人によることは分かっているが、筆者にとって、夢の中にいることは水の中にいるようなものだ。妙に自由で、それでいて多少息苦しく、そして心地良い。目の前に薄いヴェールが掛けられているような、そんな気分だ。
夢の世界は不思議で魅力的だ。だからこそ、そんな夢の世界にインスパイアされた作品は数多く存在する。その中でも、独特の異彩を放っているのが、映画『インセプション』だ。
今回は、そんな映画『インセプション』について、筆者なりに考察していきたい。
『インセプション』は、2010年に公開された映画である。『ダークナイト』のクリストファー・ノーランがメガホンを取り、レオナルド・ディカプリオが主演を務めた。
本作は夢がテーマの作品で、ジャンルとしてはSFアクションにあたる。夢がテーマであるだけに、斬新かつ激しい表現が多く、長尺であるにも関わらず見飽きない作品だ。
しかし、「見飽きない」からといって分かりやすい娯楽に全振りしているわけではなく、ノーラン監督の持ち味である「難しさ」はしっかりと保たれている。
夢の中で眠ったらどうなるのか? そんな疑問を抱いたことは無いだろうか。本作の中では、夢の中の夢が書き込まれ、作り込まれている。
多少なりとも夢に興味を抱いているのであれば、ぜひ見て欲しい作品だ。
夢の世界でターゲットから情報を抜き取る。コブはそんな手法を得意とした産業スパイである。
その日のターゲットは、日本人実業家のサイト-だった。しかし、夢の中に現れた元妻・モルの妨害により、任務は失敗に終わってしまう。新幹線の中で目覚めたコブは、まだ眠るサイト-をその場に残し、逃亡した。
逃亡の足であるヘリコプターにコブが乗り込もうとすると、そこにはサイト-がいた。サイト-はコブの才能を見込み、「犯罪歴の抹消」と引き換えに、夢の中でアイデアを植え付ける「インセプション」に関する仕事を依頼してきたのだった。
人間にとって、夢とはどんな存在なのだろうか。『インセプション』の考察に入る前に、ほんの少しだけ、夢について考えていこう。
古来より、眠りは死と密接な関わりがあるとされてきた。眠りとは、いつか訪れる完全なる死の練習である。そうである以上、人は毎晩、少しだけ死んでいるのだ。
だからこそ、人は夢に興味を持ったのだろう。夢で未来を知ろうとする夢占いは世界各地で行われてきた。日本でも、初夢を気にする人は多いはずだ。また、もうすこし科学的な分野で言えば、フロイトやユングが提唱した夢判断もある。これは、夢から深層心理を探ろうとするものだ。
夢をテーマにした作品も多い。
例えば、シュルレアリスムの代表的作家として知られるサルバドール・ダリは、その題材の多くを夢から取ってきたことで知られている。つげ義春の『ねじ式』もまた、彼が見た夢をマンガとして落とし込んだものだ。夢野久作の『ドグラ・マグラ』も、夢をテーマとしたものとも考えられるだろう。
映画『インセプション』もまた、夢に関する作品群に入るものの1つだ。しかし、そのアプローチは他のものとは少し異なる。
夢をテーマにした作品の場合、「悪夢的な」や「幻想的な」と評されるような一種独特の雰囲気を持つことが多い。夢自体が神秘的である上に、現実とは全く異なる現象が起こることが普通だからだ。
しかし本作には、こうした雰囲気はあまりない。幻想的なシーンもない訳ではなく、悪夢的な雰囲気がない訳でもない(こうしたシーンや雰囲気は、特に夢の奥深くに潜っていったときに見られる)のだが、より現実的なSF作品といった作風なのだ。
では本作が、「現実的な作品」なのかといえば、決してそうではない。同監督の『インターステラー』が科学的な事実を元にしていることに比べ、空想的な部分が目立つ。
例えば、本作の重要な要素である「人の夢に入る/人と夢を共有する」という部分。これは非常に空想的だ。「夢を共有するための装置」があることは分かるが、それがどんな原理なのかの説明はない。科学的に正しいかどうかはともかく、現実的な作品であるためには、ある程度の原理の説明が必要だ。
また、「夢の階層」という考え方も空想的だ。夢の中で夢を見る。これは、普段夢をよく見る人であれば経験したことがあるかもしれない(筆者はある)。しかし、それをさらに降りていった先の世界は通常見られるものではなく、万一見られたとしても、もっとぼやけているはずだ。明確であるからこそ、空想的なのである。
