.)』と下山総裁自殺説を主張する毎日新聞社記者・平正一の『生体れき断(毎日学生出版社1964.)』を参考とする。

勿論、近代からの大原則である国家権力性悪説から警察や行政等の捜査・発表・資料を鵜呑みにすることの危うさを充分に認識しているが、担当捜査官関口由三氏の著書『真実を追う下山事件捜査官の記録』が発する圧倒的な熱量(関係者の実名と住所が記されているため第三者による検証が可能にする。また、関口氏自身も住所を公開している)に第一級の一次資料としての価値を感じる。

国家権力を盲信することは危険だ。特に下山事件はGHQ統治下という特殊な社会情勢のなか発生した。だが、20世紀に起きた多くの悲劇を知る我々は、一つの思想的価値基準(国家権力性悪説)を絶対視することの危険性も充分に知っている。

下山総裁の7月5日の行動(自宅から三越まで)

GHQの統治下の1949年(昭和24)年7月5日午前8時20分頃、日本国有鉄道(以下、国鉄)の初代総裁下山定則氏(47歳)は、東京都大田区上池上に所在した同人宅を出て迎えに来た総裁専用車両「ビュイック41年型・黒・登録番号41173」の後部座席に乗車した。

当日の総裁の着衣は、薄ねずみ色(グレー色)の格子の縞の背広(スーツ)上下、緑色の手編みのネクタイ、チョコレート色の短靴、べっ甲の眼鏡を使用し、弁当の入った鞄を所持していた。

昭和23年5月から総裁専属の運転手を務める大西氏(48歳)は、いつものように国鉄本庁(東京都千代田区丸の内)に向かうため、大田区洗足周辺、品川区五反田周辺、御成門(港区芝公園)付近を抜け、丸の内方面へ車を走らせる。

車が日比谷、和田倉橋(千代田区)から東京駅付近に差し掛かったころ、突然、総裁は「買い物をしたいから三越へ行ってくれ」と大西氏に伝える。

1949(昭和24)年7月5日の総裁の奇妙な言動と指示が始まる。この下山総裁の奇妙な言動と指示は、その後の「自殺説/他殺説」双方の推理に影響を与えている。

当日の総裁専用車の走行ルートと所要時間及び総裁と大西氏の車中でのやり取り等を「ガリ版捜査資料『下山事件その後(七月二十一日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過』足立区立郷土博物館蔵書資料」にある大西氏の供述から摘記してみよう。

下山邸(午前8時20分頃発)→(12分)「品川」→(3分)「三田」→(4分)「御成門」(御成門通過、郵便局手前の煙草屋の辺りで、総裁「佐藤さんの所へ寄るのだったが」、大西氏「引返しませうか」、総裁「イヤよろし」)→「田村町1丁目」→「日比谷」→<下山邸より25分>→「東京駅前ロータリー」(総裁「日本橋の三越へ、一寸買物がある」)→「大手町」(停留所を右折間もなく、総裁「10時までに役所(※注「国鉄」)へ行けばよい」)→「丸の内一丁目」(呉服橋へ向けて東京駅ガード通過の頃、総裁「白木屋でも良いから真直ぐやってくれ」)→「日本橋電停間際」(大西氏「未だ開店しませんね、三越に行ってみますか」、総裁「うん」)→<下山邸より29分>→「日本橋交差点」→<下山邸より29分30秒>→「三越本店」(未だ開店せず、帝銀横へ左折、大西氏「役所へ行きますか」、総裁「うん」)→「農林中央金庫」→「ガード手前」(午前8時50分頃…大西氏…、総裁「神田駅へ」)→<下山邸より31分30秒>→「新常磐橋」→「神田駅ガード」→<下山邸より34分>→「神田駅前電停」(此の間総裁は駅をのぞいて居た。此処で総裁「右へ切れ」)→「今川橋」→「室町3丁目」→「新常磐橋」→<下山邸より35分>→「交通公社前」(総裁「三菱(※注「千代田銀行」)へ行け」)→<下山邸より39分30秒>→「千代田銀行」(約25分停車)→「京橋」→「日本橋」(電車通りを行く)→「三愛食品横左折」→<千代田銀行より6分>→「三越本店」(大西氏9時30分頃)

(資料作成者=捜査員)注
1・本省 下山邸間の距離約14km 所要時間25分
2・7月5日の三越本店到着迄の所要時間 70分30秒 従って下山邸出発時刻を8時20分とすれば三越着は9時30分30秒となる
3・大西方(※同人宅のある中央区の国鉄官舎)から三越に総裁が下車する迄の走行距離34km
当日の総裁専用車の走行ルートと所要時間及び総裁と大西氏の車中でのやり取り
※注:本文中の固有名詞(例:「役所」等)にある注釈は本記事作者による

総裁は、9時35分頃、大西氏に「五分くらいだから待っていてくれ」(引用:関口由三『真実を追う下山事件捜査官の記録』P23、サンケイ新聞社1970.)日本橋三越本店(東京都中央区日本橋室町1丁目4-1)と言い残し、手ぶらで同店南口入口から店内に入った。車中には弁当と数点の書類の入った鞄が残されていた。

