映画『月』考察「わかり合える者」だけが「われわれ」なのか――不可視の他者、表現、優生思想、中絶、死刑制度

映画月考察わかり合える者だけがわれわれなのか不可視の他者表現優生思想中絶死刑制度
要旨

石井裕也監督による映画『月』(2023)は、2016年に発生した津久井やまゆり園事件をモチーフとしつつも、単なる優生思想の告発にとどまらない根源的な問いを孕んでいる。本作の核心にあるのは、言語的コミュニケーションの困難な他者を前にしたとき、人間はどこまでその内面を想像しうるのか、そして不可視の事実や届かない声を誰がいかにして表象するのかという問題系である。

劇中において、さとくんはろう者の恋人とは親密な関係を築き、死刑執行時の音や匂いにすら鮮烈な想像力を巡らせる。しかし、重度の障害を抱える「きーちゃん」の内面に対しては、その想像力の作動を決定的に停止させてしまう。

主要登場人物である堂島洋子、陽子、昌平、さとくんの全員が「表現者」として配置されている点も、この主題と緊密に連動している。震災の記憶を美的な物語へと昇華させた洋子、グロテスクな現実に固執する陽子、人形劇に自らの言葉を託す昌平、そして絵画の枠外に広がる触覚的な世界を語るさとくん——彼らはみな、現実の特定の断片を選び取り、別の側面を切り捨ててきた。

本稿では、こうした「表現と表象の政治性」を出発点とし、入所施設の隔離構造、生産性とケアの依存関係、出生前診断と人工妊娠中絶、さらには死刑制度へと論点を架橋する。その上で、他者を了解しえない極限において、社会が「何をしてはならないのか」という倫理的限界線を批判的に検証する。

問題設定――優生思想だけでは捉えきれないもの

映画『月』は、津久井やまゆり園事件をモチーフとしている。重度障害者の生命を能力や意思疎通の可否によって選別する思想が作品の基底にあり、優生思想への批判が論理的骨子をなしている点までは極めて明瞭である。しかし本作は、その地平にとどまることなく、より厄介な問いを重層的に差し挟む。意思疎通が著しく困難な他者を前にしたとき、私たちは何をもって「心」の現前を承認しうるのか。自らの認識論的了解を超え出る存在を、社会はいかにして同一の共同体成員として包摂しうるのか。そして不可視の事実や不可聴の声を、表現者はいかなる資格と手続きをもって表象しうるのか。

加えて、主要人物である洋子(小説)、陽子(批評的告発)、昌平(人形アニメーション)、さとくん(絵画)は、いずれも何らかの表現媒体を担う主体として配置されている。四者はそれぞれのメディウムを通じて世界を分節し、ある現実を枠内に定着させながら、別の現実を不可視の領域へと切り捨てていく。『月』というテクストにおいて、生命の選別思想の前哨には、常に「何を事実として記述し、何を不可視の外部へと追いやるのか」という表象の政治性が横たわっている。本稿では、この表現の暴力性と倫理的限界を出発点とし、作品が孕む諸問題を多角的に論じる。

事件とフィクション――現実の植松聖と「さとくん」

映画『月』は2023年10月13日に劇場公開された。監督・脚本を務めたのは石井裕也であり、宮沢りえ、磯村勇斗、二階堂ふみ、オダギリジョーが主要な登場人物を演じている。本作の原作は、2016年7月26日に発生した津久井やまゆり園事件に着想を得て辺見庸が上梓した同名小説である。辺見による小説『月』は2018年10月に単行本化され、2021年に文庫化された[1][2]。映画版は原作のプロットを大幅に再構成し、小説には登場しない堂島洋子を中心人物へと据え直している。

現実の事件においては、障害者支援施設「神奈川県立津久井やまゆり園」の元職員であった植松聖が深夜に施設へ侵入し、入所者19名を殺害、職員3名を含む27名に重軽傷を負わせた[16]。横浜地方裁判所は2020年3月に被告へ死刑判決を言い渡し、控訴取り下げを経て判決は確定した[3]。しかし、劇中の「さとくん」という造形を植松本人の心理学的トレースとして読解することは、批評的に厳に戒められねばならない。映画と現実の事件との境界を融解させてしまうからである。実際、石井監督自身も実在の犯人の精神構造を再現・再現前化することを目指したのではなく、現代社会の底流に遍在する選別的な価値観を「さとくん」という依代(よりしろ)へと集約・結晶化させたと証言している[4][5]

この方法論的峻別を保持することは、フィクションの作中人物と現実の加害者像との短絡的な混同を防ぐだけでなく、何よりも実在の被害者を映画的記号へと回収・矮小化させないための倫理的要請である。作中の登場人物はあくまで脚本によって仮構された存在であるが、現実に命を奪われた個々人は何かの物語に奉仕する記号などではない。事件をめぐる事実関係の検証は公的記録や公判記録の領分に委ね、映画の描写から実在人物の深層心理を逆算・類推することは避けるべきである。この明確な境界線を引いてこそ、仮構の存在たる「さとくん」が現代社会のいかなる病理を抽出し、可視化しているのかを厳密に問うことが可能となる。

四人の表現者――何を残し、何を捨てるのか

『月』において物語の推進力を担うのは、事実上、洋子、昌平、陽子、さとくんの四人に絞り込まれている。施設の上司や同僚、入所者、さとくんの恋人、編集者といった周縁の人物も配置されてはいるものの、作品の主題的な対立項を言説化し、倫理的な摩擦を引き起こすのは主としてこの四者である。そして何より、洋子は小説家、陽子は文学の書き手を志す者、昌平はストップモーション・アニメーションの作家、さとくんは絵画制作に没頭する青年というように、全員が「表現者」として造型されている。石井監督自身、この配置が単なる設定の偶然ではなく、明確な企図に基づいたものであることを言明している[6][7]

あらゆる表現行為は、必然的に「選別」と「排除」を伴う。小説家は語彙を選択し、画家は構図と色彩を決定し、アニメーション作家は人形の微細な運動とフレームレートを切り取る。映画という媒体自体もまた、フレーム内に何かを捕捉するたび、別の何かをフレーム外の不可視領域へと追放する構造を免れない。表現とは、現象としての現実をまるごと写し取る営為ではなく、選択と編集という暴力を不可避に内包する。

この表象の構造的限界こそが、四者の差異を鮮やかに浮き彫りにする。洋子はかつて東日本大震災の悲劇をいかなる語彙によって整序したのか。陽子は、その洋子が物語化の過程で切り落とした何の残余を告発しようとするのか。昌平はなぜ生身の人間の複雑さをあらかじめ統御可能な人形へと置換するのか。そしてさとくんは、なぜ二次元の絵画では定着しえない音や匂いという不可視の領分に執着するのか。彼らの相違は単なる制作メディウムの違いにとどまらず、現実との距離の取り方、および現実のどの切断面を特権化して抽出するのかという「認識論的構え」の懸隔として現れている。

自らが選択した断片を対象の全体であると錯認したとき、表現は他者を不可視化する暴力へと転化する。洋子が震災の記述において捨象したものと、さとくんが重度障害者「きーちゃん」の存在において看過したものは、倫理的重みにおいて決して同次元ではない。しかし、自己の知覚装置が捉え得た限定的な情報のみをもって対象の全存在を規定・断定してしまう危うさにおいて、両者は通底している。むろん、生命の選別・抹殺という凶行と表現行為における編集操作を短絡的に等置することはできない。だが『月』は、その決定的な断絶の手前に横たわる「選別する側」の傲慢と危うさを、四者の表現者の布置を通じて冷徹に告発しているのである。

「隠された事実」と「美談の化粧」

堂島洋子は、かつて東日本大震災の災禍を主題とした小説によって文壇的な評価を獲得した過去を持つ。しかし、そのかつての栄光は、現在の彼女の生を支える確たる足場としては機能していない。作中において示唆されるのは、未曾有の災禍の直後に立ち現れた無残な死、腐敗臭、火事場泥棒、むき出しのエゴイズムといった人間の醜悪な現実が彼女の作品からことごとく削ぎ落とされ、希望や連帯、善意を主軸とする「整序された物語」へと美しく回収されたという事実である。作家志望の陽子は、その物語化の欺瞞を洋子に向けて容赦なく告発する。