本作の空想的な部分につて語ってきたが、もちろん、現実的な部分も存在する。その代表が、夢から起きるための「キック」という方法だ。
気持ちよく寝ていたのに、なんらかの刺激で目が覚めた。こうした経験を持つ人は多いことだろう。本作における「キック」とは、正にこの現象を意図的に起こすことである。作中では、コブが浴槽の中に落とされるシーンとして、分かりやすく描かれている。
また、夢の深い階層に潜るために強力な鎮静剤を使う、というのも分かりやすい。
ただでさえ、眠るための薬がある世の中だ。多少のことでは起きない夢を見るためにも、そして、夢の中の夢で動き回るためにも鎮静剤が必要になるのは理解しやすい。
上記に書いたのはたった一部だが、このように本作は、現実的な部分と空想的な部分が折り重なっている。
空想的な部分が目立つ作品であれば、その雰囲気はより「夢のような/幻想的な」作品となるだろう。しかし、現実的な部分を多めに織り交ぜながら描いていくと、空想的でありながらも現実的な雰囲気を感じる作品となる。
本作は、夢と現実が交差しながらも現実的であり続ける、夢をテーマとしたものとしては稀有な作品なのである。
「明晰夢」という言葉をご存じだろうか。明晰夢とは、自分自身が夢を見ていることを自覚している夢のことを指す。真偽のほどは定かではないが、練習すれば、夢を自在に操れるようになるのだとか。
本作『インセプション』の中で描かれる夢は、いわば、この明晰夢の状態だ。コブと彼が率いるメンバーは皆、(自分が見ている夢ではないにせよ)夢を夢だとしり、自由に考えて動いている。特に、夢の細部を作り込む「設計士」であるアリアドネは、この明晰夢の楽しさを存分に感じ取っている。
楽しい夢から目が覚めたとき、「もう少し夢の世界にいたかった」と思うことがあるはずだ。それと同時に、何か怖いものに追いかけられた夢を見て、思うように走れなかった経験を持つ人も多いだろう。
当たり前だが、夢は現実ではない。現実の物理法則など無視できる。空を飛んだり、大量の敵を蹴散らしたり、水中に時間の制限なく潜り続けたり。夢を操れたならば、好きなことを好きなようにできるはずなのだ。
別の作品ではあるが、映画『マトリックス』シリーズでは、主人公であるネオがマトリックス(電脳世界のようなもの)の中で自由自在に動き回る。これは、マトリックスが現実の世界ではない、と気づけたからできることだ。これもまた、明晰夢の感覚に近い。
アリアドネは作中で、重力を無視した街の構造を作り上げたり、思いつくまま風景を作り変えたりしていた。これは本作が描く「夢」というテーマの本質的な部分であり、もっともワクワクする場面だ。
物語の主人公であるコブもまた、夢を自在に操っていた。コブは妻のモルと過ごす時間の多くを、夢の中で過ごしていた。街や家を作り、第二の拠点としていた。夢での1時間は、現実世界の5分。コブとモルは、夢の中で何十年もの歳月を暮らしたのだ。
コブとモルが行ったこと。これに関しては、副作用が大きいことは想像にたやすい。夢の中ならば、ほとんどのことは思い通りにできる。しかしその分、現実に帰ってきたときの虚無感は大きい。
それが分かっていたとしてもなお、コブやアリアドネの気持ちが分かる人も多いことだろう。 明晰夢を見たい。もしくは、自分の望む夢が見たい。あくまでも私見ではあるが、本作はこうした願望から考え出された作品なのではないだろうか。
映画『インセプション』について、筆者なりの考察を述べてきた。
本作は夢をテーマとした物語の中でも、少し異質で、それでいて娯楽性と難解さのバランスが取れた作品だ。見どころはたっぷり。そして何より、適度に頭を使わなければついていけなくなってしまう。
当たり前だが、夢の世界は人によって違う。展開される風景から、彩りまで全く異なるだろう。もしかすると、モノクロの夢を見る人もいるかもしれない。
人の夢の中を覗くことはできない。しかし本作を見れば、クリストファー・ノーランという人物に夢の一端を覗き見ることができるかもしれないのだ。
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