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グリコ・森永事件:かいじん21面相の思想背景を考察

本記事は、1984年に発生したグリコ・森永事件の犯人組織「かいじん21面相」の思想的背景を探り、事件における「江崎グリコ」への怨恨説を考察するものである。

事件の幕開け:江崎グリコ社長誘拐事件

1984年3月18日(日曜日)、夜21時ごろ、兵庫県西宮市の静かな住宅街で、不穏な事件が幕を開けた。江崎グリコ社長、江崎氏の実母が住む家に、拳銃のような物と空気銃または散弾銃のような物を手にした2人の男が侵入した。これは単なる侵入事件ではなかった。家の外には車(赤系色のクーペ)で待機するもう1人の男がおり、彼ら3人は計画的に行動していた。犯人たちは、社長の母を縛り上げ、社長宅の合鍵を奪取し、隣接する社長宅に侵入した。

1人の男が妻に言った。

――金はいらん、勝久はどこや――

妻は1000万円近い現金を見せ、助けを求めるが、2人の男は長女を襲撃し、2人を縛り上げてトイレに閉じ込めた。犯人たちはさらに、浴室に侵入し、入浴中だった社長とその子どもたちを脅迫し、社長を全裸のまま拉致した。

翌日の1984年3月19日(月曜日)深夜1時15分頃、大阪府高槻市に住む江崎グリコの取締役F・H氏宅の電話が鳴った。電話の主は、裏声を使い意図的に助詞を省いた言葉で「真上北町自治会前」、「公衆電話」、「電話帳403ページ」、「見よ」と言った後、一方的に受話器を置いた。

F・H取締役が指定場所に到着すると、そこにある公衆電話ボックスの電話帳403ページに社長の解放と引き換えに現金10億円と金塊100キログラムを要求する脅迫状が残されていた。電話帳の403ページは、F・H取締役の電話番号が記載されたページであった。

事件はここから、兵庫県と大阪府などにまたがる重大事件(警察庁広域重要指定114号事件)へと発展する。兵庫県警と大阪府警は合同で捜査体制を整えた。しかし、犯人からのさらなる指示にもかかわらず、身代金を受け取りに来る者は現れなかった。犯人グループが要求した莫大な身代金は、その重量と大きさから、運搬自体が困難な状況だった。この事から、彼らが本当に金銭を目的としていたのか疑問を持つ声も上がっていた。

そして、事件は意外な方向へ進展する。1984年3月21日(水曜日)14時30分頃、国鉄(現JR)職員の通報を受けた大阪府茨木警察が、江崎氏を保護したのだ。彼は安威川沿いにある治水組合の水防倉庫から脱出し、摂津市の大阪貨物ターミナル駅構内へと駆け込んだところを、居合わせた作業員によって救出されたのであった。

1984年4月2日(月曜日)、何者かによって差出された脅迫状が江崎宅に届けられた。その書面は、4月8日(日曜日)までに指定の場所へ江崎家の家族一人あたり1000万円、合計で現金6000万円を携えてくるよう要求し、返答は新聞広告で知らせるようにとあった。脅迫状には、さらなる脅威として塩酸が詰められた目薬の容器が同封されていた。犯人が指定した4月8日に警察は犯人の出現を待ち構えたが、結局犯人の姿を捉えることはできなかった。

その同日、犯人グループは大阪の毎日新聞とサンケイ新聞宛に「けいさつの あほどもえ」から始まる挑戦状を送りつけた。これは、世間一般への公開挑戦状として、マスコミを介して初めて発せられた。手紙には無署名で、封筒の差出人には江崎氏の名が使用されていた。

4月23日(月曜日)には、更なる脅迫が江崎グリコに寄せられた。今度は1億2000万円が要求され、現金の受け渡し日は4月24日(火曜日)に指定されていた。しかし、犯人はレストランから名神高速道路吹田サービスエリア、そして電話ボックスを経由して現金を運ぶドライバーをたらい回しにしたが、結局現れなかった。

この日、マスコミ宛に2回目の挑戦状が送られた挑戦状には、「ヒント おしえたろ 工場えは通用門からはいった タイプはパンライターや」と書かれており、犯人グループは「怪人21面相」と自称するようになった。

