映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1981年)を徹底考察:欲望と破滅の愛憎劇

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1981年に公開された映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、エロティシズムとサスペンスに満ちた愛憎劇として、多くの観客を魅了した。原作はジェームズ・M・ケインの同名小説であり、禁断の愛と背徳の世界を描くこの物語は、幾度も映画化されてきた文学的名作である。本稿では、映画の概要、登場人物の関係性、そして作品が描くテーマについて、批評的視点から詳細に論考する。

映画の概要

本作はボブ・ラフェルソン監督によって製作され、主演にはジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングが起用された。ラフェルソン監督は、『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970年)など、内面描写に優れたドラマを数多く手掛けたことで知られている。本作もまた、登場人物たちの内面的葛藤を深く掘り下げることで、その悲劇的な物語にリアリティを与えている。

公開日1981年11月28日(日本),1981年3月20日
原題The Postman Always Rings Twice
監督ボブ・ラフェルソン(1933年2月21日生)代表作: 『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970年), 『キング・オブ・マーヴィン・ガーデン(ズ)』(1972年)
主演ジャック・ニコルソン(1937年4月22日生)代表作: 『カッコーの巣の上で』(1975年), 『シャイニング』(1980年)
主演ジェシカ・ラング(1949年4月20日生)代表作: 『キングコング』(1976年), 『トッツィー』(1982年)
原作者ジェームズ・M・ケイン(1892年7月1日生)代表作: 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』, 『ミルドレッド・ピアース』(1941年)
映画『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1981年)

本作はボブ・ラフェルソン監督によって製作され、主演にはジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングが起用された。ラフェルソン監督は、『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970年)など、内面描写に優れたドラマを数多く手掛けたことで知られている。本作もまた、登場人物たちの内面的葛藤を深く掘り下げることで、その悲劇的な物語にリアリティを与えている。

ジャック・ニコルソンは、本作で危険で衝動的な男であるフランク・チェンバースを演じ、その演技は観客に強烈な印象を与えた。彼が演じるフランクは、単なる悪役や反英雄にとどまらず、深い内面的葛藤を抱えた複雑な人物として描かれている。片や、ジェシカ・ラングは欲望に翻弄される若い妻コーラ・パパダキスを見事に体現し、彼女の演技はコーラの内なる葛藤、恐怖、そして抑えきれない欲望を繊細に表現している。これにより、コーラの人間性はより複雑で多面的なものとして描き出されている。 この映画は、監督の繊細な演出と主演俳優たちの卓越した演技によって、物語の奥底に潜む緊張感と人間の本性が巧みに浮き彫りにされている。観客は登場人物たちの欲望や葛藤に共感しながらも、その破滅的な行動の行き着く先に対する恐怖を感じざるを得ない。このようにして、ラフェルソンによって生み出された『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、単なる愛憎劇を超え、深い人間性の探求を含む作品となっている。

あらすじ

フランク・チェンバースは、定職を持たず放浪する男である。ある日、彼はカリフォルニアの田舎にある小さな食堂『TWIN OAKS』に立ち寄り、そこで店主ニック・パパダキスと、その若く美しい妻コーラに出会う。フランクとコーラは互いに激しい情熱に突き動かされ、瞬く間に深い関係に陥る。しかし、ニックの存在が二人にとって次第に障害となり、彼らはニックを排除することを計画する。二人の決断は、彼らを悲劇的な運命へと導いていく。

この物語は、単なる犯罪ドラマにとどまらず、人間の欲望と罪の重さを深く掘り下げた作品である。フランクとコーラは、内面に潜む不安や欠如感を抱えながらも、強く惹かれ合う。特にコーラにとって、年齢や日常の制約から生じる閉塞感は、自己実現への渇望と表裏一体であり、フランクとの出会いがそれらの感情を一気に解き放つ。彼女の欲望は、単なる妻という役割から脱却し、一人の女性として自己を再定義しようとする衝動の現れでもある。

