Categories: 文化

高野山・空海の入定伝説から見る弥勒信仰と即身仏

和歌山県にある、高い山を登った先にある聖地・高野山。真言宗の開祖である空海によって開山されたこの地は、今もなお篤い信仰を集めており、日々、多くの人々が訪れている。

高名な僧である空海には、今も様々な伝説が残っている。その中で最も有名なものは、「空海が高野山の奥の院で入定し続け、人々を救っている」という「空海入定伝説」である。 今回はこの入定伝説から、日本の弥勒信仰や即身仏について見ていこう。

高野山に残る空海の入定伝説

ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる

慈円和尚

はっきり知らずとも、この文言をどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。これは、百人一首でも有名な慈円和尚の作とされる歌である。「高野の山」とはそのまま高野山をさしており、「大師」とは「弘法大師」とも呼ばれる空海のことである。

高野山並びに真言宗の開祖である空海は、「お大師さま」と呼ばれるほど民衆に親しまれ、信仰心を集める存在だ。その存在感の凄さは、彼が残した伝説の多さからも分かるだろう。

そして、その中で最も有名な伝説が「空海入定伝説」だ。

先に挙げた歌を見てみよう。「大師はいまだ おわしますなる」。これは、「大師(空海)は現在もいらっしゃる」という意味だ。つまり、空海は現在も高野山・奥の院で生きているというのである。

勿論、言葉通りの「生きている」ではないだろう。しかし彼は今もなお、奥の院で瞑想を続けている。そして、空海が瞑想を続ける理由は、弥勒菩薩の下生(現世に現れること)を待ち、人々を救うためだ

奥の院では現在でも、御廟に衣類や食料を運ぶ行事が続けられている。

訪れたことがある人なら分かるかもしれないが、高野山・奥の院では、普段の街中とは少し違う雰囲気がある。山の綺麗な空気と相まって、皮膚がピンと張りつめるような、独特な空気感があるのだ。

空海の高野山での入定(つまり即身仏となること)は、現在では否定的な意見が大きい。しかし、この雰囲気の中では、確かに「空海が生きている」と感じることができるのである。

弥勒信仰

空海の入定伝説の背景には、「弥勒信仰」がある。では、弥勒信仰とは一体何なのだろうか。

弥勒信仰とは、その名の通り弥勒菩薩を信仰の対象とするものだ。弥勒信仰には大きく分けて、弥勒菩薩が現在いる世界に生まれ変わろうとする「上生信仰」と、弥勒菩薩が現世に現れる「下生」を待ち望む「下生信仰」の2つがある。この内、空海と関わりが深いのは下生信仰である。

また、弥勒菩薩は未来の仏陀だとされている。現在の釈迦に変わり、56億7000万年後に下生して、人々を救うと言われているのだ。弥勒菩薩の仏像を見て欲しい。その姿は柔和で、優し気だ。圧倒的な存在感を放つ釈迦の仏像とは、全く違う雰囲気を放っている。弥勒菩薩は慈しみの存在。それを仏像が表しているのだ。

※少しややこしいが、仏陀は「悟った人」の意味であり、釈迦=仏陀ではない。現在の仏陀である釈迦を「現世仏」と呼び、未来の仏陀である弥勒菩薩を「未来仏」と呼ぶ。

空海が入定したのは62歳の時。その直前に、弟子たちに残したとされる言葉がある。それが以下のものだ。

「56億7000万年後、弥勒菩薩が現世に現れるとき、私も一緒に戻ってくるだろう(意訳)」 空海が実際にこう言ったかどうかは定かではない。しかしこの言葉からは、空海の入定伝説と弥勒信仰の深いつながりを感じとることができる。そして人々は、慈愛に満ちた弥勒菩薩と空海を重ねて見ていたのだろう。

空海と即身仏

辛い苦行の果てに、息ながら自らの体をミイラ化させた僧たちがいる。そして、彼らの体は「即身仏」として、それそのものが信仰の対象となっている。一般公開されている即身仏もあるため、教科書やテレビなどで見たことのある人もいるだろう。

先に書いた通り、空海が即身仏になったとは考えにくい。しかし、今の日本に残る即身仏たちと空海の関わりは深い。

空海は昔から、影響力に富み、信仰心を集める高僧だった。彼の入定伝説に倣うように即身仏を志した仏教僧も多いと言われている。さらに、記録に残っていたり現存していたりする即身仏のほとんどは、空海が開いた宗派・真言宗の僧侶たちである。彼らは僧名に「海」の字が入っていることが特徴だ。

即身仏となった僧たちは、一体何を目的としてその苦行をやり遂げたのだろうか。それは、空海の入定伝説と同じ、「人々の救済」である。

即身仏の分布を見てみると、東北地方(主に山形県)に集中していることが分かる。そして東北地方は、幾度も飢饉に襲われた地域だ。

即身仏に至る工程は凄まじい。極限まで食事を減らし、脂肪や筋肉をそぎ落とし、生きながらミイラに近づいていく。最終段階に至ると、口にできるのは水だけとなる。これはまるで、飢饉に苦しむ人々と同じ体験をしようとしているかのようだ。