1984年5月25日(金曜日)、犯人から江崎グリコの下請け会社役員宅に脅迫状が届けられた。その内容は、6月2日(土曜日)に摂津市内の特定のレストランの駐車場に3億円を積んだ車を置くよう指示していた。迎えた指定日、大阪府警察本部刑事部捜査第一課は特殊事件係を中心に30人の体制で犯人の出現を待ち構えた。しかし、後部トランクに隠れていた捜査官が無線機のトラブルに遭遇し、計画より早く行動を起こさざるを得なくなり、結局犯人は捕捉できなかった。

その後、3人組の犯人たちは大阪府寝屋川市内の淀川堤防で、元自衛官男性とその交際女性を襲撃し、元自衛官に3億円の奪取を命じていたことが明らかになった。この事件は「寝屋川アベック襲撃事件」として知られ、指定されたレストランの駐車場から約2.8km離れた場所で発生した。元自衛官男性は後に事件とは無関係であることが判明し、釈放された。女性も無事に解放されたが、この一連の出来事は社会に混乱と不安をもたらした。

6月26日(火曜日)、犯人グループからマスコミに新たな挑戦状が送られ、「こども なかせたら わしらも こまる 江崎グリコ ゆるしたる」という内容で、江崎グリコに対する脅迫を終結させると宣言した。犯人グループは国外逃亡をほのめかしていたが、後に「警察がうるさくていけなかった。もうすぐ一仕事してから行くつもりだ」と述べ、その計画を断念したようだ。6月29日(金曜日)、江崎グリコの株主総会が終了した。ただし、「怪人21面相」を名乗る犯人たちによる企業恐喝は続き、丸大食品脅迫事件、森永製菓脅迫事件、ハウス食品脅迫事件、不二家脅迫事件、駿河屋脅迫事件と続いていく。

江崎グリコへの攻撃

1984年4月10日(火曜日)には、大阪府大阪市西淀川区にある江崎グリコ本社で放火事件が発生した。火元は工務部の試作室で、火は隣接する作業員更衣室にも燃え移り、試作室は全焼した。また、本社から約3km離れた場所にあるグリコ栄養食品の車庫に停められていたライトバンも放火されたが、こちらはすぐに消し止められた。出火直後、不審な男が逃走する様子が目撃されている。この事件の前後1時間半の間に、「グリコやろか」という言葉が警察無線に混入した。この「グリコやろか」という妨害電波は、4月22日(日曜日)24時15分前後にも再び大阪府警の警察無線に入った。

4月11日(水曜日)の午前中、江崎社長宅に「思い知ったか」という内容の電話がかかってきた。同日午後には、グリコ栄養食品の京都工場へ放火予告の電話があり、続く4月12日(木曜日)の7時40分頃には、グリコ栄養食品の福岡営業所に対して爆破予告の電話が入った。

さらに、4月16日(月曜日)、大阪府高槻市内で「えんさんきけん」と添付された塩酸入りプラスチック容器が発見され、1984年5月9日(水曜日)、江崎グリコ大阪工場付近の路上にガソリンが撒かれる。10日(木曜日)には、かい人21面相から「グリコの製品に青酸ソーダを入れた」とする挑戦状が、複数の新聞社に送られた。その後、実際に青酸入りの製品が発見されることはなかったが、この挑戦状は大手スーパーにグリコ製品の撤去を促す事態に至った。5月11日(金曜日)江崎グリコ「株」が60円安で終わる。

1984年江崎グリコ終値推移
1984年江崎グリコ株出来高

図表は参考資料、1984年1月4日から同年12月28日の江崎グリコ株の終値と出来高の推移である。同年の最安値終値は、5月14日の525円である。

言うまでもなく、江崎社長が誘拐された1984年3月18日(日曜日)以降、同社の株価は低迷し、同社に対して離職の可能性を抱える業種の労働者を対象に、賃金の一部を国が助成する雇用保険法の雇用調整助成金制度が適用された。かい人21面相からの攻撃が同社と同業他社に大きなダメージを与えたことがうかがえる(参考:内閣府『時の動き』労働大臣だ人官房参与竹村毅氏1985.)。

江崎グリコの1984年9月の中間決算(4月-9月)の売上高は、約470億円であり、前年同期(1983年9月中間決算)に比べて28%減少し、約130億円減少となる。

1976年-1978年:『セーリング作戦』

1976年3月頃、大阪府豊中市にある江崎グリコ社の役員及び関連会社の代表取締役F氏宅に現金1億円を要求する脅迫状や脅迫電話があった。脅迫状の差出人は、「黄巾賊」名乗っていた。