また、この物語における重要な要素は、フランクとコーラが互いに抱く激しい情熱と、それに伴う自己破壊的な行動である。彼らの関係は表面的には愛のように見えるものの、実際には深い利己心と欲望に支配されている。二人がニックを排除しようとする計画は、彼らの内面的な不安や不満が極限に達した結果であり、その行為が彼らを最終的な破滅へと導く契機となる。このように、物語は人間の欲望、道徳的責任、そしてその選択がもたらす運命の重みについて鋭い洞察を与えている。

抑圧と欲望:コーラの葛藤

コーラは、日々の生活に閉塞感を抱いている。年の離れたニックとの結婚生活は、彼女に経済的な安定をもたらす一方で、自由や自己表現を奪う抑圧的なものであった。若く美しいコーラは自らの可能性を感じながらも、それを発揮できない現実に苛立ちを募らせていた。彼女がフランクに惹かれたのは、閉塞感を打破し、失われた自分を取り戻したいという強い欲求からである。

彼女の不満は単なる生活環境の問題ではなく、自己価値への疑問や不安に根ざしている。ニックとの生活は経済的に安定していたが、精神的には彼女の自由や尊厳、本能的な輝きを奪うものだった。

フランクの不安定で自由な生き方は、コーラにとって抑圧からの解放感の象徴であり、抑圧された日常を破壊し、新たな可能性を取り戻す契機となった。彼との関係で、彼女は再び生きる実感を得たが、それは愛情というより、不満と閉塞感からの逃避であり、彼女をますます危険な選択へと導いた。

ニックの排除を発案したのはコーラである。彼女がフランクにニックの排除を提案したのは、安定と情熱を同時に手に入れたいという複雑な欲望に基づいている。コーラは生活基盤を保ちながら情熱的な解放感を求め、「現状を破壊しつつ現状に留まる」という矛盾を抱えていた。また、コーラはフランクには内緒でニックに多額の生命保険を掛けいた。

彼女は経済的な安定を確保しつつ、フランクを通じて情熱や刺激を得ようとし、その過程で女性としての承認欲求を満たし、自己価値を再確認することも望んでいた。つまり、コーラは安定、情熱、承認という相反するものをすべて同時に手に入れようとし、その二重三重の欲望が破滅への道を開いたのである。

コーラが「女は……」と全てを語らずにフランクに自分の内に秘めた「女」を伝えようとする場面には、生活の安定と情熱を同時に得ようとする女性のしたたかさが見え隠れする。そこには、自己中心的でありながら人間らしい二律背反的な欲望が潜んでいる。 一方、フランクはその日暮らしの風来坊であり、安定や基盤に執着せず、瞬間の自由と快楽を優先する生き方を持つ。彼の生き方は、コーラが求める安定と情熱の両立とは対照的であり、コーラの欲望が「女性特有」のものであることを際立たせている。経済的安定と承認欲求の間で揺れ動くコーラの姿は、人間の脆さと矛盾を象徴し、その欲望が彼女を自己破壊的な道へと導いたのである。

自由と破滅の象徴:フランク・チェンバース

フランク・チェンバースは、束縛からの解放と奔放な生き方の象徴である。暴行や強盗の前科を持つ彼は、食や職を得るために平気で嘘をつき、賭け事がしたくなればコーラを置き去りにして賭け事に興じ、欲望が湧けば女性と関係を持つという自己中心的な行動を取る。彼の自由奔放な性格は、安定しながらも閉塞的な生活を送るコーラにとって非常に魅力的であり、彼との関係は彼女が失っていた生の感覚を取り戻す手段となった。フランクはまた、愛と破滅が紙一重であることを暗示する存在でもあり、その登場により物語は急速に危険な方向へと進展していく。

フランクは刹那的な男性であり、未来よりも現在の快楽を追求する生き方をしている。この態度は、将来を重視し安定を求めるニックとは対照的であり、その違いがコーラにとって非常に魅力的に映った。フランクの登場によって、彼女の内面にある性的な興奮、冒険への渇望、自己実現の欲望、そして女性としての不安や年齢に伴う焦燥感が一気に目覚める。しかし、フランクとの関係は、彼女を解放する一方で、破滅へと誘うものであり、彼らの関係は愛と憎しみ、肉体的欲求や情熱、禁断の愛への衝動と恐怖が交錯する複雑なものであった。