捜査開始

同日の午前9時を過ぎても総裁は登庁しなかった。同日の総裁には、9時から局長会議、11時からはGHQ訪問の予定があった。

午前11時頃、国鉄副総裁・加賀山氏は斎藤国警(1948年1月1日から1954年6月30日まで存在した「国家地方警察」の略称)長官に総裁不登庁の連絡を入れ、14時頃、国鉄秘書課の者がGHQと警視庁に連絡を入れ、警視庁は正式な捜査依頼を行う。

国鉄総裁の失踪は単なる行方不明事案ではない。国鉄の秘書室長から報告を受けた警視庁は、直ちに殺人・誘拐等の凶悪事件を担当する捜査一課の係員を総裁宅へ捜査員を派遣し、管下73署に総裁専用車の手配、事故の負傷者情報の確認、白バイ隊の動員等を指示・下命する。

当然だが、総裁と国鉄の異変は、国鉄担当の新聞各社の記者にも漏れ伝わり始める。 メディアに漏れ伝わったことによる余計な混乱を避ける目的からだろうか、17時頃から国鉄は「下山総裁失踪」を正式に発表することとなる。

総裁失踪

下山総裁の失踪は、新聞各社が発行した号外やラジオを通し、大々的に発表された。

三越本店で午前9時35分頃から総裁の帰りを約6時間待ち続けていた大西運転手は、17時05分にラジオから流れた総裁失踪のニュースを耳にし、総裁が失踪したことを知り、国鉄に連絡を入れた。

一方、警視庁の担当刑事達は、大西氏への事情聴取を行い、1万5千坪ある三越本店売り場内及び全階(当時の7階建て日本橋三越建物の1階部には「宝町一丁目郵便局」、「日本交通公社」が所在し、4階から6階には、民間企業、団体等が)の探索を始め、総裁の関係者(以前から総裁が懇意にしていた東京都中央区日本橋新川の貸席「成田屋」の女将へは、6日の午前1時頃)や予想立回り先への手配が行われるが、総裁の姿や情報を見つけることは出来なかった。

死因不明・死後轢断

7月6日午前0時16分、上野駅を出発した松戸行き列車の運転手S氏(24歳)が東武線(浅草-日光間)と常磐線が交差するガード下(当時住所表記:東京都足立区五反野南町924さき常磐線上)線路上で轢断死体と思しき「もの」を発見したと綾瀬駅のA助役に伝えた。

下山総裁の遺体は、上記電車の前に同線路を通過した、0時16分田端駅始発のD51615号機関車牽引の869号貨物列車(50両編成の空車:機関区・車掌区「水戸」)に轢断され、下山総裁の轢断死体の上を午前2時15分の貨車までの5本の下り電車が通過した。

捜査により、下山総裁を轢断した列車の事件(事故)現場通過時間は午前0時20分頃と断定された。

現場から発見された下山総裁が使用していたドイツ製ストップウォッチ兼用12型、三針付、白支(ネジ部分)も「長針と短信は零時二十分を指し、秒針は58秒を指していた」(引用:参考、平正一『生体れき断』P26毎日学生出版社1964.)。

下山総裁が轢断死体となったのは、1949年(昭和24)年7月6日午前0時20分だ。このことに異論を挟む余地はないだろう。

下山事件の最初の争点は、下山総裁の轢断死体が、「生体轢断」か「死後轢断」である。

警視庁は、6日午前3時30分頃、国鉄から総裁らしき人物の轢死体が発見されたの報を受けた。

6日の東京は、午前1時頃から雨が降り始め、午前3時頃には激しい雨が降っていた。総裁の轢断死体は、激しいの雨に晒されながら現場に散乱していたといわれる。

総裁の遺体の一部(胴体)は、午前3時20分頃から始まった「西新井署」署員による仮の現場検証の頃まで、線路内にあったが、他の列車の運行に支障を与えるとの判断により、線路に印をつけ線路外に運び出されたという。

総裁の遺体を最初に検案した八十島監察医は、「他殺の疑いなし」の判定を下したが、日本の官僚国鉄総裁の死という重大事案を勘案し、司法解剖が行われることになる。

総裁の遺体が司法解剖のため、東京大学法医学教室に移されたのは、6日の13時頃だといわれる。解剖は6日13時40分から始まり17時12分に終了している。

司法解剖の指揮(立会人)は古畑種基博士が執り、執刀は桑島直樹博士が担当し、助手に中野博士、立会人に警視庁捜査一課関口由三警部補(『真実を追う下山事件捜査官の記録』の著者)、鑑識課巡査部長沢田幸三、西新井署鑑識巡査大場恒二、鈴木康市、東京地検の布施検事と金沢検事、関口元警部補の記憶では、薬学科の秋谷七郎博士、塚元久雄博士も立合ったといわれる(参考:『真実を追う下山事件捜査官の記録』P41)。

そして、桑島博士は解剖終了後に以下を発表した。(引用:『真実を追う下山事件捜査官の記録』P46)