美しい光景や相互扶助の営為を記述すること自体が、直ちに虚偽であるわけではない。問われるべきは、特定の要素のみを選択的に定着させた結果、いかなる忘却と排除が生じるかという点である。個々の描写が経験的事実に基づいていたとしても、別の生々しい現実を不可視化すれば、全体像の意味論的秩序は根本から変容してしまう。悲惨さの裂け目に生じた善意のみを抽出することは、現場に充満していた汚辱や混乱を後景へと退行させ、人間と社会の根源的な暗部を「語られざるもの」として封殺することにほかならない。

この隠蔽の機制は、障害者入所施設を取り巻く言説空間にも酷似している。施設は通例、「福祉」「支援」「保護」「共生」といった崇高な理念の語彙によって表象される。むろん、そうした理念そのものは否定されるべきではない。しかし、その囲壁の内部には、構造化された暴力、日常的な暴言、排泄介助の苛烈さ、処理不能な性、過重な身体的負荷、そして職員の慢性的な精神的疲弊といった、制度的理念の網の目から決定的に零れ落ちる過酷なリアリティが充満している。善意を標榜する制度であっても、閉鎖性や外部監視の乏しさなど一定の条件が重なるならば、その内部に暴力が生起しうる。理念の美名にのみ視線を注ぐならば、その不都合な暗部は不可視の領域へと周到に隠蔽される。

石井監督は、日本社会を覆う「本音と建前」、あるいは倫理的な「おためごかし」の欺瞞性を繰り返し批判している[8]。希望や善意を言説化すること自体が罪なのではない。それらが精巧な「化粧」として機能し、その直下に横たわる生々しい亀裂を直視しないための免罪符へと転化するとき、深刻な倫理的失調が生じる。洋子が現在において筆を執れなくなっている背景には、単なる創作上のスランプにとどまらず、かつて自らの表現が何を不可視の外部へと切り捨ててきたのかという、遅延した倫理的自覚の重圧が存在している。

醜悪な事実だけが真実なのか

陽子は、洋子の小説から周到に捨象された死体、腐敗臭、略奪、性、汚辱といった要素を容赦なく列挙する。美談として整序された物語に対する批判として、彼女の指摘は確かに批評的な強度を帯びている。しかし、抑圧された暗部をすべて白日の下に晒しさえすれば、直ちに十全な「真実」が立ち現れるわけではない。

希望のみを特権化して編まれた言説が現実を美化・脱色するように、反対に汚辱や暴力のみを純粋抽出して集積させた言説もまた、現実を暗黒の単色へと還元してしまう。双方が経験的事実を素材としていたとしても、フレームの切り取り方ひとつで世界の相貌は容易に変容する。陽子のラディカルな言説は、欺瞞に満ちた美談を解体する破摧力を持つ一方で、「醜悪なものこそが唯一のリアリティである」という反転した還元主義へ傾斜する危うさを孕んでいる。

被害、障害、死といった人間の極限状態を表象する際、表現はこの二つの罠の狭間隙で常に揺らぎ続ける。受け入れやすい善意へと回収すれば過酷な現実を不可視化し、逆に残酷さを過剰に前景化させれば、今度はその残酷さ自体が消費されるスペクタクル(見世物)へと堕しかねない。「自らこそが覆いを取り払い、真実を語っている」という表現者の全能感もまた、他者を別種の固定化された物語へと幽閉する権力として作動しうる。

洋子と陽子の衝突は、いずれか一方の立場を正統として特権化するために配置されているのではない。自らの表現が何を隠蔽してきたのかを不断に検証することと、告発を通じて自らが新たに何を切り捨てているのかを自己批判的に疑い続けること——この二重の緊張関係を保持したまましか他者を表象しえないという、表現行為そのものが抱える根源的なアポリアが、二人の対立軸を通じて鋭く提示されている。

「聞く力」――死刑執行の音と匂い

四人が車座になって酒を酌み交わす場面において、さとくんは死刑執行の具体的な様相について突如として語り始める。彼は、絞首刑の際には頸椎の破砕音や失禁・排泄、肉体の匂いが生じると語り、制度的な言説空間からは周到に消去されがちな生理学的・感覚的細部へと執拗に言及する。演じる磯村勇斗は、この場面において音や匂いをいかなる熱量と温度感で言語化すべきかについて、石井監督と綿密なすり合わせを重ねたと述懐している[9]

さとくんは絵画を制作する表現者である。二次元の視覚的表象を本領とする絵画というメディウムにおいては、聴覚的衝撃や嗅覚的生々しさを直接キャンバス上に定着させることは原理的に不可能である。だからこそ彼の認識論的関心は、自らの表現媒体の「外側」へと向けられる。その場に居合わせなければ決して聴取しえない音、公的記録や文書の網の目からは零れ落ちる匂いを、いかにして知覚の極限において想像しうるのか。彼は、視覚的表象が宿命的に抱える限界領域を強く意識している。

石井監督は原作の辺見庸について、外部からは不可知の領域に閉ざされた死刑執行の音にまで透徹した耳を澄まし、その微細な残響すら聞き洩らすまいとする表現者としての構えを高く評価している[10]。それは、検証不可能な領域を恣意的に事実化・捏造することとは決定的に異なる。認識しえない空白の存在を自覚しつつも、その不可知性を安易な忘却へと追いやらないこと——ここで示される「聴取する力」とは、表現者が自らの知覚と表象の限界を厳密に見据える倫理的態度にほかならない。

死刑という制度的暴力は、法規や行政的言説においては「執行」という極めて無機質な語彙へと抽象化・脱色される。近代法体系の維持において、こうした形式的抽象化はある種の機能的必然性を持つ。しかしその冷徹な手続きの直下では、さとくんが語る破砕音や匂いを伴う一個の生身の肉体の死が想像される。さとくんがその細部に執拗な固執を見せる場面において、制度的言説の彼方へと排除されていた「肉体性のリアリティ」が、想像力の作動を通じて鮮烈に前景化されるのである。

きーちゃんの沈黙――想像力が止まる場所

死刑執行の場面において、さとくんは自らが立ち会いえない絶対的な外部へと鋭敏に想像力を拡張させていた。しかし、眼前に実在する重度障害者「きーちゃん」を前にしたとき、その想像力の作動は決定的な断絶を迎える。言語的・身振的な意思表出を自己の知覚装置では解読できないという「認識論的限界」から、彼女の内面には「何もない(=精神の不在)」という存在論的否定の判断へと短絡的に飛躍してしまうのである。

この人物を、単なる「想像力の欠如した人間」として片づけることは批評的に不毛である。彼は密室における死刑囚の肉体に対して不可視の音や匂いまで生々しく幻視しうる感性を持ち、ろう者の恋人とは音声言語に依拠しない親密なコミュニケーションを十全に成立させている。それにもかかわらず、なぜ「きーちゃん」に対してのみ、想像力の回路を冷徹に遮断するのか。彼において欠落しているのは想像力そのものの絶対量ではなく、想像力を差し向ける対象を自らの恣意的な基準によって「選別」してしまう倫理的構えにほかならない。

「他者が何を語っているのかを了解しえない」という認識の不全と、「他者は何も語っていない」という言説の否定との間には、厳然たる懸隔が存在する。さらに「何も語っていない」という状態から「心(内面)の不在」を断定すること、そして「心の不在」から「生の無価値性(生きるに値しない命)」を導出することの間には、幾重もの論理的・倫理的な断絶が横たわっている。さとくんは、自らの了解不可能性を出発点としながら、これらの隔たりを暴力的に跳躍していく。認識の限界が、いつしか対象の生命価値を査定・選別する絶対的な権力へと横滑りしていくのである。