この脅迫状では、差出人が自らを現代の革命家と称し、後漢末期の184年に民衆が黄色の頭巾をかぶって起こした「黄巾の乱」にちなんでグループ名を名付け、現代の社会状況に対する憂慮を表明しながら1億円を要求していた。要求が受け入れられない場合、江崎副社長(当時)を誘拐し、チョコレートなどに青酸を混入してばら撒くと脅迫していた。その後、約1か月間にわたり、「黄巾賊」を名乗る男から同様の内容の脅迫電話が数回かかってきたが、実際には何も起こらなかった。

翌4月頃には「カルロス軍団」と名乗るグループからも同じ役員宅に脅迫状が届いたが、犯人側からのさらなる接触はなく、事件は公表されなかった。さらに、1978年(昭和53年)8月1日頃、前述F取締役宅に「53年テープ」と呼ばれるカセットテープが郵送された。テープでは、初老の男性が自己紹介し、「1947年に復員して以来、ある団体の運動を続け、自分が世話をしている京都の過激派学生が『セーリング作戦』を計画し、グリコから3億円を脅し取ろうとしている」、「3億円は高いので1億円に減額させる」等と述べ、「セーリング作戦」の内容は、京都の過激派学生3人が、グリコ幹部の誘拐、放火、菓子への青酸混入するといものであり、グリコ・森永事件の江崎グリコに対する攻撃(3人組による社長誘拐、放火、菓子への青酸混入)を予見させる内容だった。

この約56分にわたる録音を捜査本部が声紋鑑定した結果、テープに録音されていた声は初老の男性のものであり、関西弁の特徴を持つ「さ行」の発音(「ガクシェイ」や「ジェンブ」など)が確認された。この声は意図的に変えられたものではないとされ、大阪・船場地区出身の演説に慣れた人物ではないかと評されている。「黄巾賊」、「カルロス軍団」、「昭和53年テープの男」はいずれも江崎グリコ社の役員および関連会社の代表取締役F氏宅に脅迫状などを送っており、グリコ・森永事件との関連性が非常に高いと推認され、「かいじん21面相」グループの犯人像の解明において重要な意味を持つだろう。

グリコ・森永事件は、黄巾党が蜂起した184年と同じ「甲子の年」に発生している。この事件が「甲子の年」に起きたことは、犯人グループによる意図的なメッセージの可能性が示唆されるだろう。グリコ・森永事件の原点には、自らを現代の革命家と名乗る「黄巾賊」、「カルロス軍団」、「昭和53年テープの男」が存在し、これらの人物からの思想性を通して、「かい人21面相」の潜在的な姿が見えてくる。

黄巾賊とカルロス軍団

かい人21面相の原点と考えられる「黄巾賊」、「カルロス軍団」の思想的背景を探るため、実在した黄巾賊と「ジャッカル」と呼ばれたテロリスト、イリイチ・ラミレス・サンチェスについて解説と考察を行っていこう。

黄巾賊

「黄巾党の乱」は、後漢末期の中国に発生した大規模な農民反乱である。184年に始まり、道教の影響を受けた張角が指導した。黄色い頭巾を身につけていたことから黄巾の名が付いた。この乱は、社会的不平等、重税、官僚の腐敗に対する広範な不満によって引き起こされた。後漢政府の軍によって鎮圧されたものの、後漢王朝の権威と統治力の弱体化を加速し、三国時代への道を開く重要な要因となった。黄巾党の乱の鎮圧は、後漢政府の権威と統治力の弱体化を明らかにした。乱の完全な鎮圧には数年を要し、その過程で漢王朝の衰退が加速された。この乱は短期間で終結したわけではなく、その影響は長く中国の政治情勢に残り、後漢の衰退を加速させ、三国時代の到来を促した。

黄巾の乱に影響を与えた太平道は、後漢末期に中国で生まれた宗教運動であり、黄巾の乱の指導者・張角によって創始された。この運動は、社会の不平等や腐敗に対する反発を背景に、平和と公正を目指していた。特に貧しい農民層に支持され、太平道は黄巾の乱の精神的な基盤となった。道教の教えに基づき、社会改革と道徳的な再生を訴えることで、政治的な変革を促した。

その後、時代が進み、は、19世紀の1850年から1864年にかけて香港の洪秀全によって指導され発生した大「太平天国の乱」は、黄巾党の理想に触発されたものである。太平天国は社会の平等と全女性の解放を宣言し、土地所有制度においても性別に関わらず土地を平等に配分するなど、その理想を政策に反映させた。洪秀全はキリスト教文献に触れた後、中国伝統の終末論とキリスト教の救済思想を組み合わせた新たな宗教を創設し、「太平天国」と名付けた。