自らは生きるために必要な食事を絶ち、命を賭して人々を救おうとした僧侶たち。飢饉は簡単に解決できるものではなかったが、その姿は人々に強いイメージをもたらしただろう。 空海は遥か未来に、弥勒菩薩と共に下生すると言われている。そして、人々を救おうとする彼の意思を継ぎ即身仏となった僧たちも、共に現れるのかもしれない。

まとめ

今もなお親しまれ、尊敬されている高僧・空海。その足跡をたどると、伝説や逸話の多さに圧倒される。じっくり読んでいては、時間がいくらあっても足りないほどだ。

今回の記事では、空海の入定伝説とそれに関わる弥勒信仰、そして、即身仏について解説してきた。これらは空海に関わる話のごく一部であり、決して語り足りているとも言えないだろう。それでも、高野山や空海の伝説に触れるきっかけにはなれるはずだ。

高野山の空気は独特だ。あの空気感は言ったことのある人にしか分からず、それを言葉で伝えるのも難しい。 この記事を読んで、高野山に興味を持ってもらえたらとても嬉しいと思う。


オススメの記事 (都市)伝説・神話・妖怪 

どう生きて、どうやって死んでいくか。それなりの期間にわたる人生を、どのように生きていくか。人間が昔から考えて止まない「死生観」というもの。全ての国の(ほとんど全て)の人々が、独特ではあるものの、ある種共通した死生観を持っている。死生観という概念の内容を言葉にすることは難しいが、それぞれの国に伝わる昔話や神話を紐解けば、その一端を見ることは可能だ。日本古来の死生観を探るならば神話から。ここでは、日本最古の歴史書とされる古事記を参考に、死と生に関わる神話や神々を見ていこうと思う。黄泉平坂(ヨモツ...
古事記 日本古来の死生観を探る 「死」と「生」にまつわる神話と神々 - clairvoyant report
ろくろ首にぬりかべ、のっぺらぼう。こうした妖怪たちは、現在でも有名だ。それでも、その存在を信じている人は、今ではほとんど残っていないことだろう。しかし、遥か昔、日本の闇が今よりも暗かった時代には、確かにこうした存在が信じられていた。そしてその時代は、神もまた今よりも身近な存在だった。神と妖怪。これらの存在は同じく超常的なものでありながら、相いれないものだと考えてしまいがちだ。しかし、両者の垣根は意外と低い。神から妖怪になったものがあるからだ。今回は、そうした変化を遂げた妖怪や神について、有名...
神から妖怪へ変化したものたち~なぜ彼らは変化したのか~ - clairvoyant report
王子様に憧れ、人間になることを望んだ人魚姫。美しい歌声で船乗りの心を捉えてしまうローレライ。人魚が登場する物語は、どうしようもなく魅力的だ。そしてその伝説は、世界中に散らばっている。世界に残る人魚伝説を読んでいると、その背景に流れるものが気になってくる。 そこで、この記事では世界の人魚伝説を集めてみた。そしてささやかではあるが、それぞれの比較や背景を探っていきたいと思う。人魚を食べた八百比丘尼まずは、日本の人魚伝説を見ていこう。日本に残る人魚の逸話の中で最も有名なものは、八百比丘尼(やおびくに...
世界に伝わる人魚伝説、その内容と背景を探る - clairvoyant report
春分の日 ククルカン・ケツァルコアトル マヤの暦日本時間の2021年3月21日は春分の日だ。春分は昼と夜の長さがほぼ同じになる日だといわれ、この日を境に夜よりも昼が長くなる。季節は春、梅雨、初夏と進み収穫の秋から冬へ。大地、水、風、火、農耕と共に生きてきた人類にとって地球、太陽、月、惑星、宇宙、星々の動きを知ることは非常に大切なことだ。古代から人々は、それらを観察、観測し、そのために必要な巨大な遺跡を作り出し、そこに集まり、儀式を行い、ある者は陶酔し、ある者は予言を行い、ある者は予言に従い――共同体を...
春分の日 ククルカン・ケツァルコアトル ピラミッド - clairvoyant report
14世紀から15世紀にかけて起こった百年戦争。この戦争でフランス側の勝利に貢献した女性が、「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクだ。戦場にいる彼女には、片腕と呼べる存在がいた。それが、「救国の英雄」と呼ばれたジル・ド・レである。ジル・ド・レは様々な創作物に登場するなど、その知名度は高い。しかし彼の知名度を上げる原因になったのは、英雄としてではなく、殺人鬼としてである。 ジル・ド・レはなぜ、英雄から殺人鬼になったのだろう。「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクとの関係を見ながら考えていきたいと思う。ジル...
英雄から殺人鬼への変貌はなぜ起こったのか?ジャンヌ・ダルクがジル・ド・レに与... - clairvoyant report
最近は見かけることが少なくなった井戸。あなたは、井戸の底を覗き込んだことがあるだろうか。水が満ちていても、枯れていても、井戸が持つ雰囲気は神秘的だ。底がどうなっているかが全く見えず、何がいても、どこかに繋がっていても不思議ではないように思える。そうでありながら人間の生活に欠かすことができない。だからこそ、昔の人は井戸を特別なものだと考えていた。 今回見ていくのは、井戸が深く関係する世界の物語たちだ。これらの物語を知れば、人類共通とも言える「井戸への認識」が少し分かってくるだろう。小野篁と地獄に...
現実と異界を繋ぐもの~「井戸」に関わる物語たち~ - clairvoyant report
国内外を問わず、観光客が押し寄せる街・京都。長い歴史を持つ古都であり、平安時代の公家文化や舞妓といった要因から、華やかなイメージを持つ人も多いことだろう。しかし、光があれば影もある。京都は意外と闇に満ちた場所で、一条戻り橋には式神が住んでいたし(安倍晴明に命じられて)、妖怪や怨霊が跋扈していた。政治の中心であり天皇の住まいだった京都御所も、その例外ではない。かつての京都には、どんな妖怪が息づいていたのだろうか。この記事で紹介していこうと思う。日本的キメラ「鵺」京都の妖怪を語るにおいて、「鵺(...
華やかさの裏にある暗闇とは?千年の都・京都に存在した妖怪たち - clairvoyant report
「チェーンメール(不幸の手紙)」や「カーネル・サンダースの呪い」という言葉を聞いたことがあるだろう。もしかすると、その渦中に巻き込まれた人もいるかもしれない。これらは現代的ではあるにせよ、確固たる「呪い」の一種である。人間の長い歴史の中で、いくつもの呪いが生まれてきた。そしてその中には、今でも信じられ、密かに恐れられているものがある。 今回は、世界に伝わる有名な呪いの幾つかを紹介した上で、呪いと宗教との関係性を紹介していきたいと思う。「呪い」とは何なのか呪いには幾つかの言い方がある。「呪詛」や...
世界に伝わる呪いとは?有名な呪いの数々と、宗教との関係性を探る - clairvoyant report
「職業に貴賎なし」とは言うけれど、世間体や印象から、どうしたって社会的立場が低くなってしまう職業がある。そして、性産業の代表である売春に従事する娼婦もまた、その1つだ。娼婦とは、神話に登場するほど長い歴史を持つ職業だ。また、彼女たちが置かれた状況も、現在とは全く異なっていた。この記事では、その歴史を紐解いた後、神話などに登場する著名な娼婦たちをご紹介していきたい。記事を音声化しました。ぜひ、ご視聴ください。※年齢制限があります。「娼婦」という職業:最古の職業とも「娼婦」という職業のことを考えて...
神話から見る「娼婦」という職業について:著名な娼婦とそれに近しい存在 - clairvoyant report
遥か昔から、人々は様々な物語を紡いできた。その中には、長い年月を経るうちに最初の形からは大きく変わってしまったものもある。日本人なら皆知っているであろう「浦島太郎」や「かちかち山」なども、その一例だ。人々が口伝えに語り継いできた物語を「口承文学」という。そして、現代の口承文学とも言えるものが「ネットミーム」と呼ばれるものである。 この記事では、数あるネットミームの中から、世界中で愛好されている、「The Backrooms」と「SCP財団」の2つをご紹介していこうと思う。闇と奥行きを感じさせる世界観が魅力のネ...
「The Backrooms」&「SCP財団」:ネットミームの世界 - clairvoyant report
ある日突然、人が消えることがある。古来より、日本ではこうした事象を神隠しと呼び、原因を神や妖怪といった神秘的な存在に求めた。現代でも神隠しの概念は廃れておらず、状況が不可解な行方不明事件があれば、「神隠し事件」と銘打たれることもある。今回はそんな神隠しという事象について、今に残る伝承や創作物から、より細かな姿を探っていきたいと思う。因みに、神隠しは日本のものと思われがちだが、海外にも似た伝承が残っている。この記事では、日本に留まらず海外にも目を向けていきたい。神隠しとはそもそも神隠しとは何な...
こつぜんと人が消える神隠し~各国の伝承と創作物からその姿を探る~ - clairvoyant report

オオノギガリ

ココナラをメインに活動中のWebライターです。2017年より、クラウドソーシング上でwebライターとして活動しています。文章を読んで、書く。この行為が大好きで、本業にするため日々精進しています。〈得意分野〉映画解説・書評(主に、近現代小説:和洋問わず)・子育て記事・歴史解説記事etc……