フランクの刹那的な生き方は、コーラにとって一時的な逃避の場であり、彼女が日々の生活から解放されるための手段であった。しかし、彼との関係を通じて、コーラは自分自身を見失い、最終的には破滅の道を歩むことになる。

コーラとフランクの関係性

ギリシャ神話において、エロスとタナトスの関係は極めて象徴的である。エロスは愛と欲望、創造の象徴であり、一方タナトスは死と破壊を司る存在である。エロスが生命の活力を象徴するのに対し、タナトスはその対極に位置し、消滅と終焉を意味する。二つの存在は不可分であり、エロスの欲望が極限に達したとき、それはタナトス、すなわち破滅や死への道を開く。このエロスとタナトスの関係は、殺人後、その隠ぺいのために自ら傷を負いながらも情事に及ぶフランクとコーラの関係を象徴している。二人の間にある反道徳的な欲望と利己心は、エロスの愛に基づく一時的な快楽の追求であり、それが最終的に彼らをタナトス、すなわち破滅へと導く。

フランクとコーラの関係には常に緊張感が漂っている。反道徳的な欲望は人間の本性に根ざしているため、強烈な魅力を放ち、二人を、そして観客をも引き込んでいく。エロスの愛を追求することは一時的な快楽に焦点を当てるため、持続的な満足感を伴わず、結果として破滅へと向かう可能性を秘めている。

有名なキッチンでのセックスシーンは、二人の肉体的な欲望と、それに伴う危険なスリルを象徴している。この情事は、二人の関係が単なる情熱ではなく、日常を破壊するほどの激しい衝動に基づいていることを強く印象付ける。コーラがフランクの暴力的な側面を受け入れた理由は、その暴力が彼女の日常を破壊し、閉塞感から解放されるための手段であったからである。フランクの暴力は、彼女にとって抑圧された生活の破壊と再生の象徴であり、その危険なスリルに引き込まれていったのである。 純粋な愛とは、アガペとエロスが合体したものであり、無私の愛と情熱的な愛が共存するものである。しかし、コーラとフランクの愛は、エロスと自己愛によって成立しており、互いに自分の欲望を満たすために相手を利用する関係であったため、安定したものではなかった。特にテーブルでのセックスシーンは、彼らの関係が肉体的な快楽とリスクに根ざしていることを象徴しており、それが二人の未来に破滅的な結果をもたらすことを予感させるものであった。

『郵便配達』とは誰なのか?なぜ、二度鳴らすのか?

『郵便配達』は、突然訪れる運命の象徴といえるだろう。郵便配達人は、まるで運命の配達者のように、時に予期せぬ手紙や望まぬ知らせを届ける。しかし、その配達は常に正確とは限らず、誤配や予想外の内容も含まれる。コーラが選んだ道、すなわちフランクとの関係とその後の行動は、最終的に彼女に破滅をもたらし、彼女が本当に求めていた『自由』とは異なる結末を迎えたのである。

この物語における『郵便物』、すなわち『運命』の差出人は誰なのかを考えると、もしかすると日常に不満を抱えていたコーラの内面がその差出人であったと言えるのではないだろうか。彼女の中に秘められた欲望や、閉塞感に対する反抗心こそが、彼女に運命を引き寄せる配達人としての役割を与えたのである。彼女は内心でその運命の郵便物を待ち望んでいたのだ。

『最初のベル』が具体的にどのシーンを指すかといえば、それはフランクとコーラが初めて情熱的な関係に陥る瞬間を象徴していると思われる。この『ベル』は誘惑や新たな機会の到来を暗示し、二人が互いに引き寄せられ、破滅的な愛の世界へと足を踏み入れる契機を表している。その後、物語が進むにつれて最初の選択が運命を不可避的に動かし、『二度目のベル』が鳴る時、二人は最終的な破滅へと導かれることになる。

『二度目のベル』が鳴る具体的な瞬間とは、ニックを殺害するという二人の決定的な行動を指している。この殺人行為が二度目のベルとして象徴され、フランクとコーラが運命に抗えない結末へと進む契機となるのである。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というタイトルには深い象徴性が込められており、郵便配達人は運命や宿命のメタファーと解釈できる。最初のベルは誘惑や機会の到来を示し、二度目のベルはその選択の結果として避けられない結末を暗示している。まさに、郵便配達はエロスとタナトスという二つの運命を知らせるために『ベル』を鳴らしたのだ。

フランクとコーラが犯した罪は一時的な自由をもたらしたが、運命の『二度目のベル』が最終的に彼らに破滅をもたらした。このタイトルは、欲望の代償と運命の不可避性を強調している。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』という言葉は、人生における決定的な瞬間、特に選択がもたらす結果の重さを象徴している。郵便配達人が『二度ベルを鳴らす』行為は、運命が二度警告を発することを意味し、その警告を無視することで人は破滅へと向かうことになる。フランクとコーラにとって、その『二度目のベル』は、彼らの欲望がもたらした避けられない悲劇の到来を告げていた。このように、タイトルには人間の欲望とその代償、そして運命の不可避な帰結が象徴的に表現されている。

まとめ

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、欲望、裏切り、そして運命の重さを描いた名作である。コーラとフランクの禁断の愛は、一時的な自由の代償として避けられない悲劇を引き起こす。本作を通じて、人間の欲望がどのようにして破滅を招くのか、その過程に対する鋭い洞察を得ることができる。この映画は、禁断の愛がいかに人を破滅へと導くか、その一部始終を描き、今なお観る者に強烈な印象を与え続けている。

事件後、コーラのフランクに対する気持ちは、「子供」を意識することで、エロスから『愛』へと変化し、やがて執着へと辿り着く。彼女がフランクに『あなたといることが私の全て』と涙ながらに告げる場面には偽りがなく、さらにフランクが他の女性と関係を持つと知ったときに見せた嫉妬からも、彼女の感情が次第に愛から執着へと変わる過程が読み取れる。執着もまた、一つの強い欲望なのである。

コーラに明確な変化が見られるのと同様に、彼女の嫉妬を知ったフランクにも心境の変化が現れる。コーラの情熱が愛へと変わり、やがて執着へと発展する過程で、彼女がフランクを『自分のもの』にしたいという欲望を強めると、フランクもただ自由奔放に生きるわけにはいかなくなる。『愛』は所有欲でもあり、それも人間の欲望である。

しかし、二人の関係は表向きには良好に見えるが、避けられない運命が容赦なく彼らを追い詰め、行動の代償として悲劇的な結末を迎えることになる。

本作のテーマは、個人の欲望とその選択がもたらす運命の重さである。フランクとコーラの物語は、人間の本性の脆さと、欲望がいかに自己破壊へと導くのかを描き出し、単なるエロティックな愛憎劇にとどまらず、深い人間性の探求を含む作品となっている。その物語は、観る者に道徳的な問いを投げかけ、欲望とその代償についての鋭い洞察を与え、時を超えて人々に影響を与え続けている。

また、本作は人間の内面に潜む二面性や、理性と欲望の対立を描くことで、日常生活の中で我々が抱える矛盾を示している。フランクとコーラの選択は、その矛盾が極限に達したときに人間がいかに破滅へ向かうかを示し、単なる娯楽を超えた人間理解への問いかけである。その鋭い視点は、今なお多くの示唆を与えている。

コーラとフランクの関係は、観客に欲望とその代償についての深い教訓を与えている。二人が抱く情熱は一時的な快楽と解放感をもたらすが、それは内面の不安や欠如感からの逃避に過ぎず、長続きする幸福には結びつかない。最終的に、二人の関係は欲望の誘惑に囚われることが破滅への道であることを象徴し、その関係を通して観客は欲望の果てについて学ぶことができるのである。


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Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste RoquentinはAlbert Camus(1913年11月7日-1960年1月4日)の名作『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartre(1905年6月21日-1980年4月15日)の名作『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場するそれぞれの主人公の名前からです。
Jean-Baptiste には洗礼者ヨハネ、Roquentinには退役軍人の意味があるそうです。
小さな法人の代表。小さなNPO法人の監事。
分析、調査、メディア、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルなど。

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