これらの歴史的事実から、黄巾賊や道教の思想は単なる宗教的な信念に留まらず、社会改革への強い願望と不平等や腐敗に対する反抗心を根底に持っていた。これらの運動は、当時の政治的、社会的状況に対する深い洞察と理想的な社会秩序への強い願望に基づいていたと考えられる。もし、かい人21面相が黄巾賊から思想的な影響を受けていたと仮定すれば、それは社会改革への強い願望と不平等や腐敗に対する反抗心となり新左翼活動家との親和性が推認される。ただし、彼らが改革や腐敗の対象を社会全体と考えていたのか、特定の企業や警察組織を攻撃対象としていたのかは、彼らの行動を通じて類推される。彼らの犯行は既存の社会秩序や企業体制への挑戦の側面を持つが、長期にわたる江崎グリコへの脅迫からは、江崎グリコに対する強い攻撃性と、江崎グリコに対する積年の不満が存在していたと推測できる。

カルロス軍団

カルロス軍団については、イリイチ・ラミレス・サンチェス、通称カルロス・ザ・ジャッカルとして知られるベネズエラ出身の国際テロリストが連想される。彼は1973年から1984年にかけて、世界中で14件のテロ事件に関与し、83人の命を奪い、100人以上を負傷させた。カルロスは極左テログループを指揮し、インターポールによって最重要指名手配されたが、1994年に逮捕された。彼のテロ活動は、共産主義の思想に基づき、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)や革命細胞(RZ)などの組織と関わりがあった。彼は最終的にフランスで終身刑を宣告された。

かい人21面相の原点と考えられる「黄巾賊」と「カルロス軍団」の思想的背景には、新左翼活動家との親和性、社会改革への強い願望、そして不平等や腐敗に対する反抗心がある。これらの価値観が、江崎グリコに対する深い怨恨へと変わり、同社に対する強い不満と敵意を生み出したと考えられる。したがって、グリコ・森永事件の根本的な原因は、特に江崎グリコへの怨恨にあると推測される。この怨恨は、同社への長期にわたる不満と敵対心から生じた攻撃性を示し、目的のためにテロ活動や犯罪を厭わない極端で過激な姿勢であると推察される。

新左翼から企業への攻撃

1970年代から1980年代にかけて、左翼組織による企業恐喝や脅迫事件は、特に冷戦の文脈の中で顕著であった。これらの事件の中でも特に注目されるのは、西ドイツの赤軍派(RAF)の活動である。RAFは、資本主義システムを打倒し、共産主義または社会主義社会に置き換えることを目指し、多くの暴力行為に関与した。彼らのイデオロギーは、マルクス主義を含むさまざまな共産主義と社会主義の流れに影響を受けていた。1977年のいわゆる「ドイツの秋」には、RAFによる活動がピークに達し、1977年9月の西ドイツ経営者連盟会長兼工業連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーの誘拐や、RAFに同情するパレスチナテロリストによるルフトハンザ航空機のハイジャックが行われた。これらの行為は、刑務所にいるRAFメンバーの解放を強制しようとする試みであったが、結果的にキーメンバーの自殺とシュライヤーの殺害につながった。以下は、1970年代から80年代に発生した左翼過激派グループによる主な実業家、資産家身代金要求誘拐事件である。

1978年1月:エドアール・ジャン・アンバン男爵誘拐事件(二ヶ月後解放)

1978年3月:シャルル・ブラフト男爵誘拐事件(一ヶ月後遺体で発見)

1980年6月:フランス経営者損国評議会副会長ミッシェル・モリラリピエール氏誘拐事件(12日後救出)

1983年11月:フレディ・ハイネケン氏誘拐事件(三週間後、犯人逮捕により救出)

アメリカ合衆国では、毛沢東主義者の学生が結成したウエザーマン、資本主義の打倒と貧困層解放を目指すシンバイオニーズ解放軍(SLA)などの左翼テロ組織が目立っていた。ウエザーマンは、1970年代初頭にアメリカの権力の象徴を損傷することを目的として国内で爆弾テロを実施した。SLAは銀行強盗、殺人、そして1974年のハースト新聞社の相続人パトリシア・ハーストの誘拐で知られている。