ここで要請されるのは、「きーちゃん」の内面や主体性の存在を外部から客観的に論証・確定することではない。「客観的に証明されなければ生の尊厳や権利が失われる」という前提そのものが、能力主義的かつ優生思想的な罠を内包しているからである。外部から了解・観測できないことは、直ちに対象の「無」を意味しない。自己の耳に届かないことは、他者の「声」が存在しないことの証明にはなりえない。さとくんが死刑の音に対して研ぎ澄ませていたはずの「聴取する力」は、この自己の認識論的限界を引き受ける倫理性の前において、決定的な破綻を露呈するのである。

ろう者の恋人――障害の有無とは別の境界線

さとくんの恋人はろう者として造形されている。演じる長井恵里自身もろう者の俳優であり、劇中では手話、身体的身振り、スマートフォンの画面表示といった多様な手段を動員して二人の対話が編み上げられる。長井は撮影に先立ち、磯村と関係性の質やコミュニケーションの具体的なプロトコルを綿密に検討し、視覚的情報から微細な感情の起伏を受容するあり方を役柄に反映させたと証言している[11][12]

二人の関係性において、「障害者を庇護し、理解してあげる健常者」という非対称な善意の図式は周到に斥けられている。彼女はさとくんにとって、まずもって一個の固有な「恋人」として現前する。少なくとも、障害という属性そのものを根拠に彼女を低位に置く人物としては描かれていない。この設定の存在こそが、「彼は障害者全般への差別意識ゆえに重度障害者を抹殺した」という単純化された社会学的・心理学的説明を厳しく拒絶する。

むろん、彼が重度障害者に向けて炸裂させる選別思想は、極限まで先鋭化された優生思想そのものである。しかし、その排除の論理が作動する境界線は、単なる「障害の有無」という制度的・医学的カテゴリーには一致しない。手話を媒介として主体的かつ双方向的に意思を交感しうる恋人は、彼にとって十全な「関係性の領野」に属する他者である。これに対し、自己の了解可能な形式で相互作用的応答を返さない「きーちゃん」は、その人間的関係性の外部へと非情に放逐される。

ここで前景化するのは、「健常者/障害者」という制度的な二項対立ではなく、「了解可能な者/了解不能な者」という、より恣意的かつ認識論的な境界線である。さとくんは障害者を一律に排除するのではなく、自己の知覚装置において「相互主観的な関係を結びうる存在」として承認できるか否かという自己中心的な基準によって、同一の人間社会の内部に冷酷な分断線を画定しているのである。

「わかり合える者」だけが「われわれ」なのか

ろう者の恋人と「きーちゃん」という二つの存在を対置させることで、さとくんの意識内部に画定された「われわれ」の境界線が鮮明に浮かび上がる。恋人とは、手話、視覚的な身振り、スマートフォンの文字情報というメディウムを介して双方向的なコミュニケーションが成立している。そこにおいて彼女は、何らの留保もなく「一個の固有な人格」として承認される。だが、同様の形式による相互応答が得られない「きーちゃん」を前にした途端、彼女は「関係を結ぶべき他者」から、一方的な「判定・査定の対象」へと転落させられる。

ここで不可視化されてはならないのは、境界を「引く側」と「引かれる側」のあいだに横たわる決定的な非対称性である。きーちゃんが自ら「あなたとは了解し合えない」と宣告したのではない。さとくんが自己の知覚と尺度に基づき「自分には理解できない」と断定し、その自らの認識論的限界をあろうことか相手の存在論的な「人間性の欠如」へとすり替えているのである。すなわち、自己の理解能力の射程が、そのまま他者の生存資格を決定する絶対的な基準として僭称されている。

そもそも社会的な共同生活とは、十全な「相互理解」の達成のみを基盤として成立するものではない。社会の構成員には、自己の認識論的枠組みを原理的に超滅する信念、感情、身体性、生活様式を保持する他者が必然的に含まれる。あらゆる他者と完全に了解し合うことは不可能であり、倫理的にもその全面的な同化を要請する必要はない。にもかかわらず近代法治社会が機能しうるのは、相互了解の不可能性を引き受けた上で、法の下での生存と基本的人権を無条件に保障する制度的枠組みを設けているからである。

「共感」という情動の作動機制もまた、同様の陥穽を孕んでいる。自己が容易に感情移入できる者、自らの苦痛や主体性を十全に言語化できる者、あるいは自己にとって美しく魅力的に映る者のみを包摂の対象とするならば、権利の保障は個人の恣意的な好悪や共感能力の多寡に服属することになる。さとくんの人間観が孕む決定的な病理とは、自らが「理解可能」とみなした者のみを「われわれ」の内奥に囲い込み、「理解不能」とみなした他者を共同体の外部へと一方的に追放・選別するその構造そのものにある。

意思疎通は関係のなかにある

「この人には意思疎通能力がない」という言説は、あたかもコミュニケーションの能力が個人の生体内部に固着した先天的・固定的な属性であるかのような錯覚をもたらす。しかし実際において意思疎通(コミュニケーション)とは、特定の他者と自己が、いかなるメディウムを用い、どれほどの時間を費やし、どのような関係的・環境的文脈において対峙するかによって動的に生成・変容する「関係論的営為」である。

国連の障害者権利条約(CRPD)第2条において「意思疎通」は、音声言語のみに矮小化されることなく、文字表示、点字、触覚による意思疎通、手話、平易な表現、補佐的・代替的な意思疎通手段など、多様な様式を包摂する概念として定義され、手話の言語性も明示されている[13]。さとくんとろう者の恋人との関係性は、まさにこの定義の有効性を劇中において証し立てている。音声言語による伝達が遮断されていようとも、視覚的・空間的メディウムを介することで十全な相互主観的関係を編み上げることは可能である。

したがって、「意思疎通が不可能な人間」というラベリングは、関係の結節点に位置する「受け手側の責任と限界」を不可視化する暴力的な省略を含んでいる。これを「現行の知覚手段やアプローチにおいて、私にはその人の意思を解読・確認できていない」という認識へと差し戻すとき、問題の所在は根本から転回する。すなわち、対象個人の「内在的欠如」として査定されていた事象が、二者間に生じた「関係性の不成立」あるいは「媒介手段の不全」という構造的課題として再定位されるのである。

むろん、いかなる支援的・技術的媒介を動員しようとも、第三者が明確な意思を外面的に観測・確認しえない極限的事態は現実に存在する。しかし、「現行の枠組みにおいて確認できない」という認識論的制約と、「対象の内面に意思そのものが不在である」という存在論的否定のあいだには、決して越えてはならない決定的な境界線が横たわっている。関係性の構築が著しく困難であるならば、社会がなすべきは、その存在を共同体の外部へと放逐することではなく、関係性を媒介しうる新たな回路や環境的条件を模索し続けることである。この思考の優先順位を見失い、自己の認識限界を対象の存在価値の欠如へと短絡的にすり替えるとき、思考は不可避的にさとくんの選別論理の圏域へと滑落していく。

理解されなくても権利主体である

他者の「心(内面)」そのものは、日常的なコミュニケーションの地平においても原理的に直接観測しうるものではない。私たちは、発話、微細な表情の変化、身体的振る舞い、あるいは共有された文脈や記憶といった間接的な記号を媒介として、他者の内面を蓋然性(確率的な確かさ)をもって推測・類推しているにすぎない。呼びかけに応答しない人間を前にした際、私たちは直ちに「精神の不在」を帰結させるのではなく、睡眠、疲労、関係の拒絶、あるいは言語体系の不一致といった多様な可能性の余白を残す。

重度障害者を前にしたときのみ、外面的応答の乏しさを「内面の不存在」へと直結させてしまうならば、そこには明らかに認識論的二重基準(ダブルスタンダード)が作動している。国連障害者権利条約(CRPD)第12条は、障害者が「法律の前に人として認められる権利」を有し、他の者と平等に「法的能力を享有する」ことを明記している[13]。すなわち、自らの主体的・認知的「能力」を事前に証明・立証できた者に対して恩恵として権利を授与するのではなく、いかなる属性や状態にあろうとも、端的に人間であること自体を「権利主体」としての出発点に据えるのである。

この法理は、近年国際的にも深化している「意思決定支援(Supported Decision-Making)」の理念と緊密に連動する。CRPD第12条第3項は、締約国に対して法的能力の行使に必要な支援へのアクセスを確保する義務を課している[13]。さらに、障害者権利委員会の一般的意見第1号は、代行決定から支援付き意思決定への転換を示し、本人の意思と選好を中心に据えることを求めている[17]。本人が十全な言語的自己表出をなしえない場合、第三者が恣意的に「意思の不在」を宣告し、自己の価値判断を「本人の最善の利益」として一方的に代行・決定する旧来の図式に依拠するのではなく、本人の選好や微細な意思表示をいかにして汲み取り、法的能力の行使を支えうるかという支援的回路の構築が求められる。

あらゆる支援の網の目を尽くしてもなお、本人の明確な意思を直接確認しえない限界領域は現実に生じうる。障害者権利委員会の一般的意見第1号は、こうした場合にも「客観的な最善の利益」へ退行するのではなく、本人の「意思と選好の最善の解釈」を基準とすることを求めている[17]。医療やケアの現場において第三者による判断が避けがたい局面にあっても、判断が常に更新可能な「暫定的」な性格を持つことの自覚、支援者との利益相反の厳格な排除、本人の過去の生活史や感性的選好の尊重、さらには複数者による多角的な合議プロセスの導入などを通じて、第三者が行使しうる権限の濫用は厳格に統制・最小化されねばならない。「相手の心が不可知である」という事実は、第三者の恣意的な裁量を拡大する口実になるのではなく、不可知であるからこそ、より一層の倫理的慎重さと手続き的正当性を義務づける足枷として機能しなければならないのである。

したがって、さとくんの優生思想に対する反論の論理を「きーちゃんも時間をかければ本当は了解し合える存在なのだ」という情緒的な可能性の提示のみに委ねることは、極めて危うい賭けとなる。仮にどれほどの手続きを尽くしても「了解」に至らなかった場合、その生存権や尊厳の根拠が瞬時に雲散霧消してしまうからである。真に確立されるべきは、「相互理解の成否」を他者の生存資格や権利主体の条件として要求しないという倫理的・法制的な防壁である。「理解可能であるか否か」という認識論的次元と、「不可侵の権利主体であるか否か」という存在論的・規範的次元を決定的に切り離すこと——この絶対的な一線を画定することによってのみ、さとくんの選別思想を根底から無効化することが可能となる。

虐待への怒りが殺害へ変わるまで

さとくんという人物は、最初から入所者に対して悪意や憎悪を抱いていたわけではない。むしろ入職当初の彼は、施設内に蔓延する日常的な虐待や不当な処遇に対して強い義憤を覚え、理不尽に晒される入所者を「かわいそう」な存在として同情的に受容していた。しかし、この素朴で情緒的な「正義感」こそが、時間の経過とともに恐るべき選別思想へと異質変容していく。

施設内において虐待が生起しているならば、本来問われるべきは、直接的な加害職員の責任のみならず、施設の密室的な管理体制、構造的な職員配置基準の不全、過重な労働環境、外部からの第三者監視システムの欠如、そして何より入所者自身の権利擁護や意思表明支援の脆弱さといった「制度的・環境的要因」である。ところが彼の思考は、これらの多層的な構造分析を迂回し、「この者たちが存在していること自体が、あらゆる苦痛と悲劇を生み出している」という短絡的な転倒へと至る。すなわち、問題の原因が社会・制度・環境の不全から、被害者である「本人の存在そのもの」へと暴力的にすり替えられるのである。

この倒錯した認識論の進展に伴い、「本人のため」という恩寵的言説の意味論も決定的な変容を被る。本人が苦しんでいる、家族も疲弊し苦悩している、ゆえに「本人の存在そのものを抹消すれば、すべての苦痛は根源的に消滅する」という論理が構築される。この疑似救済論の圏域において、かつて保護と救済の対象であった生身の人間は、いつしか「排除・消去されるべき苦痛の元凶」へと転落する。かくして、あたかも「本人の客観的利益」を擁護するかのような擬似倫理的装飾を施しながら、当の本人の自己決定権と生存権を決定プロセスから完全に剥奪・無効化していくのである。

家族が直面する過酷な介護負担や経済的困窮、さらには「親亡き後」をめぐる深刻な孤立と不安もまた、公的な支援インフラの脆弱さ、所得保障の不備、地域資源の不足、家族主義的な責任規範の押し付けといった複合的要因の産物である。苦痛の因果関係をすべて障害当事者の「存在」へと還元してしまえば、社会構造や制度的欠陥を批判・変革する必要性はことごとく免責される。複雑多岐にわたる構造的アポリアを一人の人間の「身体の存在」へと強引に集約し、その物理的消去によってすべてが解決しうると錯認する思考の短絡——この認識論的退行こそが、彼の主観的な「正義」を他者殺害という究極の暴力へと反転させた病理の核心である。

森の奥の施設――見えなくする社会

劇中において、障害者支援施設は人里離れた深い森の奥深くに配置されている。森という空間表象は、静謐さや自然の美観を湛える一方で、外部の共同体から内部を物理的・視覚的に遮断・隔離するトポス(場所)として機能する。その閉ざされた境界の内部で何が生起しているのかは外部から不可知のまま隠蔽され、そこで営まれる生身の生活実態もまた、市民社会の日常的な経験領域から決定的に遠ざけられる。

国連障害者権利条約(CRPD)第19条は、すべての障害者が他の者と平等に地域社会で自立して生活する権利(Living independently and being included in the community)を有することを宣言し、特定の居住態様への隔離や地域社会からの孤立を防ぐための実質的支援へのアクセスを締約国に義務づけている[13]。障害者権利委員会はさらに、一般的意見第5号(2017)および「緊急時を含む脱施設化に関するガイドライン」(2022)において、同条に基づく地域生活の保障と脱施設化を明確に位置づけている[19][20]。映画に登場する森の施設は、まさにこの脱施設化(deinstitutionalization)と地域包摂の理念の対極に位置する空間的隔離の象徴として立ち現れる。ここで問われているのは、個別の福祉的ケアの必要性そのものの否定ではない。重度の支援を必要とする人々を特定の地理的空間へと不可視化・集約し、一般社会の日常的な視界から周到に「遮断」すること自体がいかなる暴力を構造化するのかという問いである。

社会の視界の外側へと隔離された存在は、固有の顔を持つ個人としてではなく、「重度障害者」「入所者」という抽象化された総称的カテゴリーによって一括して語られがちになる。個々人が紡いできた固有の選好、関係性の履歴、身体的記憶、固有の時間感覚は忘却の彼方へと退行し、代わって「定員数」「措置費」「介護度」といった行政的・経済的数値が前景化する。生産性や財政効率をめぐる功利主義的言説において人間が記号・数値へと還元される前哨には、常に彼らの生が社会の認識論的視野からあらかじめ排除されているという空間的・認知的隔離の事実が横たわっている。

この忘却と不可視化の力学は、前述した洋子の震災小説が孕む表象の構造と完全に同型をなしている。福祉施設を無垢な「善意」や「保護」の美名のみで粉飾すれば、密室で再生産される日常的暴力は見えなくなる。だが逆に、暴虐や虐待の事実のみをセンセーショナルに抽出し、施設全体を単なる「暗黒の地獄」として断罪・外化するならば、現場でかろうじて維持されている支援の営みや他者との関係性の可能性までもが一掃されてしまう。石井監督が言及する日本社会の「本音と建前」の欺瞞や、施設という特殊空間のみならず一般社会の日常の延長線上にも暴力が偏在しているという指摘は、この二重の隠蔽構造と深く通底している[8][14]。森の奥で生起した惨劇を「例外的な異常者の狂行」として消費し、自らの視覚の外部にそれを押し留めて思考を停止させるならば、そもそもその施設を森の奥深くに配置し、隔離を要請し続けてきた社会の側が負う責任まで免責されたまま残存することになる。

生産性、依存、そして表現者の「無用性」

さとくんは、支援に要する財政的・人的コストの多寡を、個人の存在論的価値の優劣へと短絡的に結びつけていく。特定の個人の生存維持に集中的な資源投入が必要とされることは、福祉行政における政策的・実務的事実として記述可能である。しかし、その客観的配分計算から「当該主体の存在価値が劣位である」という規範的判断を導出することは論理の破綻である。

そもそも人間社会は、普遍的な「相互依存性」を前提としてのみ成立している。乳幼児期において他者のケアなしに生存しうる人間は存在せず、成人期においても個々人はインフラ、医療、交通、法秩序、教育、そして極度に細分化された社会的分業のネットワークに全面的に依存して生を営んでいる。疾病、不慮の事故、不可避の加齢によって、個々人が必要とする支援の形態と総量は生涯を通じて動的に変動する。にもかかわらず、身体的・直接的な介助を不可欠とする者のみを一方的に「依存者」と規定し、不可視化された社会的分業や制度的基盤に包摂されている自立者を「独立した自己完結的主体」と錯認するならば、依存の現前様態の違いを存在の優劣へとすり替えることにほかならない。

「生産性」という指標も同様である。産業経済における投入と産出の効率性を測定する道具概念を、そのまま生身の人間の生存資格を査定する尺度へと拡張・適用することは思想的倒錯である。所得額、労働力提供能力、納税額、あるいは公的扶助費用といった指標は、政策設計や資源配分の実務的変数として機能しうるにすぎず、不可侵の権利主体としての適格性を判定する根拠にはなりえない。ケアを必要とする者を「社会の重荷(コスト)」と称し、そのコスト削減を口実に当事者の生存権を侵犯・剥奪するとき、社会が引き受けるべきケアの公的連帯責任は、当事者自身の「存在の罪」へと暴力的に転嫁される。

主要人物がことごとく「表現者」として造型されている劇的構成は、この生産性主義の欺瞞を批判的に照射する契機としても機能する。石井監督自身、コロナ禍において芸術文化活動が「不要不急」の名のもとに周到に周縁化された経験に言及し、経済的生産性や有用性至上主義の尺度を絶対化するならば、表現者自身もまた真っ先に排除・選別の標的となりうる危うさを指摘している[6][7]。さとくんは、自らもまた即自的な経済的有用性のみではその価値を十全に説明しえない「絵画」という表現行為に没頭しながら、眼前の他者に対しては冷酷な有用性・コストの査定基準を適用する。洋子、陽子、昌平もまた、この構造的共犯関係の外部に立つことはできない。

自己が愛好し価値を見出す「無用性」に対しては数字に還元できない固有の尊厳や精神的価値を主張する一方で、自己の了解を超え出る他者の生に対しては即物的な費用対効果と機能主義的有用性を要求する——映画はこの認識論的二重基準の刃を、表現者たる四者、ひいては観客の側へと鋭く反転させている。生産性を人間の存在価値を序列化する尺度として無批判に受容するならば、その排除の境界線は重度障害者の領域にとどまることはない。高齢者、慢性疾患罹患者、傷病者、失業者、成育過程にある子ども、さらには「不要不急」と名指された表現者に至るまで、すべての人間は人生のいかなる局面においても不可避に「支援を要する(コストがかかる)側」へと転落しうる脆弱性を抱えているのである。

洋子ときーちゃん――代弁しないための二重化

原作小説『月』において辺見庸は、外部からの客観的な意思疎通が著しく困難な「きーちゃん」の内奥に渦巻く思念の奔流を、豊饒かつ過激な文学的言語を用いて大胆に顕現させてみせた。しかし映画化の過程において石井裕也監督は、その不可視の内面世界を安易に映像的具象へと移し替えることの困難と倫理的危うさを自覚し、原作には存在しないオリジナルキャラクターとしての堂島洋子を新たに創出した。そして宮沢りえに洋子ときーちゃんの二役を演じさせることで、両者をいわば「合わせ鏡」のような反響関係としてスクリーンの上に布置したのである[5][15]

映画版は、きーちゃんの内面を饒舌な独白や台詞によって性急に説明・開示する手法を厳に退けている。その代わりに選択されたのは、自らの言葉を操り、二足で歩行し、物語を紡ぐ「洋子」と、ベッド上に身体を横たえる「きーちゃん」という、社会的・身体的に対極に位置する二つの存在を、宮沢りえという「単一の俳優の身体性」を介して受肉させ、衝突させるという演出論的アプローチである。外見上は決定的に懸隔した二つのありようが一つの肉体を通じて架橋されることで、観客は眼前の言語的・運動的応答の多寡のみを根拠にして、両者を完全に隔絶した別種の存在へと回収・分断することが困難となる。

この演出手法は、「きーちゃんの内面はこうである」と第三者が身勝手に代弁・規定する傲慢な表象手続きとは明確に一線を画している。彼女の精神の内実を特定の物語へと安易に回収・固定化するのではなく、「自己の認識装置には捕捉されていないだけで、そこには了解不能な深淵が存在しうる」という可能性の地平を閉じずに保持し続けるのである。他者を完全に理解し尽くせないという「不可知性の余白」をそのまま引き受けることこそが、逆説的に他者の固有の尊厳を擁護する倫理的足場となりうる。

しかしながら、この二役構造という表象戦略もまた、完全な無謬性を担保されているわけではない。洋子という可視的な存在を依代とすることで、観客がきーちゃんの沈黙を「理解したつもり」に安住してしまうならば、それは形を変えたより狡猾な代弁行為(代行表象)へと頽落しかねない。『月』という映画作品は、「了解不能であるから精神は不在である」と断定する冷酷な暴力と、「了解可能であると錯認して他者の沈黙を自己の都合の良い言説で埋め尽くす」感傷的な暴力という二つの極限の狭間において、表象行為そのものが宿す危うい臨界点を切り結ぼうとしているのである。

出生前診断と中絶――決定する主体の違い

劇中における洋子の妊娠という契機は、本作の倫理的討議の布置を一層複雑で過酷なものへと深化させる。さとくんは、自らが企図する重度障害者の抹殺と、出生前診断の結果を受けて行われる人工妊娠中絶との間にいかなる本質的差異があるのかと、洋子に対して痛烈な問いを突きつける。現象として「命の選別」という抽象的な語彙のみを措定するならば、両者はあたかも同型の選別行為であるかのように錯認されかねない。

しかし、現に社会空間に生存している他者の生を、第三者が本人の意思や生存権を無視して一方的に査定・抹殺することと、妊娠当事者が自らの身体の自律性、健康、生活基盤、家族関係、そして不可逆的な将来設計の重圧を引き受けながら妊娠継続の可否を苦渋の末に決断することとの間には、決定主体の位置づけおよび権利関係において厳然たる質的断絶が存在する。妊娠する当事者の「身体の不可侵性(身体的自己決定権)」という物質的契機を言説から捨象し、「生命の抽象的選別」という観念的な判断のみを純粋抽出するならば、この決定的な差異は完全に不可視化されてしまう。

だからといって、人工妊娠中絶をめぐる議論が直ちに無前提な免責や単純化へと解消されるわけではない。胎児の道徳的地位(Moral Status)をいかに捉えるか、受胎後の週数(発生段階)に応じた倫理的配慮、医学的・遺伝的診断の精度、さらには社会的な支援体制の不全といった、固有の生命倫理的・法哲学的論座が多層的に交錯している。第三者による暴力的な他者殺害と中絶の論理的峻別を保持することは、中絶の選択を一律かつ無条件に肯定・絶対化することと同義ではない。問われるべきは、位相の異なる複雑な倫理的アポリアを「命の選別」という単一の標語によって暴力的に一括・混同せず、それぞれの行為主体が担う権能と権利の境界線を厳密に見定めることである。

石井監督自身も、出生前診断の診断結果を受けて生命を産み育てるか否かの葛藤は究極的に個々人の実存的な領分に委ねられるべき固有の苦悩であり、映画という表現物が何らかの安易な正解や道徳律を一方的に提示しうるものではないと明言している[7]。ゆえに映画は、性急な規範的結論を提示して思考を閉じることを周到に回避し、洋子がひとつの決断へと至る過程で直面する実存的不安と、その個人の苦悩を不可避的に規定し、時に孤立へと追い込む社会構造そのものへと批判的な視線を注ぎ続けるのである。

自己決定を取り囲む社会条件

「個人の自由な自己決定」という言説のみに依拠して問題を処理しようとするならば、その選択肢が成立している背後の過酷な社会的・構造的条件は周到に不可視化される。障害を抱える子どもを十全に育み、共に生きるための医療、福祉的ケア、インクルーシブ教育、所得保障、レスパイトケア、そして地域生活支援のインフラが十全に整備された社会と、過重なケア責任と経済的負担の大部分を私的領域である「家族」へと全面的に転嫁・委縮させる社会とでは、同一の出生前診断を前にした個人の「選択」が帯びる意味論的重圧は根本から異なる。

法制度上はいかに複数の選択肢が形式的に開かれていようとも、一方の選択肢を選ぶことが直ちに家族の生活破綻や孤立無援を意味するならば、そこにある「形式的自由」と「実質的自由」の間には決定的な乖離が存在する。石井監督は、障害児の出生を前にした個人の根源的な不安の直下には、常に不全を抱えた社会構造そのものが横たわっていると指摘している[7]。その実存的不安の内部には、内面化された差別的偏見のみならず、公的セーフティネットの決定的な欠落や「親亡き後」の孤立死に対する極めて現実的な恐怖が複雑に沈殿している。

ただし、ここで家族の過酷な負担構造のみを過剰に特権化して言説化することは、逆説的に「障害を抱えた生の全否定」や「障害当事者は家族を不幸に貶める元凶である」という差別的なスティグマ(烙印)を再生産・補強しかねない。十全な支援を不可欠とする身体的条件と、その人間の生の主観的幸福や尊厳とは決して同義ではない。家族に過重な負荷がかかっているという構造的事実と、障害当事者自身が家族を不幸にしているという因果律のすり替えは、厳密に斥けられねばならない。

真の意味で当事者の「自己決定権」を擁護するためには、単なる抽象的な選択の権利の付与にとどまらず、いかなる選択を行使したとしても十全に生存を営みうる「物質的・社会的条件」の保障が不可欠である。産み育てる選択も、中絶を選択することも、国家や社会の功利主義的・優生思想的圧力によって一方へと誘導・強制されることなく、当事者が実質的な自律性をもって決断しうること——その選択の余白を支える十全な福祉制度や社会的インフラの構築は、中絶の倫理的論座の外部にある付帯的要素ではなく、自己決定の自由を可能ならしめる不可欠の構造的基盤そのものである。

「命の選別」という言葉の限界

「命の選別」という言説は、津久井やまゆり園事件の凶行を批判的に照射する際、極めて強力な告発概念として作動する。しかし、その概念の強い喚起力に依拠するあまり、生命の境界に関わる多様な領域へと無媒介に拡張・適用するならば、個々の事象が孕む決定的な差異と固有の文脈はことごとく融解・脱色されてしまう。人工妊娠中絶、終末期医療における延命治療の中止、司法手続きによる死刑執行、国家間の戦争行為、刑法上の正当防衛、さらには極限災害時におけるトリアージ(治療優先度選別)——これらはいずれも「生命の存廃」に関与する事象ではあるものの、決定主体、当事者の意思の介在様態、緊急性の度合い、法的正統性の根拠、そして代替可能性の有無において、それぞれ質的に全く異なる構造を有している。

津久井やまゆり園事件において現前したのは、一介の私的第三者が、恣意的に措定した「能力」「意思疎通の可否」「社会的有用性・費用」という尺度に基づき、当事者の意思を完全に剥奪した上で他者の存在価値を一方的に査定し、物理的抹殺を強行したという極限的な暴力である。そこでは、選別の規範を一方的に捏造する者、生存適格性を判定する者、そして抹殺を執行する者の三者が、単一の主観的権威へと暴力的に集中・一体化している。これこそが、当該事件を貫く固有かつ非対称な権力構造の核心である。

したがって、本稿が措定すべき倫理的・規範的原則とは、「生命の選択や判断をめぐる一切の議論を無条件に封殺する」といった非現実的な絶対命題ではない。それはむしろ、「いかなる私的第三者であれ、他者の能力や社会的有用性の多寡を根拠として、その人間の生存資格を判定・剥奪する権能を原理的に持ちえない」という、厳密に限定された倫理的境界線の画定である。この限定的定義を峻厳に保持することによってのみ、人工妊娠中絶における当事者の自己決定権や、終末期医療における自己決定および最善の利益判断といった複雑な生命倫理的論座を、短絡的な選別論へと回収・混同せずに論述することが可能となる。

しかしながら、この峻別を完了させた後においてもなお、「いかなる主体が、いかなる正統性をもって他者の生命を不可逆的に終了させる権限を行使しうるのか」という法哲学的な根源的問いは残存し続ける。個人の主観的有用性ではなく、確定判決に基づく厳格な刑事責任を基準とし、近代的な法手続きに服する「死刑制度」は、私的殺害とは制度的・法意的に決定的に異なる位相にある。だが、その制度的差異を十全に承認した上でなお、国家という統治機構が主権の名の下に一個の生身の人間の生命を合法的かつ不可逆的に剥奪する究極の権能をどこまで正当化しうるのかというアポリアは、決して消滅することなく社会の根底に横たわり続けているのである。

死刑制度――命を奪った者を死によって罰すること

植松聖に対しては死刑判決が確定している。私人による恣意的な殺害行為と、司法制度に基づく死刑執行とは原理的に同一ではない。死刑は刑法および刑事訴訟法の厳格な規律の下、公開の裁判手続きを経て国家主権が行使する究極の刑罰であり、行為主体、法的根拠、制度的目的、適正手続き(デュー・プロセス)の保障において決定的な懸隔を有する。この制度的・法規範的差異を捨象し、「双方ともに等しく殺人である」と直ちに等置することは、近代法治国家の構造的意味を自ら解体する短絡にほかならない。

この厳然たる差異を承認した上でなお、そこには思想的・法哲学的な逆説の契機が伏在している。植松は自己が勝手に措定した選別基準に基づき、無辜の他者の生命を剥奪した。国家はその凶行を極刑に値する重大犯罪として断罪し、その責任の帰結として植松自身の生命を不可逆的に剥奪する刑罰を科す。「生命を選別・消去した者」を、まさに「死」をもって処断・抹殺することによって、近代社会はその選別思想の根底にある暴力を論理的・構造的に完全に超克しえたと言えるのか、というアポリアが立ち現れる。

死刑存置論(支持)の立場からは、能力や有用性を理由に無辜の弱者を抹殺する反人道的な選別行為と、重大な法益侵害を引き起こした責任能力ある主体に対し、適法な司法判断を経て刑責を科す行刑制度とは全く別次元の営為であるという反論が正当に成立する。そこでは応報的正義の実現、被害者遺族の処罰感情の慰藉、威嚇力による一般予防といった死刑固有の論理が展開される。他方、死刑廃止論(反対)の立場からは、裁判における誤判・冤罪の不可逆性、国家刑罰権が人間の原初的な生命権に侵入することの限界、憲法第36条が禁ずる「残虐な刑罰」と死刑制度との関係、そして生身の人間の尊厳の絶対性が鋭く問われることになる[18]

本稿は死刑廃止の規範的立場を基軸として本主題を考察するものであるが、映画『月』という単一の表象テクストのみを根拠にして制度的存廃の結論を性急に導出することは厳に慎まねばならない。しかし、「他者の生存資格を誰が、いかなる正統性をもって決定しうるのか」という問いを極限まで突き詰めるならば、国家による究極の生命剥奪装置たる死刑制度のみを倫理的討議の外部へと聖域化することはできない。国家はいかなる哲学的・憲法論的根拠において他者の生命を終焉させる権能を正当化しうるのかという問いは、一編の映画の感傷的領分を超え、主権者による根源的かつ不断の批判的検証を要する制度論的課題なのである。

制度の言葉が身体を遠ざける

映画『月』においては、現実の生々しい実相が不可視化されていく複数の認識論的経路が周到に描出されている。洋子の書いた小説においては、美談として整序された希望の物語が現場の醜悪な事実を覆い隠し、森の奥深くに隔離された入所施設においては、重度障害者の生活実態そのものが社会の日常的経験領域から地理的・空間的に遠ざけられる。そしてさらに強力な隠蔽装置として機能するのが、生身の肉体に生起する出来事を記号化・希釈する「制度の言語」である。

「支援費」「介護コスト」「入所定員数」といった行政的・官僚的語彙は、福祉行政の設計や再分配システムの合理的運用において不可欠な道具概念である。しかし、それらの無機質な数値の背後には、日々の食事、排泄の苦痛、断続的な睡眠、身体的疼痛、突発的な笑い、孤立への恐怖、他者に触れる手、そして他者に触れられる生身の肉体という、還元不可能な実存の集積が存在している。対象を統計的数値や費用項目としてのみ言説化するとき、人間は「コストの単位」へと抽象化され、コストの単位へと脱色された存在は、功利主義的な「削減対象」あるいは「合理的調整の変数」として容易に処理されうる危うさを帯びる。

むろん、近代社会における制度的・法的な「抽象化」の営為そのものを全面的に否定することはできない。個別具体的な情動や主観的感情から一定の距離を保持し、普遍的な法秩序や合理的ルールとして制度を運用するためには、概念的抽象化は不可避の要請である。真に警戒されるべきは、そうした抽象化された数値や行政用語が「現実の生そのもの」を完全に代替・簒奪し、そのまま人間の生存価値を序列化する査定基準へと転用される事態である。「支援コストが高い」という政策的記述と、「その存在は消去されるべきである」という存在論的否定の判断とのあいだには、近代法治社会が倫理的・法規範的に決して越えてはならない絶対的な境界線が横たわっている。

『月』という題名――不完全な光

題名に冠された「月」について、石井裕也監督は原作者の辺見庸から「ルナティック(狂気)」という語源的含意を直接示唆されたと語っている。それと同時に、月は太陽光の反射によってのみ輝く天体であり、直視すれば目を焼く太陽とは異なり、反射光であるがゆえに人間が凝視しうる客体であること、そして凝視できるがゆえに人間は「そのすべてを視覚的に捕捉・了解した気になってしまう」という認識論的罠について言及している[5][14]

映画『月』というテクストもまた、津久井やまゆり園事件という直視しがたい巨大な惨劇をそのまま即物的に再現する手法を採らない。洋子、陽子、昌平、さとくん、きーちゃん、森の施設、妊娠と出生前診断、そして死刑制度という複数の断面へと反射光を投げかけ、屈折させる。観客は、事件の直截な狂気そのものを直接凝視するのではなく、事件の周囲に重層的に沈殿する社会の暗部や人間存在の深淵を、反射された間接光を通じて目撃することになる。

しかし、この映画という反射光を目撃したからといって、私たちが対象の全体像を十全に「理解」しえたわけではない。きーちゃんの不可視の内面は依然として外部からの観測を拒絶し続け、さとくんの凶行の動機も単一の心理学的・社会学的言説へと還元し尽くすことはできない。妊娠の継続をめぐる洋子の実存的決断もまた、外部の第三者が十全に了解しうる領域を超え出ている。映画という表現媒体そのものもまた、選び取られた特定のフレームと言語によって構成された「編集された断片」にすぎない。

月光は、夜の暗闇を昼の明るさへと完全に置換するものではない。光の届かない無数の不可視領域を闇の中に残存させたまま、その漆黒の深淵に「何かが確かに実在している」という輪郭のみを浮かび上がらせる。不可視であることは、存在しないことの証明ではない。自らの耳に聴取できないことは、他者の声の不在を意味しない。そして、自己の認識論的枠組みにおいて了解不能であることは、決して他者の人間性の欠如を意味しない。『月』という表象のメタファーは、狂気の告発にとどまらず、自らの不完全な認識の限界を引き受けたまま、了解不能な他者を決して消去・選別しないための倫理的防壁として機能しているのである。

作品自身が抱える危うさと、被害者の不在

映画『月』は、重度障害者をめぐる極限的な惨劇を主題としながらも、物語の推進力を担う主体を主として施設職員や「表現者」の側に布置している。「きーちゃん」は作品の倫理的磁場において中心的な位置を占めつつも、劇中の対立や葛藤を言説化するのは終始「語る言葉を持つ側」である。原作小説が「きーちゃん」の思念の奔流へと大胆に潜入したのに対し、映画版は堂島洋子を介在させることで直接的な代行表象の傲慢を周到に回避した。しかし、この劇的転換は必然的に別の批評的アポリアを産み落とす。すなわち、「きーちゃん」という生身の存在が、洋子の実存的葛藤を深化させ、さとくんの選別思想を際立たせるための「劇的装置(触媒)」へと還元・従属しかねないという危うさである。

施設内に充満する暴力、むき出しの身体、排泄介助の生々しさ、そして無惨な死をスクリーン上に直截に顕現させる演出手法もまた、深い両義性を孕んでいる。福祉の現場を無垢な美談や建前で粉飾しないためには、直視しがたい暗部をフレーム内に定着させる表現論的必然性が存在する。しかし、観客が「ここまで過酷な現実から目を逸らさずに描いた映画は誠実である」というメタ的な受容に安住・自己満足するならば、可視化された障害者の身体は、今度は消費される残酷なスペクタクル(見世物)へと反転・頽落しかねない。単に「暗部を隠蔽しなかった」という事実のみをもって、表現行為の十全な倫理性が直ちに保証されるわけではない。

さとくんを「どこにでもいる普通の青年」として造型したことにも、同型の批評的陥穽が伏在している。石井監督は、彼を市民社会の日常的な言説空間と地続きの存在として形象化することで、観客を安全な傍観者の座から引きずり下ろそうと試みた[4][5]。しかし、この接続を「私たち誰の中にもさとくん(加害者性)が存在する」という普遍化の言説へと無制限に拡張するならば、自らの自由意志において殺傷の凶行を決断・実行した加害主体としての個別的・刑事的責任を希釈・免責してしまう危険を招く。日常的な選別意識との構造的連続性を批判的に摘出することと、具体的な他者殺害という犯罪行為そのものを同一視することは、厳密に峻別されねばならない。

さらに、本作を思想的・倫理的な論争のテクストとして精緻に分析すればするほど、現実の事件において奪われた被害者個々人の生々しい具体性は言説の後景へと退行していく。奪われた命の総数を指す「十九」という数値は、被害の甚大さを伝える指標であると同時に、十九通りの固有な生活史や記憶の厚みを単一の事件名の下へと暴力的に圧縮・脱色してしまう。さとくんの選別思想を解剖・言説化すればするほど、加害者のロジックが批評空間を占拠し、被害者側は再び「重度障害者」という抽象的な総称的カテゴリーへと回収されていく——これは、本作をめぐる映画批評そのものが宿命的に抱え込まざるを得ない構造的自己矛盾にほかならない。

他者の不可知の内面を外部の第三者が恣意的に代弁・捏造することは倫理的に許されない。だが、その沈黙を前に沈黙し続ければ、対象は統計的数値や抽象概念へと還元されてしまう。表現と批評は、この二重の陥穽の狭間において、自らの「語りえぬ領分」を厳密に自覚しつつ、被害当事者を単なる思想的論点を深めるための「材料」へと道具化・消費しない倫理的節度を保ち続けねばならない。「きーちゃん」は、何らかの崇高な理念や普遍的な問いを代弁・象徴するがゆえに尊厳を持つのではない。彼女は、外部のいかなる言説をもっても十全には回収・観測し尽くせない、一個の還元不可能な他者としてそこに実在している。この他者の「不透明性(了解不可能性)」を安易に消去・同化せず、その深淵をそのまま引き受けることこそが、映画『月』というテクスト自身、そしてそれを論ずる批評の側に課せられた絶対的な倫理的制約なのである。

結語――わからないまま同じ社会にいること

その布置のなかで、さとくんは自らの知覚装置において応答を解読しうるろう者の恋人とは親密な関係性を編み上げながら、重度障害者「きーちゃん」を前にした途端、想像力の回路を冷徹に遮断する。「私には了解不能である」という認識論的限界の告白が、「対象の内面には精神など存在しない」という存在論的否定へと短絡し、さらには「生きるに値しない」という生存資格の剥奪へと飛躍していく。支援に要する公的コストという政策的変数は存在価値の査定基準へと転倒され、家族や当事者が抱える過酷な苦痛は、社会構造や制度的欠陥を変革すべき契機ではなく、苦痛の元凶たる当事者自身を物理的に消去するための口実へとすり替えられる。

これらを総覧するとき、映画『月』のテクストを貫流しているのは、「他者を十全に理解しうるか」という感傷的な問いではなく、「他者を了解しえない極限において、社会は何をしてはならないのか」という規範的な問いである。認識論的に了解し得ない他者は共同体の中に必然的に存在する。あらゆる支援を尽くしても、外面的に意思を確認し得ない事態もありうる。しかし、その不可知性を「内面の不在」へとすり替えてはならない。共感の不成立を「権利の縮減」の根拠にしてはならず、経済的有用性やコストの多寡を「生存資格」の判定基準へと転化させてはならない。

月の反射光は、夜の暗闇のすべてを昼の明るさへと置換し尽くすものではない。それは不可視の領域を漆黒の闇として残存させつつも、光の届かぬ深淵に「何かが確かに実在している」という輪郭を証し立てる。人間存在に対するまなざしもまた同様である。完全に理解し尽くすことはできない。届く言葉を受け取れないこともある。しかし、その認識の不全を理由に、当該主体が同じ社会の成員として現に存在しているという事実そのものを第三者が消去・無効化する権利など原理的に存在しない。『月』という作品が最終的に突きつけるのは、他者との相互理解という耳ざわりの良い理想ではなく、他者を十全に了解しえない不透明性を抱えたまま、いかにしてなお同一の「われわれ」として共生しうるのかという、社会が引き受けるべき最小限にして絶対的な倫理的条件なのである。

注・参考資料

  1. 映画『月』オフィシャルサイト。作品概要、物語、主要キャスト、監督・脚本等。
  2. KADOKAWA「月」辺見庸。単行本は2018年10月31日発売、320頁、ISBN 9784041072271。
  3. 社会福祉法人かながわ共同会「津久井やまゆり園事件の裁判について」。2020年3月16日判決、同月30日の経過により確定。
  4. LEE「障害者殺傷事件を題材に社会の闇を描き出す。映画『月』石井裕也監督インタビュー」。さとくんを実在犯の再現ではなく現代社会を映す人物として構築したという制作意図、出生前診断、生産性について。
  5. SCREEN ONLINE「映画『月』石井裕也監督インタビュー (3/3)」。さとくんを「普通」と捉えた制作意図、社会の原則と排除、題名「月」について。
  6. CINEMORE「『月』石井裕也監督×オダギリジョー “人に見せる”ことをここまで徹底したことはない」5頁。主要四人を表現者にした理由、表現者の危うさと生産性について。
  7. VIDEO SALON.web「命の尊厳と社会のあり方という本質的な問いを観客に突きつける挑戦作 映画『月』にかける 石井裕也監督の思い」。主要四人の創作活動と生産性、映画化における再構成について。
  8. 好書好日「映画『月』オダギリジョーさん×石井裕也監督インタビュー」。本音と建前、「おためごかし」、社会が問題を見ないようにする構造について。
  9. GQ JAPAN「映画『月』磯村勇斗インタビュー(後編)」。家飲み場面における「絞首刑の時の首が折れる音やにおい」について、監督と演技を検討したとの証言。
  10. 好書好日「鴻巣友季子の文学潮流(第4回)『M』『ハンチバック』『月』が問いかける文学と当事者性」。石井監督による辺見庸の「聞き洩らすまい」とする姿勢への評価を紹介。
  11. TOKYO FORWARD 2025「長井恵里」。『月』での役作り、ろう者の視覚的コミュニケーション、磯村勇斗との関係性構築について。
  12. 日テレNEWS NNN「『障害者が頑張ったから素晴らしい、ではない』ろう者の俳優・長井恵里が望む社会の変化」。手話、身振り、筆談、スマートフォン等による恋人役とのコミュニケーションについて。
  13. 外務省「障害者の権利に関する条約」。第1条、2条、12条、19条、21条等。意思疎通の多様な形態、手話、法的能力、地域社会への包容等。
  14. Tiroir du Kinéma「映画『月』『施設の外側でも起こり得る』石井裕也監督インタビュー」。社会の見て見ぬふり、施設外でも起こり得る暴力、題名「月」の解釈。
  15. 中国新聞デジタル「映画『月』を監督 石井裕也さん」。原作のきーちゃんの想念を映画化する困難、洋子との合わせ鏡、主要人物を表現者にした意味。
  16. 相模原市「津久井やまゆり園事件について」。事件の被害状況として、19人死亡、27人負傷(うち職員3人)を公表。
  17. Committee on the Rights of Persons with Disabilities, General comment No. 1 (2014), Article 12: Equal recognition before the law。代行決定から支援付き意思決定への転換、本人の意思と選好の尊重について。
  18. 日本国憲法第36条(日本法令外国語訳DBシステム)。「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」
  19. Committee on the Rights of Persons with Disabilities, General comment No. 5 (2017) on living independently and being included in the community。障害者権利条約第19条に基づく地域生活、施設収容・隔離からの移行について。
  20. Committee on the Rights of Persons with Disabilities, Guidelines on deinstitutionalization, including in emergencies (2022)。一般的意見第5号を補完し、脱施設化の計画と施設収容の防止に関する指針を示す。
資料使用上の留意:本文中の映画場面の記述は作品本編に基づく解釈であり、外部資料は作品情報・制作意図・出演者発言・制度的事実の確認に用いた。映画の「さとくん」から実在の植松聖の心理を逆算していない。また、本稿の死刑制度への接続は、映画が死刑廃止を明示的に主張しているという意味ではなく、本稿が作品から抽出した「他者の生存資格を誰が決めるのか」という問題を論理的に延長したものである。

公式映像資料(YouTube)

本記事で取り上げた作品の公式映像資料。本稿の論点を映像として補助的に参照されたい。

文章だけでは伝わらない空気を、映像として確認するための資料として掲載する。

🎥参考映像(出典:シネマトゥデイ)宮沢りえ、磯村勇斗ら迫真の演技!衝撃作『月』予告編


Jean-Baptiste Roquentin運営者

投稿者プロフィール

Jean-Baptiste Roquentinは、Albert Camusの『転落(La Chute)』(1956年)とJean-Paul Sartreの『嘔吐(La Nausée)』(1938年)に登場する主人公の名を組み合わせたペンネームです。メディア業界での豊富な経験を基盤に、社会学、政治思想、文学、歴史、サブカルチャーなど多岐にわたる分野を横断的に分析しています。特に、未解決事件や各種事件の考察・分析に注力し、国内外の時事問題や社会動向を独立した視点から批判的かつ客観的に考察しています。情報の精査と検証を重視し、多様な人脈と経験を活かして幅広い情報源をもとに独自の調査・分析を行っています。また、小さな法人を経営しながら、社会的な問題解決を目的とするNPO法人の活動にも関与し、調査・研究・情報発信を通じて公共的な課題に取り組んでいます。本メディア『Clairvoyant Report』では、経験・専門性・権威性・信頼性(E-E-A-T)を重視し、確かな情報と独自の視点で社会の本質を深く掘り下げることを目的としています。

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