  • 死因不明(窒息死ではない失血死か?)
  • 死後轢かれたものと認む
  • 麻酔薬の有無不明
  • 飲酒は不明
  • 死後の時間不明なるも昨日の晩
  • 血液型A型

つまり、「死因はわらかないが、死後に轢かれた遺体」だとの見解である。

下山事件問題の原点は、「生体轢断」なら自殺と考えられ、「死後轢断(ただし、厳密には即死後の轢断も死後轢断になる)」であるなら他殺後に遺体が現場に置かれたと考えられ、事件発生当時から多くの先人達が様々な仮説、検証、考察、結論(推論)を提示している。

下山事件の争点は以下のとおりだ。

  • 生体轢断か死後轢断か?
  • 生体轢断なら自殺が考えられ、死後轢断なら他殺が考えられる
  • 他殺だとするなら誰が下山総裁を殺したのか?
  • 自殺、他殺に関わらず、下山総裁の死を利用する者がいたのか?
  • 時代により下山総裁の死を利用する者は時代とともに変化したか?

上記の争点の検証、考察の前に事件当時の時代背景、社会情勢等を再確認したいと思う。

時代背景、社会情勢

1945(昭和20)年8月15日、ラジオから玉音放送が流れた。日本は無条件降伏を受け入れたのだ。

戦前、戦中に取締りの対象となっていた共産党員や左翼活動家等の思想犯が釈放され、日本全国で労働組合が結成される。

9月2日から始まったGHQの統治と米国の対日政策及び対共産主義政策は、下山事件が発生した1949(昭和24年)に転換を迎える。

日本経済の自立とインフレ抑制を目的に「ドッジ・ライン(経済9原則)」が実施され、それまで運輸省鉄道総局に属していた国鉄は、同年6月1日に公共企業体「日本国有鉄道」となり、初代総裁に運輸省官僚・下山定則氏が就任する。

合理化を進める国鉄初代総裁に求められた最優先任務は、約9万5000人の人員削減であり、一回目の人員削減は総裁失踪の前日(失踪の前日)かつ米国独立記念日の7月4日に行われ、3万3963人が削減された。

当然ながら日本最大の労働組合員数を誇る「国鉄労組」は、人員削減に抵抗する。特に国鉄労組左派(国鉄労組委員長は、左派の加藤徳太郎氏)は、スト等で抵抗し、ストに反対する右派とも対立関係にあったようだ。

図表は、1949(昭和24)年7月1日から下山事件発生前(7月5日)までの朝日新聞に掲載された国鉄関係、労組関係、社会情勢、政治情勢、国際情勢等に関する主な見出しを「株式会社ユーザーローカル」が提供するAIテキストマイニングを使用し可視化したものである。

1949(昭和24)年7月1日
政府人員整理に着手きょう国鉄に基準通告か/強硬方針で臨む/退職金の政令発表/違法指令に従うな国鉄総裁訓示/非常態勢へ国鉄労組本部/保守新党を検討 吉田、犬飼氏ら会談/警察を不法占拠 共産党員、掲示板撤去に反対 平市署へ七百余押かす/私も殴られた平市署木田署長談 警護に警官六百余/重軽症者十名/市内要所に見張り 地区署にも群衆殺到 大部分は党員/群衆、十一時過ぎ漸く解放/樺太から初の引揚げ
 
1949(昭和24)年7月2日
国鉄整理を発表 今月中に九万五千名 運輸相労組に基準を示す/協力の程度を重視/認定方法は所属長一任/被整理者二年間は優先採用 下山総裁声明/抜打断行せず 加賀山副総裁/違法闘争を指令 国鉄労組 ストと同じ効果をねらう/必要なら非常事態宣言 スト発令者は検挙/治安乱す者とは闘う 赤化した引揚者に卿党の温情要望 首相一問一答
 
1949(昭和24)年7月3日
国鉄折衝打切り 当局きのう労組へ通告/対立とけず 国鉄当局声明/労組の出方注視 治安閣僚会議で対策協議/反共連盟の結成 犬飼総裁きょう提唱/一般退職手当内定 十年未満勤続一年に十八日分/社党・民同動く国鉄再建共闘発足へ
 
1949(昭和24)年7月4日
マ元帥重大声明 アメリカ独立記念日に不敗の反共防壁へ 共産運動の法的是認が問題/民権を奪う共産主義運動/組合の申入れを拒否 国鉄整理、実施段階へ
 
1949(昭和24)年7月5日
第一次分に三万七百 国鉄、整理を通告 残余は中旬から実施/マ元帥声明に即応 政府、きょう反共声明/最悪の事態うぃ検討 下部の動き頼む左派/まず扇動者検挙 最高検の見解表明/平事件 全関係者を検挙 仙台高裁で騒乱罪を適用
各所に列車妨害続く/千七百の引揚者 乗車断わる 京都で労組員の検束から
AIテキストマイニングに使用した主な見出し一覧

下山事件発生当時の緊迫した社会情勢、国鉄と組合の関係性、政治対立等の言葉が並んでいる。

米ソ対立、労使対立、左翼と保守勢力の対立等からの緊迫した情勢のなか、総裁は轢断死体となり発見されたのだ。

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