前述のとおり、かい人21面相の思想的背景は「黄巾賊」と「カルロス軍団」という名前から推察される。そして、これらは欧米の新左翼過激派集団およびそれによる事件から影響を受けていると考えられ、社会不平等や政治的腐敗に対する強い反発心がかい人21面相の行動原理として挙げられる。この反発心は、不公正に対する深い怨恨として表れ、特定の企業や組織、特に江崎グリコに対する攻撃の動機となったと推測される。さらに、彼らの行動には、社会改革を目指すというよりも、既存の秩序に対する挑戦、破壊的な行動を通じて注目を集め、自らの存在を示そうとする意図があったとも考えられる。そのため、かい人21面相による一連の犯行は、単に金銭的利益を追求するだけでなく、より深い社会的、政治的メッセージを世に問うていた可能性がある。

また、「日本で劇場型犯罪という用語が広く使われたのはグリコ・森永事件であるが,それは海外のテロリズムのテキストではテロの1つとして言及されていることもある」との指摘もある(引用:宮坂直史『テロリズム研究のフロンティア―最近の研究動向と課題―』2009年.)。

まとめ:江崎グリコと中国大陸とかい人21面相

ここまで、グリコ・森永事件の犯人組織「かいじん21面相」の思想的背景を探り、事件における「江崎グリコ」への怨恨説を考察してきた。大正時代に設立された江崎グリコは、1935年に満州国奉天に工場を設立し、その後天津、上海にも工場を展開している。

昭和22年(1947年)に復員した「昭和53年テープの男」と「江崎グリコ」が広大な満州国で接点を持っていた可能性がある。犯人グループに誘拐された江崎社長が脱出時に着用していたコートは、戦前のグリコ青年学校で使用されていたものと言われ、戦後に福井県で仕立て直されたものであるとされる。

「昭和53年テープの男」が関与していた「ある団体の運動」は、社会主義系の運動であると考えられる。同テープには、マイノリティ問題に注力していた某県の社会党議員の名前が登場するという噂もある。京都の過激派3人による「セーリング作戦」は、グリコ・森永事件を予感させる内容であり、実行犯の人数も一致している。また、グリコ・森永事件が発生した70年代から80年代は、北朝鮮が国家ぐるみで拉致事件を起こしていた時期でもある。

未解決に終わったグリコ・森永事件の犯人グループ「かいじん21面相」に関しては複数の説が存在し、その中心人物として挙げられるのは、江崎グリコに恨みを持つ考古学者や、北朝鮮から指示された金山開発に失敗した実業家である。この2人を中心に、過激な新左翼過激派の若者3人が加わり、江崎グリコへの怨念と復讐、金銭奪取と社会不平等や政治的腐敗に対する強い反発心を抱え犯行に及んだと考えられる。 グリコ・森永事件には、ただの犯罪以上に重要な意味が含まれている可能性がある。この事件を通じて、時代の変化と共に現れる社会の不平等や腐敗が浮かび上がり、それにどのように人々が反応しているかが示されている。

解決されずに残されたこの事件は、現代社会が抱える様々な問題と矛盾の象徴であり、歴史を通じて繰り返されてきた社会的な「闘争」を今に伝えるものとして、多くの人々に思索を促している。


◆参考資料
『グリコ事件53年の脅迫テープ郵送“21面相”犯行と断定』読売新聞1986年11月12日付
『51年にも「黄巾賊」など名乗りグリコ脅迫21面相と同一』毎日新聞1989年9月11日付
『グリコ・森永事件は「北」の工作員グループの犯行』産経新聞1997年7月5日付
『グリコ・森永事件まる4年カギ握る幾つかのナゾ』朝日新聞1988年3月11日付
朝日新聞1984年11月15日付
グループばぐ『かい人21面相の戦争:スーパーメディアクライム』泰流社,1985.
江崎利一『商道ひとすじの記:わがグリコ・我が人生九十余年』日本実業出版社,1977.


◆グリコ・森永事件及び関連性が指摘される事件

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Jean-Baptiste Roquentin

Jean-Baptiste RoquentinはAlbert Camus(1913年11月7日-1960年1月4日)の名作『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartre(1905年6月21日-1980年4月15日)の名作『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場するそれぞれの主人公の名前からです。 Jean-Baptiste には洗礼者ヨハネ、Roquentinには退役軍人の意味があるそうです。 小さな法人の代表。小さなNPO法人の監事。 分析、調査、メディア、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルなど。